満月と兎丸
その日は静かな夜であった。
これ以上ないくらいにじっとりと蒸し暑い、亜熱帯のような深く重い大気。
休日の首都東京はいつもより人通りも交通量も少なく、全てがこの熱帯夜に押しつぶされていくようだ。
不気味なくらいに赤く大きな月が丸く光り、この重たい大気の上にゆらゆらと浮かんでいる。
この世の全てのおぞましいものが集まってくるかのようなそんな夜。
新宿の高層ビル群の間から見えるその月を、1人の少女がしばらく見つめていた。
月を見上げる少女の目は、子供が電車の窓からじっと外を眺め続けているのと似ていた。
幼さを感じるとともに、どこか月に魅入られたような若干尋常ではない感じも受ける。
ビルの谷間に吹き込む生温かい風が少女の髪をなびかせた。
中学生くらいなのだろうか?
まだあどけない表情、かわいらしい服を着た素直そうな女の子であった。
けれども良いセンスの服を着ている割には、ちょっと不釣り合いな部分が気になる。
少女にしては大きなリュックを背負い、手には黒い皮の手袋をはめ、スポーツシューズを履いていた。
少女は遠足に行く子供のようにリュックを背負い直すと、夜が更けた新宿をたった1人でどこかに向かって歩き始めた。
一見迷子にも見えるが、少女の目は怯えてはいなかった。
のんびりと遊びに出かけるかのように、リラックスした様子で歩いていた。
しかし、夜の新宿ではかえって少女は目立ってしまいそうなものなのだが、誰もが少女がそこに存在していないような態度で通り過ぎていく。
「うっさぎさんー!はい!うっさぎさんー!はい!月にはうさぎが住んでいるー!はい!」
機嫌が良さそうに少女は即興で作った歌を口ずさむ。
それは少女がでたらめに作った歌ではあるのだけれども、耳に入ればつい聞き入ってしまう可愛らしい声で、少女の純粋な気持ちが歌に表れているようだ。
音程も取れていて、少女は意図的に自分の声をコントロールしているのが分かる。
華奢な体つきではあるが見た目以上に体力があるし音感もあるのだろう。
この暗い夜道も、重い荷物も、いつ何が起きるかわからない都会に潜む魔も、少女は一切気せず笑顔で進んでいく。
少女はしばらく歩くと、暗い公園の茂みの中に入っていった。
特に周りを警戒する様子もなかったが、スーッと消えるように自分の気配を消し移動していた。
周囲と自分を同化するような、全く目立つことがない見過ごされてしまう存在。
煙のようなその動きはただの中学生ができるものではなかった。
実践と訓練を重ねたプロの殺し屋だけが持つ特殊能力。
そう一流の殺し屋。
少女の見た目とは裏腹に、少女が何の気なしに行う所作1つ1つが無駄のない洗練されたものであった。
少女は兎のごとく茂みに隠れるようにしゃがみ息を潜めると、リュックの中から50cm位の刀袋を取り出した。
そして少女はその刀袋から漆黒の鞘に入った日本刀を取り出した。
時代劇で見るような日本刀よりもかなり短い。
そしてその鞘には少女が描いたと思われる兎の絵がついたシールが貼られていた。
「兎丸、今日もお願いね」
少女は鞘から刀を抜くと、月の光を浴びて、兎丸が妖艶な輝きを魅せる。
「妖刀兎丸」暗殺を生業とした少女の家に代々伝わる日本刀である。
人の狂気を吸い上げ切れ味が増すと言い伝えられている裏社会では知る人ぞ知る伝説の名刀だ。
少女は鞘に兎丸を戻すと、忍者のように背中に兎丸を縛り付けた。
そしてリュックからスマホを取り出すと、LINEでどこかに連絡し始めた。
「もしもし、ママ…うん、公園についたよ…兎丸以外全部置いていくから回収してもらってね…うん、うん…気をつける…うん、アイス食べたい…うん…何かあったらそうする…じゃあね…」
少女はLINEで話し終わると、スマホをリュックに入れた。
リュックの中身が飛び出ないようにしっかり閉めると、もう一度リュックを背負って近くの大木にするするするっと登り始めた。
3~4mくらいの位置だろうか。
ある程度高いところまでの登ると、リュックを目立たないように木の枝に縛り付けた。
通常の人間が落下したら無事で済まないと思われるその高さから、少女はそのままふわりと飛び降り地面に着地した。
極自然に、極当たり前のように、少女は人並み外れた行動をこなしていた。
いったい今までどんな人生を少女は送ってきたのだろうか?
少女のかわいらしさからは想像もできないほどの修羅場をかいくぐってきたのか?
死線を越えるほどの訓練を重ねてきたのか?
それ以上に生まれ持った殺し屋としての才能が、難なく少女を動かしているのか?
いずれにしても、少女は公園でブランコに乗る程度の遊び気分で動いていて、全ての動きが日常化されているということだけは確かだった。
少女は地面に降り立つと、また月を見上げた。
「『孫子の兵法曰く』始めは処女の如く、敵人戸を開く…」
少女は引き締まった顔でそう言うと、自分に言い聞かせるように1つ頷いた。
今夜の暗殺はこれからであった。