選ばれし主、ゆかな。
ゆかなは一直線に。
特に急ぐわけでもなく、しかし全く無駄なく。
いつものゆかなのままで。
わずか3歳。究極的な自然体のゆかなが神棚の下まで歩いて行くと、かわいらしく無邪気に笑いながら神棚を見上げた。
そして何かを待つように神棚に向かって両手を掲げた。
すると神棚の上にあった兎丸が「ガタガタガタガタ」と強く振動した。
全員が異音の正体が兎丸だということに気がついた。
兎丸は強く揺れたかと思うと、そのまま神棚からふわりと落ちていった。
重力を無視するような、兎丸が意思を持ち自らの力で浮遊しているような。
そのまま兎丸はゆっくりとゆかなの小さな手のひらに収まった。
ゆかなは嬉しそうに兎丸を握りしめると、そのままペタンと尻餅をついてしまった。
「ゆかな!!!!!!!!!」
率然者は瞬時に近づき、ゆかなを背後から抱きかかえた。
だがしかし、そのままゆかなを強く抱きしめるであろう率然者の両腕は、激痛とともに緩めることとなった。
率然者は何が起こったのか訳がわからず痛みがある左腕を見ると、前腕部分がザックリと切れ激しく出血していた。
殺し屋の仕事中も怪我などすることがない率然者は、自分に傷を負わせる者など今後現れることはないだろうとまで考えていた。
その自分がいつの間にか怪我をしてしまった。
率然者は久々に恐怖した。
そして、率然者は自分を一歩死へと追いやったものの正体を見た。
ゆかなの右手には兎丸の柄が握られていた。
その柄の先には、少なくとも近年誰も見ることがなかった鞘を抜き取られた兎丸の刃が光り輝いていた。
率然者の血に塗られた兎丸は、異様なほどに殺気を放っていた。
信じられないことだが自分に久々に刀傷を負わせたのが、まだ3歳のゆかなであることを認めざるを得なかった。
さらに率然者を驚かせたのは兎丸の刃先であった。
その刃先は真上を向いていた。
恐らくゆかなは居合のように兎丸を鞘からひと抜きで抜刀すると同時に、ゆかなの背後から回ってきた率然者の腕を斬りつけた。
その腕の刀傷は下から斬りつけられたものであった。
絶対に抜くことができないと思われていた兎丸を、ずいぶん器用な抜き方をしたものだと率然者は感心していた。
それは率然者はそういうつもりではなかったのだが、率然者がゆかなが絶対的に抜刀できないような体勢で抱きかかえていたのも関係していた。
武器を持つ持たないにかかわらず、正面からの攻撃に対して鉄壁の防御を誇るものでも、後ろからの攻撃には全く対処できないものも多い。
そもそも日本刀というものは鞘に入っているので、その鞘から抜刀しない限りは何の役にも立たない。
抜刀させないためにはどうすれば良いのか?
