第五章 汝、世界を疑うことなかれ(四)
平生であれば人で賑わう昼中。
しかし魔物が現れたとあって、主要な通りも早朝さながら静まり返っている。馬車が通れる唯一の大通りだけが喧騒に包まれていた。
馬車を持っていない旅人ですらそこを通って外へ出ようとしているのだ。通りは馬車と人で溢れかえり、混乱に陥っていた。
一方で、人が密集しているからこその安心感もそこには漂っていた。これだけ人がいるのだから自分は狙われない、襲われるのは別の誰かだ――という、妙な安心感が。
シェントと別れたダシュティは、またもコルスの群れに遭遇していた。――正確に言えば、群れを探し出すようにシェントから言われていたのだ。
それは裏通りの側溝に潜み、蠢動しながら移動していた。遠目からみれば大雨の後の濁流のようである。
「コンフォ、ルツァ」
ダシュティは呪文を唱え、大剣に炎を纏わせた。このまま剣を側溝に突き刺せば、コルスの群れは一気に炎上するだろう。
きゅ、き――っ!
危険を察知して身を硬くしたのか。側溝の中だけ時が止まったかのように、コルスが一斉に動かなくなる。
ダシュティは剣身に絡みつく炎を、しかし血振るいの要領で消火した。
きっ? ぎゅいぃぃぃ……!!
煽られた怒りに震えるかのごとく群れが波打つ。すぐさまダシュティは背中に剣を担ぎ、大きな体躯に似合わぬ速さで駆け出した。
振り返れば、側溝を飛び出したコルスが後を追ってきている。
コルスは火に弱い。さらに命の危険を感じると、人間には聴くことのできない音で仲間を呼び寄せ、群れになって敵に襲い掛かる。シェントはそう語った後、その習性を利用してコルスを誘導してほしいとダシュティに頼んできた。すなわち、〈炎〉を使う敵がいるとわかれば、それを真っ先に倒そうと群れを作るはずだ、とのことだった。
「ふっ、簡単に言ってくれるよな」
後ろを一瞥すると、コルスの列は倍以上に伸びていた。散り散りになった仲間を招集したと思われる。
いつだったか壁画で見た竜――魔界大戦で使われたらしい魔族最大の兵器の尾も、この群れのように太く長かったのだろうか。そんな取り留めのないことをダシュティは思った。
コルスと付かず離れずの距離を保ったまま、ダシュティは指定された場所を目指して走る。
“門”の鐘が二度、鳴り響いた。
十一時を告げる鐘である。
ダシュティは足も止めずに懐中時計を見た。持ち主が言っていた通り、それは三分遅れていた。
その針が十一時を指したとき、つまり三分後に“門”に辿り着かなければ、すべて徒労に終わってしまう。早すぎても遅すぎても作戦は失敗となる。
ダシュティの視界の端に、カントリアでは重大な意味を持つ丘が映った。守護神を祀る礼拝堂である。
無論、神に祈りを捧げに来たわけではない。
ダシュティは丘の周りを大きく迂回しながら、礼拝堂のほうへ目をやった。礼拝堂と言っても外観は丘そのもので、窓はない。果たして中にはどれだけの避難者がいるのか。
だが、人が大勢集まってきている気配は感じられなかった。ダシュティの見た限りでは女性が一人、金髪を風に靡かせながら礼拝堂へ飛び込んでいった。遠目でもわかるほど彼女は切迫した様子だった。
礼拝堂は有事の際の避難所にもなるらしい、とはシェントの言葉だ。だから礼拝堂には近づかないでくれ、とダシュティは彼に釘を刺されていた。
(つくづく頭の回る少年だ)
この作戦はコルスの習性を知らなければまず思いつかない。それを実行に移すだけでも大したものだというのに、起こり得る危険まで想定して極力回避しようとしている。
これから最も危険な目に晒されるのは、他でもない彼だというのに。
(まだ二十歳にもなってないように見えたが……)
――今の若い者は。
こういう考えがおっさんくさいのか、とダシュティは嘆息した。
ダシュティが丘を迂回して走っている間、背後では草葉の擦れる音がずっと続いていた。おかげで、振り返らずともコルスが付いてきているとわかる。
「――さて」
丘の横を駆け抜けたダシュティは目の前の塔を見据え、最後にもう一度時計を見た。
針が遅れているそれは、ようやく十一時を指そうとしていた。
♪ ♪ ♪
――夢を見ていたように思うが、これも夢の続きなのだろうか。
アレグロは一人、雑木林に突っ立っていた。
「――え? なん、で……っ」
困惑すると同時に、少し前の記憶が頭を過る。
(そういえば、誰かに呼ばれた気がして――)
「ねえ」や「ちょっと」といった、知らない人を呼び止めるときの曖昧な言葉が、突如頭に響いたのだ。今になって思えば言葉だったのかも怪しいが、「この方角へ進めば何かがある」と理由もなく確信し、アレグロは部屋を飛び出してきた。
とはいえ、ここに向かっている間の記憶は抜け落ちており、そのせいで自分がカントリアのどの辺りにいるのか見当もつかない。
さらには。
(アルトを部屋に残してきた……)
アレグロは愕然とした。自分を護衛として雇ってくれたアルトを、あろうことか一人にしてしまったのだ。
(――シェントは!?)
