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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
10 尖兵は迷い霧を払う
88/96

六 忘れられた地

「ラティアの群団を……殲滅?」


 夜闇が入り込む部屋。

 声の主は自らが口にした言葉をすぐに受け入れられず、その情報をもたらした相手をまじまじと見つめた。


「ええ、北峠からの下りで道を塞がれる形になったから、ぜーんぶ吹き飛ばしたって」


 見つめられた相手は軽い調子で頷くと、友人の珍しい顔……あっけに取られた顔を眺めながら続けた。


「聞いた内容だと丸一日近くぶっ続けで対処してたって話だったから、群団の前に大って冠が二つか三つ位は乗っかりそうな気がするけどね」

「その、本当のこと、でしょうか?」

「私もクロウもこういうことで嘘なんてつかないわよ。いや、私はアレかもしれないけど、今はあなたも知ってるでしょ、クロウのこと」

「それは……、そう、ですね」


 常の表情を置き忘れた相手がゆっくりと首肯するのを見て、小人は苦笑する。


「そこは私もそういったことはしないって、言って欲しい所なんだけど」

「申し訳ありません。今はその、あまりにも予想外な報告だったもので、余裕が……」

「え、そんなに予想外かな?」


 動揺というよりは茫然自失といった風情の相手に対し、ミソラは不思議そうに首を捻る。

 だが、その顔を見て我を取り戻したのか、青髪の麗人は大きく一呼吸して、一言問う。


「彼の人は?」

「当然、五体満足。でも疲れたから一旦引いて、体勢を立て直すって」

「それはよかったです。しかし、よくぞ無事で……」

「本人が言うには、蟲は一方行からしか来ないし、後ろから襲われる心配もなかったからなんとかなったって言ってたわ」


 それから、本当に運が良かったっだってと加えて、ミソラは面白そうに笑う。

 セレスはそれに同調できず、いまだ表情を取り繕えないまま、困惑が滲む声音で言った。


「一個人が抗することなど、絶対にできないであろう大群団を相手にして、それだけ、ですか?」

「うん、本人にも現実感があるのかないのかわからないけど、今日の晩飯の出来は良かったって感じの、いつも通りの声だったわ」


 いやー、私の目に狂いはなかったわ、うん、順調に化けていってる。

 そう言って自らの見識を褒める様に頷く相手をじっと見つめ、セレスは耳にした話が真実であるとようやく受け入れた。

 それから、この素面では信じられようもない戦果を前に表情の選択に困り、結果として眉間に小さな皺を作りながらも苦笑するという、なんともいえぬ顔となった。


「此度の件、運が良かった、で終わる話ではないと思いますが……」

「本人がそう言ってるんだから、それでいいでしょ。まだ依頼は続ける気みたいだし」

「ですが」

「今はそれでいいの。クロウが自分の体質を知らず、世間一般にも知られていない今は」

「わたしとしては、それで終わらせてしまって良いのか、迷う所です」


 麗人は表情に悩ましいモノを付け加える。

 そんな相手を見て、ミソラは表情を少し真面目なものに変えて頷く。


「ま、セレスの立場ならそうよね。今回、クロウが示した力は戦術級を飛び越えて、戦略級だもの」

「ええ、群団規模の殲滅が成ったならば、東部域にあった潜在的な脅威が減じたということ。先の騒乱で打撃を受けているアーウェルや東方航路の重要性を思えば、とてもありがたいことです」


 そう言ってからセレスは一つ首を振り、表情の悩ましさを更に加味する。


「だからこそ、彼をこのまま行かせて良いのかと……。いえ、委ねた依頼に対して、彼の人以上の適任者はいないとの確信は持っています。ですが、此度の件で彼の人が示した戦略級の力、それを危地にて失う可能性と東方新航路の重要性、現在の諸情勢といったことを含めて考えれば……、なにが最適解であるのか、やはり悩みます」

「ふふふー、その悩みはね、クロウに対する認識が甘かったってことが原因よー。だいたいさーぁ、この私が身内と認める男が、ただの便利な駒で終わる訳ないでしょー。だから、その悩みは甘んじて受け入れるのだー」


 悩める麗人の様相に、小人はどこか自慢げな様子で実に楽しそうに煽る。

 セレスは珍しくもムッと口を引き結び、恨めしそうに友人を睨む。その様子は普段の彼女を知る者が見れば、同一人物だろうかと目を見張るであろう程に、見目を幼く見せた。


「ええ、次は見誤らないよう、肝に銘じましょう」

「うんうん、一つ勉強になったわね。あ、そうそう言い忘れてたけど、今回の件、報酬に色付けてくれだって」

「当然です」


 応じた声には、どこか拗ねたような響きがあった。



  * * *



 一夜明けて、ヴァールダリア渓谷。

 北峠ではクロウが出立の準備を進めていた。

 横穴と氷塊を利用したにわか作りの拠点とはいえ、ほぼ一日近く身を休めたこともあってか、顔色と動き共に悪くはない。しっかりと旅装を整えると、魔導艇に跨って浮上させた。


「っし、行くか」


 そして自らを鼓舞するように呟くと、艇をゆっくりと進め始める。

 夜が明けたとはいえ、いまだ陽が登りきらぬ時分。まだ辺りは薄暗い。耳を澄ませながら暗視装置を作動させ、周囲に目を配る。幸いというべきか、蟲による襲撃の予兆らしきものは見当たらない。

