第五章 “あの日”(三)
そして、異形は撓る右腕を大きく振り上げた。何を思ったのか、同時に前後の右足を持ち上げる。当然ながら異形の身体は平衡が取れなくなり、左に倒れた。
タクトはその様子をただ呆然と眺めていた。
(理不尽だ――!)
たしかヴェテュールは「すべてを話しておきたい」と言っていなかったか。それなのに、話すだけ話して口封じのために殺しにかかってくるとは。
夢の中とはいえ殺されるのはごめんだ。それとも、死んだら夢から覚めるのだろうか。
異形がその長い右腕を床に付いて立ち上がる。その瞬間、タクトも異形に背を向けて駆け出した。足が縺れ、身体が前のめりになる。時折手を床に付きながら、扉へと死ぬ気で走った。
(なんなんだあのバケモノ!)
まず見た目が醜悪で、今更ながら吐き気が込み上げてきた。それに、あの鋭い爪で引っかかれたら痛いでは済まないだろう。何よりあれがヴェテュールだったとは信じがたい。
タクトが両開きの扉を内側へ開いたとき、小さな人影が部屋に飛び込んできた。それを上半身で受け止め、自分の身体から引き剥がすように押し返す。
「アーチェ!?」
「タクト!」
――どうしてここに。
彼女に理由を問う暇も、考えている余裕もない。異形が近づいてくる気配を感じ、タクトはアーチェの手を引いて廊下へ飛び出そうとした。
だが、それは叶わなかった。
「な――っ!」
タクトは扉の外を見て言葉を失った。
そこには数多の蔦が蠢いていたのだ。
「この中を来たのか……?」
「あ……でも……」
途方に暮れている二人に異形の影が落ちる。
弾かれたように振り返ると、異形は左腕を真横に広げて、後ろに力いっぱい引いているところだった。
「伏せろ!」
タクトはアーチェの頭を押さえ、二人で床にしゃがみ込だ。直後、異形の腕が二人の頭上を横薙ぎに通り過ぎた。
「なに、これ――!?」
アーチェはこのとき初めて異形の全貌を両の目で捉えた。それまでは巨大な魔獣がいるとしか思っていなかったのだ。
その異形に殺されるかもしれない恐怖よりも、見た目の不気味さに身体が震えた。
「…………」
アーチェは上手く力の入らない足で立ち上がり、刀を抜いた。できることなら逃げ出したかったが、廊下はあの有り様だ。助けも期待できない今、自分が戦うしかない。
異形に向けて武器を構える彼女を、しかしタクトは呆気にとられたように見上げた。
「え……」
――これは夢だ。
いや、たとえ現実だとしても、あの異形がヴェテュールのわけがない。
「アーチェ、それは陛下なんだ!」
だから、タクトはなぜ自分がこう叫んだのかわからなかった。
「やめてくれ!」
タクトは知らず懇願していた。刀を構えていたアーチェが訝しげに彼を振り返る。
次の瞬間、アーチェの小柄な身体が真横に吹っ飛んだ。
「あ……」
唖然とするタクトの視界の端で、アーチェは壁に激突し、そこにあったベッドに落ちた。
「うぁ……ああ……!」
アーチェの呻き声で我に返ったタクトは、這うようにして彼女のもとへ向かう。
「アーチェ!」
アーチェは右半身を下にしてベッドに倒れていた。右手で左の二の腕を押さえている。指の隙間から赤い液状のものが漏れ出ている。服を汚し、ベッドに染みを作っている。
異形の腕に平手で殴り飛ばされ、その拍子に引っかかれたのだとタクトはようやく理解した。
「アーチェ! アーチェ!?」
タクトは混乱していた。彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。彼女の顔すら真っ直ぐに見られなかった。その一方で、頭のどこかでこの状況を冷静に俯瞰している自分がいる。早く止血するべきだ、と。
ただ、異形がそれを許してくれるはずもなかった。
異形は遅々とした動きで、それでも確かにベッドに迫ってくる。
「く、来るなよ……」
タクトはベッドに飛び乗り、痛みに顔を歪めるアーチェを抱え起こした。
彼女の温もりに触れ、タクトは実感した。これは夢ではない、現実だ。
「くっ――!」
馬鹿の一つ覚えのように異形が腕を上げる。
応戦しようにも武器はない。彼女の刀も床に転がっている。タクトはアーチェをきつく抱きしめ、異形に背中を向けた。せめてこの一瞬だけでも、アーチェを守るために。
「い、や……っ! だめぇ!」
タクトは自分を犠牲にするつもりだ。
タクトの意図に気づき、アーチェは彼から離れようとその身体を押した。だが、タクトの力は少しも緩まない。
アーチェは顔を上げ、タクトの肩越しに異形を見た。その胸にある顔と目があう。表情はない。異形はただ腕を振り下ろした。
「いやあぁぁぁぁ――っ!」
アーチェの悲鳴が聞こえたかと思うと、タクトの目の前は真っ暗になった。




