第三章 響き始める不協和音(五)
隣室の扉を遠慮がちに叩いたシェントは、出てきたアレグロに行き先の変更を手短に告げた。
「――カントリア、か」
「時間も時間だし、詳しいことは明日の朝に話すよ。遅くに悪かった」
おやすみ、と挨拶して振った手を、シェントは何の気なしにポケットに突っ込んだ。
その指先に薄い金属の板が触れた。
(――しまった)
シェントの背中を冷たい汗が伝う。今の今までアンクレットのことをすっかり忘れていたのだ。
シェントは取り出したそれを掌に乗せ、恐る恐るアレグロに差し出した。
「あのさ、これ。もしかしてアレグロのじゃ――」
最後まで言い終わらないうちに忽然と消えるアンクレット。と同時に、凄まじい力で胸ぐらを掴まれたシェントは、
「――っ!?」
瞬き一つする間にアレグロの部屋に引きずりこまれた。
「ア……アレグロってばだいたーん……」
「どうしてお前がこれを」
アンクレットを守るように身を屈め、突き刺すような視線を送るアレグロ。
返答次第では飛びかかってくるのではないか。気迫に押され、シェントは一歩後ずさった。
「偶然拾っただけだからな!? 拾ったのは昨日だけど! ごめん!!」
「……そう」
アレグロは視線を足下に落とし、それきり黙り込んだ。アンクレットをつけ直す素振りもない。
シェントは本題に入ろうと、アレグロの小さな握りこぶし――その中のアンクレットを指した。
「あのさ、それ見て思ったんだけど……アレグロって、もしかして〈アコルト〉にでもいた?」
アレグロの肩が小さく跳ね上がった。
まるで悪戯がバレた子どものように。
「……た、ぶん」
一拍置いて歯切れの悪い答えが返る。
「たぶん、って――」
「私、半年前までの記憶がないの」
「……え?」
シェントの口から呆けた声が洩れた。
「記憶が、ない……?」
「いわゆる記憶喪失というやつだ」
吐き捨てるように言って顔を上げたアレグロは、どこか挑むような目をしていた。
「信じてもらえないだろうと思って、話さなかったのだがな。聞かれなかったからというのもあるが……そうそうあるとも思えないだろう? 記憶喪失なんて」
珍しく一気に語ったアレグロは、徐にしゃがみ込んでアンクレットをつけ始めた。
シェントは突っ立ったまま譫言のように呟く。
「それは、何か原因が――あったとしても覚えちゃいないのか」
「覚えていない。名前も生まれも、全部。
この刻印が〈アコルト〉のものだと知ったのも最近だから。これを付けていたということは、私は〈アコルト〉の一員だったのだと思う。
――この間、アルトが旅の目的を聞いてきただろう?」
「つまりアレグロは、〈アコルト〉を探すために旅を?」
アンクレットをつけ終えたアレグロはすっと立ち上がり、どこか一点を見つめながら頷いた。
「どうして……なんで言ってくれなかったんだよ」
「お前たちに伝えたところでどうにかなる問題でもないだろう? 記憶喪失なんて」
「まあ、確かにそうだろうけど……」
アレグロの言い分は至極もっともだ。
彼女が記憶喪失だと知れたところで、医者でもないシェントがしてやれることなど何もない。そもそも医学的にどうにかなる問題なのだろうか。
それでも、彼女が今まで隠していたということに、シェントは苛立ちを覚えてしまった。
「少しは頼ってくれてもいいじゃないか」
所詮は雇い主が同じだから共に旅しているだけ。そのことを改めて思い知らされて、シェントの口調は知らず知らずきついものになっていた。
「頼る?」
「そりゃあ、記憶を取り戻してやることはできないかもしれない。だけどな――」
記憶を失った原因すら覚えていないようだが――思い出すたびに辛くなる記憶を、最初から“なかったこと”にした可能性もある。その場合、無理に思い出さないほうが彼女のためではないか。
だとすれば、今一番の問題は。
「アレグロはこの半年間、ずっと独りだったってことだろ?」
自分が何者なのかもわからないまま、誰に頼ることもなく、旅を続けてきた。
その心の内を想像するだけで。
「……んなこと、耐えられねえよ」
「特に何とも思っていなかったが」
「俺が耐えられないんだよ!」
アレグロは目を見開き、しかしすぐに眉をひそめた。
「お前には関係な――」
「だから! アレグロがずっと独りだったんだと思うと!」
――まずい。つい感情的になりすぎた。
とっさにシェントは顔を背ける。
「そう思うと……なんつーか、えーと……」
どうして肝心なときに言葉が出てこないのか。
頭を掻きながらちらりとアレグロを盗み見ると、目が合ってしまった。
「わかった」
アレグロは神妙な面持ちで頷いた。
今の話では何も伝えられなかったと思うが、とりあえず彼女の気遣いに甘えるしかない。
「あ、いや。その、なんかごめんな」
「――私が〈アコルト〉にいたかもしれないことは、他人には言わないで。仕事が仕事だっただけに、同業者から恨みを買うことも多かったようだから」
「ああ、なるほどな。わかった。二人だけの秘密ってやつ?」
シェントは軽口を叩いてみせたが、
「話はこれで終わりか?」
アレグロに蔑んだ目で見られ、部屋を追い出されるに終わった。
「『そうそうあるとも思えない』か……」
廊下に出たシェントは扉にもたれかかり、力なく座り込んだ。
「俺もそう思ってたんだけど」
腿に巻きつけている革製のポーチに手を伸ばし、紫色の小さな布袋を取り出す。
金糸の細やかな刺繍が施された袋の中身。
それは、赤黒いものがこびり付いたペンダントだった。
「悪いな、渡せそうにないや」
シェントはペンダントを握りしめ、かつての持ち主に小声で詫びた。
♪ ♪ ♪
扉の向こうにシェントがいるとは知らずに――アレグロは扉に額をつけ、「ごめんなさい」と呟いた。
小さな嘘を重ねて矛盾が生じるくらいなら、大きな嘘を一つ吐けばいい。記憶喪失と偽ってしまえば、それ以上深く聞かれることもあるまい。
アレグロはそう考え、とっさに嘘をついたのだ。半年前の記憶がない、と。
嘘といっても、すべてが作り話というわけでもない。
事実、アレグロは自身の故郷や両親の顔を知らない。〈アコルト〉に拾われたときには自分の名前すらわからず、彼らに名を与えてもらったくらいである。今の「アレグロ」という名は“あの日”以降のものだ。
半年前の“あの日”の記憶には曖昧な部分も多い。何度も夢に見たため、実際のことと区別が付きづらくなっていた。
記憶喪失であると偽ったことを心苦しく思いつつも、どうせ別れるのだから――という思いがアレグロの頭をもたげる。アルトをカントリアに送れば、三人での旅も当然終わりを迎えるのだ。
アレグロはコートを脱ぎ、内側の棒手裏剣を一本一本取り出した。毎晩こうして点検しているのだが、時折喉を突き刺したくなる衝動に駆られる。
(生きないと、いけないのに)
“あの日”犠牲になった仲間の姿を思い出し、アレグロは震える手で棒手裏剣を放り投げた。
(皆、私のせいで死んだのだから――)
自分を庇って死んだ仲間のためにも、魔族を見つけ出す。それがアレグロの次なる目的だった。
かつての仲間に死ぬことを許されていない以上――生きる目的を無理にでも見つけておかなければ、とても正気を保っていられそうになかった。