 今日一日この調子で終わって欲しいと願いながら、一度引き返してきた谷筋を下り出す。その行き足は昨日のような勢いがあるものではなく、回転翼はゆるゆると最小限に、行き足もまたのろのろとしたものであった。


 彼がこうしているのは、先日の経験を受けてのこと。

 先の蟲による襲撃……特にダ・ルヴァによる襲撃は、渓間に響くほどの音を出したから気付かれたのだと、彼なりに分析して対策を考えた結果である。という訳で、クロウは時間がかかることには目をつむり、できるだけ音を出さないように最低限の力と坂の傾斜だけを使って、慎重に下っていく。


 とはいえ、今までが高速での移動ばかりであったため、なんとなく座りが悪い。だが、下り坂に導かれるまま速度が乗ってくると、そういった感覚もなくなっていく。

 露出した肌を、明け方特有のひんやりとした空気が撫でる。砂海のそれとは違って湿り気を帯びており、若者にいつもと違うといった感慨を、異郷の地にいるのだという思いを抱かせる。そのまま何事もなく進み続け、昨日の戦場に近づいた。


 クロウはラティアの残存を警戒して魔導銃を手にする。

 それから周辺に注意を向けながら、戦場跡へ観察の目を向ける。数え切れぬ程の爆裂でもって土壌が融解した場所は黒く滑らかに固まっていた。まだ熱が残っているようで、特有の熱波が肌身に伝わってくる。

 その周囲にも視線を走らせる。黒焦げになって炭化したナニカがあちらこちらに転がり、更にその周りには焼け焦げた甲殻や肉片の名残が無数に散らばっている。自分が為したと実感できぬまま見ていると、風に乗って生体が焼け焦げた臭いが届き、顔を顰めた。


 瞬間、手に持つ魔導銃に目を向ける。

 が、考えが像を結ぶ前に、意識が行き先へと引っ張られた。


 戦場跡を通過してからも、道行きは順調そのもの。

 逆に不気味に思えてくるほどの静けさの中を、さらに下っていく。すると行き先が白く薄っすらとけぶり出した。肌に感じる湿りは先までより重くなり、魔導艇の風防や防塵眼鏡に水滴が付き始める。

 これが霧なのだろうと思いながら進む。だが、より靄が色濃くなり視界が悪くなってきたことで、これ以上の前進は危険と判断。退避場所として左右の断崖に横穴ないし出っ張りを求め、それなりによさげな場所を見つけると、いったん行き足を止めた。


 その頃になると、視界は彼が知る砂嵐並みに落ちている。

 クロウは仮初めの安全地帯で一息つくと、行き先を遮る現象に目を向けた。

 彼もアーウェルでの情報収集でどういったものかは聞いていた。けれど、聞くと見るとは違うものだと思わざるを得ない光景であった。


 渓間を埋める乳白の靄は一見すると、一つの塊のように一所に留まっている。

 だが、よくよく見ればその塊は無数の小さな粒から成っており、それが気ままに漂い、時に風に流されて濃淡を変えているのがわかる。その様は幾重にも重なりあった白壁のようでいて、吹けば飛ぶような薄絹のようでもあった。


 確かに砂嵐に似ている。

 けど、こっちの方が遥かにマシのような気がするな。


 そんなことを考えながら、若者は渓を塞ぐ狭霧を眺め続ける。

 もっとも、いつ晴れるかわからない時を待つというのは中々に苦痛である。しかも場所が場所であるから耳目を休めることもできない為、完全に息を抜くこともできない。せめて今の無聊を解消したいなと考えて、ふと思い至り、時計を手にする。

 ちょうどうまい具合にというべきか、定期通信の時間が近かった。これ幸いとばかりに、通信を送る。彼方の地でも時が来るのを待っていたのか、相手が応答するまでの時間は短かった。


「おー、おはよう、クロウ。そろそろ連絡が来るだろうと思って待ってたよー」

「おはよう、ミシェル。こっちは霧って奴が立ち込めて、足止め状態だ」

「うん? もう出てたの?」

「ああ、昨日が昨日だったからな。少しは距離を稼がないと」


 しばしの沈黙の後、耳元で嘆息が聞こえ、耳慣れた声が続いた。


「昨日が昨日だったからこそ、そんなに慌てなくていいと思うなー」

「いや、食糧にも限りがあるからな」

「え? アーウェルで追加して、半節分以上は持って行ってって、あ、……あー、そっかそっか、この私の料理が恋しいってことか」


 クロウは否定しようとして否定しきれず。

 それでもなんとか言い返そうと幾度か口を開閉させる。しかし、出てきたのは偽りない思いであった。


「まぁ、それもある、かな」

「おぉ、ようやく素直にっ!」

「ようやくってのは置いて、正直に言うと飯はやっぱり味気ないよ」

「くっ、くぅー、これはっ、もしついて行けていたら、ぬちょぬちょの関係になれていたんじゃっ!」

「それとこれとは話は別だ」


 とばっさり切り捨てつつも、女の言葉に刺激されたのか、彼の脳裏に思い浮かんだのはアーウェルでの逢瀬。

 一日一夜の充足と悦楽の記憶に身体がざわめけば、臥所で温もりを分け合った安息に心がぬくもる。それと同時になんとなく気まずい気分になり、目を彷徨わせた。そうと知らぬ相手は常の如く軽口を続ける。


