第三章 本当のこと(三)
アレグロは足を引きずりながら歩いていた。
カノンから逃げおおせることはできたものの、隆起した木の根に躓き、足を捻ってしまったのだ。
「はあ……はあ……っ」
アレグロは、もはや何も考えていなかった。
「――っ!」
足がもつれ、そのまま前に倒れ込む。
顔を上げると、目の前には太い木の幹があった。
(もう、疲れた……)
彼女は幹に身体を預け、静かに目を閉じた。
いつの間に眠りに落ちていたのだろうか。目を覚ますと、辺りはすっかり闇に覆われていた。
アレグロは慌てて光石を点け、目の前に掲げた。
「あ……」
直線上のところで、別の光源が揺らめいている。
――誰かが自分をここまで追ってきたのだ。
近づいてきたその人物を見て、アレグロは目を見開いた。
(だって、怪我は……?)
そのたった一言も言える状況にないことはわかっている。
相手は先ほどの戦闘で負傷した。それでも、自分には彼に勝てる自信などなかった。
(できない……シェントと、戦うなんて……)
アレグロの姿を認識したらしく、シェントはゆっくりと歩いてくる。
「く……来るな……」
やっとの思いでそう吐き出すと、アレグロは幹を支えに立ち上がった。
「来るな。お前、私が何なのかわかっているのか? 魔術でお前を倒すなど容易いことだ」
初めて会ったときのように、アレグロは鋭い声で威嚇する。
これで怯んでくれればいいのだが――と願うも、シェントの歩調は変わらない。
そうして近づいてきた彼は、何かを心に決めたような顔つきをしていた。
――何を決心したのか。
(私を殺す気なんだ……!)
彼の斧槍をその目に捉え、アレグロは息を呑んだ。
いつか見た夢と、同じような状況。
「来ない、で……」
引き攣る喉。汗でじっとりと濡れる手のひら。速まる鼓動。
(“あの日”と同じだ)
身に危険を覚えたとき。初めて魔術が発動し、それによって自分が魔族であると知った。
さらには、魔術を暴発させてしまった。
今このときだって、同じことを繰り返すのではないか。
――やめて、やめてよ。
来ないで、
「来ないでよ!」
目をきつく瞑って叫んだ刹那、何かが弾けるような音がした。次いで、がさがさと葉が擦れる音。
「――っ!?」
うっすらと目を開けると、シェントの傍に太い枝が落ちていた。暴走した魔術が木に当たり、枝が折れたのだろう。
(また、やってしまった……)
力が抜けたアレグロは、ふらりと前に倒れ込んだ。
「アレグロ!」
その身体を、走ってきたシェントが受け止める。
「離し――」
アレグロは身を捩るが、反対にシェントはきつく抱きしめてきた。
それに温もりを感じてしまい、アレグロも動かなくなる。震える両手を、シェントの背中に回した。
「俺さ、謝りたいことがあるんだ……」
シェントが優しく、あるいはか細い声で話を切り出した。
「本当は……アレグロが魔族だってこと、知ってた」
動揺を示すように、シェントの腕の中のアレグロが微かに身じろぎする。
腕を緩めると、顔を上げたアレグロが当然の疑問を口にした。
「どうして……」
「俺たちさ、本当は昔に会ってたんだよ」
アレグロは黙っていた。記憶喪失というのも、部分的には正しいのかもしれないとシェントは思った。
それとも、自分が変わり過ぎたのだろうか。髪色を戻しただけだというのに。
「俺、アレグロに渡さなきゃいけないものがあって、それで君を探す旅に出たんだ。といっても、行き先は君から聞いていたから、何とかなるって思ってたけど……」
困惑の表情を浮かべるアレグロに、言い訳のように告げる。
「でも、君が記憶喪失だと知ってしまったから」
「…………」
そしてシェントは、腿のポーチから小さな布袋を取り出した。
中身を掌の上に出しながら、話を続ける。
「記憶がない君にこれを渡すと、〈アコルト〉の皆が本当にいなくなったことを、突きつけてしまうと思って……」
「あ……」
「フォルテの形見だ」
アレグロは手を出してそれを受け取った。血がこびりついて赤黒くなったペンダントを。
「フォルテに託されたんだ。アーチェに渡してくれ、って」
「シェントはフォルテも知っているの!? それに、どうして私の昔の名前を? 私たち会ったことがあるんでしょう、どこで!?
――“あの日”に関係しているの……?」
あの日、アレグロは無意識的に魔術を使った。
そして、襲い来る人々からアレグロを――アーチェを庇い、〈アコルト〉の五人は命を落とした。
正直、“あの日”の前後はアレグロもよく覚えていないのだ。
「俺は……裏切り者なんだ」
「え?」
「“あの日”、君に魔術を使わせてしまった……それなのに、俺は……!」
シェントはアレグロから数歩離れると、姿勢を正した。
そして――優雅に腰を折り、一礼する。
「俺はタクト・ルーイゲン。――ルーイゲン王国で、君と出会ったんだよ」




