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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
10 尖兵は迷い霧を払う
87/96

五 魔性の力

 アーウェルの東、ドライゼスの山並みより朝陽が顔を覗かせた。

 鮮烈な光に照らされて、幾つも並ぶ風の塔より影が伸びる。際立つ陰影は夜明けの光明をより印象付けるものだが、地下街を主な活動場所とするこの街において、それを目にする者はそう多くはない。外で活動する者達……農作業に従事する者や警備に就く者、港湾で働く者位だ。


 そんな朝陽の、眩い光に照らされる場所。

 街の南にある港湾区画でも南端と呼べる旅団屯所は、傍の岸壁に小さな人だかりがあった。彼らの視線の先には小さな舟艇が泊まっている。

 舟艇が身にまとう装甲。その艶やかな赤は朝陽を受けてより一層の照りを帯びており、命なき機械に有機的な色気を与えている。場に集った者の中には、致命的なまでに魅入られている者もいる程である。


 多くの視線を浴びる中、旅装の若者が一人、船に跨った。


「クロウ」


 そのすぐ傍らより、どことなく不安を感じさせる声が響く。

 若者は情を交わした相手を安心させる為、笑みを見せる。それから身に着けていた装具より、一本のナイフを手に取り差し出した。


「ラウラ、また来る時まで預かっていてくれ」

「預かれって言うなら預かるけど……、こういうのってさ、もっとこう、色気があるようなモノなんじゃないの?」

「悪いな、色気がなくて。けど、ずっと持ってた形見なんだよ」


 苦笑と共に告げられた言葉に、息を呑む音。

 若い男女は共に過ごした一昼夜の間に互いに関することをそれなりに話をしている。当然、クロウの過去……故郷や両親を失ったことについても。緋髪の踊り子の反応は、それ故にであった。


「私が、預かっててもいいの?」

「ああ、生きて帰るって執着の一つになりそうだし」

「んー、そこはもっと気を利かせてもいいんじゃない?」


 不満げな顔と声。

 クロウは少し困ったように目を逸らし、彼なりの理由を口にした。


「行き先が行き先だからな、下手な約束はできない」

「……そっか。まぁ、こうして大切なモノを預けてもらえる程度には、クロウの中に私の居場所ができたってことで、うん、私にも隣に立てる機会があるって、思っとくわ」

「俺、そこまで薄情じゃないつもりなんだけどな」

「はいはい、いいからいいから。私も一回寝た程度でそこまで期待してないし、縛るつもりもないわ。だから、精々、浮名を流して男を磨いてきなさい」


 そう言ってから、ラウラは愛しい相手を真っ直ぐに見て、挑発するように不敵に笑った。


「もっとも、私が他の男に惹かれる前にって、条件付きだけどね」


 クロウはまいったと言わんばかりに空を見上げた後、不意に踊り子の手を取り抱き寄せた。

 そして、耳元で何事かを囁いた後、首筋にそっと口付ける。


 漏れる吐息。


 だが、それも僅か。

 男はそっと押し離した。


「じゃあ、行ってくる」

「……うん、また、ね」

「ああ、また、な」


 クロウは女の呆けた顔に微笑んで見せた後、その後ろで見送る者達……別れを邪魔しないよう黙っていたヴィラ号の面々や旅団員、組合職員達に頭を下げる。ついで面覆いを装着し、魔導艇を浮上させた。

 ふわりと浮き上がる船体。同時に推進器を起動。回転盤が静かに動き出す。駆動機関の特徴的な音は徐々に大きくなり、二枚の回転翼もまた回り出す。砂埃が立ち始め、ゆっくり前へ。ラウラ達も自然と距離を取った。旅立つ者より敬礼。それに旅団員達が反射的に応じた所で、加速。