「いやいやわからないでしょ。いい歳をした男と女で、しかも危険な場所っていう要素を加味したら、ちょっとした拍子で燃え上がって、関係が転がり堕ちるなんてなんて多々あることよ」

「そうか、普通なのか」

「そうそう、普通普通。……くっ、今なら行ける気がするのに、なぜ私はここにいるのかっ!」


 今、ミシェルがどういう顔をしているのか、想像できてしまうのが困るな。なんてことを思いながら、クロウは肩の力を少し抜いて口を開く。


「さて、真面目な話をするぞ。今日の予定だけど、渓を下って峠を抜けるつもりだ。後は現地の状況次第だけど、夜の連絡はいつも通りにできればする」

「了解、記録しとく。んで、こっちからなんだけど、昨日の件はミソラちゃんを通して、依頼主に届くようにしておいたから……、夕方にはどういう反応だったかわかると思う」

「追加報酬出るといいんだがなぁ」

「さすがにしたことがしたことだし、出ると思うよ。後それと、例の話……、クロウと話がしたい人がいないかって奴」


 女の声に、若者は微かに片眉を上げる。

 その言葉に期待してよいのかわるいのか、なんとも複雑な心情である。だいたいこいつが変なことを言うから、などとちょっとした恨みを抱きながら、胸の内には実際はどうなんだろうかという緊張があった。そしてミシェルの声が続いた。


「立候補者は五人! シャノンちゃんにティアちゃん、組合のマッコールさんにお隣のマディスさん、あとついでにミソラちゃんね。よかったわねー、いっぱいいて」

「あー、うん、まぁそこは喜んでおくよ」


 そう答えた彼の内には、そこはかとない安堵があった。

 不要な緊張から解放され、自然と表情が綻ぶ。そこにまたミシェルの声。


「とりあえず、一日一人夜の連絡の時に代わるから。ちなみに順番はシャノンちゃん、ティアちゃん、マッコールさん、マディスさんって続く予定。以後はその時次第かな」

「了解って、ミソラは?」

「あ、素で忘れてた。っていうか、シャノンちゃんについてきて、あーだこーだ口を出しそうだから、個別に作らなくてもいい気がするんだけど」


 クロウは小さく笑って言った。


「扱いがザツだって怒るぞ、あいつ」

「笑って言う人も言う人だと思うなー」

「それは身内枠ってことで」

「なら最後、マディスさんの次の日ってことで」

「ああ、後ほかにはないか?」

「シャノンちゃんとティアちゃんに関しては、家に泊めるつもりなんだけど、いい?」

「ああ、構わない。お前が居着いてる時点で今更だというか、お前が変なことしないか見張ってもらえて安心できるよ」



 一頻り続いた文句を聞き流して通信を切る。

 短いと思っていたやりとりは相応に時間を使っていたようで、あれだけ色が濃かった霧が薄れ、陽の光が渓間に差し込み始めていた。

 時刻を再確認。今現在の時刻と距離を太ももに付けた覚え書(メモ帳)に書き込むと、改めて魔導艇を起動させた。その動作に支障は見られない。クロウの操作に応えて、艇は動き出す。


 先と同じように、渓を下る。

 距離を重ねていくうちに、ちらほらと車両の残骸らしきものが見られるようになった。横倒しになっていたりひっくり返っていたりと、見目は様々。だが、皆一様に時の風化に耐えきれなかったようで、車体は赤錆で覆われ、剥き出しの車輪を晒している。


 あれでも金になるだろうな。

 グランサー的な思考で眺めていると、断崖に半ば埋もれるような形の比較的新しい残骸を見つけた。


 それは船と思われるモノ。

 断崖によほど激しく衝突したのか船体はその態を為していない。しかし、ラーグ級に似た観があった。

 クロウとしてもあの船が何ものなのか興味を惹かれる。が、ダ・ルヴァの生息域であまり寄り道するのも不味いとの判断もあり、場所を記録するだけに留めて通過する。

 もっとも、観察の目だけは向ける。残骸は各所で塗装が剥げており、所々に錆が浮いていた。残念なことに、船名や認識番号らしきものを見えない。


 この様子だとダ・ルヴァを排除しない限り、交易路として使うのは難しそうだ。


 クロウは個人的な見解への確信を深めた。



 それからも彼は進む。

 辿るのは旧文明期の名残。うっすらと残る霧を貫いている道の跡をただひたすらに行く。

 十分二十分と時を重ね距離を重ねていくと、両側面の岩壁が低くなってくる。これで渓谷も終わりかと安堵していると、向かう先が開けていくのが見えた。


 警戒を強めながら、前進。

 そして渓を抜けた。左右の圧迫感がなくなり一息。視界もまた広がったが、岩石などが各所に転がっていたりするので、先までは見通せない。

 だが進む道は続いており、少し先で二手に分かれている。一方は左へと逸れる様に少し細めの道が、またもう一方はただ真っすぐにこれまでと変わらない道が延びている。

 クロウは記憶する昔の地図でも道が続いていたことを思い出す。特に問題はない感じであったので、取りあえずは道なりに進むことを決めた。ふと、速度を上げようかと考える。だが、まだ渓が近いことを考慮して、行き足はそのままにした。


