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序 章

「腹減った」


 投げやりな声が、誰に聞かれることもなく森の奥へ吸い込まれていく。

 声の主は十代後半の少年。端正な顔立ちで背も低くなく、着る物にさえ頓着すれば格好がつきそうなものだが――彼は今、腹を鳴らしながら力なく歩いている。

 疲労のほどはその後ろ姿からもうかがえる。腰まで届く銀髪は、一つに結われていながらボサボサに乱れきっていた。

 森に入ったときにはまばゆく輝いていた木漏れ日も、いつしかその光は鈍くなっていた。


 この少年――シェントが旅を始めて早二か月。

 旅の目的地はグラツィオーソ王国の東、王都ルーエだった。

 つい半日前、ようやくルーエのゲートに辿り着いたシェントは、しかし入市税を払えるだけの所持金がなかった。国を飛び出す際に掴んできた金が底を突いたにもかかわらず、仕事もほとんどしてこなかったせいだ。

 そこでシェントは手っ取り早く稼ぐため、森に忍び込んで魔獣を狩ることにしたのだ。城壁の外で市を開いている商人に毛皮や牙を売りつけるほか、ルーエに入る手立てはない。


「ま、倒せなきゃ意味ないんだけど……」


 肩に担いだ斧槍ハルバードはシェントの背丈よりやや長く、狭い場所では扱いづらい。なるべくひらけたところをうろつくようにしているが、斧槍を振り回せる空間(スペース)などたかが知れている。

 生きるか死ぬかの瀬戸際の彼のもとに、微かに届いてくる水の音と空気の湿った匂い。さらに歩を進めると、青白くも暖かな光が足元にじゃれつき始める。


蛍苔ほたるごけか。泉でもあるのかな)


 日中に光を蓄積し暗くなると発光するそれは、主に水辺に生える苔だ。

 光の増すほうへ歩んでいったシェントは、荷馬車が二台は停められそうな広い空間に出た。



 そこには小さな泉と、水をむすぶ一人の少女の姿があった。



 横顔を隠す緋色の長い髪が、蛍苔の光を受けて柔らかく輝いている。

 まるで絵画のような光景にしばし目を奪われていたシェントは、はっと我に返ると茂みの裏にしゃがみこんだ。


(――なんで隠れてんだ俺!? ここは何か話しかけてみるべきだろ……)


 意を決して腰を上げる。

 ほぼ同時に、少女の背後の草木が荒く揺れ動いた。

 人か、あるいは――


魔獣まじゅう!?)


 シェントはとっさに飛び出した。


「危ない!!」


 しかし助けに入るより早く、少女と魔獣の間に銀光がひらめく。

 ぎゅっ!? と短く悲鳴を上げる魔獣に背を向け、少女はシェントのほうへ迫ってきた。


「え?」


 はりつけにされたかのように動けなくなっていたシェントは、首に氷雨ひさめに似た冷たさを感じて視線を落とした。

 赤く濡れた刀身が喉に触れていた。


(刺され――っ!?)


 一瞬にして冷や汗が吹き出す。

 だが、その汗が引いてもなお、痛みは一向に襲ってこなかった。血が喉を込み上げてくる感触もない。

 刀身を染める血は自分のものではなく、今しがた斬り捨てられた魔獣のものだと思い直して、シェントは長く息を吐いた。安堵あんどと感嘆の混ざったため息を。

 疾走の勢いを瞬時に殺し、皮膚を突き破らないように切っ先を向ける。一朝一夕では身につかない芸当を、まだ若い――同年代に見える――少女は平然とやってのけた。

 少女はシェントを見上げながら、小さくも凛とした声で問いかけてきた。


「お前……追い剥ぎか何かか?」

「お、追い剥ぎ!? 俺はただの通りすがりの旅人で、君を――」


 必死に弁明するシェントの視界に魔獣の死体がちらつく。「助けようとしたのに」と続けるつもりだった言葉を、シェントはぐっと飲み込んだ。

 少女を襲ったのはカルカンドという魔獣だった。猟犬のようでいて、それにはない大きさの爪と牙を持つ。人間なぞ飛び掛かられたら一溜まりもないのだが――少女はそのカルカンドを返り討ちにしたのだ。首を一文字いちもんじに斬りつけることで。


「ただの旅人、か。そのわりにはこちらを窺っていたようだが?」


 さすがに「君に見とれていました」などとナンパのような台詞は言えず、押し黙るシェント。

 両者の間に重い沈黙が流れる。

 先に音を上げたのは意外にも少女のほうだった。刺すようにシェントを見つめていた彼女は、「まあ、いい」と突きつけていたカタナを鞘に納めた。

 解放されたシェントの口からため息が洩れる。

 街中で野垂れ死ぬか、森で魔獣に引き裂かれるか。どちらも勘弁してほしかったが、まさか少女に殺されそうになるとは。それも助けようとしたのに、だ。


「あー……その、強いんだな」


 気まずさからシェントは適当に言葉を紡ぐ。


「しっかし、なんだってこんなところに、女の子が一人で――」

「一人なのは、お前も同じだろう?」

「まあ、そうだけど……」


 心なしか「一人」という言葉を強調された気がした。

 シェントを睨みつける緋色の瞳も、小さな灯火のように揺れている。

 しかしそれも一瞬のこと。少女はきびすを返し、シェントの来た道を走って去っていく。


「ちょっと待っ――」


 制止しようと一歩踏み出したシェントだが、


「追いかけたとこでどうすんだよ……」


 少女の姿が薄闇に溶けるまで、一人呆然と立ち尽くしていた。

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