第四章 新たな出会い 近づく別れ(五)
魔界大戦時、突如としてカントリアに降り立ったフェルツィー神は、二日も経たないうちにカントリアと周辺の魔族を消し去った。
終戦後、平和な日常を取り戻したカントリアの民は、神に祈りを捧げるための礼拝堂を造った。いつまたフェルツィー様が降臨してもいいようにと、“門”と称した塔も建設した。
カントリアはその礼拝堂と“門”以外、これといった観光名所もない田舎町である。町にしては珍しく、市壁に匹敵する煉瓦造りの壁に取り囲まれてはいるのだが。
滞在時間のほとんどを宿で過ごすことになるのなら、少々高くとも良い宿に泊まりたい。カノンが働いている宿は、巡礼者よりもそのような観光客を相手にしていた。
三階建てで、一階には玄関とそれに続く広間、食堂があり、二階から上が客室となっている。カントリアでは比較的大きな宿であり、従業員も多い。
そして今日、カノンは休みにもかかわらず仕事場に来ていた。
(買い物って言ってたから、すぐに帰ってくるよね)
明日でここを発つ彼らと、もう少しだけ話せないだろうか。そんな淡い期待を抱きながらカノンは宿屋に赴いたのだった。
二人は買い物へ行ってしまったが、仲間の一人が風邪で寝込んでいる以上、帰ってきて再び出かけることはないだろう。
私服姿とはいえ客人用のソファーに座るわけにもいかず、カノンは広間の隅に立って彼らの帰りを待っていた。広間ではほかに数人の客が立ったまま談笑したり、ソファーで微睡んだりしていた。
人のいないカウンターには矢印が描かれた札が吊り下げられ、矢印の先に呼出光石が置かれている。
カノンが広間をぼんやり見渡していると、隣接する食堂のほうで食器か何かが割れる音がした。
(朝食の時間は終わったし、片づけだって済んでるはずなのに……)
カノンは食堂を覗き込み、そして小さく悲鳴を上げた。
「リエ!?」
しゃがみこんだリエの周りに、花瓶の破片と花が散乱していたのだ。
幸い、今は朝食と昼食の相中の時間であり、食堂に客はいない。
「リエ、どうしたの?」
カノンは血相を変えてリエの傍に駆け寄った。
「大丈夫、ちょっと立ちくらみがしただけ」
「立ちくらみって……最近忙しいせい?」
「ただの寝不足よ。ここ数日、いつもよりちょっと早く起きてるせいかしら。だから心配しないで」
よほど気分が悪いのか、リエは顔を伏せたまま答えた。
もしかして、とカノンが遠慮がちに問いかける。
「朝早くから礼拝堂に行ってるの?」
「そうでもしないと、すぐに混んでしまうじゃない?」
「……みんな、今になってフェルツィー様にお祈りなんかして。だからリエが――」
「カノン」
顔を上げたリエが何か言おうと口を開く。表情が険しいのは体調のせいだけではないだろう。カノンはリエの言葉を遮るように立ち上がった。
「ここは私が片づけるわ! リエはちょっと休んでて」
「でも……」
「いいからいいから!」
「……それじゃあ、ごめんなさいね」
リエは少し考えるように俯いていたが、腰を上げるとテーブルに手を付きながら厨房へ向かっていった。厨房の勝手口から出たほうが、リエやカノンの住まう借家に近いのだ。
リエが食堂を出たのを見届けると、カノンは自分を鼓舞するように両手を叩いた。
「さ、早く片づけよ!」
箒は勝手口の外にある。せめてそこまではリエに付き添ってあげればよかった、と後悔するカノンだった。
「なんだお前、コルスが怖いのか?」
そのとき、広間のほうからどっと笑い声が上がった。
(コルスでも出たのかしら?)