 連なる道は一度下ることを止め、小さな坂を上り出す。

 自然、視界に映るのは空の薄い青のみ。まるで空を目指しているような感覚であった。


 さて、この坂の向こう側はどうなっているのか。


 そんな軽い好奇心を抱きながら、クロウは坂を登って頂点に到達し……。


「ぉうぁっっぁ! ったったっっだっ!」


 ……両の足を、必死になって路面へと打ち込んだ。


 坂の先。

 彼の目に映ったのは、なにもない虚空。


 そこに道はなく、ただ断崖絶壁から僅かにせり出す形で残る、橋桁であったモノだけがあったのだ。

 この思いもよらぬ事態に必死の形相で艇を押さえつける。遅れて制動。だが、それだけで艇は止まらない。流れるままに前へ。クロウは大いに顔を引き攣らせて浮上装置を切った。地に落ちる衝撃。尻の痛みより焦燥が勝った。そしてそれを煽るかのように、鋼鉄製のそりが脆くなった路面を大いに削る。


 耳障りな音を聞きながら、今にも艇から飛び降りたくなる時間が数秒続く。


 そして、舟は道が切れる手前で停まった。


 血潮が勢いよく全身を駆け巡ると同時に、全身が泡立って汗が噴き出た。


 視界のほぼ全てが空であった。

 ほっと息をつく前に吹き上がってくる風。冷たく湿った風に、ぞわりと身を震わせる。無意識に視線が足元へ。艇首よりほんの少し先には、もうなにもなかった。魔導艇に乗る際の浮遊感とは違う、それこそ足元から地面がなくなっていくような、眩暈にも似た感覚に襲われて、腰が抜けそうになる。

 しかし、場所が場所である。いつ何時、ダ・ルヴァのような蟲が襲い掛かってくるかわからない。クロウは現状から抜け出すべく、必死に手足を動かし、艇を後進させた。

 そして、ある程度の距離をとると改めて艇を停め、断崖の向こう側を目に収めるべく慎重に歩を進める。彼の歩みはかなり腰が引けており、余人が見れば無理するなと言われそうな程であったが、それでも先の様子が一望できる場所に至った。


 漏れそうになった声を呑む。


 そこからの眺望は美しいモノであった。

 東以外の三方を囲む山々。切れ目なく連なるそこには彼が見慣れた色はなく、馴染みのない白や暗緑で覆われている。特に北と西の山並みではその上層付近で絶え間なく白い雲が沸き起こっており、山塊に暗色の影を落としていた。


 クロウは初めて目にする光景に幾度も瞬きしながら、視線を下げる。

 眼下にあったのは、緑と白で織り成される大地。停滞する霧の中、無数に乱立する木々が彼方の地平線まで広がっていた。

 呆けるより前に、彼の視線が走る。緑の中には赤や黄色といった色もあった。途切れた道の先に橋脚の跡らしき構造体。中程で折れているようで、歪な尖りが天を突いている。その周囲には傾ぎ立つ廃墟。いくつもあるそれらは緑に巻き付かれるように沈んでいた。


 ゼル・セトラスでは絶対に見ることができないであろう光景を目にして、若者が抱いたのは感動や感嘆……、ではなく、怒りにも似た苛立ちであった。


 なぜ、どうして?

 山脈を一つ隔てただけで、こんなにも違うものなのか? 


 形にならない熱いモノが腹の底で渦巻く。

 ギシリと歯噛みする音を残し、若者は踵を返した。



  * * *



 クロウは硬い表情で分岐点へと戻り、もう一方の道を慎重に下り始める。

 風化が激しい路面は少し湿っており、所々に水溜りが見える。傍を通りかかった時に見ると、小さく陥没した穴に澄んだ水が溜まっているようであった。

 あたりまえのように、水が存在するという環境。お前が住む地とは違うのだと見せつけられているようで、彼にすれば、なんとなく面白くない。この場所がそういう場所なのだとわかってはいても、どうしてもそう思ってしまうのだ。そんな感情が自然と表に出ているようで、硬い表情には渋いモノが滲んでいる。

 とはいえ、クロウも子どもではない。自身の不快感を理由にして行き足を止めるような真似はしないし、するつもりもない。自分に託された仕事をまっとうする為、前へと進む。


 坂を下るにつれて、道の周囲……相応に急な斜面には少しずつ緑草が生え始め、低木の類もまた散見されるようになる。それらは総じて露をまとっており、静かに頭を垂れていた。

 更に下ると傾斜は少しづつ緩やかになり、薄い靄の中、緑茂る木々……高さ五リュート程の細く長い樹木が並びだす。そして、それは坂を下れば下る程に太く高くなっていき、道にも迫ってくるようになった。


 見通しがかなり悪くなりそうだな。


 クロウは先と違い現実的な問題を受けて、顔を顰める。

 どうしようかと考える彼の耳に、遠く聞こえる音。風で葉が擦れる音に紛れて、小さく軽く騒めく様に途切れることなく聞こえてくる。意識せず、散水(シャワー)の音を連想して、水の音かと内で呟く。


 そして、軽やかな響き。

 コドルの不機嫌そうな唸りやニニュの騒がしい声とも違う、ましてや甲殻蟲が生み出す耳障りな音とは絶対に異なる、生き物の声が耳に届いた。思わず推進器を止めて、耳を澄ます。


