第五章 汝、世界を疑うことなかれ(二)
宿泊客に部屋で待機するよう伝え回ったあと、カノンは離れにある自室へ向かった。住み込みで働く従業員のための借家、その一室でリエとカノンは生活を共にしている。
――騒ぎが収まるまで眠っていてくれたらいいのに。
カノンは祈るような気持ちで部屋に入ったが、
「あら、どうしたの?」
期待も虚しく、リエは制服姿のままベッドに腰かけていた。毛布が乱れているところを見るに、少しは横になっていたのだろう。
カノンは後ろ手で扉を閉め、リエの傍へ数歩近づいた。
「えへへ、リエが心配になったから――」
笑顔を取り繕っているはずが、目頭は急速に熱を持ち始める。いけない、と思うとよけいに鼻の奥がつんと痛む。
カノンは溢れてくる涙を抑えられなくなっていた。
「カノン……私はもう大丈夫だから、泣かなくていいのよ?」
「ご、ごめんなさい。違うの、ほんとは……」
「何かあったの……? ゆっくりでいいから、教えて?」
カノンは手の甲で涙を拭いながら頷いた。
――誰よりも熱心に祈りを捧げていたリエが、どうして裏切られるようなことになったのだろう。
「コルスがね、出たらしいの。いつもの、魔獣じゃなくて……だって、百匹はいるみたいなの。だから『魔物』じゃないかって、言ってる人もいて……」
「魔物? う、そ……だって、フェルツィー様……」
リエの声は掠れていた。
彼女は見えない何かに導かれるように、ふらりと立ち上がる。
「フェルツィー様は……?」
カノンは首を横に振り、俯いてぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「どうして……リエは、フェルツィー様を信じていたのに。なのに、どうしてこんな、裏切られるようなこと――」
「フェルツィー様は裏切ったりなんかしないわ!!」
悲鳴にも似た声で叫ぶリエ。
カノンが顔を上げると、リエは今にも飛びかかってきそうなほど睨みつけてきた。
「ひ……っ!?」
カノンはリエに初めて恐怖を覚えた。姉のように慕っていた彼女に怒鳴られたことなど、今の今までなかったのだ。
ここまで明確な敵意を――それ以上の殺意を、他人から向けられたことも。
(部屋を出なきゃ……)
本能に急かされるも、足はまるで縫い止められたかのように動かない。
リエの姿がふらりと揺れ、迫ってくる。
(殺される――!?)
顔を背けた一瞬の隙に、リエがカノンの横を駆け抜けた。
わずかに遅れて、木の板に何かが体当たりしする音。
「え……?」
カノンは愕然と振り返った。
リエの姿はそこになく、カノンの目に留まったのは半開きになった木の扉だった。
(まさか、そんな)
彼女の意図に気づくと同時に、カノンは先までの恐怖も忘れて部屋の奥隅に駆けた。そこにある自分の弓と矢筒を引っ掴むと、
「リエ、待って――!!」
礼拝堂へ向かったであろうリエを追って、外へ飛び出した。
♪ ♪ ♪
二人の距離はなかなか縮まらなかった。
意外にもコルスに遭遇することはなかった。ただ、道端に倒れ伏している人の姿をカノンは二、三度目にした。
カノンが遺体を前に怯んでいる間にも、リエは脇目も振らずに礼拝堂の方角へ駆けていく。
「ま、待って!」
今のリエには何を言っても無意味だろう。初めこそ無視されているのかと思ったが、どうやら本当に聞こえていないらしい。それでもカノンは大声を上げずにいられなかった。
叫びはカノン自身を奮い立たせるためでもあった。立ち止まってなどいられない。追わなければ、リエは離れていってしまう。今生の別れとなってしまわないよう、彼女を魔物から守らなければ――
そのとき、カノンを試すかのように一匹のコルスが飛び出してきた。
(魔物――!)
今まではコルスの一匹くらい簡単に退治できた。脱いだ靴で叩くだけでよかったのだ。だが、今は得体の知れない化け物が襲ってきたとしか考えられなかった。
とっさに矢筒から矢を引き抜くも、カノンはすぐに思い直す。
地面に向かって射られるはずがない。
「いやぁ――――!!」
魔物に立ち向かうなど、やはり無謀だったのだ。絶望がカノンを襲い、その身を地に引っ張った。
弓を抱えてしゃがみ込んだカノンの耳に、何かが爆ぜる音が聞こえた。
「あ、え……?」
「大丈夫ゥー?」
頭上高くから降ってきた声は、緊迫したこの場に似合わず呑気なものだった。
「こっちだヨ」
見回すと、すぐ近くの家屋の屋根に青年が腰を浮かせて座っていた。
大丈夫かと声をかけてくれたが、どこか軽薄そうな雰囲気の漂う青年だ。細められた目と、緩やかな孤を描く唇。そして聞きなれない喋り方――独特な抑揚がそう感じさせるのかもしれない。
「コルスは……」
カノンは地面に視線を戻した。魔物の姿はなく、敷き詰められた砂利の一部が散って土が露わになっている。
「ンー、消えちゃったみたい?」
青年は釣り針のようなものを指に摘まみ、針から垂れる鋼糸をもう一方の手で握っていた。
「つ、釣れなかったみたいですね」
とっさに口をついて出た言葉に呆れ、カノンは頭を振る。
「……キミ、面白いネェ? マ、威嚇のつもりだったんだケド。やっぱり脆いのカナ」
「脆い……?」
魔物が脆いとは初耳だ。そもそも、「やっぱり」ということは、彼は魔物に遭遇したことがあるのだろうか。
「この針には火薬が入った袋を引っ掛けていたんだケド――アァ、火薬といってもほんのチョットだヨ。そんな軽い衝撃で消えちゃうなんて、ネェ?」
要するに、簡単には死なないような攻撃で消えてしまうのだから、「魔物は脆い」ということらしい。「脆すぎるから生き物ではない」とも言えるかもしれない。
「ところで、キミはドコに向かってるのカナ? 危ないカラ帰ったほうが――」
「危ないところをありがとうございました!」
カノンはさっと頭を下げて礼を述べた。自分を助けてくれたというのに、飄々としたこの青年にわずかな不信感を覚えた。そんな自分を嫌悪しつつも、早くこの場から逃げ出したいと思ってしまったのだ。
カノンは青年の忠告にも耳を貸さず、姿の見えなくなったリエを追って走り出した。
彼は屋根から降りると、二、三件隣の家の前へ歩いていった。
「あの娘を口説いていたのかしら?」
そこに立っていた蒼い髪の女が、カノンの走っていったほうを見ながら彼に――トルクに問いかける。
「なァにユンユン、妬いてるノ?」
「冗談よ。妬くわけないじゃない」
素直になれないが故に感情と言動が裏腹になる、いわゆるツンデレ――ではなく、本当に彼女は嫉妬の感情など微塵も抱いていないようだった。この真顔で冗談も言うのだから質が悪い。もちろん彼女に悪気はないのだが。
「それで? やっぱり魔物だったみたいね?」
「自作自演のおかげで魔族が動き出した、ってとこカナ?」
トルクの唇は愉しそうに弧を描いた。




