第五章 汝、世界を疑うことなかれ(六)
「ごめんなさい」
部屋に帰ってきたアレグロはアルトに頭を下げ、彼から受け取っていた謝礼金の袋を取り出した。シェントと違って稼ぎがあった彼女は、アルトからもらった謝礼金にほとんど手をつけていなかった。
「護衛として失格だ。謝礼は返す」
「そんな、やめてください……! たしかに心細かったですけど……アレグロさんが無傷で帰ってきてくれてよかったです」
それに――アレグロが正気に戻ってよかった、とアルトは安堵した。
実のところ、彼女が部屋を飛び出そうとしたとき、アルトは一度それを制止した。今となって思えばアレグロの身を案じてというより、一人残されることが怖くて引き留めてしまったのだが。
しかしアレグロはアルトの存在などまるで忘れてしまったかのように、ただ前を見て走り去ってしまったのだ。
ため息を一つつき、アルトは再び口を開いた。
「――どうして最初に祈らなかったのでしょう、僕は……」
「最初に?」
「ここ――カントリアに来てすぐ、僕は観光をしたいとお二人に言ってしまいました。本来であれば、ここは祈りの地なのに」
身分を隠し、少々の自由があるこの時を楽しみたくて、浮かれていたのかもしれない。
混沌とした状況で湧き起こる不安から、目を背けたかったのかもしれない。
理由は何であれ、アルトはフェルツィー神に祈ることを優先しなかった。ルーエの闘技場に出現したのが魔物ではなく魔獣だった――グラツィオーソ軍の自作自演だったために、カデンツァ周辺諸国の魔物の被害を、どこか他人事のように捉えていたのだろう。
「いずれ国王になるはずの人間がこうだから、フェルツィー様のお怒りに触れたんだ……」
今回の騒動に責任を感じ始め、アルトは声を震わせた。
たとえ魔物が出たとしても、言い伝え通りフェルツィー様が降臨していたら、カントリアは恐慌状態に陥っていなかっただろうに。そのフェルツィー様がカントリアをお救いにならないのも、本来国を守るべき立場にある自分が彼に祈らなかったからではないか――
「でもアルトは、今から王族になるのだろう?」
「え?」
「この通過儀礼で王族として認められるのなら、今は失敗してもいいのではないか?」
珍しくきょとんとした顔でアレグロは言った。
シェントと違って、今回の通過儀礼における真の目的に気づいていないらしい。
「そう、ですね――」
気まずさを覚えながらも アルトは小さく笑った。そして俯き、考えた。
まだ失敗が許される時とはいえ、次に活かせなければ失敗の意味がない。だというのに、国のため、民のために何ができるか考えることなく、自分は国外へ逃亡しようとしている。果たしてこれは許されることなのだろうか。
「僕に何ができるかわからないけれど……頑張ってみます」
アルトは拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。
♪ ♪ ♪
「カノン、危ないわ。その旅人さんから――シェントさんから離れて」
ナイフを握りしめたリエが、朗らかな笑顔を浮かべて言った。
「逃げろカノン!」
リエの狙いは“門”を傷つけた自分だ。
シェントはカノンから離れ、臨戦態勢を取った。それでも、リエを傷つけないように斧槍を地に捨てた。相手は戦いの素人だ。ナイフさえ叩き落としてしまえば決着がつく。
そのナイフを構え、リエが走ってくる。
「な――っ!?」
シェントが驚愕の声を上げた。
リエはシェントには目もくれず、突っ立ったままのカノンのほうへ迫っていったのだ。
(『危ないから』って俺のことかよ!?)
自分の身を案じてくれたリエに対し、当然ながら感謝の念は湧いてこない。
「リエお姉ちゃ……?」
「くっ!!」
茫然自失とするカノンのもとへ駆けるシェント。
リエを止めようにも間に合わない。シェントはカノンを横から突き飛ばした。
シェントの腕を襲う違和感。異物が食い込む感触。
――切られた。
ちらりと目をやると、右袖が紅く染まっている。
心臓の鼓動に合わせて、切られた二の腕に鈍い痛みが走る。
「シェント!?」
カノンの声をどこか遠くに聞きながら、シェントはリエの右手首を掴んでナイフを奪い取る。続けて、リエの左足を右足で払った。
リエは平衡を崩し、草の生えた地面に背中から倒れ込んだ。
「――私、知ってるんだから!!」
ナイフを取り上げられたことで戦意まで喪失したらしい。リエは仰向けになったまま立ち上がってこなかった。
顔を両手で覆い、高い声で泣き叫ぶリエ。
「カノンがフェルツィー様をずっと前から信じてなかったこと! あなたが昔聞いてきたこと、私は忘れてないんだから!
