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京都にての歴史物語

今宵の月はみちかくて

作者: 不動 啓人

「先生、憚りがあるというのは充分に承知しておりますが、もう一目だけでも鉄三郎てつさぶろう様にお会いさせて頂くわけに参らないでしょうか?」

 着実に老いは表情に刻まれつつも、それでも美しさを残し情熱的な瞳を輝かせた女は、湧き上がる衝動のままに男に取り縋った。

 けれども、対照的な冷徹なる瞳を以て男は女の瞳を見詰め返し、静かに首を振った。

「なりません。最早、あの方はあなたが知る鉄三郎様ではないのですよ」

「承知しております。承知してはおりますが、どうかお情けを」

「なりません」

「……どうしても?」

 上目遣いに哀願する女を見詰めたまま、男は黙った。そして一呼吸の間を置いて己の胸元に取り縋る女の両肩に手を置いて諭すように囁く。

「あなた方が二度とお会いすることはないでしょう。けれども、あなたのその想いがあれば、あの方の為にして差し上げられることはあります」

「鉄三郎様の為に?」

「そうです」

――そして『女』村山たかは、『男』長野主膳ながのしゅぜんと共に、『鉄三郎』井伊直弼いいなおすけの為に京の都にて策動することとなった。


 時は移ろい安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外にて水戸脱藩浪士を中心とする刺客に襲われ、井伊直弼は首を取られた。享年四46歳。

 更に文久2年(1862)8月27日、井伊直弼の横死により藩論の一変によって長野主膳は断罪され、斬首された。享年48歳。

 同年11月14日、島原近くに隠れ住んでいた村山たかの借家に、長州・土佐の藩士20人ばかりが踏み込んで、たかを生け捕りにした。そのまま、たかは三条大橋に連行され、橋の柱に縛られた。翌日にはたかの子息である多田帯刀ただたてわきも捕まり、蹴上にて斬首され、その首はたかの近くの立木に吊るされて晒された。


 女ならば、と首の代わりに髪を切られ、素足に着物一枚で戒めの縄をきつく締められ生き晒しにされたたかは、昼間は己を見物にやってくる野次馬の姿に顔を上げられず力なく俯いているばかりだったが、夜になれば空を見上げて残酷なる己の定めを輝く星々に問うた。

「なぜ――」

 それは直弼の為に働いたからに他ならない。

 その明らかなる自問の答えが、星々の光が飛び込んだかのようにたかの瞳を輝かせる。

 かつて愛し合うことで繋がっていたたかと直弼。それが、直弼が彦根藩主となってからというもの、愛情を交わす術を失ったたかは、主膳の勧めにより直弼の為に諜報活動を行うことによって直弼との繋がりの実感を保っていたが、直弼の死により大切に抱き締めていたものは失われてしまった。

 以来2年を超える月日、たかは拠り所を失い空しき日々を過ごしてきたのだが、こうして生き晒しという恥辱に合い、また斬首され首を晒された息子の無念さを思うにつけ、当初は強い悲しみが心を満たしていたが、50の坂を越えたたかの体を襲う疲労という麻酔が負の感情を減退させ始めると、曖昧模糊とした思考の中に沸々とした喜色が異常な早さで広がりをみせた。

 その夜の月は、新月への向かう陰りの中でも煌々と夜空に輝いていた。

 かつて、鉄三郎と呼ばれた当時20代後半の井伊直弼は、欠けた月に、藩の方針により会えなくなったたかへの想いを歌に綴り送った。

「名もたかき 今宵の月は みちかくて 君しをらねハ 事かけて見ゆ」

 たかは、過ぎ去った最愛の時に思考を委ね、月明かりの下で恍惚とした。

「ああ、私はまだ鉄三郎様と繋がっている!」

 全ての苦痛は、今や直弼との繋がりを実感する証となった。


 たかが晒されてから4日目の早朝。まだ朝日も昇らぬ朝ぼやけの中で、たかに近付く尼僧の姿があった。

 尼僧は力なく項垂れるたかに労いの言葉を掛けると、戒めの縄を短刀で切り3日3晩の束縛から解放した。

 ところが一瞬、たかは自分が縛られていた柱に縋るような素振りを見せた。

 その仕草を尼僧は特に不振には思わなかった。きっと疲労困憊の中で意識が混濁しているのだろうと、柱に縋ろうとするたかの手を慈悲深く取って体を支えると、尼僧に雇われた駕籠担ぎの男によって、たかは駕籠に乗せられ、ようやく三条大橋の袂を後にした。

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