ゆかなの寄り道
ちょうどその頃、ゆかなが殺しを終えた現場では、死んだ鴨志田を1人の背の高い黒いスーツの男が見下ろしていた。
いかにも喧嘩が強そうな百戦錬磨の風貌で、何もしなくても周りから人が自然に遠のいていく威圧感があった。
その男は呆れたような顔で煙草を吸いながら、鴨志田の上のキレイに畳まれたタオルを見ていた。
正確にいえば、そのタオルに貼られたウサギのシールを見ていたのだ。
男は東京に本拠地を置く柿田組の若頭で、裏のしのぎとして用心棒というか警護のようなことをしていて、それを取り仕切る立場であった。
それなりの立場がある者には、軽々に真っ当なルートで身辺警護を頼めないこともある。
かなり昔から男の組織は、闇の世界で様々なクライアントを命がけで守ってきた。
それは絶対に光に照らされることのない、ある意味汚れ役といっても良いのかもしれない。
昔から庇護を受けている鴨志田が死ぬということは、男の組織のしのぎが減るということだ。
守りきればしのぎが増えるし、守れなければしのぎが減る。
男にとって生死とは金であった。
金を掴むか掴まないかに命を張る。
まさに一か八か、ずっとそういう生き方をしてきた。
男は鴨志田が死んだことに対して別段感傷的になることはなかったが、今まで稼がせてもらった鴨志田に「世話になったのに悪かったな」と心の中で詫びを入れた。
「ああ…間違いない…ウサギだ。ウサギが来たんだ。このシールも前より出来が良くなってるじゃねえか…」
男には見覚えがあった。
何度見ても「私は慌てていない。余裕を持って殺した」と主張する刃の血を拭い丁寧に畳まれたタオルなどの布。
ふざけているのかなんなのか分からないが、そのタオルに必ず貼られているウサギのシール。
誰がやったのかは知らないが、その人を舐め腐ったかのような置き土産を男はここ数年何度となく見ていた。
男はしばらく鴨志田の死体を見下ろした後、男のそばに付いている先ほどまで鴨志田の警護をしていた男を見た。
「おい、ウサギはどんな奴だった?本当に子供なのか?」
男は低い声で冷静に警護していた男に聞くと、警護していた男は表情を変えることなく引き締まった様子で答えた。
「はい、頭。小学生くらいの小さな女の子でした」
「あれか?噂通り背中に日本刀括りつけてんのか?」
「はい、頭。その通りで」
「カメラはどうだ?ウサギは映ってたか?」
「いや、それが…ウサギは映っていないんです…」
警護していた男が歯切れ悪くそう言うと、男は若干苛ついたように眉をひそめた。
「何だそれは?エレベーター使って昇って来て、ここ通ってるんだろ?何で映ってねえんだよ…まあいい、こっちは人的被害0だしな…そろそろ警察呼べ。ちゃんと今殺られたって言うんだぞ。鴨志田の愛人はさらって閉じ込めたか?余計なこと喋ったら殺すって言っとけ」
男は吐き捨てるように警護している男に指示すると、警護していた男は男に一礼し走って現場の部屋を出て行った。
男は深くため息をつくと、新しいタバコに火をつけ深くそれを吸い込んだ。
「全くこれじゃ歩くステルス兵器じゃねえか…どうにもならねえ、最強のステルス エージェントだ…」
男は厳しい目つきでそうつぶやくと、ゆっくりと部屋を後にした。
そのまま1人で高層マンションを出ると夜の新宿に消えていった。
あの事件から数日後のことであった。
ゆかなは学校の帰り道、電車に乗って、普段は立ち寄らない大きな街へ1人で繰り出していた。
ゆかなは率然者から学校が終わったらすぐ帰るように厳しく言われているのだが、ゆかなにとってこの日は特別な日だったのだ。
昨日の夜、この間の殺しの報酬3000円を景都からもらったのである。
ゆかなが頑張ると景都からお小遣いをもらえるシステムなのだ。
その報酬は手付金ではなく、殺しが成功した時に支払われる報酬を殺し屋一家が依頼者からもらうと、もらった日の夜にゆかなにもお小遣いがやってくるのだ。
率然者の「殺しをする以上は無償でやってはいけない。しかし子供に過ぎた金額を渡すのも良くない」との考えで、仕事の難しさに応じてお小遣い程度の報酬をゆかなももらうことになっていた。
あまり多額の現金を渡すとゆかなが「真実」に近づく切っ掛けになってしまうのでは?という率然者の余計な心配もそこには見え隠れしていた。
ゆかなからすれば「正義」のために戦っているのでお小遣いはどうでも良い。
しかし、今日はお金より大事なものを求めて、ゆかなはおとなしく電車に乗っていた。
普段から「殺し屋は常に目立ってはいけない」と厳しくしつけられてきたので、電車の中でもゆかなは気配を消し誰にも気がつかれることはなかった。
その気になればいくらでもゆかなはお金を払わず電車を利用できるのだが、それをゆかなの熱い正義の心が許すはずがない。
「ハーゲンダッツを無限に食べても良いお店に行くのです。ハーゲンダッツは正義なのです。お父様の教えの前に正義を全うするのです」
電車の中でゆかなは1人心の中でそう呟いた。
そうなのだ。ゆかなは3000円を握りしめ、大好きなハーゲンダッツの食べ放題に向かっているのだった。
ゆかなは色んな種類のハーゲンダッツをずっと食べ続けたいという欲には勝てず、時々こうして内緒で1人ハーゲンダッツ食べ放題に出かける。
ゆかなは自分のお小遣いでは高くて少ししか買えないハーゲンダッツを、無限に食べられることに胸を弾ませ授業中からソワソワしていた。
ゆかなは急いでたくさん食べて帰れば、率然者が帰ってくる前に帰宅できると考えていた。
率然者はゆかなが寄り道して、誰かに目をつけられイタズラに目立ってしまったり、今まで潰してきた者達の関係者に襲われるということが万が一にも起こったらいけないと心配しているのだが、ゆかなは絶対にそんなことが起きるわけないと考えていた。
私は絶対に見つからないという自信もあったし、自分自身が決して目立つ存在にはなれないのだという諦めにも似た気持ちがあった。
テレビに出てくるファンに囲まれてキレイな衣装を着た華やかなアイドルには憧れているが、隠れることは得意でも人前に出てみんなに注目されるなんて恥ずかしくってできるわけがなかった。
だけれども、ゆかなは時々思うのであった。
自分が殺し屋として育てられなければ、今頃どうなっていたのだろうと。
大勢のファンの声援の中、自分が歌うことができたらどんなに幸せだろうかと。
でも現状を嘆いても始まらない。自分は正義のために戦っているのだ。
ゆかなは自分が光の射す世界へ行くことを考える度そう思い直すのであった。
だがしかし。
このあと、ゆかなの運命を変える大事件が待ち受けていた。
ゆかなが光と影の世界を行き来する。
いや、その中間、誰も考えつかなかった境地へと向かう第一歩が、目の前まで迫っていた。
ハーゲンダッツ食べ放題で頭の中がいっぱいになっているゆかなは、まだそんなことを知る由もなかった。