第四章 新たな出会い 近づく別れ(三)
一行はやがて小さな丘の麓に到着した。高さはなく、頂まで駆け上がるのに十秒もかからないだろう。
ここに辿り着く前から見えていた白い塔は、丘を越えた先にあるようだった。シェントは塔を指してカノンに問うた。
「あれが礼拝堂?」
「ううん、あそこは“門”なの。神界からいらっしゃるフェルツィー様のための」
「じゃあ……礼拝堂はどこに?」
シェントの問いにカノンはにこりと笑う。
「ここよ」
「“ここ”って――」
辺りを見渡してみても、礼拝堂らしい建物はおろか小屋一つ見当たらない。
再び丘に視線を戻すと、麓の斜面に石板がはめ込まれていることに気がついた。縦の長さは地面からシェントの腰あたりまで。横幅もそれと同じくらいの、正方形の石である。
シェントより先に麓まで歩いていったアレグロが、石板の表面を一撫でして言った。
「これも文字なのか?」
「ん、何か書かれてた?」
アレグロの隣にしゃがみこみ、シェントは改めて石板に目をやった。研磨された石だと思っていたが、何やら金属のようでもあった。
「これは――ちょっと読めない、かな」
表面に刻まれていたのは古代文字だった。かつては地域や時代によって言語が異なっており、使われていた文字も現在のものとは違っていたらしい。
「古代文字ですか? だったら……『有事の際にはここに避難せよ』ですね」
石板の近くまで来たアクアレルがさらりと読み上げる。
カノンは三人の後ろで驚きの声を上げた。
「すごい、読めるの?」
「え、ええ。以前、学んだことがあ――」
「昔、来たことがあるんだろ?」
アクアレルの返答を遮ってシェントが聞く。
「え? はい、幼い頃に一度だけですが」
「だからわかったのね。でも、昔のことなのに覚えてるなんて」
感心したように頷くカノン。
「あの、覚えていたわけではなくて――」
「で……『ここ』ってどこだ?」
シェントは立ち上がり、古代文字の刻まれた金属板から離れた。
かつては周辺に建物でもあったのだろうか。多くの人間の身を守れるような、当時としては頑丈な建築物が。それが長い年月を経て崩れ去ってしまったのかもしれない。
カノンはシェントの問いには答えず、
「この文字、他のに比べて深く掘られてるでしょ?」
右端の中央に刻まれた一文字、その窪みに手をかける。
そして。
「えいっ」
という軽い気合いの声と共に、金属板を左に滑らせた。
「…………扉だったのか」
唖然とするシェントにカノンが微笑みかける。
「頭の上、気をつけてくださいね」
カノンは腰を屈め、両手をつきながら中へ進んでいった。
目を瞬かせていたアレグロも、すぐにその後に続く。
「アル――アクアレル、ちょっとこっちに」
二人についていこうとするアクアレルを呼び止め、シェントは囁いた。
「古代文字が読めることは隠しておいたほうがいいぞ」
「どうしてですか?」
「今は使われていない文字なんか、生活に余裕がある貴族くらいしか読めないだろ。下手したら身分がバレる」
「そ、そうですよね。ご忠告ありがとうございます」
シェントは小さく頷くと、アクアレルに続いて礼拝堂に入った。
先に入って中を見回していたアレグロが呟いた。
「思ったより広いのだな」
「たしかに。丘を掘ったのかなと思ってたけど――この建物の上に草が生えて、丘みたいになったのかな」
シェントは天井付近を見上げた。
その外観から想像していた通り、窓らしきものは一つもない。室内の光源はぽつりぽつりと置かれた燭台の上の光石だ。燭台に装飾はなく、半球状の屋根を支える太い柱にも彩色や彫刻は施されていない。
室内にあるのは燭台と、正面の壁に掛けられた大きな綴織だけ。織られているのは当然ながらフェルツィー神の肖像である。
礼拝堂を訪れている人の数も十人前後と少なく、全体的にがらんとした印象をシェントは受けた。とはいえ、人の少なさに関してはカノンの言っていた通りである。シェントが理由を問うと、待っていましたと言わんばかりにカノンはフェルツィー神の言い伝えを諳んじ始めた。
「フェルツィー様は、魔族を倒すのに一日もかからなかったと言われています。太陽が一番高く昇ったとき、つまり正午にこの世界に降り立って、翌朝十時に神界へ戻られたそうです。
そんな言い伝えがあるから、朝の十時から十二時の間にお祈りをする人は少ないんです」
案内人らしいことができて嬉しいのか、カノンが誇らしげに胸を張る。
シェントは音を立てないように拍手し、アルトも慌てて手を叩く素振りをした。アレグロはなにやら難しい顔で平面のフェルツィー神を見つめていた。
