兄、徐如林(サイレント)
「ゆかな、はしたないですよ。殺し屋は常に落ち着いていないと駄目だと教えたはずです」
ゆかなの感情が大爆発した瞬間。
ずっと見ていたゆかなの兄が仕方ないなあという感じでにこにこしながら口を挟んだ。
ゆかなの燃兎眼は消え、我に返ったようにおとなしくなった。
ゆかなは兄には従順なのか大人しく食卓から降り椅子に座った。
「はあい、お兄様」
ゆかなは返事をすると、何事もなかったようにアイスを食べ始めた。
ゆかなより3歳年上の兄、徐如林。
孫子の兵法軍争篇「其の徐かなることは林の如く」から名付けられた。
本人はこのキラキラネーム的な名前を嫌がっているのだが、学校の女の子達からは絶大な人気がある。
ゆかなの父と同じく優しそうなイケメンなので到底殺し屋には見えなかった。
「お父様、そろそろゆかなにも性教育が必要なのではないのですか?」
徐如林はゆかながはむはむとアイスを食べるのに集中したのを確認すると、ゆかなの父に微笑みながらそう言った。
見方によってはわざとらしくも見える徐如林の笑顔。
良い笑顔ではあるが心から笑っているようには見えない。
しかしそれも徐如林の思惑通りであった。
それくらいの方が、相手に見くびられないからである。
丁寧で礼儀正しい素振りをしながらも、事の本質へ一気に踏み込んでいく交渉術。
一見柔らかい物腰に装いながら、実は鋭い剣で突き刺すような攻撃手法。
心意正しければ侮れることなし。
徐如林とからすれば、笑顔とは相手にへつらうことではなく、隙を作らずに突進しながらも相手が道を自然に開けていく武器なのだ。
そして、徐如林は、自分が話すタイミングを待っていた。
戦いを制するためには、一見遠回りするような行動が勝利への最短ルートとなる。
ある程度ゆかなが思いの丈を吐き出し、父も返事に困り始めた瞬間。
その瞬間が普段は自分の意見など聞いてくれそうにないゆかなの父へ提言できるチャンスだと思い、ひっそりと気配を消してそれを待っていた。
チャンスが来るやいなや、まずはゆかなを諌めゆかなの父の威厳を保ち問題の解決を図ると、ゆかながおとなしくなったことで家族の心が緊張状態から緩んだ瞬間、間髪入れずに徐如林は話をゆかなの父に切り出したのだ。
それはゆかなとは似て非なる力。
ゆかなが場を和ませてその隙をついていくのであれば、徐如林は状況が有利になるまで徹底して待つ。
待つというのは語弊があるかもしれない。
誘導と言った方が良いだろう。
自分がどうしたら有利になるのかを考え、その未来に向かって自然と大局が動いていくためには、自分がどうしていれば良いのか判断していく。
自分が考えていた絶対的有利な状況が訪れた時、迷わず一気に動き出すのだ。
わざとゆかなにも聞こえるように徐如林がそう言ったので、顔が黒い縦線でいっぱいになったゆかなの父がゆかなを見ると、ゆかなはアイスを食べる手を止めゆかなの父をじっと見つめていた。
ゆかなの「真実への飽くなき追求」が復活しそうな様子に、ゆかなの父は怯えていた。
「だっ!!!駄目だっ!!!徐如林!!!!こんなにかわいいゆかなには、そんなものまだ早すぎる!!!何かあったらどうするんだ!!!!!」
ゆかなの父は理屈抜きにゆかなに「真実」を教えたくないのだろう。
ずっと「お父様、お父様」とゆかなの父を追いかけていかわいいたゆかなが、見ず知らずの男とどうにかなってしまうなんて考えられないのだ。
見た目がかわいらしいゆかなも段々と大人になって行くというのに、分かっていてもゆかなの成長を受け止めきれない。
完璧なゆかなの父も「ゆかなが大人になってしまう」ということに関してだけは弱く、それだけはどうしても認めることができないしなるべくずっと先延ばしにしておきたいのだ。
自分の手からゆかなが離れ自分以外の男に奪われてしまうことは、ゆかなの父にとって絶対にあってはいけない事件なのだ。
しかし取り乱すゆかなの父を見て、ゆかなの燃兎眼がボワっと再び燃え上がる!!!
もうゆかなも幼い頃のようにゆかなの父を無邪気に追いかけているだけではない。
なにか重大なことを隠しているゆかなの父の心のゆらぎを読み取り、ゆかなの正義が熱く「真実への飽くなき追求」を突き進めていくのだ。
「そうですか?ゆかなももう中学生ですし、そろそろ色々教えておかないと、適齢期にお嫁に行けなくなってしまいますよ。それにゆかななら何かあっても相手の方が殺されてしまいますよ」
徐如林が始めから用意してあった正論を、これがまた良いタイミング並べていく。
少しはゆかなの父が子離れしなくてはゆかながかわいそうだと、徐如林は考えていた。
自分は仕方がないとしても、ゆかなも殺し屋として生きている以上、普通の中学生よりも自由がない。
それに加えてゆかなの父の過保護な子育てがさらに拍車をかけている。
本当ならば好きな男の子ができたり、お友達同士遊びに行ったりするのに、そういうのが足りないゆかなに人間として幸せな未来が待っているのだろうかと徐如林は不安になっていた。
そして徐如林はゆかながいつしか無限の闇に飲み込まれ、考えもつかない恐ろしい存在になってしまうのではないかと予測していた。
そういうのもあって、ずっと昔ゆかなに殺しで「何故人を殺さなくてはならないのか?」と聞かれた時、「僕達は正義のために戦っているんだ」とゆかなには教えた。
ことはそんなに単純ではないのだが「殺し=正義」ということにしておかないと、ゆかなの闇が暴走する時期が早まるような気がしていた。
そうならないようゆかなを守るためにはどうしたら良いのかわからないが、殺し屋以外に夢中になれるものがゆかなには必要なのではないか?と徐如林はうっすらと感じ始めていた。