 それは瞬く間であった。

 一際大きい砂埃が立った後、絶え間ない風切り音が大きく、そして徐々に遠くなっていき、舞い上がる砂埃が風に流れた頃には、ただ常の船溜まりだけが残っていた。


「かー、確かに未開域に行くってだけのもんはあるな、ありゃ」


 老船長の感嘆交じりの声が響いた後、見送った者達の間で興奮交じりのざわめきが広がり始める。

 それで我に返ったのか、ラウラが老船長に顔を向けて問いかける。


「今のって、そんなにすごいの?」

「ああ。おめぇ、立ち上がりからあんだけの速度を出せる船なんざ、他にありゃしねぇって話だ。真面目な話、普通の船じゃ無理だろうよ」

「ふーん、そうなんだ」


 気のない返事。

 踊り子は禿頭の船長より視線を外し、東に広がる荒れ地を見る。朝陽の中、枯れた草が風に揺れていた。


「で、エンフリードの野郎、最後になんだって?」

「なにか困ったことがあったら俺の名前を使っていいって」

「……はぁ、一皮剥けたと思ったんだが、まだまだ色気ねぇなぁ」

「後、俺に頼れそうになかったら、エフタにいるミソラを頼れ、だってさ」


 ラウラは口を尖らせて続けた。


「もー、相手がいくら身内だっていってもさ、女の名前を出すのは減点よね」

「そりゃ、ちげぇねぇ」


 老船長もまた呆れた顔で頷き、それから笑って続ける。


「けどよ、いきなり色男に変わっちまうのも、らしくねぇって話だ」

「確かにね」


 軽く笑った女に、二人を引き合わせた男は改めて問いかけた。


「ところでよ、浮名を流せ云々なんてこと言ってたが、んなこと認めていいのか?」

「うーん、半分は冗談で半分は本気。だってさ、これから伸び盛りって感じの男を縛りたくないし、これが私のだって自慢できるほどに、もっと女を惹きつけるような魅力的な男になって欲しいし」


 とは言ったものの、ラウラは胸に手を当てて難しい顔。


「って格好つけて言いたいけど、私だって女だし……、独占したいって気持ちも結構、というか、これ、かなりっ、あるわね! と、特に、他の女に負けたくないっ、取られてたまるかって気持ちなんてっ、あ、なんか言ってたら昂ってきた」


 ぐむむ、これは……失敗したかな、と腕組唸る姿はどこまでも自然だった。

 むしろ今まで以上に生き生きとした風情だ。そんな女が唸りながら言う。


「んぬぐ、い、今のところは、だ、誰かにっ、クロウの隣を譲る気なんてないけどっ! ……それ以上にさ、完全に奪われる方が怖いって感じちゃってるのよ」

「そりゃまた、随分と惚れこんだもんだなぁ」

「まぁ、大切なモノ、亡くしたばかりだから。……二度も経験するのは、ゴメンよ」


 ふっと溜息。


「それに、こんな風に狂ってもいいって思わせてくれる程にイイ男だからね、クロウは。だから、もしも誰かに取られ……、いや、今は誰にも負ける気はしないけど! ……そ、そうなった時はそうなった時で、うん、私としては、私のことを認めてくれる女だったら、い、一線退いて、都合のイイ女でもいいかなぁって、お、思ったりも、するのよ!」

「考えたくもないことは、別に言わんでいいぞ?」

「いいの! これは、今の私なりの、結論だから! っていうかさっきも言ったけど、そう簡単に諦める気も退く気もないし! 退くとしても最低でも、ちゃんと最後まで面倒を見るって条件付けるしっ!」

「はぁー、女ってのは、怖ぇなぁ」

「そりゃ女はいつでも現実的だから! 身に染みてるでしょ、奥さんがいた船長ならさ」


 老境の男は笑って答えず。

 代わりに、ただ朝陽を見上げて問い返した。


「なら、どこまで本気で待つつもりだ?」

「う、うーん、あんまり深く考えてなかったけど……、そうね、私の中に残ってる熱が完全に冷める時まで、かな?」


 緋髪の踊り子はおどける様に笑う。

 情を交わした時の身と心を焦がすような狂熱も、身を寄せ合って眠った時のじわじわとした温もりも、胸に抱かれて寝顔を見つめた時の頭が茹であがるような感覚も、そしてなによりも、今も胎に残り続ける熱が、胸に宿った焔が簡単に消えるとは思えなかった。


「ちゃんと帰ってきなさいよ、クロウ」


 朝の光の中、残された女は男が旅立った方向を見つめ、そっと呟いた。



  * * *



 アーウェルを発った後。

 クロウは出発したことをエフタに連絡してから、魔導船航路……往来する船舶によって作られた筋道に沿って、南東へと舵を切る。

 目指す先は大陸東方域に繋がる隘路。大砂海と他地域とを隔てる二大山脈ノルグラッドとドライゼスの狭間、ヴァールダリア渓谷。より正確には渓谷の半ばより分岐する道筋の先、北峠と呼ばれる北の境だ。

