第二章 意外な依頼者(一)
グラツィオーソ城内、会議室。
中央の長卓を囲むように並べられた十数脚の椅子。しかし腰かけているのは、眼鏡をかけた初老の男と、軍服に身を包んだ四十代くらいの男だけである。
ずれ落ちてくる眼鏡を左手で押さえながら、初老の男――この国の宰相は、手元の書類を淡々と読み上げていた。
「――被害状況の報告は以上でございます。続いて、今回の事件発生の原因といいますか、それについてですが……」
シュトレンク宰相はここにきて初めて言い淀み、眼鏡を外した。昨日の武闘大会で起こった事件、その原因について、書類には書かれていない。――否、「現在調査中」なのである。
彼の発言を引き継ぐように軍服の男が声を上げた。
「魔族だ! 魔族の仕業に決まってる! あいつら、またも侵略のために――」
「口を慎みなさい、マルツィアーレ将軍。陛下の御前ですぞ」
シュトレンクに制止され、将軍と呼ばれた男は軍服の襟を正した。
そして、二人は揃って長卓の奥の人物を見やる。
他より豪奢な椅子に腰かける中年の男。白髪交じりの髪を撫で上げ、鼻の下に髭を蓄えた彼こそ、オルケスタ・グラツィオーソ――グラツィオーソ国の君主である。
彼は背もたれに身を預けることもせず、すっと背筋を伸ばしていた。シュトレンクの報告に静かに耳を傾けていたが、二人の視線に気づくと「魔族か」と呟いた。
「昨日の魔獣、カルカンドのことですが……」
シュトレンクが視線を泳がせながら、そう話を切り出す。
「街中での目撃情報がなく、闘技場に突然現れたということから、魔獣ではなく魔物であった可能性が高いと考えられます」
「しかし、死体があったのであろう? 魔物は死体も残さない――死ねば消えるのではなかったのか?」
「魔物については〈ナ・リーゼ〉ですら『調査中』でございます。今回の件で、魔物の定義も見直されるかもしれません」
魔物の定義。世界管理機構〈ナ・リーゼ〉によって定められたこれこそが、事態を複雑にしている原因でもあった。
オルケスタは小さく唸り、「そもそも」と口を開いた。
「魔物は魔族が召喚したものだと言われておるが、〈魔界大戦〉中でもあるまいし。いないはずの魔族が、どうして召喚などしようか」
「お言葉ですが、陛下! 魔族はいないと本当に言い切れるのでありましょうか?」
語気を強めて口を挟んできたのはマルツァーレである。
「我々の知らないところで魔族が侵攻を進めている可能性も、考えられなくはありません!
陛下、やはり我が国は一刻を争う状況にあります。カデンツァへの進軍を――出兵の許可を!」
息巻くマルツァーレに辟易し、オルケスタは天を仰いだ。
「またカデンツァか……」
チェルティーノ大陸の形はしばしば犬に例えられる。北東にある細長い半島が、ぴんと立った尾のように見えるのである。
その“頭”、つまり大陸の北西にあるのがカデンツァ王国である。
“後ろ足”のグラツィオーソとカデンツァには国交がない。両国の間にはダル=セーニョの森、通称〈魔の森〉が鬱蒼と生い茂り、行き来もままならないことが理由の一つである。
しかし昨年から、他国や旅の者を通じて、カデンツァの良くない噂がグラツィオーソに届いていた。
“カデンツァ王国には魔族がいる”
マルツィアーレ将軍はこれを真に受けているらしい。
オルケスタは宰相であるシュトレンクの助け船を期待したが、
「先日のゲネラル鉱山の買収の件を考えますと、これ以上は無視できないかと」
その彼までマルツァーレの進言に賛同の意を示してきた。
もう良い、とオルケスタは片手で眉間を押さえる。
(民はどう思っているのやら……)
グラツィオーソ国内にも急進派と穏健派がいるのだが、昨日のカルカンドの襲撃を受け、急進派の勢力が一気に拡大した。
カデンツァを攻め入るか否か。長らく交わされてきた議論も、数日のうちには投票まで行われるに違いない。
グラツィオーソには議会があり、有力貴族や税を多く納めた者が参加できる。その議会で可決されたことに対し、最終的な判断を下すのが国王である。国王は議会での決定を退ける権限を持つが、議会の意見を無視すれば国民の不信を買いかねない。
「お前たちの言うように、カデンツァが魔族の後ろ楯を得ているとして……我々に勝機はあるのかね? 魔族のいる国と争うことになるのであろう?
ここは〈ナ・リーゼ〉の決定を待ったほうが……」
オルケスタは世界管理機構の名を出した。そうすればマルツィアーレもおとなしく引き下がるだろう、と淡い期待を抱きながら。
世界の均衡を守るための機関〈ナ・リーゼ〉。いずれの国家にも属しておらず、基本的には中立の立場にあるのだが――魔族のこととなると話は別である。
滅びたはずの魔族の復活。それが虚構ではないと判明した日には、〈ナ・リーゼ〉も黙っていないだろう。
「そんな悠長な! この話は昨日今日に始まったことではありません。いったいいつになったら〈ナ・リーゼ〉は動くのですか? 国に何かあったら、陛下はどうなさるおつもりですか!?」
「静かになさい、マルツィアーレ将軍。我々の調査もまだ始まったばかりです。それに、明後日にはグレース公爵もご到着されますので、改めて会議を開かれればよろしいかと」
なおも食い下がるマルツァーレだったが、シュトレンクにたしなめられてようやく口を噤んだ。
「では、今日はこのくらいにしてくれ」
オルケスタは二人の返事も待たずに立ち上がり、会議室を出た。
(シュトレンクも、所詮は急進派であったか……)
宰相の報告内容を頭で反芻し、この国の王の表情は自然と沈鬱になった。
かつて闘技場は剣奴が魔獣と闘いを繰り広げる場であった。闘技場には市民のための観戦席のほかに、森で捕らえた魔獣を待機させる檻も設けられていた。
市民の日頃の鬱憤を晴らすための見世物。その内容は時代とともに変化していき、現在では五年に一度武闘大会が開かれるようになった。捕獲した魔獣を閉じ込めておくための檻も長らく使われていない。
しかし事件の直後に檻を調べさせたところ、鍵が開けられた痕跡が発見されたのである。
檻を調べ、オルケスタに報告してきたファッジはさらにこう付け加えた。あのカルカンドは動きが鈍く、まるで麻酔でも打たれていたかのようだった、と。
一方で、シュトレンクが檻の件に触れることはなかった。使われた形跡がないか調べるように指示されていたにもかかわらず、である。
このことが何を意味するか、わからないほどオルケスタは鈍くない。
(急進派の自作自演、か……)
逃げ帰るように自室へ戻ったオルケスタは、従事長である初老の男を呼び寄せた。
「昨日の事件だが――カルカンドを倒したのは、ファッジの他にも二人いたそうだ。しかも彼らの歳は息子とそう変わらないらしい」
「さようでございますか。まだお若いのに、なんとも勇敢でございますね」
「息子にもそうなってもらいたいものだ、じき十六になるのだから……」
オルケスタの言わんとすることを察したのか、従事長の顔がわずかに曇る。
「陛下、もしや……」
頷いたオルケスタは呟くように、しかしはっきりとした声で言った。
「即刻、『通過儀礼』を執り行う」
「で、ですが」
「騒ぎが収まるまで、息子には王都を離れてもらおうと思うのだ。そのほうが安全やも知れぬぞ?」
オルケスタは口髭の下で乾いた笑い声を立てた。