第五章 “あの日”(二)
時は少し遡る。
正午頃、タクトはヴェテュール国王に呼び出されて彼の自室に来ていた。
これで見送りに行けない理由ができた、とタクトはほっとしていた。無理に自分を安堵させていることに、タクトは気づいていなかった。
タクトとヴェテュールは向かい合ってソファーに座り、他愛もない話をしていた。タクトは呼び出された理由を図りかねていたが、時計の針が半周した頃、ふいにヴェテュールが立ち上がった。
「君にはね、すべてを話しておきたいんだ」
「――っ!」
タクトは息を呑んだ。
自分の出自についてだろうか。物心ついた時から――十歳より前の記憶を失ったときから、ずっと疑問に思っていたこと。その答えをようやく得られるというのか。
期待と不安で鼓動が速くなるタクトだったが、次にヴェテュールの口から出た言葉は信じられないものだった。
「僕はね、もう死んでいるんだよ」
「…………え?」
「七年前、父上と母上が病で亡くなっただろう?」
そう問われたところで、タクトは頷けなかった。
タクトには十歳より前の記憶がない。だから、二人が亡くなったときのことも覚えていない。前国王と王妃の顔は絵画でしか見たことがないが、タクトも一応は「父上」「母上」と呼ぶようにしていた。血の繋がりはないものの。
「その少し前にね、僕は死んでいるんだ」
「…………」
冗談だと思った。からかわれているのだと思った。
ヴェテュールは今、自分の目の前にいるではないか。
「ご冗談を……」
タクトは絞り出すように言って苦笑した。
ヴェテュールの表情は常と変わらない。何を考えているのかわからない、優しい微笑を貼りつけている。
その顔がぐにゃりと歪んだ。まるで水の中に落とした絵の具がかき回されたように。
「――っ!?」
幻覚でも見たのだろうか、とタクトがきつく目を瞑る。
次に目を開けたとき――ヴェテュールはそこにいなかった。ただ、虹色の粒子が集まったものが、彼の輪郭を作っていた。
「な――っ!?」
タクトは弾かれるように立ち上がった。
それと同時に、虹色の粒子が一斉に宙に舞う。
粒子同士が離れ、近づき、何かを形作っていく――
「…………」
タクトはもう声も出せなくなっていた。
彼の目の前に突如として現れたもの。それは悪夢を形にしたような生き物だった。
カルカンドに代表される四つ足の魔獣の胴体、それに人間の胸から上が乗っているのである。
腕は床に付きそうなほど長く、鋭い爪が生えた手も人間の倍以上の大きさである。背中からは翼のようなものが生えていたが、どろどろとしていてとても飛べそうには見えない。その異形は泥水を上から被せられたかのように全身灰色で、ぬるりとしていた。
さらに左胸には顔が浮かんでおり、頭と合わせて二つの顔を持っていた。どちらも髪はなく、目と口を閉ざしている。
だが、頭のほうにある顔がゆっくりと目を開いた。
まさか、とタクトが目を見開く。その顔に見覚えがある気がしていたが――
「父上……!?」
震える声で問うも、異形は答えない。まるで慈しむように、右手で左胸の顔を撫でている。
異形は天を見上げ、神に罪を告白するかのように言葉を紡ぐ。声にはごぼごぼという水の音が混じっていた。
「私ハ、コノ子ヲ救イタカッタ」
首が、ぐるりと捻れた。人間には到底できない動きだった。
後頭部にも顔があったらしく、そちらは亡くなった王妃に似ていた。
「コノ子、病デ死ンダ。受ケ入レガタカッタ」
再び首が捻れ、元に戻る。
「魔族ニ、私ノ魂ヲ売ッタ。コノ子、戻ッテキタ」
「…………」
異形の告白を聞きながら、タクトは「これは夢だ」と一人結論づけていた。
夢とわかってしまえば、自分でも驚くほど冷静になれた。
要するに――ヴェテュールは七年以上前に病で亡くなったのだ。そのことを嘆いた前国王が、自らの命と引き換えに、魔族にヴェテュールを生き返らせてもらったのだろう。
現実ではあり得ない話である。さすがは夢だ、とタクトは変に感心した。
「デモ、コノ子、死ヌトキ魔物ニナル」
また、王妃に似た顔が現れる。
「ダカラ、私モ魔族ニ魂ヲ渡シタ」
「「魔物ヲ隠スナラ魔物ノ中!」」
二つの顔が揃って叫んだかと思うと、ひっそりと目を閉じた。
代わりに、左胸の顔が目を開く。
ヴェテュールそっくりの顔が。
「――聞イタナ。死ネ」
うるぅああああああああ!! と。
異形が吠え、タクトに襲いかかった。
タクトには気づく余裕もなかったのだが――ヴェテュール国王が異形へと変化したとき、窓際には薄紫色の髪をした女の子が佇んでいた。
彼女は虚空を見つめるような瞳を異形に、否、自らがかつて作った魔物に向けていた。
七年前、ヴェテュールが病によって死んだとき。彼女はヴェテュールの身体から魂を取り出し、大気中に漂う「マナ」と呼ばれる物質を付与させた。魂に刻まれた記憶によって、マナは「ヴェテュールの身体」という器を構築した。魂と器の繋ぎに、ヴェテュールの父母、そして適当な魔獣の魂が使われたのだ。
だが、それぞれの魂にも器の記憶がある。以前の身体を構築しようとする力が働く。その力にヴェテュールの身体が耐えられなくなり、マナが分解されて再構築されたのが、この異形だった。
「…………」
自らが作り出した異形を無感情な瞳で見つめていた彼女だが、その目が微かに見開かれた。人間の感覚で例えるならば、知らない誰かに呼ばれた気がした、と言えるだろうか。
そう、この女の子は人間ではなかった。
名をメーノという彼女は、人間ではない。
「魔族……?」
メーノは鈴の転がるような声で呟くと、人差し指を扉へ向けた。室内から窺い知ることはできないが、廊下では蔦が一斉に動いた。アーチェを受け入れたのである。
そして――