 先に得た情報や砂海図、旧時代の地図といったもので調べた所、その北峠までは大凡七十アルト。あくまでも危険と障害がないという前提であるが、魔導艇の足ならば、一時間強ほどでたどり着ける計算である。


 朝陽の中、ラ・ディは行く。

 魔導機関は今日も快調な音を奏で、二重の回転翼は力強く空を切って舟艇を推し進める。吹き上がる砂埃を押し流し、周辺の枯れ草もまた煽られ揺れる。

 一時として止まることなく前へ前へと進むうち、遠方に見えていた山並みが次第に大きくなっていく。南北と東西にそれぞれ伸びている三千ないし四千リュート級の連なり。裾野の広がりもあって、やはり存在感がある。クロウもまた視界に山々の雄姿を収めつつ、それらの唯一ともいえる切れ間へと向かう。


 左右の山並みへと迫るにつれ、ヴァールダリア渓谷の出入り口が見えてくる。

 この渓谷であるが、雨風が山谷を切り開いたといった観はない。むしろこの部分だけを隆起させ忘れたといった風情である。実際、幾度か為された測量では、渓幅は間口付近で最大十アルト、一番狭い所で一アルトといった所。それが谷の向こう側である東方域まで百アルト弱に渡って伸びている。付け加えると、渓谷は緩やかな傾斜をもっており、魔導船が荷を積載して昇ってこれる程度に東方域側へと下っている。


 そんな渓谷に入った辺りで、クロウは砂埃と動く影を前方に認めた。

 目を細めてみれば、枯れた川筋に設けられた航路を連れだって昇ってくる二隻の船影だった。船の形状から、すぐにゼル・セトラス域の主力貨物船ビアーデン級と判別。魔導船運航規定に従って青旗を掲げると、相手側の船橋にも青旗が上がる。

 そのことに安堵しながら少し速度を落とす。船首で前方の警戒監視に当たっている人影から大きく手を振られたので、手を振り返した。それから規定通りに相手側の右方を距離を取ってすれ違う。相対速度に加え、相手が六十リュート級の魔導船とあって、なかなかの迫力である。


 更に速度を落とし、ビアーデン級が生み出した砂埃を突き抜ける。

 相応に砂塵に塗れるが、実害はほぼない。軽く風防眼鏡を拭く程度だ。それが終わるとまた速度を上げる。


 流れ行く景観。

 航路は赤錆の砂塵に覆われているが、時にひび割れた地も見える。それ以外の場所にしても枯れた草が所々に生えている他は砂礫に覆われ、稀に瓦礫や廃墟と思しきモノがある程度。

 左右に見える山肌も赤銅に塗れた剥き出しの岩肌がほとんど。だが、時にはっとするような緑を目に捉える。それがなんらかの植物だとわかるが、細やかな形状まではわからない。


 水があるのかもしれない。


 若者がそんなことを考えていると、急に渓幅が狭くなる。

 なんとなく絞られていくような圧迫感を覚えながら、渓谷で幅が一番狭い場所に近づいているのだと当たりを付ける。案の定、渓間は更に狭くなっていき、そして南側の山肌に人工物を見つけた。

 それは旧文明期の時経た風体ではなく、明らかに最近になって建てられたとわかる。高さ二十リュート程はありそうな鉄骨製の塔と作りかけとわかる建物だ。彼があらかじめ仕入れていた情報では、アーウェル市と旅団が共同運営することになる監視所だ。

 この監視所が設けられたのは、先のアーウェルでの騒乱を受けてのこと。特に賊党への対処や不審船の侵入防止といった航路監視の重要性が増したことを受けて決められたと聞いている。

 とはいえ、今は見た通りにまだ建設中である。本格的な運用が始まるには、まだしばしの時が必要といった所だろう。


 監視所に目を向けていると、クロウの脳裏に青髪の麗人との会話が思い出される。

 アーウェル騒乱の裏にあった領邦の関与、日常の裏にある暗闘とも呼べる人同士の争い、そして、世界の情勢と戦争になってもおかしくないという観測。


 もしかすると、あの監視所が造られることになったのも……。

 と考えて、自分には大きすぎる話だと首を振る。ついで、自身に何かができる訳でもないことに気を取られる余裕があるのなら、請けた仕事を成し遂げることに全力を傾けるべきだとも考える。


 考えを新たにする間にも、更に前進。

 監視所より更に二アルト程進んだ辺りで、南北に分かれる分岐点が見えてきた。南側は南東に向けて枯れた川筋が続いているのに対して、北側……ドライゼス山脈側に伸びていく筋は砂礫の類が多く、また見目にも上り傾斜であることがわかる。