共に雇われた少年のことを思い出して、しかしアレグロは頭を振った。彼は科器を持って外へ出た、とアルトが言っていたではないか。
そう、そのあと声が聞こえてきて――
宿の広間で倒れてから現在に至るまでを断片的に思い起こしたせいか、アレグロは目眩を覚えていた。
そもそも、なぜこのような雑木林に来てしまったのか。
億劫そうに顔を上げ、ひとまず歩を進めるアレグロ。
そして。
(誰……?)
歩き始めてすぐに人に出会した。
白いワンピースを着た少女が、こちらに背を向けて佇んでいる。
アレグロも背は高くないが、少女のほうはさらに低い。女の子と言ったほうがしっくりくるだろうか。
細い手足は透明に近く、本当に透けていたとしても不思議はない。むしろそのほうが自然に思えるほど、彼女には生気が感じられなかった。
アレグロはとっさに腰を低くした。
小さな女の子を相手に、何を身構える必要があるのか。頭の片隅ではそう思ったが、身体は理性よりも本能に従った。アレグロは彼女に恐れを抱いたのだ。
誰何を問おうとして、一瞬口ごもる。
――これは果たして人なのか?
アレグロは戸惑いを悟られぬように声を低くした。
「お前、いったい何だ?」
返事はない。女の子にとっては唐突に声をかけられたことになるが、彼女はびくりともしなかった。
焦れたアレグロが再び口を開いたとき、女の子が音もなく振り返り、滑るように数歩前に出た。一連の動作はひどく緩慢としていて、肩まで垂らした薄紫の髪はほとんど揺れていない。
「それ、は」
アレグロは息を呑んだ。
女の子に隠れて見えていなかったが、地面には腹の潰れたコルスが転がっていたのだ。女の子の手に凶器の類いは握られておらず、傍に落ちてもいない。
「マナ、収集。魂に付与。身体、完成」
鈴を転がすような声。喋りは拙いが、日常では聞かないような単語。
「な、に……? 何を言って――」
今度は頭痛が襲ってきた。アレグロは俯き、息を吐き出してから重そうに頭を上げる。
その目にコルスの死体が映り、アレグロは一つの可能性に思い至った。
「あのコルスは、お前が……?」
女の子がかくんと頷いた。
疑問の言葉がアレグロの口をついて出る。
「どうやって……っ」
「圧縮。展開。分解、再構築」
女の子は律儀にも答えてくれたが、アレグロには何一つ理解できなかった。
「お前……魔族か?」
“はい”か“いいえ”かで答えられる質問を――そして、最も重要なことを、アレグロは震える声で問いかけた。
「――まぞく」
女の子は小さな花弁のような唇を微かに震わせ、アレグロに人差し指を向けた。
何色とも形容しがたい瞳は、アレグロを見ようともしない。
「あなた、まぞく」
アレグロの叫びは声にならなかった。
視界が急速に白く狭まっていき、真っ白な女の子の姿も輪郭をなくして溶けていく。
アレグロが我に返ったのは、女の子に斬りかかった後だった。
「――っ!?」
己の行動が信じられず、アレグロは目を見開いた。全身からは汗が噴き出してくる。
意を決して振り返るも、そこに女の子の姿はない。
「そんな……」
木の裏に逃げ隠れたのかもしれない。だが、ここにはもういない、とアレグロの直感が告げていた。
魔物の最期のように、白い女の子は忽然と姿を消したのだった。




