第五章 “あの日”(五)
「お前たち……いつからそこにいた?」
タクトは動揺を悟られないように低い声で問うた。
「ま、魔獣がタクト様に襲いかかったときからです……」
人の良さそうな兵士が答え、あとの三人の表情が凍った。見ていたのならなぜ助けに入らなかったのか、とタクトに詰問されることを想像したのだろう。
もちろんタクトには彼らを責めるつもりなどない。タクト自身もあの光景を夢と思ったくらいだ。あのような異形を目にしたら、誰しも放心してしまうだろう。
(ということは、アーチェが魔術を使っているのも見てるな……)
タクトはアーチェに視線を転じた。アーチェは負傷した左腕を押さえながら俯いている。
(早く治療してやりたいのに……!)
兵士たちも状況をよく把握しきれていないはずだ。彼らが混乱しているうちに、適当に言いくるめてそこを退いてもらう。
タクトが小さく息を吸ったとき、
「タクト様!」
兵士の一人が片膝を付いて頭を垂れた。彼の兵服の意匠は他の三人と異なっており、位が高いように見える。四人の中では長のような存在なのかもしれない。現に、三人も彼に倣って素早く姿勢を変えた。
タクトは緊張で渇いた喉から声を絞り出し、それでも鷹揚に言った。
「……申してみよ」
「はっ。――先程のあれは、科術ではないように思われました」
兵士は顔を上げ、毅然とした態度でタクトに意見した。
(こいつ、科術を齧ってるのか)
タクトは小さく舌打ちした。
アーチェのあれを「〈闇〉の科術だ」とでも説明して、兵士たちを無理にでも納得させようと考えていたところなのだ。だが、この兵士は〈闇〉の科術など存在しないことを知っているらしい。
「それに、先程……魔族、と……?」
彼はタクトに問いかけながらも、視線はアーチェのほうに向けた。
二人の目が合ったとき、アーチェは扉とは反対側のバルコニーへ脱兎のごとく駆けた。
「アーチェ!」
「あの者を捕えろ! 殺すでないぞ!」
タクトは床に落ちていた刀を拾い上げ、アーチェのあとを追った。兵士たちも一斉に立ち上がり、バルコニーへと押し寄せる。
ルーエを襲撃してきたカルカンドが魔物に分類されると、人々はすぐには気づかなかった。魔獣が侵入してきたことすらほとんどないのだ。魔獣と魔物の違いなど、意識している者のほうが少ない。
魔物であると判明した途端、人々の頭には例の言い伝えが浮かんだ。魔物が魔族に作られた物である以上、ルーエに魔族が潜んでいてもおかしくない。もはや魔族を架空の存在と笑い飛ばす余裕もなくなってしまったのだ。
ルーエを襲った魔物。
ルーエにいるかもしれない魔族。
そして、兵士たちの目の前で、人間には再現不可能な術を使った少女――
兵士たちはアーチェとタクトに剣を向けた。タクトが王族であることなど、とうに意識の外である。
自らを鼓舞するためにも、長らしき兵士は声を張った。
「今回の襲撃、貴様が関わっているのか?」
「アーチェは僕を異形から救ってくれたんだ! 剣を下ろせ!」
「……魔族は人を惑わす術も使うのか」
「な――っ!」
――二度と喋れなくしてやろうか。
タクトが刀を強く握りしめたとき、背後でアーチェが言った。
「タクト、私なら大丈夫。ここから逃げられる」
「アーチェ……」
「刀、ありがとう」
タクトはアーチェを振り返り、彼女に刀を返した。アーチェが反撃に出ることを恐れ、兵士たちは各々剣を構え直す。
だが、アーチェは刀を鞘に納めると、柔らかな笑みを浮かべた。
「今なら、何でもできる気がする」
強がりを言っているふうでもない。何かを悟ったような穏やかな表情で、彼女は続けた。
「ここから飛び降りてもきっと助かる。飛べる気がする」
「……だったら、僕も。僕も連れていってくれ。一緒に逃げよう?」
――彼女を一人にしたくない。彼女に置いていかれたくない。
その一心で、タクトは震える声で懇願した。
アーチェは目を瞬かせたが、何も言わずに頷くとタクトに両手を差し出した。
タクトがその手を取ったとき。
アーチェの背後から翼が出現した。
「――っ」
タクトは呼吸するのも忘れてそれに見入った。先程この翼に守られたタクトだが、目にするのはこれが初めてだ。
大空を自由に舞う鳥の翼。地面に落ちるその影が実体を得たような、夜空よりも黒い翼がアーチェの背後には広がっていた。
アーチェは兵士たちを見据え、静かに忠告した。
「離れたほうがいいと思う」
「…………」
兵士たちはアーチェから目を離せなくなっていた。怪しげな術を使う彼女に恐れを抱いたわけではない。まだあどけなさの残る少女が妖艶な漆黒の翼を背負っている様には、どこか背徳的な美しさがあった。彼らはアーチェを凝視したまま、室内のほうにじりじりと後ずさった。
翼がもう一度大きく広がり、そのままアーチェとタクトを包み込んだ。兵士たちからは二人の姿が見えなくなる。
二人を内包した翼はその形を変え、黒い球となった。
そしてバルコニーに呑まれるように、緩やかに下へと落ちていく。否、球のほうがバルコニーを喰らっていったのだ。その証拠に、球が下に消えたあとにはバルコニーに大きな穴が空いていた。
室内へと下がっていた兵士たちは、球が落ちていく様子を見て、もはや声すら出せなくなっていた。
球は階下のバルコニーも易々と突き抜けた。石鹸の泡が静かに落ちるように、黒い球は地面にゆっくりと着地した。
球が音もなく弾け、両手を繋いだままの二人が露わになった。
地面に薄く積もった雪から反射する陽光に、タクトは一度目を細める。
「――行こう」
「うん」
二人は手を繋ぎ、走って町のほうへと向かった。