 記憶した地図にあるままの地形。

 若者は一人頷き、分岐点より北へと向かう。傾斜は先までよりきつく、仮に魔導船で昇るならば、確実に速度が落ちるであろうと思われた。また前方に見える道筋は明らかに狭く、さながら山を切り割って道を開いたかのように、左右に断崖絶壁が迫っている。


 これは、視界が悪いな。


 クロウは顔を顰めながら、気を張る。

 まだここら辺は大丈夫だろうという思いもあるが、この先に飛行型甲殻蟲ダ・ルヴァの生息域があるだろうと考えると、安穏とはしていられない。緊張の色を表情に加えながら、狭くなった谷間を行く。

 前へ前へと進むにつれ、左右の断崖はより高くなり、絶壁もまたより垂直に切り立っていく。それ故か、実際には一アルトから数百リュート程はあろう渓幅がひどく狭く感じられた。


 耳を満たす魔導機関の唸り。

 渓谷に響き渡るそれに、渓間を行く風音が紛れ込む。


 無意識の内に速度を落として、視線を周囲に走らせる。

 幸いというべきか、動く影はない。意識が景観へと向く。地層が剥き出しになった断崖。狭く細長い青空。凹凸を伴いながらもほぼ真っ直ぐに立った絶壁。枯れ切った川底。あちらこちらに転がる大小様々な岩石。薄く染まった影と眩い光の対比。不意に現れる瓦礫と道の名残。


 渓を作り出すモノの中にあって、ゼル・セトラスではあまり目にしたことがない道に目が行く。

 舗装された道の幅はだいたい二十から三十リュート程。無数のひび割れが走り、半分以上が風に流されて崩れている。だが、それでも三百年以上の風化に抗ってきただけはあって、クロウの目に一筋の道筋を幻視させる。それは時に左右へのうねりを見せながら、北へと続いている。


 道の跡は岩石や瓦礫が少ない。もし魔導船を通すならここだろうな。


 クロウは魔導艇を操りながら、報告すべき付帯情報として記憶する。

 こうして仕事に係る情報を仕入れながら滅び去った旧時代の道路跡を進み続けると、左右にある断崖が徐々に低くなってくる。距離計に目を向け、そろそろ北峠だろうかと考えていると、視線の先で上り坂が途切れた。


 どうやら最初の目的地にたどり着けたようだと安堵して、その場に至る。

 北峠はやはり断崖に囲まれた場所であった。自然物だけに歪な形状であるが、南北に二百リュート程、東西には五百リュート程といった広さ。北西側にちょっとした窪みがあり、周囲に枯れた灌木が生えている。そして、進むべき道は北東に向かって下り坂が伸びていた。


 クロウは向かう先を確認してから、一旦魔導艇の行き足を止める。

 それから砂海図を取り出して、到着時刻や走行距離を書き記し、北峠に到達するまでに得た知見を書き込んでいく。


 ある程度書き込んでから、北峠周辺に目をやる。

 残念なことに、行き先は緩やかに湾曲していることに加えて、いまだ高さが残る断崖によって遮られており、先は見通せない。それがクロウの不安を煽るが、行けばわかるだろうといった楽観かつ強気な心で封じ込める。

 目を転じて、灌木に目を向ける。今にも折れそうな枯れ木は窪みに沿う形で点在していた。


 ここにも木があるってことは、やっぱり水があるのかもしれない。


 少数の低木あり水源の調査要と地図の北峠付近に記した後、クロウは湧水筒を手にした。



 休憩を十分程とってから、北峠より先へと下り始める。

 下り坂で目にする光景は先までと変わりはない。地面は砂塵と砂礫で満たされており、時折瓦礫や岩石が転がる以外は気まぐれにといった様子で枯れ草が揺れているだけだ。けれど、旧文明期の道はこの乾いた渓底を貫く形で残っている。