あなたみたいなのがいるから――!!」
こんなに信じているのだから、フェルツィー様に裏切られるはずがなかった。それなのに、フェルツィー様は来てくださらなかった。
いや、私たちの信心が足りなかったから、フェルツィー様はカントリアをお救いにならなかったのだ。
フェルツィー様を心から信じていない者がいるから。御言葉を疑っている者がいたから――
「そんなふうに……思ってたの……? 私の、こと……」
シェントに突き飛ばされて事なきを得ていたカノンだが、リエの罵声に腰を抜かし、立てなくなってしまった。
カノン自身でも覚えている、あの言葉。
――どうして世界を疑ってはだめなのか。
「リエ、おまえなんてことを――!」
ようやく状況を呑み込んだ町の人々がリエを囲んだが、抜け殻のようになった彼女に誰も強くは言えなかった。その間に旅人たちは逃げるように去っていった。
「カノン、大丈夫!?」
リエと同じくらいの歳だろうか、一人の女性がカノンのほうへ駆けてくる。シェントと目が合うと、腕の傷を見てハンカチを取り出した。
「カノン、宿に戻って手当てをしてあげて? あなたも辛いと思うけど……」
「う、うん。シェント、ごめんね……」
「見た目ほどひどくはないから大丈夫だよ。突き飛ばしてごめんな、怪我ない?」
カノンが自身を責めてしまわないよう、シェントは彼女を安心させるために言葉を紡いだ。実際、出血の割には傷は深くない。まあ、痛いのは痛いが。
一方、シェントに弱々しく詫びたカノンだったが、心はここにあらずといった様子だった。
――リエにあそこまで言われても。自分のせいでシェントに怪我させてしまっても。
(どうして涙が出てこないんだろう)
呆然と佇んだまま泣けない自分を、カノンは不思議に思った。
♪ ♪ ♪
傷の手当てはアレグロが慣れた手つきでしてくれた。幸いにも傷口は浅く、縫わずに済んだ。
シェントと一緒に戻ってきたカノンはというと、部屋に薬箱を持ってきたあと床に座り込んでいた。
無理もないことだ。
リエとはそれこそ生まれたときから一緒だと聞いている。姉のように慕っていた彼女にあそこまで言われては、しばらく立ち直れないだろう。そもそも彼女に殺されそうになったのだ。これからも彼女たちが共に生活できるとは到底思えなかった。
シェントが何か声をかけようとした矢先、
「――私も、連れてって」
カノンが俯いたまま淡々と呟いた。
「もう、ここにはいられない……」
「…………」
三人はすぐには承諾できず、黙り込んだ。
まず、アクアレル――もといアルトの問題がある。
シェントは自室に戻ったあと、ベッドで寝ていたアルトに即行で鬘を被せた。カノンが薬箱を持って来ることがわかっていたからだ。
ここでは誤魔化せていても、共に旅するとなるといつまで隠し通せるか。
それ以上に――今はシェントとアレグロの二人でアルト一人の護衛についている。だが、カノンが加わるとなると一人で一人を――否、自分ともう一人を護る必要がでてくる。
「でも……行く当てがあるわけじゃ――?」
言葉を濁すシェント。
カノンに対する後ろめたさは感じていた。自分を庇ったばかりに、彼女はリエから恨まれ、殺されかけたのだから。
カノンは力なく首を横に振った。
「だけど、ここにいたって、もう一人なの……」
「――わかりました」
と言って了承したのは――
「アル、おい、アクアレル!?」
「カノンさん、僕たちと一緒に行きましょう」
案の定というか、アクアレルが真剣な顔をして言った。
「君の護衛がまずあるんだぞ?」
「だったら、そのあとでいいですから!」
「君はもういないってのに!?」
「じゃあ僕もついていきます!!」
「ついていくってどこに!!」
「ぼ、く?」
カノンが一人称の違いに気づき、小首を傾げる。
「あー、もうわかったよ! 彼女は一度こうなると頑固なんだ、案外」
先に折れたのはシェントのほうだった。シェントだって、このままカノンを置いて行っても、罪悪感に苛まれる気がしていたのだ。
目を瞬かせるカノンと、首を縦に振るしかなくなり渋い顔をするアレグロ。
「じゃあ、リエが帰ってくる前にここを出よう。カノン……本当にいいんだな?」
シェントの問いに、カノンは座ったまま服の裾を握りしめ、頷いた。




