第一章 五年に一度の祭り(三)
暁の空に生まれし歪み
其処より魔族、地に降り立ちぬ
およそ二千年前に異界から飛来してきたという未知の生命体。彼らについての史料は極端に少なく、明文化されているのはこの一節のみ。それ以外は昔話として語り継がれてきたものである。
曰く、その姿形は人類に酷似していた。
曰く、彼らは道具を使うことなく炎や雷を操った。
手品のようなそれは、当時の人類が空想していた「魔術」というものに近かったらしい。人類は彼らを「魔族」と呼び、魔族がいたであろう世界――おそらくは天空の向こう側――を「魔界」と称した。
魔族の襲来によって大陸のいたるところで火の手が上がり、雷鳴が轟き、人類は混乱に陥った。
当然、黙って魔族に殺される人類ではなかった。人類と魔族との攻防は百年にも渡り、のちに〈魔界大戦〉と名づけられる。
魔獣とは、その大戦で使われた魔族の生物兵器であった。
魔族が敗戦を喫して滅んだのち、魔獣は人目のつかない森などに姿を眩ませた。人間を見境なく襲う凶暴な生物ではあるが、森から出てくることは滅多にない。
しかし今まさに闘技場に飛び込んできたのは、見紛うことなき魔獣であった。
暗雲のように黒く湿っぽい毛並。耳まで裂けた口から覗く鋭い牙。犬より一回りも二回りも大きい前足に生える鉤状の爪。
体長や四つ足で歩行する点こそ猟犬と変わらないが、この魔獣は猟犬すら簡単に狩ってしまう。
「カ、カルカンド……?」
「なんで魔獣が!?」
「逃げっ、逃げろおおおっ!!」
数少ない出口へ我先にと駆け上っていく観戦客。
その流れに逆らうことは容易ではなかった。シェントは逃げ惑う人々をかき分けながら、観戦席の最前列へと急ぐ。
「ちょっ、通らせ――痛ぇっ!? 誰だよハイヒールで来たのは……」
何度も人の波に飲まれそうになったが、なんとかフィールドを覗き込める位置まで辿り着くと――顔をしかめ弱々しく呟いた。
「あー……やっぱり高いな」
高所恐怖症というわけではない。
誰だって高いところから飛び降りるには勇気がいる。
(問題は降りてからなんだけど。〈鎌鼬〉は発動できないだろうし……これなら使えるか?)
シェントは観戦席に残された空き瓶を拾い上げ、地に叩きつけた。散らばった破片をかき集め、これまた落ちていた紙袋に流し入れる。
紙袋を左脇に抱え、左手で斧槍をきつく握りしめたシェントは、息を吐き出すと右手中指の指輪を口に寄せた。
そして。
「ルフ・ティヒウェル……テクス・ツァール・トハイト……」
指輪にはめ込まれた翡翠の石に囁きかけるように、何事かを呟き始めた。
♪ ♪ ♪
「なんだってこんなところにカルカンドが!?」
頭では混乱していたが、考えるより先にファッジは動いた。東の方角へ駆けると、飛び掛かってきたカルカンドの腹を、
「この野郎っ!」
剣で横薙ぎにぶっ叩いた。技も型もあったものではない。腹に打撃を喰らったカルカンドは「ぎっ!」と一声鳴いて地面に落ちた。
しかし、所詮は試合のために用意された刃のない模擬剣。当然ながら殺傷力は高くない。カルカンドは涎をまき散らしながらのた打ち回っているが、やはり致命傷を与えられたわけではなさそうだ。
「……ったく、魔獣との試合なんて聞いてないぞ?」
続けざまに襲ってきた二頭目も模擬剣で殴りつけ、ファッジは苦虫を噛み潰したような顔をした。
東西の出入口には衛兵が数人配置されていたはずだが、ここから見える東口に兵士の姿はない。二階の観戦席に上がって人々の避難誘導をしているのだろう。
対人戦闘訓練を受けただけの一般兵に魔獣を倒すことは難しい。魔獣によっては魔術を使ってくる場合もある。
その点ファッジは「魔獣討伐部隊」という、名の通り対魔獣を専門とする部隊に所属していた。
カルカンドの場合は俊敏な動きが脅威となる。本来ならば一人で二頭を相手するなど無謀であり、むしろ二人で一頭を討つことのほうが多い。一人が囮となり、もう一人が魔獣の不意を突くのが定石なのだが――
(こいつら、ちと動きが鈍くねえか?)
ファッジもそこまで自惚れていない。部隊の副隊長に選ばれたのも、大雑把だが謙虚なその性格を買われてのことだ。
いくら専門部隊に所属しているからといって、二頭を続けて倒せるはずがない。
言いようのない不安を振り払うため、ファッジはわざと大きな声で愚痴をこぼした。
「一人でこの数相手するのはきついんだがなあ。早う応援連れて来いよ?」
そのぼやきを反芻し、ファッジははたと立ち止まる。
一人?
いや、違う。フィールドにはもう一人いた。
「嬢ちゃんはもういないだろうな?」
心配になって辺りを見回すファッジ。
衛兵に誘導されてとっくに逃げているはずだと、そう思っていたのだが――
「嬢ちゃん!?」
足が竦んで逃げられなかったのか、少女はフィールドの端で突っ立っていた。
最悪なことに、彼女の目の前では一匹のカルカンドがその身を低くしている。いつ飛び掛かってもおかしくない体勢だ。
「くっ――邪魔だあ!!」
ファッジは背後にカルカンドの気配を感じ、振り向きざまに弾き飛ばした。
――間に合わない。
少女から目を逸らした今の一瞬でファッジは覚悟を決めた。悲鳴が聞こえなかったのは、叫ぶ間もなくやられたということか。
血の気が引いていくのを感じながら、ファッジはゆっくりと少女のほうを向き直る。その目に、にわかには信じられない光景が飛び込んできた。
ぎいぃぃぃぃ――っ!!
カルカンドが苦鳴を洩らしながら地を転がりまわっているのだ。
「な、何が起こったってんだ……」
呆気にとられ、ファッジは少女へ視線を移す。
直後、少女がカルカンドに向けて黒塗りの棒を投擲した。カルカンドに吸い寄せられるように飛んでいくそれは少女の手より少し長く、片方の先端が尖っていた。
棒手裏剣である。
ぎゃっ!?
カルカンドの脳天に棒手裏剣が突き刺さる。
断末魔は一瞬。
カルカンドは一度大きく震えたきり、二度と動かなくなった。
「いったいどこからあんなものを――ああ、なるほどな……」
ファッジが呻くように呟いた。
少女が羽織っているロングコート。さしずめその内側にでも仕込んでいたのだろう。
試合では模擬剣以外の武器の使用は禁止されているが、試合中に使わなければフィールドに持ち込んでいても構わない。要するに、バレなければいいだけの話である。
ファッジの口から感嘆のため息が洩れた。
しかしコート裏に収納されているとしても、その本数は限られているはずだ。
「嬢ちゃん! ここは早く逃げ――へ!?」
ファッジは少女が背にしている観戦席へ目をやり、頓狂な声を上げた。ファッジの見間違いでなければ、三階に相当する高さのそこから人が落ちてきたのだ。
地に転がっていたカルカンドの一頭が、好機と言わんばかりにさっと身を起こした。