第一章 五年に一度の祭り(一)
「なんだあいつぁー、迷子かー?」
観戦席の一角から下卑た声が上がり、周囲は笑いの渦に包まれた。
彼らの視線の集まるところ。闘技場の中心では、優勝候補の一人と謳われる巨体の兵士が、半ば呆けたように突っ立っている。
その向かいに佇むのは――この場には似つかわしくない、小柄な少女であった。緋色の髪が風に靡く様は、まるで炎が燃え盛っているようである。
観戦席の後方で立ち見していたシェントは、兵士の姿を認めると、
「ううん……相手が彼女だってわかってたら賭けてたのに」
頭を掻きながら一人ぼやいた。
♪ ♪ ♪
話は数時間前に遡る。
昨日王都に入ったばかりのシェントは、闘技場に最も近い酒場〈ヴァンとソー〉に来ていた。
初代店主と彼の愛猫の名を冠しているここは、市民にとって馴染みの場所であるらしい。仕事を終えたあと、夕陽に照らされながら酒を飲んで談笑する――そのために働いているようなものだ、と相席の男は笑って語った。
しかし今はまだ昼前だというのに、広い店内はほぼ満席だった。さらには商人や旅人、魔獣狩人らしき姿も目につく。
国内各地からモノが集まってくる反面、これといった特産物も観光名所もないルーエでは珍しい光景のようで、
「こういうときしか盛り上がらんからなあ、リベラと違って。五年に一度の祭りのときしか」
相席の男は顎髭を撫でながらそう言った。
特にめぼしいものもないルーエの、国外にまで知られる唯一の催事。「五年に一度の祭り」とまで言われるそれは、ダル地方一の規模を誇る「武闘大会」である。
およそ一か月にわたって開催され、グラツィオーソ王国軍の兵士を筆頭に、傭兵や魔獣狩人などの猛者が各地から集まってくる。
「で、お前さんは参加するのかぁ?」
ビールを飲み干した顎鬚に尋ねられ、シェントは首を横に振った。
「『科術使い』なんて、科術があってもなくても中途半端ですから」
「ほー、まさかの『科術使い』か! ま、そもそも剣士じゃなけりゃ厳しいか、この大会は」
顎髭の男はシェントの後方、壁に立てかけてある長物を――藍色の布に包まれたシェントの得物を顎で指した。
武闘大会の趣旨は「己が剣の腕で戦うこと」である。武器は模擬剣に統一され、必然的に科術も使用できなくなる。科術士や科術使いだけでなく、剣以外を得物としている者には不利な条件であり、大会の出場者は自然と限られてしまう。
顎鬚の隣で狭苦しそうに座る眼鏡の男が、「そういえば」と口を開いた。
「今日の第二試合がファッジの初戦でしたかな」
「おお、そうだった! どうだ、兄ちゃん。賭けてみないかい」
顎鬚が身を乗り出してニヤリと笑う。
武闘大会に関する賭け事は禁止されているはずだが、闘技場に近い酒場で賭けが持ち出されるくらいだ。おそらく黙認されているのだろう。
「誰なんです? その、ファッジっていうのは」
「おいおい、まさか知らないのか? 王国軍の兵士で、優勝候補の一人だぞ?」
顎鬚は大げさに肩を竦めたが、親切にもファッジという名の彼について語り出した。賭けるつもりなど端からなく、一種の冗談だったのかもしれない。ファッジとはそれほどまでに有名な男なのだろう。
「ま、前回の大会では準決勝で敗れちまったがな。あんときゃ相手が悪かったんだよ、相手が。なにせ、あの〈アコルト〉の――」
「〈アコルト〉……」
その名はさすがのシェントでも聞き及んでいた。
同業者からも一目置かれる魔獣退治集団、〈アコルト〉。
チェルティーノ大陸中を気ままに渡り歩いている彼らは、資金調達の一手段として魔獣を退治しているに過ぎない。そのためか、彼らに魔獣退治を頼むと高くつくとの噂だった。
しかし腕は確かなものらしく、他の魔獣退治屋がどんなに金を積まれても断るような仕事でも、二つ返事で引き受けていたという。
「ここ最近はあまり聞かねえなあ、〈アコルト〉のこと。解散したのか、はたまた魔獣にやられちまったのか」
「……」
相槌も打たず無言で聞いていたシェントは、ことさらに大きな声で次の質問を投げかける。
「それじゃ、今回の初戦の相手は? その、ファッジてやつの」
「さあ、今までに聞いたことないやつだったな。名前は忘れちまった!」
酔いが回ってきているのか、顎髭は豪快に笑った。
(これじゃあ賭けにならない、か)
相変わらず貧乏なままのシェントは不服そうに彼を見た。
付近の森で魔獣を狩り、解体していくつかの部位を持ち帰ったが、期待していたほどの値にはならなかったのだ。
(まあ、昨日のあれは俺が倒したんじゃないけど)
シェントはそっと喉に触れた。刀を突きつけてきた少女のことがぼんやりと思い起こされる。彼女を魔獣から助けようとしたにもかかわらず、追い剥きか何かと勘違いされ、あげく殺られそうになったのだ。
誤解が解けても少女の警戒心までは解けず、彼女はシェントの前から早々に立ち去っていった。真に敵と認識していたのであれば、背中を見せることもなかったと思うが。
(夢じゃ、なかったよな……?)
少女の背で揺れていた、鮮やかな緋色の髪。蛍苔の青白い光に包まれたあの場では、水中で煌々と燃える炎のように見えた。
無論、たとえ科術の〈炎〉であっても水中で燃えることはできない。威力が弱ければ当然鎮火し、強ければ水を蒸発させてしまう。
現実にはあり得ないからこそ、あの光景が幻想的に感じられたのだ。彼女との出会いも含め、すべて白昼夢だったのではないかと疑念を抱くほどに。
――だから緋色の髪の少女が酒場に入ってきても、シェントはすぐに反応できなかった。
自分は夢の続きを見ているのではないか、と。
「あっ!?」
目を凝らしてみてそれが幻ではないとわかると、シェントは勢いよく立ちあがった。何事かと驚く男たちには目もくれず、テーブルに手を付いて身を乗り出す。
(間違いない、昨日の……!)
シェントは慌てて藍色の包みを抱え、
「じゃ、俺はこれで!」
ちょいと片手を上げると、さっさとテーブルを後にした。
残された二人は唖然とした表情でその背中を見送り――ややあって、眼鏡の男が少年の飲んでいたグラスに目を落とした。
「……勘定」
「なあに、それくらい奢ってやるさ」
顎髭の男はどこか満足そうに笑い、通りかかった給仕に四杯目の酒を注文した。