カノンは割れた花瓶もそのままに小走りで広間へ向かう。
「あ、シェント……」
広間にはシェントの姿があった。ただ、買い物に行っていたというのに荷物がない。彼の後ろにはアレグロが隠れるようにして立っている。
シェントはカノンに気づくと、アレグロの手を引いて近寄ってきた。
「この宿を仕切っている人は? そこの光石で呼び出せばいいのか」
「な、何かあったの?」
シェントの鬼気迫る表情に、カノンは反対に聞き返してしまう。すると広間にいる一人が肩を竦めて答えた。
「外にコルスが出たんだとよ」
「コルス、ですか?」
孤児院にいたときも、そしてこの宿屋で働くようになってからも、カノンは幾度となくコルスを目にしてきた。たしかにあの素早い動きには驚かされるが、ことさら騒ぎ立てる必要もない魔獣だ。それとも、彼らの地域ではあまり見ないのだろうか。
(コルスは汚いところに出るんだって言って、ばかにしてきたお客さんもいたけれど……)
カントリアのことを悪く言われたようで、カノンは知らず知らずのうちに顔をしかめた。
「カノン、落ち着いて聞いてほしい」
「落ち着いてるわ。コルス一匹くらいじゃ騒がないもの、私は」
「……ざっと見た限り、百匹はいたと思う」
「ひゃ、百匹?」
カノンは思わず「嘘でしょ?」と返した。
しかしシェントの顔は真剣そのものだ。思えば、最初から彼は緊迫した様子だった。
「もともとは一匹だったんだけど、それが露店くらいの大きさになって――こんなこと言っても信じてもらえないだろうけど。でも、今ここを襲っているコルスは、間違いなく魔物だ」
「魔物って――!!」
広間はにわかにざわつき始める。
「おいおい、それを早く言えよ!?」
「『魔物』だとはさっき言ったじゃないか……」
ため息交じりに呟いたシェントを、カノンはスカートの裾を握りしめながら見上げた。
「じゃ、じゃあ……魔族が? 魔族が、魔物を使ってここを――」
「違う!!」
絹を裂くような声が広間に響く。
カノンと向き合っていたシェントが、ぎこちなく後ろを振り返った。カノンは彼の視線を追って初めて、叫び声が誰のものだったのかを知った。
「違う……! ちが、う……魔族、なんかじゃ……」
駄々をこねる子供のように頭を振っていたアレグロが、ふいにその場に崩れ落ちた。
「アレグロさん!?」
「とにかく!!」
とっさに駆け寄ろうとしたカノンは、シェントの怒鳴るような声に身を竦めた。
「とにかく、えっと……全員部屋に戻っててほしいんだけど……。
カノン、宿屋は君に任せた。俺はアレグロを休ませてくる」
シェントはカノンに背を向けて――気を失ったアレグロの前にしゃがみこんで、そう告げた。
「ちょっと待ちたまえ。さっき『違う』と言ったな? 魔族ではないと、どうして断言できる!?」
「だいたい、フェルツィー様がいるってのに、そう簡単に魔物が出るわけが――」
「ちょ、ちょっと! みなさん、落ち着いてください! 落ち着いてぇ!!」
またも騒ぎ始めた客人たちを落ち着かせようと、カノンは必死に声を絞り出す。しかし人々の混乱はまるで収まる気配がない。
階段の前で足を止めたシェントが、広間を振り返ることなく言葉を紡ぎ始めた。
「彼女も、考えたくないんだと思います。フェルツィー様のご加護があるはずなのに、また魔族が攻めてきたなんて」
落ち着いたその声はよく通り、騒いでいた人々も一斉に口を噤んだ。
「俺も、さっき自分が見た光景がいまだに信じられないんです。彼女を連れて逃げるのに精いっぱいで、助けを求められても、聞こえないふりをした――怖かった」
終いには絞り出すような声になり、頭を垂れるシェント。
「そ、そうか。君は魔物を見てきたんだよな。悪かった、責めるようなことを言って」
「お嬢ちゃんも、ショックだったんだよな」
二人を気遣う言葉に背中を押され、カノンは階段を数段駆け上がった。
「あのね、シェント」
――フェルツィー様がいるから大丈夫よ。
シェントの前に回り込んだカノンは、しかし彼の目を見て息を呑んだ。
「どうかした?」
立ち尽くすカノンにシェントが優しく問いかける。
一見すると穏やかな表情だが、その眼差しはぞっとするほど冷たい。
「え、えっとね……」
かけるべき言葉を失い、カノンは目を泳がせた。彼は魔物に怯えてなどいない。混乱していたとはいえ好き勝手なことを叫ぶ人々に、ただ呆れているだけだ。
「ここは私に任せて、早くアレグロさんを休ませてあげて」
だったらどうして呼び止めたのか、とカノンは心の中で自分を責める。
「うん、ありがとう。――短い間だったけど」
「え……?」
たしかに出発は明日と聞いているが――別れの挨拶にはまだ早い気がして、カノンは階段を上がっていくシェントの背中を呆然と見送った。




