第五章 汝、世界を疑うことなかれ(三)
(カノンは――カントリアの人たちは、こうして逃げることもできないんだよな)
倒れたアレグロをアルトに任せ、シェントは斧槍を掴んで外に出た。
宿に籠ったところで状況は把握できない。なにせ「魔物」が現れたのだ。場は混乱する一方で、正確な情報などありはしない。
現に人と人との諍いも起きていた。
シェントから少し離れたところでは、横転した馬車が道を塞いでいた。周りを取り囲む人々に向けて、派手な身なりの男が怒声を飛ばす。
「荷に触るんじゃない!! 大切な商品なんだぞ!?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!?」
「こっちの馬車が通らねえんだよ!!」
「バカかおまえら、馬車なんて置いてけ!!」
大通りはどこも似たような有様だろう。騒ぎを遠巻きに見ていたシェントはその場を離れ、近くの路地裏に入った。
表のほうとは打って変わって、馬車はもちろん人の姿もない。コルスといえば狭い暗所に隠れ潜む印象が強く、わざわざ路地裏を通ろうとする人間もいないのだろう。コルスより人の集団のほうが恐ろしいとシェントは思うのだが。
アルトやアレグロを連れて逃げるとなると、目立たない場所のほうが都合がいい。この路地が城門まで続いているかどうか、シェントは歩いて確かめることにした。
(たしかに数は多いけど、だからこそ皆でコルスを倒していけば、カントリアの被害も抑えられるだろうに。
……まあ、そんな話にはならないよな。そもそも武器は通用しないし)
コルスは身体が小さく、剣や槍での攻撃はまず当たらない。一方、詠唱に時間はかかるが、科術なら攻撃対象を広範囲に設定できる。
とはいえ、この場に科術士がいたとしても、巡礼者の護衛である可能性が高い。彼らも雇い主を逃がすことを優先させるはずだ。逃げ道の途中でコルスが数匹現れても、簡単な科術でその場を凌げるだろう。
一人や二人を護るだけならば、カントリアからコルスを消し去る必要はないのである。
シェントも科術を使えないわけではないが、カントリアを救う義理もない。それゆえ他人のことをとやかく言える立場ではなかった。
それでも、実行に移すか否かは別として――
(コルスを一か所に集められれば、俺一人の科術でどうにかなるんじゃないか?)
先日のカルカンドとは違ってコルスは群れで行動する。どこか狭い場所にまとめて誘い込めれば、一気に片付けられるかもしれない。
そこまで考えて、シェントの脳裏にある場所が浮かんだ。
「いや、それはさすがに――」
どうやってコルスを一掃するか、頭を悩ませながら路地を進んでいると、どこからか泣き声とも呻き声ともつかない声が聞こえてきた。
(いま通り過ぎた所か……?)
行っても後悔するだけだ。頭ではわかっているのだが、シェントは来た道を引き返してしまった。
一つ目の角を左へ曲がり、少し先のほうへ視線をやる。
そこには男の子が一人、足をこちら側にしてうつ伏せに倒れていた。
「…………」
シェントはその光景を前に唇を噛んだ。
地面にはボールと、片方だけの靴が転がっている。だが男の子の靴は脱げていない。一緒に遊んでいた誰かのだろう。
友人に置いていかれた彼の脚に、背に、頭に。コルスが群がり、蠢いている。
「助けたところで――」
シェントは呻くように呟き、数歩後ずさる。
男の子はもはや苦鳴すらあげていなかったが、まだ息はあるように見えた。とはいえ、一刻も早く治療してやらねば、傷口から感染症を引き起こして死ぬ可能性もある。
だがコルスを追い払ったとしても、彼の治療は誰がしてくれるというのだろう。
子どもが泣いていたというのに、誰一人として外に出てきていないのだ。それを責めるつもりは毛頭ないが――今さら助けを求めても無駄なのではないか。
(そもそもここじゃ倒せないだろ……?)
シェントは自問した。
科術の発動には時間が必要だ。当然、コルスが待ってくれるはずもない。
つまりコルスを倒すのではなく、コルスの注意を引きつけたままこの場から逃げるほか手立てはない。
しかし途中で誰かに遭遇でもしたら。その人までコルスに襲われるようなことがあったら。
踵を返そうとしたシェントは――
「お母さぁ……助け……」
「ああちきしょう!」
男の子の声を聞き、ボールを拾ってコルスに投げつけた。
きぃっ!?