その1つの方法で後ろから羽交い締めにするという方法がある。
最近は武器のない戦いの方がメジャーになっているので、羽交い締めというとレスリングのように腰の部分に直接手を回すのを思い出すかもしれない。
もし武器を持ったものにそのようなことをしたら、恐らく腕か指を切り落とされるか、腹を一刺しされるはずだ。
抜刀させないためには腕ごと抱え込む必要がある。
それは上腕の部分だけで良い。抜刀する者の肘を制御する必要がある。
すると長ければ長い刀ほど抜けなくなるのだ。
もちろんそうなった場合の脱出方法もあるのだが、後ろを取られた者の方が圧倒的に不利なのには変わらない。
まさにゆかなは絶対的に抜刀できない状況に陥ったのだが、率然者が完全にゆかなの動きを制御する寸前にゆかなは意識していたかどうかは分からないが逆手で抜刀したのだ。
柔らかい体と子供ならではの手足の短さ、そして50センチ程度の短刀である兎丸。
この3つの条件が腰を切るなど抜刀の技術がなくとも、自分の体から数センチしか離れていないものを抜刀すると同時に斬るという天才的な居合術を見せたのだ。
そして率然者は分かっていた。
まだゆかなの技術が完成されていないことを。
率然者の手を兎丸で跳ね除けるまでは天才というしかない。
しかし、二の太刀で仕留めに来ないのだから、殺し屋としては不完全である。
その二の太刀を振ることをゆかなが知っていたら、自分は殺されていたのではないだろうか?と率然者は考えていた。
だが父の気持ちを知ってか知らずか、ゆかなは兎丸を片手ににこにこ笑っているのであった。
「大丈夫?!血が!」
景都が率然者に駆け寄ると、我に返ったように率然者は景都に微笑んだ。
そしてゆかなから兎丸を取り上げた。
ゆかなは兎丸を取り上げられて不満そうに騒いだが、率然者はゆかなを見ずに徐如林に兎丸を渡した。
「徐如林、兎丸の手入れをしなさい。この部屋の血もいつも教えている通り消しておくように。ママは兎丸の手入れが終わったら奥の金庫に兎丸をしまって下さい。私は腕の治療をしてくる」
率然者は傷口を抑えながら、1人で自分の部屋へと向かった。
「分かりました。お父様…」
父が斬られた…
よもやこんなことが目の前で起こるとは…
いくら油断していたとはいえだ。
父を斬るものなどそうそう現れることがないと考えていたが、まさかゆかなが父を斬るとは…
毎日剣術だけではなく厳しい稽古を率然者からつけられている徐如林は、父の達人的技法や日常生活での殺し屋としての立ち振舞も見ていたので、父が血を流すことがあるとは思いもしなかった。
完全な想定外である。
かなり警戒心が強く、普段から自分の身を何重もの策を敷いて守っている父が、こんなことになるとは。
徐如林は血に塗られた兎丸を見て、ゆかながこの先想像できないくらいに恐ろしい存在に成長していくのではないだろうかと考え始めていた。
そして今、燃兎眼を燃え上がらせ、父から重大な秘密を聞き出そうとしているゆかなを作り笑顔で徐如林は冷静に眺めていた。
ゆかなは14歳になり、天才的な殺し屋に成長した。
しかしまだ人間の範疇である。
徐如林はもう1つ2つ何かあるような気がしていた。
自分よりも才能があるかも知れないが、兄としてゆかなを見守っていかねばならない。
徐如林は真っ赤な正義のオーラを燃え上がらせるゆかなを見ながら思うのであった。
「お兄様!!!ゆかなも大人になったのです!今さら何を知っても動じることはないのです!!!お兄様には兎丸で正義を守る方法を厳しく教わりました!!愛人が一体何のために存在するのか知りたいのです!!!お兄様の手でゆかなの知らない秘密をゆかなに叩き込んで欲しいのです!!!実践的になのです!!!!!」
ゆかなは立ち上がり両手を握りしめると、徐如林に熱くそう訴えた。
だがゆかなの知らない秘密を実践的に教えることなどできるはずもなく、徐如林は返事に困り若干たじろいだ。
「ゆっ…ゆかな!!!教えてあげても良いけど、実践は無理なんだ!あとでお兄ちゃんの部屋でゆっくり教えてあげよう」
そんなこと教えるつもりはなかったが、誤魔化すために徐如林はゆかなを落ち着かせようとしてそう言うと背後から殺気が漂ってきた。
サイレントの髪は掴まれ首筋に鋭利な刃物が突きつけられていた。
「おい、徐如林…少しでもゆかなに余計なこと教えたら殺すからな…」
いつのまにか瞬間的に移動し徐如林の背後を制していた率然者は、目に黒い影がかかり凶悪な光を発しながら囁いた。
「わっ!!!分かりましたっ!!!!冗談ですよ…お父様の許可が出るまでは何もしませんから…」
少しでも抵抗したら本気で殺されるのが分かっているので、徐如林ぴくりとも動かずそう言った。
いつもの休日。
殺し屋一家の団欒。
ゆかなは重大な秘密にたどり着くことはなく、平和な休日の夜は更けていった。