第一章 五年に一度の祭り(二)
――会ったところでどうするのか。
自問を繰り返しながらも、シェントは少女のもとへ足早に近づいていく。
少女は窓に面した席に一人腰かけ、外の風景を眺めていた。
いや、実際にはガラスに反射する店内の景色を見ているのだろう。その証拠に、窓に映る彼女と目が合ってしまった。
とうとう心を決めたシェントは、
「昨日はどうも」
少し皮肉な響きを持たせながら少女に話しかけた。
「昨日?」
少女が冷めた目で振り返る。
「その声……。お前、どこかで――」
「だ、だから昨晩そこの森で!」
シェントの声は変に裏返った。
少女は軽く目を閉じ、
「――ああ、あのときの」
数秒かけてようやく思い出したようだった。
だが――
「ここまで来るとは、いったい何の用だ?」
あらぬ誤解、再び。
少女は腰を浮かせて臨戦態勢を取り、半眼で睨んできた。
「違う、偶然だ!」
とっさに喚くシェント。
自分と同年代だと思われるこの少女は、どうも早合点が過ぎるというか、常に何かを警戒しているように見える。その姿は薄暗い路地を忍び歩く野良猫を連想させた。
「隣、いいかな」
「……」
少女は無言で窓のほうを向き直った。それを肯定と捉え、シェントは椅子に腰かけた。
テーブルに置かれた空のグラスに目をやり、通りかかった給仕を呼び止める。そしてワインを二杯注文したシェントは、
(さっきの勘定、払ってない……)
はっとして顎鬚の席を振り返った。
こちらに気づいた顎髭は歯を見せながら笑い、びしっと親指を立ててきた。上手くやれよ、ということらしい。
「……よし。ええと、俺はシェント。君は?」
さっそく名乗ってみたものの、シェントは内心頭を抱えた。これではまるでナンパではないか。
「……アレグロ」
少女――アレグロはこちらに顔を向けるでもなく、独り言のように呟いた。そのせいで、それが彼女の名だとすぐにはわからなかったくらいだ。
ひとまずシェントはほっと胸をなでおろした。無視されなかっただけマシである。
「あ、あのさ。昨日、なんであんなところにいたんだ?」
「お前のほうこそ」
「俺? ちょっと一狩りしようかと」
曖昧に答えながらシェントは少女の横顔を盗み見る。顔立ちには少し幼さが残っているが、物事を諦観しきっているかのような、気怠げな表情が貼りついていた。
「そんな得物で?」
アレグロはテーブルに立てかけられた長物を一瞥した。藍色の布に包まれているそれは、シェントの「科器」――斧槍だ。
槍の穂先に三日月のような斧頭と小型の鉤爪が備わっており、刺突や斬撃など多彩な攻撃が可能である。一方で、身長より長い斧槍を振り回すにはある程度の空間が要求される。
斧槍使いが単身で森に踏み込むことは自殺行為に等しいと、シェントも重々承知していた。
「金に困ってたからな。そりゃあ魔獣に返り討ちにされる可能性もあったけど」
入市税だけなら払えたかもしれないが、そうすれば市内で宿を取ることはおろか、飲み食いさえできないところだったのだ。飢えて死ぬくらいなら、ひと思いに殺されたほうがまだいい。
「お待たせいたしました」
金がないと打ち明けた矢先、給仕がワインを持ってきた。シェントとしては少々ばつが悪い。
シェントはワインに手を伸ばしたが、どこか沈痛な面持ちのアレグロに乾杯を促すことはできなかった。
「――あのときお前がいなければ、私は死んでいたのだろうな」
「え、なんで?」
シェントが聞き返すのももっともである。自分などいなくとも、彼女一人でカルカンドを倒せたのだから。
「時間か」
それには答えず、アレグロは椅子から立ち上がった。
柱時計の針は十一時を指している。あと一時間もしないうちに本日の第二試合、話に聞いた優勝候補の初戦が行われるのだが――つまりは。
「ファッジの初戦の相手って、もしかして……」
「ファッジ? ああ、そのような名前だったかもしれない」
アレグロは紙幣をテーブルに乗せ、シェントが呼び止めるのも聞かずに颯爽と去っていった。
♪ ♪ ♪
武闘大会の会場となるのは、何百年も昔に建築された古い円形闘技場である。
高さは五階建てに相当し、吹き抜けになっていて屋根はない。一階部分には砂利が敷き詰められており、この「フィールド」で試合が行われる。三階より上には観戦席が設けられ、端に行くにつれて高くせりあがるように造られていた。
フィールドと観戦席の出入口は別にあるため、試合に乱入する――観戦席から直接一階に降りる――ことは不可能である。
いくら優勝候補の試合とはいえ、まだ初戦。
しかし観戦席はほとんど埋まっており、シェントは西側の後方で立ち見することにした。