 坂を流れ下る小船。

 推進器の音が途切れて、数秒。


 再び澄んだ鳴き声が耳に届く。

 弾むように奏でられるそれは一つではなかった。幾つもの口を通して、連なる様に続いていく。


「とりの、鳴き声?」


 彼も知識では知っている。

 だが、こうやって聞くのは初めてといってもいい。

 驚きと共に聞こえてくる旋律に耳を傾ける。気まぐれに変化するそれは人が生み出す音とはまた違っていて、耳を楽しませる。意識せずとも口元が綻んだ。

 それで内にあったわだかまりも少し解れたのか、あるいは動揺した心が落ち着いたのか、思考が常のように回転し始めた。それでまず思い至ったことは、情報の不足である。


 クロウは疎かになってしまった観察を再度行うべく、舟を停止させた。それから大きく深呼吸。吸い込んだ空気は湿り気があって、微かな甘さが含まれているように感じられた。

 不思議なことだと思いつつ、道が吸い込まれていく森林地帯へと目を向ける。延々と続くように立ち並ぶ木々は似たようなものが多い。だが、それでも葉の形状や枝ぶり、伸び方が異なったりと、幾つかの種類があることはわかる。当然ながら高さや太さに関しても一様ではなく、小さなものから大きなものまで実に様々であった。


 クロウは先の自身を思い出し、こういったことも意識できない程に呑まれてたのだろうと、顔を苦くする。

 ついで、現実的な問題……広く深い森林を、視界不良の環境を、どうやって抜ければよいかと、考え始めた。


 もっとも、それで良い考えが浮かべば苦労はしない。

 なにしろ今辿っているもの以外に道らしき道は見当たらない。それならば、森を避ける様に道なき道を拓いてということも考えられるが、周辺の傾斜を見る限り、魔導船が滑り落ちていきそうな角度であるので現実的ではない。否、工事をすればできなくもないだろうが、今の状況では解決策とはいえない。つまり迂回という選択肢が存在しないのだ。


 若者は眉根に皺を寄せて森を睨む。


 まだ引き返す理由もないし……、ここを突っ切る以外ないか。


 時間がかかりそうだと溜息を一つ、重く大きいモノを吐き出す。

 それで弱気な思いを放り出すと、とりあえずは休憩できそうな安全な場所を探そうと肚に力を込めた。



 より森へと近づくにつれ、その様子が鮮明になってくる。

 深い緑と灰色やこげ茶、時に赤茶けや黄色から成る色彩。それを生み出す木々が無秩序に立ち並び、縦横に枝葉を伸ばしてる。足元では下草や若木、低木の類がうっそうと生い茂っていれば、蔦があちらこちらで垂れ下がっていることもあり、視界は通らず薄暗さの度合いを強くしていた。

 クロウが進み行く道にしても半ば木々に覆われていて、速度を出せそうにない。とはいえ、今彼が乗る魔導艇のような形状が小さなモノであれば、通行には問題はなさそうだ。だが、通常の魔導船では厳しいといわざるを得なかった。


 どう考えても交易路に使うには厳しいだろ、これ。

 そんなことを思いながら、警戒に警戒を重ねつつ、森への侵入を開始する。


 中に入ってまず感じたのは、湿り気を帯びた空気とほのかな甘い香り。あまり馴染みのない深い緑もあって、彼は戸惑いを覚える。

 けれど、足は止めない。神経を尖らせ、前方を中心に周囲へと注意を向ける。推進器の回転音に紛れて、枝木が揺れる音、鳥の鳴き声、地を踏みしめる音。無視しえぬ響きに、びくりと肩を跳ね上げ、首を巡らせる。下草の中に消えていく、小さな獣らしき影が見えた。今のはなんだと目を瞬かせていると、視界の端に飛び交うなにか。自然、意識が向く。柱のような木漏れ陽の中、大量の小さな羽虫が音もたてずに飛び回っている。見たことがない光景に、あれはなんだと思っていると、耳が音を拾い上げる。


 せせらぎの音。

 これだけの森なら、水も流れているかと納得する。そこに再び、葉が揺れる音。


 即座に目を向ける。

 垂れ下がる蔦をなにか細長いモノが這い上っている。あれはなんだと思う間に、枝葉の中に紛れてしまう。また大きな音。


 今度は何だと頭を巡らせると、三十リュート程先、木々の合間に見慣れた姿。

 赤い七つ目を持つ大きな頭部をこちらへと指向させたラティアが触角を頻繁に動かしていた。


 漏れ出る舌打ち。

 と同時に、クロウの手は腰にある魔導銃を引き抜いた。


 その時であった。


 蟲の近くにあった枝木が俄かに動き、直上から落下。

 節の目立つ枝……否、枝のように見える足でもって、ラティアの頭を踏み潰した。柔らかな地が吸収したのか、胴体が崩れ落ちる音はあまり聞こえなかった。


「……へ?」


 若者は目にした光景に、ただ間の抜けた声を上げるのみ。

 その間にも枝木に化けていたモノが動き、頭だと思われる太い枝のような部分を寄せる。それからおもむろに細長い管を伸ばすと、ラティアの胴体に差し込んだ。


 どこをどう見ても、明らかに捕食の様相であった。


 クロウは思わず頭上を見上げる。

 いまだに漂う霧の中、枝葉が伸びている。幸いにして、それらが動きそうな気配はなかった。


 ほんの少しの安堵と共に、再び視線を戻す。

 ラティアの体液を啜る枝木のようなモノは、彼に注意を向けた様子はない。ならばこの隙にと観察の目を走らせる。

 体躯は細長く三ないし四リュート程。そこから八本の長い足が伸びている。先まで見事なまでに擬態していたことからわかるように、それらは樹木のような色艶形で節々がうまい具合に幹や枝に見える。ただぼんやりと眺めているだけならば、まず見抜けないだろうと思われた。

