第二章 意外な依頼者(四)
翌朝、〈ヴァンとソー〉の前で合流した三人は、乗合馬車に乗ってルーエを発った。
夕刻まで馬車に揺られていたが、ルーエからリベラまでは最低でも二日を要する。そこで初日の今日はアダージョに立ち寄ることとなった。
日もすでに沈みかかっていたため、一行は街に入ってすぐの宿屋を訪れた。
「部屋二つ、まだ空いてる?」
「悪いねえ、あと一部屋しかないんだよ」
カウンターの老父が申し訳なさそうに頭を下げ、シェントは「まいったな」と頭を掻いた。馬車に酔ったせいで、その顔は少し青白い。
「だったら俺は他をあたってみるか。最悪、野宿だな……」
「だ、だめです!」
すがりつくような声を上げたのはアクアレルだ。
目を丸くするシェントの前で、アクアレルは苦笑いを浮かべながら両手を振った。
「野宿は、シェントさんのお身体に障りますから……」
アクアレルの言葉に甘えて、シェントは二人と同じ部屋に泊まることにした。
宿の外観から想像した通り、古くて質素な部屋である。照明の類は見当たらず、薄手のカーテンから外の街灯の明かりが洩れていた。
「暗いな。光石でも点けるか」
シェントは透明の結晶を取り出し、短い呪文を唱えた。シェントが持っている光石は比較的質が高く、おかげで部屋の中は昼間と変わらないような明るさになった。
広くない部屋の奥には、二人用にしては小さなベッドが一台。そのベッドからなるべく遠いところ――扉近くの壁際にシェントは腰を下ろした。
「俺は床で寝るよ」
「あっ、それがいいですね」
胸の前で両手を合わせたアクアレルは、続けてとんでもないことを口にした。
「私も床で寝ます」
「なんで!?」
驚きのあまり立ち上がるシェント。
「え!? いけませんか?」
「いけないと言うか、君は依頼主なんだし……
なあ、アレグロ。そのベッド、やっぱり二人は厳しいのか?」
「ふた、り?」
間の抜けた声で聞いてくるのは、アレグロではなくアクアレルである。
「だから、アクアレルとアレグロだよ。少なくとも依頼主が床で寝る必要は」
「僕とアレグロさんが!?」
言葉が続かないのか、酸素を求める魚のように口をぱくぱくとさせる。そんなアクアレルを見て、シェントは不思議そうに首を傾げた。
「べつに、同性同士なんだから――」
言葉を切り、ふと神妙な面持ちになるシェント。
アクアレルの頭へ徐に手を伸ばすと、
「え――」
呆ける彼女の髪を引き剥がした。
「「あ」」
代わりに現れたのは艶やかな黒髪。肩のあたりできれいに切り揃えられたそれは、少女のものにしては少し短い。
「………………」
時が止まったのではないか。
そう錯覚してしまうほどの静寂の後、
「なるほどな……」
まず口を開いたのはシェントだった。
アクアレルの鬘を左手に握ったまま、右手で眉間を押さえ、呻くように言葉を絞り出す。
「女装癖があったのか」
「ち、違います!」
間髪入れずにアクアレルが叫んだ。
「じゃあ、なんで女装――じゃないな、変装なんかしてたんだよ。アクアレル? ま、これも偽名か」
三人の間を再び沈黙が流れる。
唇を噛んで俯いていた彼は、やがて観念したように名を呟いた。
「アルト・グラツィオーソ、です」
「グラツィオーソって……」
シェントは「どこかで聞いたような」と首を捻ってすぐに、この国の名称を思い出した。
グラツィオーソ王国でその姓を名乗れる者は限られている。
――まさかとは思うが。
「王族!?」
「――ここ、壁薄いから」
壁に寄りかかっていたアレグロが手の甲で壁を小突いた。
シェントは隣室に聞こえないよう、慌てて声を潜める。
「アルト、だったっけ。本当に王族なのか? なんでこんなことを……」
「黙っていて――いえ、騙して申し訳ありません」
しゅんと項垂れ、小さくなるアルト。
ダル地方一の大国であるグラツィオーソの王族にしては、正体を明かした今でも立ち居振る舞いに威厳が感じられない。嘘をつけない性分なのか、正体を隠していたことも心苦しく思っているようだ。
アルトは視線を泳がせながら、弱々しい声で続ける。
「これは、その……王家の者として一人前になるための、いわば通過儀礼なのです」
「女装が?」
「だから違いますって! いい加減に女装から離れてくださいよ!?」
喚くアルトを横目に、シェントは乗合馬車での彼の様子を思い返していた。
アクアレル、もといアルトは、乗車中ずっと外の景色を眺めていた。花や鳥を目にしては、図鑑で得た知識を確認するかのように逐一その名を呟く。珍しい草花や小動物に対してならまだしも、普段何気なく目にする野生のものを、アクアレルは感慨深そうに見つめていたのだ。
