第五章 “あの日”(一)
レヴィアンカが出国の手続きをしている間、アーチェは城門の傍で佇んでいた。ここまで歩いてきた道を、うっすらと積もった雪に足跡が残ったその道を、じっと見つめながら。
「…………」
タクトを待ち続ける彼女の前に、フォルテが視界を遮るようにして立つ。
「諦めろって。所詮その程度の男だったんだよ、アイツは」
「タクトを悪く言うな」
アーチェはフォルテを半眼で見上げ、そっぽを向いた。
「お、おいっ」
「なんだー? ケンカかー!?」
なぜか嬉しそうに走ってきたグランが二人の肩に腕を回した。三人で肩を組み合っているような格好だ。
「離せグラン!」
「照れるなって」
三人がじゃれあっている間に、詰所の窓口で行われていた手続きは完了した。
「都市がそのまま国になったような、小さなところですが……また来ていただければ嬉しいです」
「ええ、機会があれば」
レヴィアンカに一目惚れした門兵は、彼女の手を握って別れを惜しんでいた。
「――助けてくれ!」
「ん?」
そのとき、城門の内側のほうから叫び声が聞こえてきた。そちらに目をやれば、兵士が一人駆け寄ってきている。遠くから見てもわかるほど、彼の顔は強張っていた。
城門まで辿り着いた彼は、息も整えずに門兵に詰め寄った。
「ど、どういうことだ、おい! どうして、どうして国に魔獣が――!」
「魔獣? 我々は見ていないが……」
覚えのないことで責められ、戸惑う門兵たち。彼らは夜も交替しながら常に門を守っているのだが、魔獣の姿は誰一人として目撃していない。
「なんにせよ加勢してくれ! 数が多すぎる!」
「は、はぁ……」
門兵たちが困惑しながらも装備を整えている間、
「どうしますか」
シュテイルがリーダーに短く囁いた。
「どうするもこうするも――どうしたいか、だろ」
リーダーはにやりと笑うと、数歩前に出て五人を振り返った。
「と、いうわけだ。ただ、この国に命までくれてやる必要はないからな」
五人は揃って頷いた。
誰が言い出したわけでもないが、各々荷物を詰所に放り入れる。詰所の門兵が何か言いかけたが、彼らの携えている武器を見て黙って荷物を受け取った。
「それじゃ、まあ――何かあったら、グラツィオーソの武闘大会で再開しようぜ。腕磨いとけよ?」
そう言って、リーダーは両手に一本ずつ短剣を握りしめた。
フォルテは青竜刀を。
レヴィアンカは身の丈ほどもある細長い棍棒を。
グランは背負っていた大剣を。
アーチェとシュテイルは刀を。
それぞれ己の得物を携え、一斉にルーイゲンへ引き返した。
露店が立ち並ぶ通りで人々を襲っていたのは、本来であれば森の中に潜んでいるはずの四つ足の魔獣、カルカンドだった。
見た目は猟犬のようだが、その足は異様に大きく、鋭い爪が生えている。爪と牙、そして驚異的な跳躍力によって獲物を捕らえ、命を刈り取るのだ。
まれに人間の居住地に迷い込んでくることもあるが、まず前提としてカルカンドは群れない。大群が町に押し寄せていること自体、不自然である。
そう――〈アコルト〉の眼前では、残虐の限りが尽くされていた。
逃げ惑う人々にカルカンドが飛びかかり、背中や腕に爪を喰い込ませ、首筋に牙を立てている。数も一匹や二匹ではなく、この場所だけでも一ダースはくだらない。
兵士が武器を持って応戦しようとしているが、彼らは戦いを経験したことがなかった。ルーイゲンの兵隊は国を守るためというより、王室の権威を示すためにあるようなものだ。その彼らが、狩りに慣れた魔獣に敵うはずもない。
「どこもこんな状況か!?」
人々の悲鳴や苦鳴が響く中、グランが声を張って兵士に尋ねた。
「あ、ああ……! 助けてくれ!」
「皆、手分けして殺るぞ!」
リーダーの指示で〈アコルト〉の六人は方々に散らばった。
この場に残ったシュテイルが、今まさに襲われようとしている少女の前に立ち、飛びかかってきたカルカンドを斬りつける。
だが、彼は舌打ちした。
(浅い――!)