 また渓幅にしても極端に狭まったりすることもなく、登ってきた南側と同じ程度はある。ただ傾斜は少し緩やかに感じられた。


 クロウは未開領域に踏み入ったことを受け、速度を常の半分程度にまで落として進む。

 そのまま周囲に注意を向けながら十分二十分と下っていると、彼の耳が妙な音を拾い上げた。


 魔導機関の回転盤にも似た、断続的な低い音。


 前もって脅威(ダ・ルヴァ)が存在することを聞いていただけに、若い顔に緊張が走る。

 行き足を更に落とし、上方に目を向けながら耳を澄ます。しかし、彼の視界には、なにも見つけられない。


 だが、音は確かに聞こえ近づいてくる。

 後ろかと振り仰ごうとした時、唐突に途絶えた。


 そして、それが始まった。


 まずもって、遠く聞こえた唸るような響き。

 徐々に甲高さをも帯びて、耳障りな音となったかと思えば、急激に大きくなった。


 泡立つ背筋。

 確かめる余裕もなく、咄嗟に加速。


 その二秒後、後背にて大きな地響き。

 空気を震わす轟きと共にナニカが飛んできて、クロウの後頭部に当たった。


「いっ!」


 強い衝撃。

 ガクンと前に倒れる頭。

 幸い舌こそかまなかったが、世界が揺さぶられるような感覚に呻く。少し速度を落とし、くらくらする頭を捻って振り返る。


 舞い上がった砂煙の周辺に、バラバラになった甲殻や肉片、染みが散らばっていた。その細かな砂塵がふっと流されると、小さな窪みの中に半ば埋もれる形で蟲が潰れていた。細長い独特の形状。その大半を弾けさせながらも背中に残る透明な羽根が一枚、微かに動き続けている。


 まさに見ると聞くとでは話が違うを地で行くような光景。


 想像していた以上の攻撃に、クロウは声もない。


 これが、ダ・ルヴァかっ!


 空からの襲撃、それも捨て身の攻撃の恐ろしさを体感し、ただただ顔を引き攣らせる。


 そんな彼の耳が、更なる音を拾う。

 重なり合うように連なる唸りを……。


 若い顔から血の気が引いた。

 頭に残っている痛みも忘れ、クロウは後方の空を仰ぐ。


「うそだろ……、おい」


 知らず漏れた、かすれ声。


 彼の視線の先、薄青の空を背にして、数十の影が旋回していた。

 付け加えると、今まさに一つ二つと影が動きを変え始めていた。


 瞬間、手が腰の得物(魔導銃)に伸びる。

 が、いくら魔導銃が優れているとはいえ、立て続けに、しかもかなりの速度で落ちてくる相手を迎撃しきれるとは思えず、また迎撃できたとしてもモノが降っていることに変わりがないことに思い至った。


 では、どうすればいいのか?


 頭で決める前に、クロウの身体が動き始めた。

 操縦桿にのしかかる様に身をかがめ、ゆるゆると回っていた魔導機関を全開に。


 そう、逃げるのだ。


 浮き上がろうとする魔導艇を抑え込みながら、彼は胸の内で叫ぶ。


 どこに逃げれば、連中の攻撃を凌げられるっ!


 必死に頭を回転させながら、焦燥を露わに逃げ場を探す。

 だが、甲殻弾(ダ・ルヴァ)の攻撃から身を守れそうな場所は見当たらない。その間にも攻撃の予兆たる耳障りな音が鳴り始めた。それが更なる焦りを呼び、クロウの口からは欲するモノがついて出る。


「やねっ! やねはどこだっ!」


 地響きが間をおいて起きる。

 背後から追いかけてくるその響きはこれまで感じたことがない程に恐ろしく、クロウは恐慌寸前である。


 危うい均衡の中、三分近く逃げ続け、遂に逃げ込めそうな場所を見い出した。それは右側の断崖にあった洞穴。否、洞穴と呼ぶには浅すぎる断崖の窪み。風などの侵食で作られた出っ張りである。しかし、今の彼にはそこだけが唯一の拠り所に見えた。


 あそこに逃げ込めばっ!


 そう考えた傍からその横を通り過ぎる。

 迷いもせず、舵を右一杯に。急な動きに傾ぐ艇体。それを体で押さえる。艇は流されながらも右に、艇自体も回転を始める。後ろで轟音。横目に確認。飛び散る諸々。方向転換が終わり、当て舵。目の前を舞い流れる砂煙。それを突き破るように影。顔を強張らせながら、艇が滑るに任せる。右横数リュートをナニカが通過。荒れ狂う砂塵、腹に響く地響き。飛沫と破片が船と身体を叩く。


