第五章 “あの日”(四)
視界が黒く塗りつぶされ、タクトは自身の死を悟った。
(ああ、でも――暖かいな)
死はもっと冷たいものだと思っていたが、腕の中にはまだアーチェの温もりがある。彼女の息づかいを感じる。
(え――?)
もしや自分は死んでいないのではないか。タクトは抱きしめていたものを離し、腕を引っ込め、もう一度躊躇いがちに手を伸ばした。
闇の中で指先に触れたそれは誰かの――おそらくはアーチェの頬だった。柔らかで、しかし涙に濡れている。
闇が払われ、光が一斉に射し込んできた。
「あ……」
タクトの口から安堵の声が洩れた。
目の前には変わらずアーチェがいる。彼女は憔悴しきったような表情を浮かべているが、生きている。そして、自分も。
(――よかった)
ほうっ、と息を吐いたところで、タクトはあることに気づき愕然とした。異形に腕を振り下ろされたはずの背中に痛みを感じないのだ。異形の爪から彼女を庇ったのに、なぜ。
タクトは背後を振り返った。
ぅああああああっ!
その絶叫は異形の口から発せられていた。
異形が叫んでいる理由を、タクトはすぐに理解した。異形の左肘から先がなくなっていたのだ。
「どういうことだ……」
困惑するタクトだが、自分が助かったときの状況を把握できなくて当然だった。彼には見えようがなかったのだから。
異形が襲いかかってきて、タクトが目を瞑った瞬間。タクトが腕に抱いたアーチェの背中から――厳密に言えば服の上、何もない空間から、黒い翼が生えたのだ。
羽のない、まるで影絵のような翼。それがタクトを包み込むように覆い被さり、二人を守った。
その一部始終は窓辺にいたメーノだけが見ていた。
異形の腕が振り下ろされ、繭のようになった翼に触れた途端、手が翼の中に沈んでいった。まるで闇に飲み込まれるかのように。
異形は慌てたように腕を引き抜いたものの、肘から先はもはや存在していなかった。
「やっぱり、魔族」
メーノは文字通り一瞬にしてアーチェとタクトに詰め寄った。残った右腕を振りかざしていた異形が動きを止める。
「誰だ――!」
タクトはベッドから飛び降り、素手で構えた。
相手は小さな女の子だ、手荒な真似はしたくない――と言いたいところだが、得体の知れない相手に手加減できるほど、タクトは強くなかった。
こうして向き合っている今も、彼女に生気は感じられない。異形のほうがまだ生き物めいている。
メーノはタクトの問いかけには答えず――そもそも眼中になかった――アーチェに顔を向けた。
「……っ」
アーチェの肩がびくりと跳ねる。
彼女はタクトを翼で庇ってからというもの、怯えたようにその身を小さくしていた。そもそも、自分に翼が生えたことすらわかっていない。周りが真っ暗になったかと思うと、異形が腕を失っていた――アーチェはこのようにしか認識していなかった。
ただ、何かしらの力が自分にあることだけは感じとれた。そのせいで今も身体が震えているのだ。自分に何が起こったのか、理解ができないせいで。
その彼女に解を示すように、メーノはアーチェを指して告げた。
「あなた、〈闇〉の魔族」
「――っ!?」
タクトは息を呑み、アーチェは声にならない悲鳴を上げた。
「そんな、実在するはずが……いったいいつの話を……」
知らず頭を抱えるタクト。
魔族――それは二千年ほど前に魔界から進攻してきた、人類に似た生命体。だが、その後人類との間に勃発した〈魔界大戦〉で、彼らは滅んだはずである。
そもそもこの伝承すら事実かどうか定かではない。魔族など架空の生物だと思っている人のほうが多いだろう。
たしかにタクトも〈アコルト〉から「魔族が復活したらしい」という噂は聞いたが、一笑に付していたのだ。
メーノはタクトの反応など歯牙にも掛けていなかった。アーチェの目を凝視し、歌うように言った。
「恐れないで。想像して」
メーノがその場で軽く跳躍した。かと思うと、宙を飛んで異形の背後に降り立った。
うぅ、うああああああ!
止まっていた時が動き出したかのように、異形が吠え、右腕を振りかざす。
対するタクトは素手で構えたままだ。敵うわけもない。異形の腕は、間違いなく自分の頭を叩き潰すだろう。
タクトはもう目も瞑らなかった。
「タクトしゃがんで!」
「――っ!」
焦りの滲むその声に、タクトは反射的に膝を折った。
次の瞬間には、異形の胸にある顔に黒い矢が刺さっていた。
「え――」
矢は胸だけでなく、頭、首、腕など、ありとあらゆるところに刺さっている。まるで異形から矢が生えてきたかのように、それは一瞬の出来事だった。
異形はどろどろと溶けていった。あまりに現実味がなさすぎたせいか、タクトは掃除が大変そうだな、と場違いなことを思った。
タクトの心配を知ってか知らずか、床に広がった泥のようなものはやがて虹色に光り輝き、空中に舞って消滅した。
あれだけあった矢は一本も落ちていなかった。
「――アーチェ、大丈夫か!?」
タクトはアーチェを振り返った。
そのアーチェが、どこか一点を見つめながら呟く。
「やっぱり私、魔族なのかなぁ……」
「なにを――」
馬鹿なことを、と続けようとして、しかしタクトは口を噤んだ。
ここには自分とアーチェしかいなかった。それなら、あの漆黒の矢はどこから飛んできたのか。誰が射たものなのか。
タクトのもっともな疑問に答えるように、アーチェが言う。困ったような笑みを浮かべながら。
「タクトを助けたいって思ったら、あんなことになったんだ」
「で、でも……さっきのは、科術じゃないのか……?」
掠れた声で問いながらも、タクトには科術ではないとわかっていた。
科術の属性の分類についてはたびたび論争が起こるが、すべての論で唯一共通していることがある。それは「〈闇〉の科術は存在しない」ということだった。〈闇〉の科石はあれど、科術として発動させるための呪文がないのである。
〈闇〉の科術は存在しない。だというのに、アーチェが放った矢は、全身漆黒に見えた。そもそも彼女は科術の発動に不可欠な呪文を唱えていない上に、科器も持っていない。
人類にはできない技を、道具も必要とせずに行う。
その技を、かつて人類は「魔術」と名付け。
それが可能な生物を――
「魔、族……?」
「――誰だっ!?」
聞き覚えのない声がして、タクトはそちらを振り向いた。
いつの間にか廊下の蔦は消えており、開け放たれた扉の向こうに兵士が四人突っ立っていた。




