終 章
「ふぁ――」
大きな倒木に背を預け、シェントはあくびを一つ溢した。
時刻は真夜中。今しがたアレグロと見張りを交代したばかりである。
その彼女はシェントの右隣で座ったまま目を瞑っている。腕には鞘に入った刀を抱きかかえて。
あとの仲間――アルトはというと、シェントと背中合わせのところにいた。大型犬に身を預けるように倒木にもたれかかり、すうすうと規則正しい寝息を立てている。疲れのせいもあるだろうが、この王子様はどこででも寝られるようだ。意外と旅人の素質があるのかもしれない。
アルトのように初めての野宿で熟睡できるほうが珍しい。カノンは何度も目を覚ましているらしく、今もシェントの左隣で膝を抱えていた。
「ねえ、シェント……」
カノンは二人を起こさないよう、小さな声で呼びかけた。
「『汝、世界を疑うことなかれ』――この御言葉、シェントはどう思った?」
とりあえず問うてみたものの、カントリアを出てから考えていることはまだ他にある。どうしてフェルツィー様はカントリアを見捨てたのか。それよりも、体調を崩してまでも祈りを捧げていたリエを、なぜ裏切ったのか。そのリエは、いつから自分を憎んでいたのか――
だが、カノンはこれらの疑問を心の奥底に押し込めて、深く考えないように決めた。
正直、シェントが御言葉の意味をどう捉えていようが気にしないつもりだった。今の二人に当たり障りのない話をしたいだけだったのだ。
「『どう』って……」
「リエはね――この世界はフェルツィー様が守ってくださっているから、今の平和を疑わなくてもいい、と言っていたわ。それと、互いが互いを信じれば争いは起こらないとも教えてくれた」
六年前に聞いた話だというのに、その言葉は胸にしっかりと刻まれていた。以降、御言葉の意味に疑問を持つことはなくなった。
いや、これも本当は考えないようにしていただけだろう。聞いてすぐは腑に落ちなかった答えだったが、リエが間違うはずがない、と自分に言い聞かせたのだ。
「だから、『疑わないこと』と『信じること』は、同じなのかなと思ったの。御言葉は『神を信じなさい』という意味なのかな、って。でも私は――」
カノンは続きを言うべきか逡巡した。
長年抱いてきた疑問。これを言って、シェントに呆れられたらどうしよう。彼だってカントリアに祈りを捧げにきたのだから、教徒には違いないというのに。
――孤児院だけでなく、カントリアを出てもなお“いい子”でいようとしている。そのことに気づき、カノンは心を決めた。
「私は、フェルツィー様が隠し事をしているように思えてたの」
「……そうだなあ」
シェントの反応は案外あっさりしたものだった。
少し拍子抜けするも、カノンはほっと胸を撫で下ろす。
「そもそも、『疑わないこと』と『信じること』が同義なのかもわからないし。もし同じだとしても、『信じること』は疑っていてもできると思う」
「どういうこと?」
予想していなかった話に、今度はカノンが聞き返す。
シェントは一瞬考えるように木々を見上げた。
「たとえば……あの人は自分に何か嘘をついているかもしれない。だけど、それでもその人のことを信じる――ってのも、変じゃないと思うんだ。
本当に嘘をつかれていたとしても、信じた自分の責任……というか。それを含めて信じていたんだし。
うーん……やっぱり、信じるって一方的だと思ってるんだ、俺は」
「……」
シェントの隣でカノンは目を伏せた。
信じるとは一方的なこと。だからリエはフェルツィー神に応えてもらえなかったというのか。
しかしシェントに問いただすのも八つ当たりにしかならない気がして、カノンは口を閉ざしていた。
「まあ、盲信はしたくないなって話かな」
「盲信……?」
「自分で考えたうえで信じたい、というか。何一つ疑うことなく、ただ信じきっちゃうとさ、裏切られたときにショックだし。でも向こうは裏切ったなんて思ってないだろうけどな。さっき言ったように、信じるって一方的だから」
ここまで話して、シェントはふとリエのことを思い出した。
フェルツィー神に熱心に祈りを捧げていた彼女は、祈れば祈るだけ、神が自分を裏切ることはないと信じたに違いない。
神がカントリアに降臨しなかった結果、リエはあれだけ信心していた神に裏切られたと思い込んだ。その怒りがカノンへと向かって――
(いや、違うな。リエはたぶん……)
これではなぜカノンに怒りの矛先が向いたのか説明がつかない。近しい者だったから、というのもあるにはあるだろうが。
彼女はおそらく、神というものは裏切りなど起こさない存在だと信じていたのだろう。そもそも神は裏切ってなどいない。自分たちの祈りが神に届いていなかっただけなのだ、と。
そして、あの場でシェントを庇った――『礼拝堂などどうでもいい』と言い放ったカノンを、神に祈らなかった裏切り者として恨んだのではないか。
「シェント?」
急に黙り込んだシェントの顔をカノンが覗き込む。
「あ、ああ。ごめん」
当然、リエに関することはすべて憶測に過ぎない。シェントは話題を戻すことにした。
「結局……自分を守るためなのかな、『疑いながらも信じること』は。だからカノンも、『フェルツィー様が隠し事をしているのかも』って、疑っててもよかったんだと――間違いじゃなかったと思うよ」
「よくわからなくなっちゃったな、ごめん」とシェントは頭を掻いた。
「う、ううん」
思いもよらぬ言葉に戸惑いの色を隠せないカノン。
(私は――)
カノンの頬を涙が伝っていく。光石の明かりが弱いおかげで、シェントには気づかれていないようだった。
(間違いじゃないって、誰かに言ってほしかったんだ……)
物心ついたときからずっと胸に支えていたもの。それは御言葉に対する疑いではなく、誰かに自分の考えを認めてもらいたいという想いだったのだ。
「ありがとう」
知らずカノンは礼を口にしていた。
「い、いや……大丈夫?」
カノンの様子がおかしいことに気づいたのか、少し困惑気味のシェント。
「もう大丈夫よ」
カノンは涙を拭い、笑ってみせた。
でも――とシェントは思う。
御言葉で重要なのは『世界』の部分ではないか、と。
フェルツィー神の言う『世界』とは比喩でも何でもなく、この世界そのものを指しているのではないか。
この世界には何かがあって、それを人々から隠すために、そもそもの存在を悟らせないために『疑うな』などと神様に言わせているのではないか。
(まあ、フェルツィー様の御言葉なんて魔界大戦直後からあるものだし。本当の意味なんてのは、もうわからないだろうな)
――この旅で御言葉の本当の意味を知ることになろうとは、今のシェントは思ってもみなかった。
これにて「Ⅰ 旅立ちの前奏曲~プレリュード~」は完結です。
前回の投稿から数千字加筆しているので(特に第五章以降)、気になる方はもう一度お読みいただけますと幸いです。
一段落ついたここで感想や評価等いただけたら嬉しいです。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。




