第四章 嘘つき少年と少女の出会い(三)
19/1/21 〈アコルト〉の印のくだりを加筆
ルーイゲン城の敷地内には王立の図書館があり、王族以外にも許可を得た者であれば利用できる。
タクトはヴェテュールから自由を与えられて以来、ここに入り浸るようになっていた。
静かな図書館の中では、王族である自分に話しかけてくる者も少ない。タクトにとって図書館は心安らぐ場所だった。
――だというのに。
「今日も来たのか……」
窓際に置かれた大きな机の隅で本を読んでいたタクトは、背後に人の気配を感じて振り返った。そこには首を傾げているアーチェの姿があった。
「滞在中って言われたし、謝礼ももらっているんだけど」
タクトは最近本で見た表現を使ってみた。
「本当かよ」
たしか彼女たちの滞在期間は二か月だ。そんなに長い間付き合わなければならないのか、とタクトは嘆息した。
「――好きに過ごしてて」
適当にあしらい、再び読書に戻る。
隣の席にアーチェが腰かけた。
「…………」
無言でタクトの横顔を見つめてくるアーチェ。
「…………」
タクトも無言で本の頁をめくっていたが、
「……本読んでる僕を見てて面白いか?」
とうとう痺れを切らし、呆れを含んだ声で問うた。
「ううん、全然。別のこと考えてた」
タクトの身体が傾いた。脱力したまま、一応聞いてみる。
「別のこと?」
「あの雪で遊んだら楽しそうだなー、って」
言って、アーチェは近くの窓を指した。どうやら彼女は自分ではなく、窓の外を眺めていたようだった。そこに広がる一面の銀世界を。
ルーイゲン王国の冬は長い。タクトにとっては嫌というほど見てきた景色である。
アーチェは小さな子どもが「いいこと思いついた」とでも言うように両手を合わせた。それは「お願い」の仕草にも見えた。
「そうだ、今から外に行ってみない?」
「断る。寒い」
生憎とタクトには見慣れた風景なのだ。十七にもなった今、雪で遊ぼうなど考えもしない。
「君もここで本でも読めばいいだろ」
「私、文字なんて読めないよ?」
アーチェはさも当然のことのように言った。
言われてみれば、大陸中を旅しているのだから学校に通ったこともないのだろう。仲間も文字を教えてやる暇などないのかもしれない。
「……教えてあげようか」
知らずタクトはそんなことを口走っていた。優等生として振る舞う癖のようなものが、ここでも出てしまったのだ。タクトは内心「しまった」と舌打ちした。
案の定、アーチェが身を乗り出してきた。
「いいの!?」
満面の笑みとはこういう表情を指すのだろう。
「やっぱりやめた」とでも言おうものなら、彼女はひどく落ち込むに違いない。なぜだかわからないが、タクトは彼女の悲しむ顔を見たくないと思った。
言い出したのは自分だ。タクトはしぶしぶ了承した。
「まあ、現代使われてる文字くらいなら……」
「ありがとう!」
今までで一番の笑顔を見せるアーチェ。
だが、タクトは戸惑いを覚えた。
自分の周囲にはここまで感情を露わにする者はいない。彼らはいつも作ったような微笑を顔に貼りつけている。
アーチェの笑顔が眩しすぎて、タクトは彼女から目を逸らした。それでも、その口元には自然と微笑みが浮かんでいた。
その日から、タクトは毎日アーチェに文字を教えることとなった。
だが、彼女はあまり物覚えがよくなかった。自分の教え方が悪いのだろうか、とタクトも少なからず落ち込んでいた。
そんなある日。
「あー、頭痛い」
広げた本を前にアーチェが伸びをしながら呟いた。それはこっちの台詞だ、と思っていてもタクトは黙っていた。
「疲れていては能率が落ちるな。一旦休憩しようか」
「だったら外に遊びに行きたい!」
「それこそ疲れるだろ……」
ため息をついたタクトだったが、外に出るだけなら気分転換にはなるだろう。
二人は図書館を出て、裏にある小さな庭にやってきた。ほとんど人が足を踏み入れない場所である。
「わぁ……!」
彼女はポケットから取り出した手袋を装着し、雪に触り始めた。
「雪なんて、この国だとどこにでもあるだろ」
「でも、どこも足跡付いてたから」
――足跡があってもなくても雪に変わりはないのでは。
タクトの心の内を読んだのかは知らないが、
「誰も触っていないから、私だけのものって感じがして嬉しいんだ」
と彼女は笑顔を見せた。
そして地面にしゃがみ込むと、指で雪になにやら描き始めた。それは円が六つ、花弁のように重なっている図だった。
「何それ」
「〈アコルト〉の印。皆、これを刻印した銀板を身に着けているの。私はアンクレットにしているんだ。――私、文字が書けないから。名前を書くときはこれを描くの」
「つまりこの雪はアーチェのものってことね……」
「そう!」
頷いて、アーチェは雪に仰向けになって飛び込んだ。
「あはは! …………助けてー」
一人で笑い転げていたアーチェだが、雪に埋もれたまま両手を上げてタクトに助けを求める。
「はぁ」
タクトは軽い頭痛を覚えながらもアーチェに手を伸ばしてやった。
次の瞬間、タクトの身体がぐいっと引かれた。
「――っ!?」
どさっ、とアーチェの上に被さるタクト。
楽しそうなアーチェの笑い声が、耳のすぐ近くで聞こえる。
「引っかかった、引っかかった! 私も昨日グランにしてやられたの!」
タクトはもうアーチェの言葉の半分も聞いていなかった。自分の鼓動のほうがはるかにうるさい。
「あのなぁ……」
男に押し倒されてもなんとも思わないのか。それとも、自分はそのように見られていないのか。
タクトは身体を起こすと、まだ仰向けになったままのアーチェの頬に触れた。はしゃいでいたせいか、彼女の頬は少し赤くなっている。
「……?」
アーチェが無防備な表情でタクトを見つめる。不思議そうに口を半開きにしている。
少し懲らしめてやろうかと思って触ったのだが、少しでは済まない気がしてタクトはぱっと手を離した。
「自分で起きろっ」
くるっ、とアーチェに背を向ける。
(なんだ、この……)
タクトには、自分に湧き起ってくるこの感情が何なのかわからなかったが――それは恋を自覚し始めた頃に抱く、淡い想いだった。