どこにでも生息しているが故に、わざわざ育てることもない動植物だ。それを一度も見たことがないとなると、アクアレルは外を自由に歩いたことがない――つまり貴族か大商人の箱入り娘なのではないか、とシェントは踏んでいたのだが。
「まさか王族だったとは、ね」
「信じてくれるんですか?」
「いや? 騙しておきながら、今更信じろなんてねえ」
そう返すシェントの声は明るい。
シェントにはアルトを責める気など毛頭なく、軽い冗談のつもりだった。この王子様を少しからかってみたくなった、というのが本音だ。
アルトの顔が見る間に赤くなり、さらには目まで潤ませて鼻をすすり始めた。
「そうですよね……すみっ、ませ……」
「じょ、冗談だ!」
アルトに泣かれてしまい、罪悪感を覚えたシェントは慌てて前言を撤回した。
涙は女の武器と聞いたことがある。といっても、女装をやめた今、アルトの姿は少年のそれなのだが。
「冗談だから泣くなって、な?」
シェントはアルトの細い肩に手を置き、顔を覗き込む。
女装といっても鬘をつけていただけで、化粧はしていないようだ。それでも目は大きく、縁取る睫毛も長い。
アルトは涙に濡れた瞳でシェントを見上げてきた。
「うぅ……だったら、依頼も無効にはなりませんか?」
「お、おう。男に二言はなしってやつだ、最後まで付き合うさ。アレグロも、今更断らないだろ?」
シェントが問うと、アレグロは無言で首を縦に振った。ただ、その表情はどこか硬い。
シェントはアルトに向き直り、言いにくそうに告げる。
「そうだなあ、ここに来て急に口調を改めるのもどうかと思うのですが……」
「そんな、言葉遣いなんて気にしないでください」
シェントは「それじゃあ」と軽く頭を下げ、話を続ける。
「悪いんだけど、改めて依頼の内容を確認していいか? それと、さっき言ってた通過儀礼ってのは?」
「十六歳になる年に、国王から“試練”を授かるんです。それを成し遂げて初めて、一人前の王族として認められるんです」
「へぇ」
驚いて声を洩らしたシェントだが、儀礼の内容が意外だったわけではない。
「俺と二歳しか違わないんだな。――背は今からでも伸びるさ」
「え?」
「何でもない。ええと、リベラに行くってのが試練の内容だったのか?」
シェントの質問にアルトは頷いた。
「護衛を自分で探すこと。これが試練の最初の課題で、一番の難関でした」
「でも、どうして俺たちに?」
「あの事件でカルカンドを倒したと聞いたので、実力のある方だと思ったんです。
それに、大人は怖くて……誘拐とかされたらどうしようかと……」
その手があったか――とはシェントもさすがに言わなかった。代わりに、アルトの認識を正そうと口を開く。
「大人、ねえ。そうは言っても、善人悪人に歳は関係な――」
「私のような歳で一人旅をしているということは、相応の覚悟があるということだ」
ここまで会話にあまり参加してこなかったアレグロが、険しい顔をしてアルトに向き直った。
「金のため、生きるためなら何だってする。……言い方を変えよう、何をするかわからない。
――私の言っている意味がわかるか?」
「ええ、だからお二人は本当にすごいです!」
「なっ、え?」
的外れなことを言うアルトに、思わずシェントはずっこけそうになる。
なおもアルトは目をきらきらさせて続けた。
「僕なんかきっと一人では生きていけません。小さい頃は一人で寝るのだって怖かったのに……」
アレグロの言わんとすることはアルトに伝わっていないようだった。それどころか、アルトは尊敬の眼差しを二人へ向けている。
これにはアレグロも面食らったように目を見開いた。シェントはというとアルトの真っ直ぐさに気恥ずかしさを覚えて顔を背けた。
「で、とりあえずリベラまで護衛すればいいんだな?」
「はい! 成人の儀に必要な剣を、リベラの鍛冶屋にお願いしているんです」
「だってさ、アレグロ?」
依頼内容を確認したシェントは、黙り込んでしまったアレグロに視線を移す。
「……わかった」
「じゃあ、そろそろ明日に備えて休もうか」
シェントが提案すると、アレグロは「よく眠れるといいな」と微苦笑を浮かべた。それが自分に向けられたものだと気づいたアルトは、「昔の話ですよ!?」と涙目になって否定した。
「――そういえば、結局どっちがそこで寝るんだ?」
シェントは一台しかないベッドを指し、少女と王子を見やった。