対空貨車のできた訳
1944年9月、既にマリアナ諸島は陥落し、東条内閣は退陣。本土空襲が秒読みとなる段階に入っていた。
当時運輸手段の中心といえば、船や鉄道であったが、船舶は潜水艦による被害が大きく、内地による輸送では専ら鉄道が中心になっていた。
しかし本土空襲では都市部の爆撃の他に、鉄道にも被害が及ぶとされていた。
このため、鉄道省は迫り来る空襲から身を守るため、早急に対抗手段を模索することとなる。
と書いたが、所詮兵力を持たない鉄道省ができる事など、全く持って無かった。当たり前である。
しかし、これに目をつけたのは陸軍だった。彼はドイツからもたらされた対空貨車の情報を活用し、日本版の対空貨車を製作しようとした。そして、
「(鋼体車の)無蓋車貸してよ。対空貨車作るから」
大体こんな趣旨のお願い、要は要求をした。確かにこう言ったかは恐らく異なるだろう。しかし、鉄道による貨物輸送が総力戦に大きく貢献した時代、貨車の需要は非常に多く、中でも頑丈な鋼体車は木製で粗末なつくりの戦時生産車よりも重宝されていた。
そんな物を出せと言われた鉄道省であるが、当時の総力戦の空気には逆らえないのである。何しろ彼らは、外地の為に小型で運用のしやすいC56型と呼ばれる蒸気機関車を軌間を変えて90両も供出しているのだから、もう仕方が無い事として考えられていた。しかし差し出したのが大型の17t積みの貨車でなく、それより少し小さい15t積みの物であったと言う所が鉄道省の抵抗を思わせた。
さて、無事に貨車を入手した陸軍であるが、この改造内容は、「適当に余っていた対空機銃を載せて旋回できるようにし、弾の装填ができるようにスペースを作った」という如何にも簡単なものである。装甲などは当然取り付けられては居なかった。
乗せる機銃は貨車の幅や、列車が通過するトンネルの高さなどに合わせ、九八式二十粍高射機関砲を一門装備する。中央に少し高い旋回する台座を作り、階段で上り下りできるようにし、その脇に補充用の弾を配置するというレイアウトである。兵員は3人配置されている。
対空貨車は44年の12月に試作車が完成し、その後45年の2月からは量産が開始されている。
この対空戦車の使い方としては、貨車や客車の編成の最後尾に連結したり、場合によっては機関車の次位にも連結するときがあったが、この際問題となるのが煤煙で、特に機関車の次位に配置された兵員は防毒マスクの着用を余儀なくされることとなった。
またその兵員たちも射撃に関する最低限の教育のみ受けた未熟な兵が多かった。
このように若干の期待とも不安とも知れない目で見られた対空貨車だが、やはり大型の爆撃機、つまりB-29等を相手にするのには力不足で、戦争の末期から本土に度々侵入してきた艦載機の機銃掃射に対してある程度の威力を発揮したようである。
どちらかというと牽制程度であったし、1,2門の機関砲が与える影響というのはあまり大きくは無かった。しかしこの貨車達は数機の艦載機の撃墜を記録し、さらに敵からも銃撃を受け兵員に数名の死者を出している。
この対空貨車は鉄道員たちからは複雑な目で見られていたが、戦争が本土決戦に近づくにつれこの貨車への改造は停止されることとなる。もはやそんなことをする余裕もなくなったからだ。
そしてそのすぐ後の終戦後、これらの貨車はすぐさま武装解除され、鉄道省に再編入される事となる。それらの貨車は戦後の日本復興に活躍し、やがてお役御免となり解体されていった。
結局、対空貨車は歴史には全く刻まれる事もなく今日まで至っているが、戦争の末期は鉄道省が危惧した通り機銃掃射で列車に多くの被害が発生している。これがさらに製作されていれば……それもやはり歴史のIf、ありえない事なのだ。
実際ソ連やらドイツではこんなものがあったそう。