「あの塔みたいな“門”もね、朝の十時と十二時に、それぞれ一時間だけ扉を開くの。
よかったらあとで見に行かない? もうすぐ十二時になると思うし。ただ、中には入れないんだけどね」
その時間が来るまで、四人は礼拝堂内で別行動することにした。といっても礼拝堂はお互いを目視できるような狭さだ。
人も少ないおかげで、シェントはフェルツィー神の描かれた綴織を近くで見ることができた。
神の姿は腕が四本あること以外、人間と大差なかった。身の丈ほどもある長大な弓を左の二本の腕で支え、右の二本の手で矢をつがえている。
「フェルツィー様が矢を一本放ったら、十本にも二十本にもなって降り注ぐんだって」
シェントの隣に立ち、そう説明するカノン。
「私もね、フェルツィー様に憧れて……というのかな、弓矢をやってるの。何かあったときのために」
「何かって?」
「私、捨て子だから――守ってくれる人がいないから、自分の身は自分で守らないと。
でも、ここにはフェルツィー様がいるから、本当は弓矢なんて必要ないのかな」
シェントの脳裏に、ふとフェルツィー神の御言葉が過る。
“汝、世界を疑うことなかれ”
「――どうして疑ったらいけないんだろう」
それは独り言のつもりだったが、
「今、なんて……?」
カノンがシェントのほうをゆっくりと向き直る。
しまった、と後ずさるシェント。
深い意味はなかった。「するな」と禁じられると余計にしたくなる、それが人間の性であろう。
ただ、時と場所が悪かった。フェルツィー神を祀るこの場所で、疑うなという御言葉を疑うなど、神への冒涜でしかない。
「いや、えっと、その」
「――私もね、不思議に思ってたの」
カノンは安堵したように呟くと、目を伏せてぽつりぽつりと続けた。
「というより……皆はフェルツィー様のこと、本当に信じてるのかなあ」
「え?」
今度はシェントが聞き返す番だった。
「だって皆、こんな時だけ来ちゃって。都合のいいときだけ、信じて――」
「あー……そうだな」
気まずそうに相槌を打つシェント。自分も“こんな時だけ来た”一人――しかもただの付き添い――なのだが、カノンはそのことに思い至らなかったようだ。
「それとも、今も信じてるふりをしてるだけで――すがってるだけで。心のどこかで御言葉に疑問を持ってる人だって、いるのかもしれない。
でも、誰もそのことを言えないでいるの。それが、ちょっと怖いな」
「……」
――何を考えているかわからない。神も、人々も。
シェントは黙って、目の前にいる平面な神様をじっと見据えた。
♪ ♪ ♪
二十歳にも満たないその少女の身体は、年齢に似合わぬほどの成熟ぶりであった。
その陶磁のような白い肌を包む、艶やかな純白のドレス。派手な意匠ではないが胸元は大きく開かれ、胸の深い谷間が露わになっている。さらに左足首から腿にかけて切り込みが入っており、しなやかに伸びる脚が惜しみなくさらけ出されている。
娼婦さながらの恰好であるが、ここは娼館ではない。カデンツァ王国の中心、丘の上にそびえ立つ宮殿の一室である。
さらに言えば、この少女の名はフィーネ・カデンツァ――カデンツァの君主であった。
ソファーに沈み、足を前に投げ出していたフィーネは、肩まで伸びた銀髪をさらりと払った。
「まったく、私たちも嫌われたものよねぇ」
「私たち……? この国? それとも――魔族?」
フィーネの言葉にかくりと首を傾げるのは、薄紫という珍しい髪を肩まで垂らした少女である。
背丈から判断するに十歳前後であろうか。袖のない真っ白なワンピースを着た少女は、何をするでもなくフィーネの前にぼうっと突っ立っていた。その肌はフィーネ以上に白く、むしろ透明に近い。向こう側の景色が透けて見えそうなほどである。
「どっちもよ」
フィーネは足先に引っ掛けていた赤いハイヒールを脱ぎ捨て、すくと立ち上がった。
「あの国が何を考えているか知らないけれど、何も考えずに攻めてくればいいじゃなぁい。神が守ってくれているのでしょう? 大戦のときからずっとぉ」
「神、いなかった」
紫髪の少女が間髪入れずに否定した。まだ十年も生きていないように見える少女だが、まるで二千年前の大戦に居合わせていて、すべてを知っているかのようであった。
「ええ、それはもう聞いたわ。けれども彼らはそれをわかっていないのよぉ。
だから教えてあげましょう? ――神はいないということを」
フィーネはうら若き少女のように、無邪気に笑った。




