第五章 汝、世界を疑うことなかれ(五)
鐘の音が二度、頭上から降ってきた。
ダシュティと別れたシェントは、“門”と呼ばれる塔の一階に来ていた。
外から見た塔の高さは四、五階に相当する。フェルツィー神がこの地に降り立つための目印とされているが、時計塔の機能も兼ねている。とはいえ塔の外に文字盤はなく、所定の時刻に鐘が鳴るだけ。これもフェルツィー神が降臨し、天へ戻ったとされる時刻を民に告げるためである。
上の階には鐘を鳴らすための機械室があると思われるが、一階部分は礼拝堂よりも華やかだった。床から一階の天井近くまではめられた窓には、色ガラスで模様が描かれている。東の窓から入る日光のおかげで、木の床にも柔らかな色が浮かんでいた。
シェントは小さく息を吸うと指輪の石に――〈風〉の科石に呪文を唱え始めた。
上級科術の詠唱を最後まで行うのは実に半年ぶりである。
それでも身体に覚えこませるために何百回、何千回と唱えてきた呪文だ。冒頭さえ詠唱できてしまえば、あとは歌を歌うように自然と続けられる。
「ルフ・ティヒエル……アンテ・セヴェーロス・フォルツァート……」
彼のように、科術使いとは「どっちつかずな存在」である。
本来、剣や槍は近接戦闘で使われる。しかし呪文を唱える間、術者は科器を固定しなければならない。詠唱中、科術使いは何の攻撃もできず、前線に出ることができないのである。
かといって、科術士のように科術を自在に操れるわけでもない。
科術士であれば科術の発動点をある程度自由に設定できる。標的の動きさえ予測できれば、真上から科術を落とすことも理論上は可能である。一方、科術使いの発動点は科器にしか設定できない。ダシュティのように得物に〈炎〉を纏わせたり、シェントの〈舞風〉のように得物から〈風〉を出したりするしかない。
「オ・ラージュ……トルメンタ・シュトゥル……」
このように中途半端な「科術使い」に、なぜシェントがなったのか。それは物心ついたときから斧槍を操り、簡単な〈風〉の科術をすでに覚えていたからである。
物心ついたときから、といっても――
「ムヴィントゥ……ラカーン・ア・イリヒ…………」
朗々と呪文を唱えるシェント。
アレグロが記憶喪失と知って愕然としていた、この少年もまた――十歳より前の記憶がなかった。
♪ ♪ ♪
コルスを引き連れていたダシュティは、転がるように“門”へ飛び込んだ。観音開きの扉の片方を開け、コルスが中に入るようにそのまま開け放っておく。
「ヴィオレン……ツァエストロ・アウフ……ゲレーク・トリュー・ド……」
ほんの一瞬だが、ダシュティは差し迫ったこの状況を忘れて、それに聞き入ってしまいそうになった。
色つき窓を背に、よく通る声で呪文を唱えているのは、「囮になれ」と言ってきたシェントである。
とうに変声期を迎えた、年相応の声の低さ。だが決して暗くはなく、明瞭な声で伸びやかに、まるで天に歌うかのように詠唱を続けている。
ダシュティはシェントに目配せし、彼の背後に回り込んだ。直後、コルスの群れが塔内に飛び込んできた。
シェントが一際低い声で詠唱の終わりを――科術の発動を告げた。
「世界よ、我を赦したまえ――〈鎌鼬〉」
詠唱の終わりに合わせてシェントは斧槍を横に薙いだ。
刹那、突風が吹き荒れたかと思うと、三日月の形をした無数の〈風〉の刃がコルスに襲いかかる。
本来であれば風そのものは目に見えない。しかし自然の風とは違い、科術の〈風〉は可視である。薄緑色で鎌の形をしたそれは、むしろ草原で風に舞う草葉のように見えた。
きゅ――っ!?