カルカンドの首を狙ったはいいが、肉まで切った感触がない。これでは絶命しないだろう、と再び構えたシュテイルだったが。
「――!?」
カルカンドが動きを止めたかと思うと、一瞬にして身体が弾けた。否、その姿がまるで点描画のように変化すると、それを形作る粒子が一斉に大気中へ散らばったのだ。太陽の光を受け、虹のようなさまざまな色を見せながら。
「あの、あ、ありがとう、ございます……」
腰を抜かしていた少女はようやく声が出せるようになった。シュテイルに礼を述べると、彼女は這うようにして逃げ去った。
(どういうことだ)
シュテイルはカルカンドに次々と斬りかかりながら、頭の中では過去の記憶を探っていた。
それはたしか、どこかの国で聞いた話。魔族が復活したと言う噂。
根拠を尋ねると、この世界に魔物が現れたのだという。
それは、最期を迎えるときになってようやく魔物とわかる。見た目こそ魔獣と変わらないが、死んだら身体が消えるのだ。
そして今、シュテイルが次々と斬り殺していったカルカンドも、すべて七色の光となって霧散している。
ルーイゲン王国を襲撃しているのは魔獣などではない。魔族が作りし物――魔物だった。
♪ ♪ ♪
アーチェは迷わず城のほうへ駆けていた。
(タクト、無事でいて――!)
だが、カルカンドに襲われている人を見過ごすことも、アーチェにはできなかった。
転倒して泣いている子どもを、母親らしき女が必死に立たせようとしている。彼に立つよう泣き叫びながら懇願している。母親の腕にはすでに赤子が抱かれていた。子どもまで抱きかかえるのは無理だ。
カルカンドにとっては恰好の餌食だった。母子に飛びかかったカルカンドは、しかし次の瞬間、目の前に立ちふさがったアーチェに切り捨てられた。
「大丈夫!?」
「は、はい……」
母親が涙を流しながら首肯する。ようやく立ち上がった子どもを連れ、近くの建物に避難していった。
「――っ!」
今度は別のカルカンドがアーチェに迫る。
それを横からやってきたフォルテが斬りつけた。カルカンドが虹色の光に変化し、光の粒がぱっと弾ける。
死んだカルカンドが消えるこの現象にまで意識を向ける余裕は、今のアーチェとフォルテになかった。
「アーチェ、ここはオレに任せな!」
「でも!」
「キリがないだろ。早くアイツの――王子様のとこへ行ってやれよ」
フォルテは片頬を上げて笑った。
「……ありがとう!」
アーチェは頷くと、再び城へ向かって駆け出した。
だが直後、誰かに呼ばれた気がして立ち止まる。
「――!?」
アーチェは辺りを見渡した。
しかし、そもそもその声は耳から入ってくるものではない。呼ばれている気がする、としか言いようがないのだ。「ねえ」とか「おい」とかいった曖昧な呼びかけよって。
(何、これ……)
なぜだかわからないが、声の聞こえてくるほうへ行かなければという焦りだけが募る。城へ近づけば近づくほど呼び声のようなものは大きくなってきた。
そして、アーチェは二か月間通い詰めた城に辿り着いた。
すでに城にも厳戒態勢が敷かれているかと思ったが、門扉には誰もいない。町のほうでカルカンドを食い止めようとしているのか、王族のすぐ傍に控えているのか。
アーチェは門扉をくぐり、城へと侵入した。
声は城の上から聞こえてくる。
魔獣が出現したと知って狼狽えている人々の間をすり抜け、最上階へと階段を駆け上る。アーチェを止める者は誰もいなかった。少女一人に構っていられるような状況ではないのだ。
最上階である三階に着いたアーチェは、さらに廊下をひた走る。
「――っ!」
アーチェは足を止めた。止めざるを得なかった。
そこには兵士が数人いたが、問題は彼らではない。
目の前の廊下は、床から天井まで蔦に覆われていた。
「これは……?」
兵士たちは答えなかった。アーチェが部外者だからではない。そもそも、見知らぬ少女が城内に侵入しているというのに、誰一人として意に介していなかった。
兵士たちは答えられなかったのだ。陛下の護衛のためここまで駆けつけたのはいいのだが、廊下はすでにこの有り様だったのだ。始めこそ蔦に斬りかかっていたものの、消えたそばからまた現れる。
「やはり科術士を呼んで――」
「この先に陛下が捕らえられていたらどうするのだ、科術では威力が強すぎる」
何度目かわからない短い議論を交わし、またも兵士たちは黙り込んだ。
この蔦も、いつ自分たちに襲いかかってきてもおかしくないのでは。得体の知れないものに対する恐怖が彼らの精神を蝕み、正常な判断などできなくなっていた。
立ち尽くしている兵士たちを押し退け、アーチェは蔦の前に立った。
まるで舞踏に誘う手を取るように、アーチェが蔦へと手を伸ばす。
その指先が蔦に触れた瞬間、蔦がアーチェを中心に左右へ別れた。
「…………」
アーチェは息を呑んだ。だが、その表情に恐れの色はない。何かに導かれるように、蔦の間を通っていく。
アーチェが通り過ぎると蔦は再び絡まり合い、元の状態に戻った。そのせいで兵士たちは誰一人として彼女に続くことができなかった。
アーチェは一人、緊張の面持ちで廊下を歩いていく――