まずは東の入場口から今回の優勝候補、ファッジが姿を現した。
陽に焼けた褐色の肌。短く刈り込んだ黒髪。いかにも戦士然とした風貌である。防御性より機動性を重視したのか、軍装備の板金鎧ではなく皮鎧を着用していた。
闘技場は一瞬にして歓声に包まれた。まるで勝負が決まったかのような沸き様である。ファッジもそれに答えるように手を振りながら、フィールドの中央に歩を進めていく。
だが、その歓声も次第にどよめきに変わっていった。
ファッジの対戦相手、つまり西から入場してきた人物が、古びたロングコートを纏った小柄な少女だったからである。
数は圧倒的に少ないが、武闘大会には女も参加する。彼女たちの大半が女扱いされることを嫌っており、男に目にもの見せてやろうと意気込むが、力では敵わず敗北することも珍しくなかった。
ファッジもそのような女剣士との戦いを幾度か経験してきた。腕に絶対の自信があるのか、上気した顔で試合開始の合図を待つ者。己の高慢さに気づかされたのか、対戦相手を前にしただけで身体を硬くする者。
ところが、目の前の少女は過去のどの相手にも当てはまらなかった。
彼女は口を真一文字に結び、どこでもない一点をただ見つめている。一見すると緊張しているかのようだが、右手に握った剣を構える様子もない。勝負に対する気迫がまるで感じられないのだ。
ファッジは小さく唸った。
(こりゃあ、大物かもしれんな)
直後、審判が掲げていた旗を振り下ろした。試合開始を告げる音楽が高らかに鳴り響く。
反射的に臨戦態勢をとるファッジ。
しかし少女のほうは、演奏などまるで聞こえなかったかのように身動ぎ一つしない。
観戦客には少女が怖気づいたように見えたのだろう。さすがにフィールドの中央には届かないが、野次と共に次々と物が投げ込まれてくる。空き缶やら丸めた紙袋やら、果ては装飾品の類いまで。
瓶の割れる音で我に返ったファッジは、やれやれと頭を振った。
(俺はいったい何を恐れてんだ)
ファッジは少女へ不器用に笑いかけると、剣を構え直して地を蹴った。持ち前の瞬発力で距離を詰め、剣を大袈裟に振り上げる。
受け流されるのを見越した攻撃とも言えない攻撃。それによって、いまだ突っ立ったままの彼女の実力を測ろうとしたのである。
当の少女は剣が振り下ろされる寸前になってようやく動いた。後ろへ跳躍して斬撃を回避すると、反撃の素振りも見せずにそのまま後ずさる。
「どうした、そんなんじゃ勝てないだろ?」
矢継ぎ早に攻撃を仕掛けるファッジ。剣を振るうたび割れるような歓声が湧き起こる。
少女はといえばファッジの連撃をただ躱すだけ。だが、顔色一つ変えないところを見ると、避けるだけで精一杯というわけでもなさそうである。彼女は円舞曲でも踊っているかのような、軽やかな足どりでファッジの剣撃を避けていた。
誰の目から見てもファッジのほうが少女を圧倒している。それでも、ファッジは自らの優位を確信できずにいた。こちらが追い込んでいるはずなのだが、反対に彼女に誘い込まれているような――
「おいおい、試合終わっちまうぞ」
それでも、ファッジは早くも少女をフィールドの端に追い詰めた。そして、一度も剣を振るってこなかった彼女に大声で問うてみる。
「このまま終わっていいんか? 嬢ちゃんだって、何か目的があって来たんだろ? 実戦を通して強くなりたいとか」
「――わかっていたはずだったのに」
終始無表情だった少女が、初めてファッジを睨んだ。
「試合に出たところで、無意味だって」
「――っ!」
その諦めの声に、しかしファッジは息を呑んだ。焦燥に駆られ、彼女の退路をなくそうと一歩を踏み出す。
同時に少女も片足を引くが、そのまま仰け反ったかと思うと地に片手をついた。
観戦客によって投げ込まれていた空き缶。それに足を取られたのだと理解するより早く、ファッジが大きく踏み込む。
(もらった……!)
淀みない動きで剣を振りかぶると――
「つっ!?」
顔面に飛んできた何かを、首を動かし寸でのところで避けた。
その物体はファッジの背後に落ち、カランと乾いた音を立てる。
(缶!?)
たとえ直撃したとしても所詮は空き缶。その威力はたかが知れている。
それでも、一瞬の隙を作り出すには十分であった。
「……卑怯、ではないよなあ」
彼女の狙いは初めからこれだったのかもしれない。
フィールドの端まで誘導し、落ちている缶を投げつけ――間髪入れずに剣を突きつけてきた少女に、ファッジは苦々しく微笑んだ。
ファッジが己の敗北を悟った、そのとき。
ぐぎゃああああおぅっ!
闘技場を揺るがすような、獰猛な獣の声が轟く。
突如としてフィールドへ雪崩れ込んできたのは、見慣れない灰色の塊だった。