第二章 意外な依頼者(五)
「ん……」
ベッドの軋む音にアレグロは目を覚まし、声を洩らした。
仰向けになったまま天井へ手を伸ばすが、その輪郭はぼんやりとしか捉えられない。まだ朝を迎えていないのだと気づき、アレグロは手を引っ込めて身を硬くした。
暗闇は苦手だ。嫌でも“あの日”を思い出してしまう。
部屋が闇に侵食される前に寝るよう心がけていたのだが、昨夜は少し遅くなってしまった。今こうして目が覚めたのも、いつもと違う時間に寝たせいか。
(そうだ、光石)
アレグロは寝返りを打ち、ベッドの上端に置いていた石を手に取った。シェントの持っていた光石より透明度が低く、形も歪である。
科石には質があり、上質なものほど科術も強力になる。一方で質の悪いものは科術を発動できず、石は発光するだけにとどまる。そのような“科石のなりそこない”にも「光石」と名がつき、明かりとして活用されるようになった。
その明かりを灯すため、アレグロは横になったまま光石を口に寄せた。科術を発動させるには呪文の詠唱が必要だ。同様に、光石を光らせるための呪文も存在する。
「リュイザン、エラ」
科石とは異なり、光石を使うための呪文はすべての石で共通である。
光石に灯った柔らかな光は、しかし数秒も経たないうちに消えてしまった。
(やっぱり……あれから半年経ったんだから、仕方ないか)
嘆息し、アレグロはベッドの端に腰かけた。寝返りを打っただけで軋んだベッドは一層大きな音を立てた。
光石は数か月から半年で使えなくなってしまう。アレグロがこの光石を購入したのも半年前だった。
半年前の“あの日”から、アレグロは一人で旅をしてきた。
武闘大会の参加を決めたのも、半年間の懸念を払拭するためである。
〈アコルト〉の皆は生きているのか。
彼らは共に旅してきた仲間であり、家族だった。
離れ離れになってしまった“あの日”から半年、アレグロは誰一人の安否も把握していなかった。旅の再開は望めないにしても、せめて全員の無事は確認しておきたかった。
そこでアレグロは、チェルティーノ大陸一の大国で開かれる武闘大会に一縷の望みを託したのだった。
大会の事務所へと足を運んだときには、ルーエに来てすでに二週間が経っていた。期待を裏切られたらと思うとなかなか足が向かなかったのだ。
事務の男に、アレグロは『参加者名簿を見せてくれないか』と声を掛けた。
『人を探しているのですか? 見せることはできませんが、名前さえ教えていただければ――』
期待と不安。両極の想いを悟られないよう、アレグロは淡々と五人の名を挙げる。
頁をめくる音が、やけに耳についたのを覚えている。
『どなたも出場登録していませんね』
『……そうか』
鈍器で殴られたような衝撃が全身を駆け巡る。ろくに礼も言わずに踵を返すと、ただ足だけが勝手に動き出していた。
どうやって宿に帰り着いたのかまったく記憶にないが、気がつけばアレグロはベッドに仰向けになっていた。
一度沈んで昇った太陽は今や天上近くにあった。眩しさで真っ白になる頭の中で、声が響く。
いっそ死んでしまおう、という無感情な声が。
武闘大会出場の前日。
アレグロが森に足を踏み入れたのは、かつての仲間の元へ行くためだったのだ。
周囲を警戒せずに森を歩くのは初めてだった。
穏やかに降り注ぐ木漏れ日。なぜだか懐かしい腐葉土の匂い。どこからか聞こえてくる細流。どれも今までは気づいていなかったものだ。
しばらくさまよっていると、森が青白く輝き始めた。
『蛍苔……』
死を望んでいても、身体は水を欲するらしい。喉が渇いたアレグロは、蛍苔の光に誘われるようにして進んでいった。
やがて、少し開けた場所に辿り着いた。辺り一面が青く光り、中央には泉がある。
感動すら覚えたアレグロは、袖が濡れるのも構わずに水を飲んだ。
そのときだった。
背後の木々が音を立てたのは。
(魔獣か)
アレグロは薄く笑った。
あとはぼうっと突っ立っているだけで、一思いに殺してくれるはずだ。
『――危ない!!』
突如投げかけられた少年の声。
弾かれるように抜刀したアレグロは、一切の躊躇いなく魔獣を斬り捨てた。
さらには。
(やってしまった……)
ふと我に返ると、草陰から飛び出してきた少年に刀を突きつけていた。
アレグロを襲う自責の念。おそらく彼は自分を助けようとしてくれたのだ。その恩を仇で返すような真似をしてしまった。
内心ではひどく狼狽えていたが、
『お前……追い剥ぎか何かか?』
口をついて出た言葉はとんでもないものだった。
それから少年と二言三言交わしたものの、内容は覚えていない。彼の存在に気づいていたかのような嘘をついたのは確かなのだが。
少年の前から逃げ出したときには、もう会うこともないだろうと思っていた。
その彼と今こうして旅していることが、アレグロには不思議でならなかった。
『騙しておきながら、今更信じろなんて』
シェントがアルトに言い放った言葉を――それはからかいのようでもあったが――アレグロは反芻し、顔を伏せて力なく呟いた。
「それでも、いいから……」
信じて、とは言わないから。
「アレグロ?」
ふいに聞こえた声に、アレグロの肩がびくりと震える。
「……シェント、か?」
「やっぱり。起きてたんだ?」
カーテンの隙間から射し込む月光が、床で眠る二人の影を浮かび上がらせている。
影の一つが揺れたかと思うと、シェントが徐に身を起こした。寝る間際に解いた銀髪を月光が微かに流れていった。
「ごめ――すまない、私のせいで起こしてしまって」
「いや、俺もちょっと前に目が覚めちゃってさ。気になって眠れないというか……」
「気になる? 何が」
「ん? …………いやいやいや何も!?」
顔の前で手を振り、必死になって否定するシェント。何もないとは到底思えない反応である。
「何かあるのだろう? 魔族のことか?」
「えっ、ま……? そ、そう! 枕が合わなくってさあ」
「まくら?」
「ちょっと薄いんだ。たぶん。きっと」
アレグロは脱力した。
闘技場の襲撃に魔族が関わっているのではないか、とシェントが洩らしたことを忘れていなかったのだ。
少しでも期待した自分が馬鹿らしい。アレグロは腹立ち紛れに枕をぽすぽすと叩いた。
「……私のはそこまで薄くないと思うが。貸そうか?」
「い!? いや、いいから!」
「投げる?」
「ちょっ、騒いだらアルトが起きちまうだろっ」
「それもそうだな」
枕を抱え込んでベッドから降りたアレグロは、しかし何かに躓き、
「!? 大丈夫、か……?」
抱えていた枕ごとシェントに受け止められた。
「……平気」
アレグロはシェントの顔も見ずに枕を押しつけ、さっさとベッドに潜り込む。心臓の音がうるさいのは、きっと恥ずかしいところを見られたせいだ。
(――やっぱり私は、強くなんてなれない)
仲間と離れ離れになってから、強くなろうと――独りでも生きていこうと心に決めた。
その決意が揺らいだときに出会ったからなのか。隠しているつもりの自分の弱さも、シェントには見抜かれている気がする。
だから彼と向き合うのは苦手だ。反面、わがままを言っても許されるのではないか、という淡い期待もある。
アレグロは目を閉じ、願った。
(少しの間でいいから――)
騙されていて、と。