 そう、簡単に見抜けない脅威の存在があるということは、この森を行く道行きの危険性がまた一段と高まったということである。


 ここは魔境だと、若者は顔を引き攣らせるしかなった。



  * * *



 クロウが森に入ってより、早くも五日が過ぎた。

 想定で百アルト程と見積もった森の踏破は半ばを越えるかといった所。これまでがこれまでであった為、一日平均で十アルトちょっとの前進は、彼にすれば足踏みしているような感があった。


 とはいえ、これも仕方がないというもの。やはりこれまでの環境との違いが大きいのだ。

 なにしろ、彼が慣れ親しんだ砂海と異なり、樹林で覆われた地は見通しが非常に悪い。ついでに言えば、朝方は霧が立ち込める為、視野が落ちる。その中を四方八方だけでなく上方も警戒しなければならないのだから、常にない緊張を強いられている。また馴染みのない湿気も身体に少なくない負担を与えている。

 当然ながら、クロウも鋭敏になった神経を休めるべく、連日、夜の通信でエフタの知人友人たちと話をして緊張を解いてはいる。しかし、単独行という誰の助力も得られない状況ということもあって、やはり日を追うごとに疲労が積み重なっていた。


 これはいうまでもないことであろうが、疲労はどのような時でも大敵である。

 特に今回は未知の領域を行く為、判断の遅れや一瞬の気の弛みが死を招くかもしれない。であるからこそ、疲労の度合いを少しでも緩和するべく、活動時間を短くしていた。


 更に加えて、休憩する場所を確保する苦労がある。

 特に睡眠をとれるような安全な場所となると難しいのだ。実際、初日と二日目は拠点になりそうな場所を見つけることができず、森の外まで退いている。また三日目以降も同じ場所……傾いた廃墟を拠点としていてる。つまり、一進一退とまでは行かないが、それに近い状況が続ているのだ。


 そしてなによりも、辿る道筋に問題が生じていた。


「あー、またか」


 ぼやいた彼の視線の先。舗装が半ば剥げた道を断ち切る様に、幅五リュート程の小川が流れていた。

 水が豊富にあるという環境故に、それが集まって流れとなり、高低の導きに従って沢を為す。小さな流れは自然と合流して、より大きな流れを生み出し、大地を抉り取る。これは旧文明の道であっても例外ではなかったのだ。 


 クロウは疲れが滲む目で深さを測る。

 魔導艇の走破性であれば、強引に行けなくもない。だが、もしもを考えると躊躇してしまう程度の高さだった。


 眉間にしわを寄せ、立ちはだかる障害を睨む。

 けれど、それで何かが変わる訳ではない。小さく溜息をつくと、川筋で渡れそうな場所がないかと視線を走らせる。

 鬱蒼とした森の中、ごつごつとした岩塊の合間を縫うように水が流れている。所々に落差があるようで、流れ落ちる水の音が続いている。行けそうな場所がないかと探し、そう離れていない場所に安全に渡れそうな浅く平らな場所を見い出す。


