第一章 カデンツァ王国へ(五)
「は――?」
がばっ、とシェントは身を起こした。硬い床の上で寝ていたせいか、身体のあちこちが痛い。
「あ、シェント君おはよー」
間延びした声で挨拶してきたのは、壁際で胡座をかいているテナーだ。
「アルト!? カノン!」
シェントは焦りの滲んだ声で二人の名を呼ぶ。彼らは先までの自分と同様に、床に転がっていた。
ぱっと見たところ、その表情に苦悶の色は見られない。アルトのほうはすうすうと寝息など立てている。
「たぶん眠っているだけだよ。だいぶ強い薬を盛られたんだね、僕たち」
「薬……」
最も早く起きていたテナーに聞きたいことはたくさんある。薬とは何か。ここはどこなのか。どうしてこんなところに連れてこられたのか。
とはいえ、場所についてはだいたいの見当がつく。
硬い石床。低い天井。そして冷たい鉄格子――端的に言えば、ここは檻の内側だった。
広くない檻の中に四人揃って入れられていたのだ。
「――アレグロは!?」
シェントは血相を変えてテナーに詰め寄った。
彼女の姿だけ見当たらないのだ。
「大丈夫だと思うよ」
「『思う』ってなんだよ! どういうことだ!?」
シェントはテナーの胸ぐらに掴みかかろうとして、その手を下ろした。彼に当たったところで、何の解決にもならない。
テナーは微苦笑を浮かべながら、穏やかな声音で言った。
「シェント君は本当に、アレグロちゃんのことが好きなんだねぇ」
「好きとか、そんなんじゃねえよ……。アレグロは――」
シェントは腿のポーチに手を当てた。
それぞれ得物は取り上げられたようだが、着ているものはそのままだ。
「彼女は、命の恩人なんだ」
「……じゃあ、シェント君は探してた人に会えたってことだね」
シェントには、テナーと共に二人で旅をしていた時期があった。
そのときに彼に話していたのだ。命の恩人を探している、と。
「渡せたのかな? 形見は……」
シェントは力なく首を横に振った。
ポーチに入れて肌身離さず持ち歩いてきた、〈アコルト〉の刻印が印されたペンダント。
それは、とある少年から託されたもの。彼の形見。
渡してしまえば、彼がもうこの世にいないことをアレグロに告げることになる。
記憶喪失の彼女にとっては、記憶を思い出すきっかけにもなるかもしれない。
ただ――わざわざ辛い思いはさせたくない。
彼女に忘れていてほしい記憶は、まだ他にあるのだから。
「そんなことより、ここはどこなんだ」
「ここはカデンツァの王都にあるお城――パッサカリア城? だったっけ。そこの牢屋みたい」
「な――っ! どうして……」
ここが牢屋とはいえ、いきなり王都に辿り着くことになろうとは。
「助けてもらった船があるでしょ? あれが王室のものだったらしくてね。
――でも、乗ってたあれが密輸船だったんだって。話を聞きたいってことで、アレグロちゃんが連れて行かれちゃった」
「どうしてテナーが行かないんだよ!」
「僕も一応は抗議したんだけどねぇ」
テナーは困ったように笑って片頬をさすった。見ればわずかに腫れている。抵抗して、殴られたのだろう。
シェントは「ごめん」と小さく詫びた。
一番腹立たしいのは、そんな騒ぎの中でも目を覚まさなかった自分だ。
「くそっ……!」
何もできない自分が歯痒くて、シェントは床を拳で叩いた。
同時に、くだらない想像を打ち消そうとした。
アレグロがもう帰ってこないのではないか、という想像を。
♪ ♪ ♪
刀と棒手裏剣を取り上げられたアレグロが連れてこられたのは、豪奢な扉の前だった。
「女王陛下に何かあったら、貴様の首を刎ねる」
アレグロを連行していた兵士が鋭く言い放ち、両開きの扉を開ける。
背中を強く押されて、アレグロは部屋の中へ入った。
目が痛くなりそうなほど絢爛豪華な部屋である。
天蓋の付いたベッド。細かな装飾の施された大きな鏡。そして天井近くまではめ込まれている窓。
「あらぁ、待っていたわあ」
窓にかけられた重たそうなカーテンを閉めながら、一人の少女が振り返った。
「――っ」
このような場に連れてこられた緊張感もあったのだが—―アレグロは彼女の姿に息を呑んだ。
同性から見ても美しいと思える少女である。しかし、その美しさはどこか怪しさも秘めていた。「妖艶」という言葉が最も似合うかもしれない。
髪は白銀。目は真紅。
服は純白のドレスを一枚身に着けているだけ。左腿の部分には深い切れ込みが入っており、しっとりと濡れているかのような脚が曝け出されている。胸元も大きく開かれ、放漫な胸が存在を主張していた。
「さ、そこに座ってちょうだい」
少女は細い指で部屋の片隅を指した。そこにはソファーが向い合せに置かれ、間にはテーブルが鎮座している。
アレグロは彼女に促されるままソファーに腰かけた。真向かいに少女も座り、テーブルの茶器を手に取る。
「紅茶なんて、いつもは侍女が入れるから……。美味しくなかったらごめんなさいねぇ」
少女が紅茶を入れている間、アレグロは室内に再び目をやった。
彼女の言葉通り、侍女はおろか近衛兵の姿すら見えない。いくらアレグロの武器を取り上げているとはいえ不自然である。少女が人払いでもしたのだろうか。
「さぁ、どうぞ召し上がれ」
にこにこと嬉しそうに紅茶を差し出す少女に、アレグロは低い声で言う。
「――これにも何か薬を入れたのか?」
「あはっ、そんなはずないわよぉ」
少女は笑みを崩さずに紅茶を一口飲んだ。何も入っていないことを示すために。
「――そういえば、自己紹介がまだだったわねぇ。私はフィーネ・カデンツァ。あなただけは私のこと『フィーネ』って呼んでもいいわよ、だって――」
フィーネは微笑んだまま、目を細めて言った。
「あなたは私と同じ魔族だから」