一匹、また一匹とコルスが男の子から剥がれていく。
コルスは一匹が標的を定めると、群れ全体がそれに従う習性がある。一説によれば人間には聞こえない音で交信しているらしい。
「誰かその子を――!!」
介抱してやってくれ、と願いながら。シェントは向かってくるコルスに応戦するでもなく、その場から走り出した。
「さあどうしようかね!」
群れを引きつけてしまった以上、ただ遁走するわけにもいかないだろう。
しかし策は何もない。もとよりコルスと遭遇したら逃げるつもりでいたのだ。
ひとまず次の角で曲がろうと決めた矢先、そこから大柄の男が飛び出してきた。
「ちょっ、戻るか走って!?」
路地は人がすれ違うのもやっとの狭さだ。このままでは衝突して、コルスに追いつかれてしまう。
シェントは男に退くよう叫んだが、
「む、コルスか」
あろうことか男は背負っていた大剣を地面に突き差した。完全なる“通せんぼ”である。
何のつもりだ、とシェントが怒鳴るより早く男は片膝をつき、頭を低くして声を張り上げた。
「跳び越えろ!!」
「はあ!?」
その行動の意図を考えている暇はない。
シェントは走ってきた勢いそのままに跳躍。しゃがみこんだ男の禿頭を跳び越え、着地を決めて男を振り返った。
男はシェントに背を向けたまま立ち上がり、間髪入れずに呪文を唱える。
「コンフォ、ルツァ」
詠唱は一瞬だった。
轟という音と共に、大剣の切っ先から火炎が噴き出す。
紅々と燃えるそれは、襲い来るコルスの塊をひと飲みにした。
ぴゅぎぃぃ――っ!!
コルスの断末魔が二人の鼓膜を引っ掻く。
コルスを派手に焼いたその炎は、しかしすぐに小さくなってひとりでに消えた。コルスのほうも灰すら残さず消滅していた。
「助かったよ、おっさん」
「……おっさんとは自分のことか」
眉間に皺を寄せて振り返った男をシェントは無視し、
「〈炎〉の科術か。コルスは火を嫌うし、その使い手なら……いけるかも」
大剣の柄にはめられた赤石をじっと見つめた。
(しかも抽出呪文か……)
先ほどの呪文の短さでは、本来は下級科術すら発動できない。しかし男が発動した〈炎〉は、見た目だけなら下級どころか中級の科術に近かった。
とはいえ、すぐに消えてしまうところは下級の科術と大差ない。科術の見た目と威力に乖離が生じるのも抽出呪文の特徴である。
シェントは「よし」と呟いて顔を上げた。
「頼みがあるんですけど――」
その時になって初めて男を間近で見、シェントは一瞬言葉を詰まらせた。
大剣を振り回せるだけの筋肉がついた、がたいのいい男である。頭は潔く丸められ、右頬には裂傷の痕が刻まれている。幼い子どもが見たら泣き出してしまいそうだ。
「頼みだと?」
「あ、はい。今だけ俺と組んでくれませんか?」
突然の申し出に男は「ふむ」と唸った。
「何か考えがあるようだな? 初対面の若造と死ぬつもりはないぞ」
「俺は若造じゃなくてシェントだよ、おっさん?」
シェントは苦笑した。まさか「おっさん」と呼ばれたことを根に持つとは。
「自分も、おっさんではなくダシュティという。まだ三十一だ、おっさんと呼ばれるような歳ではないと思うが……」
「……誤解されやすいんですね」
三十代前半には見えない、とは流石に口に出せなかった。老けているというより、長く戦いに身を置いてきた戦士のように思えたのだ。
「シェントと言ったな。組むのは構わんが、自分は何をすればいいんだ」
「まずは……時計、持ってますか?」
「そんなもの、ただの傭兵が持ってるわけなかろう」
「だったら、これ貸しておきます」
シェントは左腿のポーチから懐中時計を取り出し、ダシュティに手渡した。
「なんなら報酬ってことにしてください」
ダシュティは時計の蓋を開け、訝しげに目を細めた。
「盗品じゃなかろうな?」
彼がそう尋ねるのももっともである。やたらと凝った装飾のそれは、今のシェントに買えるような代物ではない。
シェントはにこりと笑って「さあ?」と首を傾げた。ダシュティもそれ以上聞いてこなかった。
「協力はするが、時計はあとで返そう」
「じゃあ、三分になったら……いや、三分遅れてるから十一時でいいのか。その時計で十一時になったら、コルスを連れてきてほしいんです。一度コルスの標的になってしまえば、あいつらは群れて来ます」
「『連れてきてほしい』と言っても、いったいどこに」
「あれっ、言ってなかったか」
シェントは自嘲気味に口の端を吊り上げ、言った。
「“門”だよ」




