第二章 意外な依頼者(二)
闘技場がカルカンドに襲撃されて三日が経った。
被害を受けたのは闘技場だけであり、これを不幸中の幸いとする声もあったが――問題が複雑化している原因でもあった。
ルーエは城壁に囲まれた都市である。城壁の中にも緑はあるが、魔獣が潜むような森はない。
そして、城壁から闘技場まで距離があるにもかかわらず、カルカンドは闘技場でしか目撃されていない。
つまりカルカンドはルーエの外から侵入してきたのではなく、闘技場やその周辺に突如姿を現したことになる。
「さて、これからどうすっか……」
シェントはため息交じりに独りごち、目の前にあるワインに手を伸ばした。居座るために注文したのであって、朝から飲むほどの酒好きというわけではない。
場所は事件当日と同じく〈ヴァンとソー〉。武闘大会期間中は営業時間を拡大している店が多く、この酒場も朝早くから開店していた。
飲酒が認められている年齢は国や地域によってさまざまで、この国では十六歳から成人として扱われ、酒も飲めるようになる。三か月後には十八になるシェントが注文したワインは、店で一番の安物だった。
安酒にも慣れてきたが、酒類が高騰するのも時間の問題だろう。二、三年前から各地の葡萄園が次々と魔獣に食い荒らされ、葡萄の収穫量が激減しているらしい。
「魔族、か。どうだろうなあ」
シェントは半ば自棄になって酒を飲み干すと、頭を打ち付けるようにテーブルに突っ伏した。この三日間、いろいろと考えることがあってあまり寝付けなかったのだ。
いっそ酒の力を借りて一眠りしてしまおうか。そう考えた矢先、頭上から声が降ってきた。
「魔族が、なんだって?」
弾かれたように顔を上げると、目の前に緋色の髪の少女が立っていた。
「あ! アー……アレグロ、だっけ」
「もう忘れたのか?」
「いや、忘れたわけじゃないけどさ」
忘れるはずがない。
昨日だって、彼女に会うためにここを訪れたくらいである。しかしながら会うことは叶わず、今日もその姿が見えなくて密かに落胆していたのだ。
もちろんそのことには触れず、シェントは適当に話を振る。
「そういえば、試合はもうないわけ?」
「あれにはもう出ない。再戦も断ってきた」
アレグロは首を横に振り、シェントの正面に腰かけた。
「再戦? ああ、ファッジとの」
「昨日、大会本部から再戦の知らせがあったのだが、ファッジが辞退すると言ってな。だから私も、試合そのものの参加をやめてきた」
「へえ。この国の兵士なだけあって、忙しいんだろうな」
待てよ、とシェントは首を傾げる。
「あの試合はどう考えてもアレグロの勝ちじゃなかったか?」
「……なぜそう思う」
「なんで、って……わざとだろ? あれ全部。転んだのも演技で、本当は缶なんて踏んでないんだろうし。端に移動したのも、もしかして最初からそのつもりで?」
アレグロはあっさりと頷いた。
「あの手が通用するのも初戦だけだ。模擬剣一つで戦えるなど、端から思っていない」
「は、はあ」
思わず生返事を返すシェント。
薄々気づいてはいたが、どうもこの少女は硬い口調で話すのが常のようだ。
小柄な体躯に整った顔立ち。人形に魂が宿ったかのような彼女が愛らしく笑いかけてくれれば、誰もが衝動的に抱きしめたくなるだろう。ただし、それこそ人形のように黙っていれば、の話である。
女の一人旅だ。良くない輩に声を掛けられたことも一度や二度ではなかっただろう。彼らを遠ざけるために自然と身に着けた喋り方がこれなのかもしれなかった。
「それに、勝つ必要はなかったから」
「え。じゃあなんで、武闘大会なんて参加したんだ?」
「……人を探していたの」
アレグロはシェントから顔を背け答えた。
チェルティーノ大陸一の大国とも謳われるグラツィオーソ王国で、五年に一度開かれる武闘大会。その参加者は大陸各地から集まってくる。
彼女の目的は、参加者名簿を閲覧することにあったのだろう。
――いったい誰を探してたんだ?
聞いたところで慰めの言葉の一つもかけられない気がして、シェントは黙って俯いた。
「それで……魔族がなんだって?」
「え!? 俺、何か言いましたっけ」
アレグロに瞳を覗きこまれ、シェントは自然と姿勢を正してしまう。
「お前も、あれは魔族の仕業だと思っているのか?」
「そうだなあ。あれが本当に魔物だったんなら、ね」
今回の騒動について、グラツィオーソ王国の正式な見解は未だ発表されていない。
しかし魔族の、あるいは彼らに加担する者の差し金だとする声も一部から上がっていた。
二千年前の〈魔界大戦〉に敗れ、魔族はこの世界から去ったはずだった。だがこの二、三年、魔族に関する噂が絶えないのである。
そもそものきっかけは、〈魔の森〉にしか生息していないはずの魔獣が、大陸各地に出没し始めたことだった。
魔獣とは〈魔界大戦〉時に使われた魔族の生物兵器とされている。さらに言えば、魔獣にも大きく分けて二種類いたらしい。
生きものである魔獣と、魔術で作られた魔獣。
作りものとされる理由は、自然の生物とは思えないから。要するに神出鬼没で、さらに死ぬと身体も残さずに霧散するのである。
戦争から二千年が経った現在、各地で猛威を振るっている魔獣は「作られた魔獣」と同じ特徴を持っていた。
いつしかそれは、従来の魔獣と区別するために「魔物」と呼ばれるようになった。魔族が作った物という意味を込めて。
魔術によって作り出されるということは、魔物は魔族がいないと存在し得ない。にもかかわらず魔物が出現したということは――
人類のあずかり知らぬところで、魔族が再び侵攻を進めているのではないか。
すでにこの世界に魔族が潜んでいるのではないか。
噂が世界中に広まるのに、時間はさほどかからなかった。
「昨日のは死体が残ってたから、魔物じゃなくて魔獣だと思うんだけど。闘技場以外での目撃情報がないってのはなあ」
シェントは先日のカルカンドの正体について考えあぐねていた。
魔物だとすれば死体が残ったことが、魔獣だとすれば街中で姿を見せなかったことが、現在の定義と矛盾してしまう。これをきっかけに定義が見直されるのなら話は別であるが。
「あの闘技場はもともと――」
アレグロが思い出したかのように話を切り出した。
「剣奴と魔獣とを戦わせるために作られたそうだ。市民の娯楽のために、見世物としてな。今では禁止されているそうだが」
「闘技場に魔獣を入れるってことか? それって、もしかしたら……」
「あるのかもしれないな。魔獣を押し込めておくための檻のようなものが」
アレグロは声を低くして続けた。
「試合前日の夜中、闘技場の裏口に荷馬車が停まっていたそうだ」