旋風でコルスが舞い上がる。次々と〈風〉に切り刻まれ、虹色の光になって霧散する。
窓を通して差し込む、色とりどりの光。
風に舞う若葉のような薄緑の〈風〉。
次から次に虹色の光へと姿を変えるコルス。
それは、この世のものとは思えない幻想的な光景だった。
コルスたちの最期は存外あっけないものだった。
魔物の群れが消滅したあとには、無傷の人間が二人と、〈鎌鼬〉で壁や床がずたずたになった“門”が残された。
♪ ♪ ♪
コルスを一掃し、ダシュティとシェントは“門”の外へ出た。まだ他にも潜んでいるかもしれないが、さっきの群れよりは少ないはずだ。
ダシュティはシェントに懐中時計を返した。
「時刻のずれを反対に利用するとは、よく考えたな」
「このために時計がおかしくなってたのかもよ?」
シェントはからりと笑った。
〈鎌鼬〉の詠唱には三分かかる。“門”の十一時の鐘で詠唱を始めれば、三分遅れの懐中時計が十一時を指すころには科術が発動できる。
「――さて、そろそろ退散したほうがいい」
「“門”をこんなにしちゃったからなあ……」
シェントは扉を開け放ったままの“門”を振り返った。
〈鎌鼬〉の刃によって壁紙は剥がれ、木の床にはいくつもの傷が刻まれている。
「でも、俺は残るよ。カントリアの人に説明しないと」
「言ってもわかってもらえんかもしれんぞ」
「そうだろうけど」
神のための“門”を傷つけたのだ。魔物を倒すために仕方のないことだったと話しても、一方的に責められるかもしれない。
「自分は人を探しているから――ここまでで、すまん。気をつけるんだな」
ダシュティは毅然と告げると、シェントに背を向け歩いていった。
「臆病者」など恨み言を言うつもりはシェントにない。むしろ人探しの途中で巻き込んでしまって悪かったな、とシェントは思った。
ダシュティと別れてしばらくすると、
「おーい! フェルツィー様は、フェルツィー様はおいでになったか!?」
案の定、礼拝堂のほうから十数人が駆け寄ってきた。その中には青ざめた顔のリエの姿もあった。
「あの、それが……大丈夫です、コルスはもういません。ほとんど俺ともう一人が――」
シェントは人々を安心させようと、コルスを消し去ったことから話すことにした。
「コルスが、もういない?」
「はい。一か所に誘き出して、俺の科術でまとめて倒しました」
「『一か所に』って……まさか、おまえ……」
一人の男がシェントの横を通りすぎ、“門”の中を覗き見た。
「ああああ!? “門”が、“門”が……!!」
男の絶叫を聞き、皆が一斉に“門”へ走る。
「おま、おまえ……なにも“門”でコルスをぶっ倒すことなかっただろ!?」
「やりすぎよ、こんな、こんな……!」
それは思った通りの反応だった。納得してもらえないかもしれないが、それでもシェントは反論を試みる。
「でも、ここじゃないと――」
「うるせえ黙れ!! “門”をこんなんにしやがって。何を考えてるんだ、ああ!?」
男が肩をいからせながらシェントに詰め寄ってきた。今にも掴みかかってきそうな勢いだ。
そのとき、聞き覚えのある声が割り込んできた。
「“門”なんて、べつにいいじゃない! シェントはコルスを――ううん、魔物を倒してくれたんでしょ!? みんな助かったのよ!!」
「カノン……!」
いつの間に来ていたのか。弓矢を持ったカノンがシェントを押し退け、男の前に立ちはだかった。
「カノン、やめろ。それ以上言うな」
「でも!」
「下がって」
怒鳴られたわけではないが、カノンはびくりと身体を震わせた。シェントの声は落ち着いていたものの、有無を言わさぬ迫力があったのだ。
「というか、俺の後ろに隠れて」
シェントに言われるがまま、カノンは彼の背に回り込む。
「や、やはり魔物だったのか?」
「魔物が出たということは、この中に魔族もいるんだろ!?」
「……やっぱりそうなるんだなあ」
近くにいたからこそ聞こえた、シェントの諦めたような声。なぜかそれに恐怖を感じたカノンは、シェントから二、三歩離れた。
「くそ……魔族はどこだ!! 旅人に紛れてんじゃなかろうな!?」
「おいおい、なんで旅人だけが怪しまれなきゃならないんだよ!」
「誰だ、今喋ったやつは!? そんなことを言うやつほど怪しいんだ!」
「ああん? 黙って聞いてりゃ、さっきからごちゃごちゃとうるせえな。てめえも十分怪しいぜ!?」
集まっている人間の中にはカノンも知っている顔がある。彼らが旅人のことを悪く言うのは、ほとんど聞いたことがなかった。
「ね、ねえ、皆さん……どうしてそんなに恐れているの……?」
騒ぎのなか、リエが人垣を割ってふらりと前に出てきた。
美しいと評判だった彼女の生気を失った姿に、皆は思わず黙り込む。
「魔族がいたとしても、フェルツィー様が守ってくださるのよ……? 御言葉を信じて――」
「なにが御言葉だ! なあ、フェルツィー様は、今ここにいるか? いないだろ!?」
旅人だろうか、カノンの知らない男が喚く。
リエは何か言いかけたが、黙って俯いてしまった。
カノンも堪らずリエから目を逸らす。
「カノン……おまえ、さっき“門”なんてどうでもいいと言ったよな……?」
町人の一人が聞いてきた。
どくん、とカノンの心臓が跳ね上がる。リエの前でさっきの言葉をもう一度言うのは躊躇われた。
「それは、だって仕方のなかったことなんでしょ!?」
半ば自棄になって言い返すカノン。
「彼女は関係ありません」
シェントがカノンを庇うように立つ。
そのとき。
「きゃあ!」
「おい、おまえさん何を!」
悲鳴の上がったほうに目をやり、カノンは息を呑んだ。
「リエ……!?」
何も持たずに部屋を飛び出したはずのリエが、なぜかナイフを手にしていたのだ。
「お、俺のナイフ!」
旅人の青年が叫んだが、リエに鬼気迫るものを感じ、取り返すことなく固まっていた。
ナイフを腹の前で握りしめたリエが、にこりと微笑んだ。
「カノン、危ないわ。その旅人さんから――シェントさんから離れて」