 今日は運が良いと、口元を僅かに緩ませる。

 二日前、似たような状況で、沢を遡って一時間程探した末、五リュート程の段差に阻まれて、見つからないといったことがあったのだ。

 アレは酷かったと思いながら、沢を渡る。途中、草むらが揺れる物音に緊張したが、無事に道へと戻れた。だが、そこで安堵する訳にもいかず、また道を辿る。


 かつての道も森深くに入り込むにつれ、風化がより酷くなっている。

 大小の凹凸は当然のことで、至る所から雑草が生えていれば、周囲にある樹木の根が路材を押し上げて割っていた。


 ここを魔導船で突っ切れって、やっぱり無理だろ。


 そんなことを考えれば、自然と昨夜のことが思い出される。

 野営地とした廃墟……蔦で覆われた五階建ての建物、その中で行った定期通信でのことだ。



「樹海を行くの、かなり難航してるみたいね」


 通信機の向こうからの声に、クロウは一も二もなく頷き、溜息まじりに応じる。


「ああ、同じ海でも砂の海の方が楽に思えるよ」

「こっちは年間通してとっても暑くて、時々すっごい嵐が来るのに?」

「単純に慣れてる方がマシってことだよ」


 軽口めいた口調であるが、疲れの色は隠し切れない。

 クロウは今更取り繕う相手ではないと、意味もなく濁った声を一時上げて気を抜き、改めて難航の原因を声に乗せた。


「最初はそこまで酷くなかったんだけど、二十アルト程進んだ辺りから急に寸断が多くなってな」

「条件次第で風化の度合いも変わってくるしね。……うーん、私が一緒に行ってたら、なんとかしたんだけど」


 身内たる小人の甘い声に、若者はそうだろうなと思いながら首を振る。


「いない以上は仕方ないさ。……けど正直、ここを魔導船が通るのはかなり厳しいんじゃないかってのが、俺の意見だ」

「本当に使う気なら、やっぱり拡張が必要ってことね?」

「ああ、道沿いをある程度切り開かないと無理だと思う」

「ん、わかった。セレスにはそう伝えておくわ」


 そう告げた後、一息置いてから声が聞こえてくる。


「それで、まだ進むつもりなの?」

「魔導艇ならまだ行けそうだからな、行けるところまでは行くさ」


 それが仕事だしと言うと、クロウは廃墟の壁にぐてっと背中を預け、目を遠くする。

 標となる旧文明期の道はいまだ途切れず、引き返すことを決断しなければならない程の障害にも直面していない。それ故に、彼は疲労を積み重ねながらも前進を続けているのだ。


 距離を隔てた場所で、ミソラが小さく笑った。

 それに気が付いて、クロウはどうしたと問いかける。


「いやね、前の四人が元気そうだったって言ってたのに、えらく疲れた様子だから」

「そりゃお前、俺だって本音を吐き出す相手は選ぶよ」

「だろうと思ったわ」


 という声に呆れの色はなく、むしろどことなく嬉しそうであった。そのことを不思議に思っていると、再びミソラの声が届く。


「まぁ、私から言えることは、未知の場所なんだから、なにをするにしても慎重に進めすようにするってことと、森の中に安全な場所がないかを常に探して、可能なら確保することってこと。それに夜になる前に安全な場所に退避して、少しでも心身を休めるようにするってこと。後、無理だと思ったら、その時点で引き返すことってあたりかな」

「了解。とはいっても、まだ無理だって所まではいかないんだよ」

「なら励みなさい。ただし、自分の命の賭け処を間違えないように気を付けてね」



 命の賭け処をを間違えない。

 記憶に残る言葉を呟きながら、前を見る。幹太い木々の合間、建物から崩落したと思われる瓦礫が道を塞いでいた。懐から時計を取り出す。船旅に必須である精巧な時計は昼を過ぎた時間を指していた。


 とりあえず、この瓦礫を越えられなかったら、一度退こう。


 そう考えて、クロウは速度を落とす。

 人工石と思われる瓦礫は大小様々な形で散乱して、道を分断していた。

 周囲へと目を巡らせれば、南側に廃墟らしき建物が木々の向こうに見えた。文明の名残を追って、視線を走らせる。枝葉の奥、空へと向かって傾ぎ伸びているが、六階程の高さで砕け折れていた。


 あの廃墟を拠点にするか?

 でも崩れていることを考えると、ちょっと怖いか。


 思案しながら、今度は崩れた先と思われる北側へと目を向ける。

 崩れた際に木々を巻き込み折ったのであろう、生い茂る枝葉がない場所……空が見通せるちょっとした空間が一筋生まれている。


 あの様子なら擬態する奴に襲われにくいだろうし、あっちに行ってみるか。


 そう決めると、クロウは瓦礫に沿って進むように舵を切った。

 右手に瓦礫を見やりながら、またゆるゆると艇を進めていく。積もり重なった葉土には名も知らぬ花や小さな若木が伸びている。甲殻蟲という天敵がいなければ、心癒す光景だろう。が、今はただの背景でしかない。


 時間にして十分に至るか至らないかといった所で、瓦礫がなくなった。


 これなら先に進めそうだなと、安堵とも不本意ともとれる鼻息を吹き出し……、それに気が付いた。


「あれは……」


 思わず漏れ出た言葉。

 その先には場違いな代物があった。


 高さ十リュートを優に越える、半円形の人工物。

 それが木々の緑に半ば埋もれる形で、地に抱かれていた。


 唐突な遭遇であったが、若者は興味を惹かれて近づく。

 人工物は手前側……クロウから見える一端に大凡四リュート程の口を開けている。角度を変えて見てみると長さがある物体のようで、見える限り三十リュート以上は森の奥へと伸びていた。しかし口を開けている場所以外に、窓枠のようなモノは見当たらない。ただ外壁の一部に何かがもがれたような跡が確認できた。


 人工物に近づくにつれ、クロウの内でここを拠点に使えないかとの思いが湧いてきた。

 なにしろこの三日程、新しい拠点を確保できていない。先に確保した拠点へと、来た道をまた戻るというのは中々に苦痛なのだ。そう考えると、ここを確保しようという思いが俄然強くなる。


 クロウは一人頷くと、魔導銃に手を添えた。



 出入り口近くで魔導艇を降りると、内部の暗がりを覗き込む。

 砂海にある地下遺構と違い、奥の方は外部と繋がっているようで、ほのかに明るかった。油断なく得物を構え、目を走らせる。正面から左右天井足元と、脅威になりそうなモノがいないかと探り……、これといった脅威は見当たらず、ただぬるく湿った空気だけがあった。

 足を忍ばせて内部に入り込み、耳を澄ます。気になる音は聞こえない。ついで内壁を見る。金属製と思われる素材。配線や配管が剥き出しになっており、天井には照明器具と思しき物が、また足元近くに表示板が見えた。


 表示に書かれている字に注意が向く。

 エフタ地下遺構で見かける文字の他、クロウにも読み取れる字があった。


 後部、開口部?


