第四章 新たな出会い 近づく別れ(一)
荷物をまとめるリエの姿を、カノンは二段ベッドの上段からぼんやりと見下ろしていた。
孤児院で共同生活を送っているため私物は少ない。リエの荷造りが終わるのを見計い、カノンはベッドから降りた。
「リエお姉ちゃん、あのね……ずっと聞きたかったことがあるの」
「あら、何かしら?」
「フェルツィー様は、『汝、世界を疑うことなかれ』と仰るけれど、どうして世界を疑ってはだめなの?」
十年近く孤児院で生活してきたカノンだが、このような疑問を口にしたのは初めてだった。
カントリアで、ましてやフェルツィー教会が運営している孤児院において、守護神フェルツィーは“絶対”である。それがわかっていたからこそ今まで誰にも聞けずにいたのだ。
ただ、リエなら怒らないだろうという確信がカノンにはあった。リエは子どもたちに注意こそすれ、頭ごなしに叱ることはなかった。それに、彼女になら「変わった子」と呆れられても構わない。ここで共に過ごすのも今日までなのだから。
孤児院には十五歳までしかいられない決まりである。
明後日で十六歳になるリエも、明日のうちに孤児院を出ていくことになっていた。
リエならば孤児院を出て就職したところで、すぐに嫁ぎ先が見つかるだろう。
金を延べたかのような髪と、澄んだ青空を連想させる瞳を持つリエは、同性のカノンから見ても魅力的な娘だったのだ。
一方、カノンの髪は癖が強く、さらには老婆のように白い。瞳も、雨が降り出す前の曇天と同じ色をしている。十歳になるカノンの目下の悩みは、自身の外見についてだった。
フェルツィー神を疑ってかかるようなカノンの物言いに、リエはしばし目を丸くさせていたが、やがて静かに口を開いた。
「この世界はフェルツィー様が守ってくださっているわ。だから今ある平和を疑わなくてもいい、ということよ。世界はこれからも平和であり続けるのだから」
リエは澄んだ声でそう説くと、カノンの手を優しく包み込んできた。
「それに……互いが互いを信じれば、争いなんて起こらないのよ」
でも、とカノンは小さく口を尖らせる。
「カノン、聞いているの?」
『疑わないこと』は『信じること』と同義かもしれないが――カノンには、神様が何か隠し事をしているように思えてならなかったのだ。
「カノン? ちょっと、カノン」
――自分を呼ぶ声が、やけに遠く感じられる。
リエの不安げなその声で、カノンの意識は現実に引き戻された。
「はっ、はい!?」
「ぼーっとして。大丈夫? 疲れているんじゃ……」
「いえ、平気です!」
「そう? だったら、あのテーブル片づけてきてくれるかしら」
と、給仕の恰好をしたリエが遠くのテーブルを指した。
リエが孤児院を離れてから六年が経ち、カノンも十六になった。
まさかリエと同じ場所で働くことになるなど、カノンは思ってもいなかった。
場所はカントリアの片隅。主に巡礼者を相手にしている宿屋である。
グラツィオーソ王室がフェルツィー教を信仰しているとはいえ、国教に定めているわけではない。巡礼地であるカントリアを訪れる教徒も、年に数十人しかいないのが実情だ。
しかしここ数日の来訪者の多さは、今までとは比べものにならなかった。王都が魔物に襲われたと聞いたからだろう。人々が再びフェルツィー神に祈りを捧げ始めたのだ。
巡礼の季節ですら空きが目立つここも昨日ついに満室となり、朝食を提供している食堂にも客がひっきりなしに出入りするようになった。
その忙しさは眩暈を覚えるほどで、空になった食器を運んでいたカノンは、客の一人にぶつかってしまった。
「きゃっ!?」
反動でトレーから滑り落ちた食器が、派手な音を立てて割れる。
「すみません!」
カノンは客の顔も見ずにただただ頭を下げた。
「いや、俺のほうこそ。怪我はない?」
「え……」
予想だにしなかった言葉にカノンは頓狂な声を洩らした。恐る恐る顔を上げると――ぶつかった相手は整った顔立ちの少年だった。
「――っ」
カノンは彼の髪色に思わず息を呑んだ。
その銀色は孤児院の礼拝室にあった燭台を思い起こさせた。銀でできていたそれは、毎朝磨かれていたために一点の曇りもなく、いつも沈静な光を携えていた。
男の人なのにずるい、とカノンは彼の髪の美しさを羨ましく思った。
「どうかした?」
少年が金色の双眸を柔らかく細め、首を傾げる。
彼に見惚れていたのだと気づいたカノンは、
「なんでもないです!」
とっさにしゃがみ込み、慌てて破片に手を伸ばした。
「あ、待って」
少年のやや険しい声が頭上から降ってくる。
彼は腰を落とすと、カノンの腕を軽く握った。
「素手で拾うと危ないよ。箒ない?」
「は、はい!? 持ってきます!」
カノンは勢いよく立ち上がり、逃げるようにその場をあとにした。
自然と火照ってきた顔を片手で小さく扇ぎながら。




