第三章 本当のこと(二)
そこは辺り一面、闇に覆われていた。
ただ、暗闇の中だと言うのに自分の姿ははっきり見える。
――またいつもの夢か。
夢の中で少年はぼんやりとそう思う。
その少年の前に、一人の少女が姿を現す。
彼女は座り込み、顔を覆っていた。
――もう見たくない。
少年は手で隠されたその顔を知っている。
ありきたりな悪夢で見るような恐ろしい形相ではない。
ただ、彼にとってはこの夢こそが悪夢だった。
少女が顔を上げた。
その顔は――涙に濡れていた。
「シェントのせいで」
「え――?」
少年はひどく動揺した。
自分を責める言葉に、ではない。
「僕は……タクトだ……」
「シェントのせいで――!」
少女は少年を――名をシェントと偽っている彼を睨みつけながら泣いていた。
♪ ♪ ♪
シェントは飛び起き、夢に出てきた少女の名を呼んだ。
「アレグロは!? ――つっ!」
「あ、気がついた? だめだよー、まだ安静にしてなきゃ」
安心したような声はテナーのものだ。
「思ったより傷は深くなかったよ、血はべっとり付いてたのにね。気絶したのも、アレグロちゃんのことがショックだったんじゃない?」
「昔から傷の治りは早いんだよ」
シェントの上半身は裸だった。腹には包帯が巻かれている。左脇腹の箇所に血の赤が滲んでいるが、出血はすでに止まっていた。
「痛ぇ……」
「服も洗わないとねぇ。ほら見て、脇腹のとこ。血が乾いちゃってさぁ」
テナーが手にしていた上着を、シェントは立ち上がって奪い取った。彼が止めるのも聞かずに着替え始める。
「ちょっと!? ――まさか、アレグロちゃんとラルゴ君を追うつもりかい?」
「……ラルゴは、もういない。魔物だったんだ……っ」
「それ、どういうことだい?」
「ラルゴの最期が魔物と同じだったんだ。あの虹色の光になったんだよ!」
ラルゴの正体は魔物だった。だが、それを知っても不思議と嫌悪はない。
最後にアレグロのところまで導いてくれたからだろうか。
今にして思えば、何らかの罠だったのかもしれないが。
「……っ! 全部俺のせいなんだ!」
シェントは悔しさに歯噛みした。
蔦に変異したラルゴから自分を守るため、アレグロは魔術を発動させた。秘密を明かすことと変わらないというのに。
自分がもっと強ければ、彼女に魔術を使わせなくて済んだのに。
「俺が……俺のせいで、アーチェは……!」
シェントは歩き、己の科器を取ろうと手を伸ばす。その腕をテナーが掴んだ。
「シェント君もアレグロちゃんも、話してくれないとわからないよ?」
「離せ!」
科術士であるテナーよりも、斧槍を振り回しているシェントのほうが力はある。これくらい簡単に振りほどけそうなものだが、怪我のせいで踏ん張りが利かなかった。
「――二人は、昔会ったことがあるんだよね? アレグロちゃん、命の恩人なんでしょ?」
シェントは腕を掴まれたまま静かに頷いた。
「じゃあ、シェント君はアレグロちゃんが、魔族だと知ってたんだね」
一拍置いて、項垂れるように首肯する。
「……でも、アレグロはそれを覚えていないんだ。記憶を失ってるから。自分が魔族だってことも、知らないはずだったのに……」
「…………」
テナーの手が緩んだ。その隙に彼の腕を振り払う。
「俺は忘れたままでいいと思ってた! それなのに彼女に魔術を使わせてしまっ――」
何かがおかしい、とシェントは眉を顰めた。
「まさか……初めから嘘を……?」
シェントはアレグロが助けてくれたときのことを思い出していた。彼女は魔術を使う直前、たしかにこう言った。「ごめんね」、と。
魔族であることを黙っていた、そのことに対する謝罪だったのではないか。
だとすれば本当は、彼女は記憶を失ってなどいないのではないか。
「アレグロに会わないと」
シェントはテナーを押し退けて斧槍を掴んだ。さっきの魔族――薄紫色の髪をした彼女――が、また現れないとも限らない。
「会ってどうするんだい? 怪我人をここから出すわけにはいかないねぇ」
テナーが扉のほうへ移動し、尋ねてきた。笑みを作ってはいるが目は真剣そのものだ。答えようによっては通してくれないのだろう。
「彼女にすべてを話す。……そのあとのことは、わからない」
シェントは正直に言った。
わからない。
何も考えていない。
ただ、胸に一つだけ、揺らぎようのない強い想いがある。
「もう一度だけでいい。アレグロに会いたいんだ――!」
テナーは眉尻を下げ、いつもの微笑を浮かべた。すっ、と扉から離れる。
「当てはあるのかい? まあいいや、行きなよ」
テナーに問われ、シェントは事の重大さに気づいた。アレグロの行き先など知っているわけがない。はたして見つけられるのだろうか。
それでも、前に進まなければ。
シェントは扉を開けようとして、テナーを振り返った。彼に確認しなければならないことがある。
やや緊張気味に口を開いた。
「テナーは? ……アレグロが魔族だって聞いて、どう思ったんだ?」
「わからないや」
はあ? と脱力するシェントに、テナーが続けて言う。
「魔族だって本当にいるとは思っていなかったし。アレグロちゃんと出会ったのだって、つい最近なんだよ? 僕は魔族についても、アレグロちゃんのこともよくわかってないんだから、今はなんとも言えないねぇ」
苦虫を噛み潰したような表情をするシェント。
その彼に、テナーは静かな口調で尋ねた。
「でも、アレグロちゃんは君を助けてくれたんだろう?」
「どうしてそう思ったんだ」
「それくらい、シェント君の様子を見てればわかるよ。
だったら……魔族は恐い存在なのかもしれないけどさ、アレグロちゃんのことは恐れなくていいと、僕は思ってるよ?」
そう言って、テナーはシェントの背中を押してやった。早く行け、とでも言うように。
♪ ♪ ♪
(本当に、どこへ向かえばいいんだよ……っ!)
宿を出たものの、シェントは途方に暮れていた。
アレグロの逃げ場所に心当たりなどない。
『……こっち』
そのとき、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。脳裏に響いたといったほうが正しいだろうか。
「ラルゴ!?」
彼はもういないはずだ。しかし自分の直感は、それがラルゴであると告げている。ラルゴの意思を感じ取っている。
『お姉ちゃん、こっち……』
「…………」
今度こそ罠なのだろうか。
そんなはずはない、とシェントは頭を振った。
ラルゴだって消えたくなかったはずだ。アレグロとあのような形で別れたくはなかったはずだ。
「信じるぞ」
シェントは自分に言い聞かせるように呟いた。
アレグロに再び会うため、声の示すほうへ駆けていく――