 読み取った文字の意味を考えながら、少しずつ奥へと進んでいく。

 微かに昇っているような感覚。五リュート、十リュートと歩を進める内に、足裏に伝わる感触が硬く乾いたものになる。目を落とすと乾いた砂礫だった。どういうことだと考えつつ先へ。更に四十リュート程進み、空間の突き当りに至った。突き当りは内壁と似た金属製であったが、中央部に縦横一リュート程の隙間があり、光が漏れていた。


 ここなら野営に使えそうだ。

 そんなことを考えながら、クロウは石を数個拾い上げる。


 それから一呼吸。

 わざと音が鳴るように勢いをつけて、隙間へと投げ込んだ。


 直ぐに何かに当たる音が響く。


 息を詰めて、気配を探る。

 だが、彼の耳も肌も、動くモノを感じ取らなかった。


 おそらくは大丈夫だろうと身を屈め、隙間を覗き込む。

 中にあったのは上方へと続く階段。もっとも急傾斜で梯子に近い観があった。光はその先から入ってきている。


 ひとまず、ここで止めるのも手であった。

 しかし、グランサー時代に育まれた好奇心が起き出して、若者を衝き動かす。


 クロウは隙間に潜り込み、梯子階段が使えそうか確かめる。

 手摺に錆が微かに浮いていたが、頑丈に固定されており使えそうであった。それならばと、ゆっくり昇っていく。


 そして辿り着いた先は広さ五リュート程の小部屋のような場所。

 素早く視線を走らせる。光が差し込む間口。壁面に大きく刻み込まれた文字群。簡素な椅子に机。戸棚は全て開かれており空っぽであった。


 壁面の文字に気を惹かれる。

 けれど安全の確保が先だと、足早に間口脇へと身を寄せた。そして慎重に覗き込む。

 まず目に入ったのは二つ並んだ座席。次に光が差し込む大きく広い開口部。その上下には計器類が幾つも並んでいる。ただほとんどが割れ壊れており、一部は黒ずんでいた。


 敵性体はいないと見切り、若者はふっと息を吐き出す。


 それから改めて場の有り様を見て、魔導船の船橋のようだとの感想を抱く。

 もっとも船橋に比べれば空間自体が狭く、なによりも操舵輪がない。故にあくまでも似ているといった所だ。


 クロウは魔導銃を収め、一番気になっている壁面の文字に目を向ける。

 幸いというべきか、彼が見知り使っている文字とほぼ同じであった。ただ文法が微妙に違うようにも感じられた。


 彼は文字を追って読み始める。


「南東方面軍、第三航空団、第二航空輸送隊所属、コリン、パーセル中尉、刻す」


 それは刻み込まれた過去の記録。


「本機は、三〇五補給工廠、から、エル・レラまで、特別、空輸任務に、従事。しかし、その途上、機内で、反乱は、発生。反乱は、鎮圧したが、これにより、反乱者を、含む、人的被害、発生。機長……読めないな、大尉他、七名は、死亡、五名は、負傷。また、通信機、飛行……必須? 機材など、本機に、深刻な、損傷は、発生。操縦、不能状態に、陥る。指揮権を、引き継いだ、自分の断により、不時着を決行。しかし、ながら……、ええと、建設物、に、接触。左主翼、破断。墜落、障害物へ激突、しなかった、が、激しく、着地した、結果、右主翼、尾翼、脱落、機体下部を、大部分喪失、貨物庫は、著しい損傷を、した。これにより、任務は失敗。また生き残り、九名内、七名、死亡。死亡者は、可能な限り、集め、近くの地に、埋めた」


 読み進める内、クロウの表情は曇っていく。


「生き残り、自分の他、エリオット、モバス二級軍曹。軍曹も、足を、負傷している。出発地、三〇五補給工廠に、戻れるならば、戻りたい。しかし、移動手段なく、絶望的な、状況、である。これを、理解している。しかし、我々は、救助を求め、まだ生き残りは、いそうな場所を、目指し、移動を開始、する。だが、最悪を、想定し、ここに、刻み残す。この、文を読んでいる者に、願う。可能ならば、軍に、連絡を。我が隊は、任務に失敗、したとの報告を、願う。机に、回収できた、我々、生きていた、証を、残す。これを、軍に、届けて、欲しい。星陽暦、三二六七年、盛陽三旬、十一日」


 一番最後に付け加えられたかのように、文が刻まれている。

 それらはこれまでのものと違って、荒々しく深い。


「皆、気のいい奴ら、ばかりだった。そんな連中を、狂わせた原因、を、恨む。我々の、家族と同胞を、奪い、世界を、滅ぼし、破綻させた、行い、を、憎む」


 クロウは全てを読み終えると、沈鬱な顔で机を見る。

 そこには十数個の小さな票が置かれていた。彼は手を伸ばし、一時逡巡する。


 これをいったい誰に渡せばいいのだろうかとの思いがあった。

 これをこのまま放置しておくことはできないとの思いもあった。

 なによりも、残された思いが、生きた証が誰にも伝わらないのは、やはり悲しいという思いがあった。


 意を決して、一まとめにされた票を握りしめる。

 掌に載せた小さな票は、とても重く感じられた。

更新遅れて、すまぬすまぬ!

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