 推進翼が散弾(破片)で壊れないことを祈りながら、再加速。


 咽びのような音がまた大きくなる。

 視界の隅に、六枚の羽根を広げた影を認めた。クロウは命を奪わんと襲ってくる相手を一瞥。細長い身体に不釣り合いな程、大きな頭。弾頭のようなそれの左右と下部に複眼が三つ。無機質な赤い輝きがおぞましさを誘う。

 歯を噛みしめることで、沸き起こる怖れと嫌悪を封殺し、目的地との距離を測る。避難場所として選んだ出っ張りはもうすぐそこにあった。岸壁に近づけるだけ近づき、推進器を逆回転。ついで急制動。行き足と相反する力のぶつかり合いに艇が暴れる。が、強引に抑えて断崖の窪みに潜り込んだ。


 直後に轟音。

 出っ張りが激しく震え、砂や礫が降り散った。

 クロウは見た目脆そうな天盤を見上げえ、出っ張りが崩れるのではないかと不安を覚える。が、ようやく逃げ込めた場所から逃げ出そうという気分にもなれない。なによりも、まだ例の音は続いている。

 ラ・ディを着船させ降り立つ。地を踏みしめて、安心できる程ではないにしても人心地がついた。今更ながらに汗が滲み出てくる。面覆いを外したい欲求に駆られながらも魔導銃を引き抜く。それからダ・ヴァの動きを探るべく、一歩踏み出す。


 途端、目の前の大地に一塊が落着した。


 足より伝わる振動。肌身に感じる衝撃。

 砂塵に交じり、礫に甲殻、湿った肉片が飛び散る。急所を守るべく、身をかがめる。痛みを伴う撃。防護具がなかったらまずいと感じる程の当たりもあった。顔を顰めながら耐える。

 それからまた顔を上げる。砂煙が晴れたそこには、バラバラになったダ・ヴァの姿。そこになにがなんでも人を殺そうとする意図を感じて、身震いする。ついで思う。この航路を使えるようにするには、なによりもまずこいつらの駆除が不可避であると。


 航路開設に伴う多難な前途を予期して唸っていると、視界の隅に……坂の下側に蠢く影。

 つられて目を向けると、彼にとっては馴染みのある姿を認めた。ラティアだ。頻繁に触角を動かしながら、一匹二匹と昇ってくる。おそらくは斥候役だろうと見て取り、顔を顰める。


 あれだけ音を出して騒げば、気が付いて当然だな。


 そう思いはしてもなんの慰めにもならない。

 クロウは溜め息をついて、今後の方針について考える。そんな彼の目に思わぬ光景が映る。

 上方から彼をこの場に追いやった蟲が舞い落ちてきたかと思うと、器用にもラティアを足で捕え、飛び立ったのだ。


 あっけに取られている内に、視界から消える。


「ぇえ……、もしかして、連中、アレ食ってるのか?」


 クロウの呟きを裏付けようとするかのように、また別のダ・ヴァが空から現れ、ラティアをかっさらう。それが当然と言わんばかりの動きに、甲殻蟲の生態を垣間見た気がした。


 と、このままダ・ヴァが現れたラティアを全て捕食して、クロウが見逃されれば良かったのかもしれないが、現実はそう甘くはなかった。


 次々にダ・ヴァが七つ目の陸生蟲(ラティア)に襲い掛かるのだが、それ以上の数は次から次へとわらわら昇ってきたのだ。否、それだけではなく、獲物を持ち去ろうとしたダ・ヴァを数に任せて絡みつき、引きずり落としすらした。


 これは、一度退こう。


 クロウはそう決断し、魔導艇に跨る。

 が、その前に、群がクロウの存在に気付いた。群はまるで一個の生命体のように、クロウを指向する。無機質な七つの目が、それも数え切れぬほどの目が、ただ一個人に向けられたのだ。


 自然、顔が強張る。

 今すぐ逃げようと操縦桿に手に掛けた時、耳に聞こえてきたのはダ・ヴァが旋回飛行する音。


 逃げれば爆撃、留まれば襲撃という状況に、目元口元が歪む。

 死地にあって、どちらがより生き残れるか、自信をもって対処できるかと天秤にかけ……、彼はまた地に足を付ける。


 それから魔導艇を窪みのより奥に押しやると、再び魔導銃を手に取った。

 まだ距離があると見て、赤色の(爆裂弾)魔術弾倉(カートリッジ)を魔導銃に差し込み、構える。そして、徐々に距離を詰めつつある相手に向け、撃ち放った。


 赤色に輝く光が一筋走り、群の先頭を行く個体に当たった。


 弾ける光弾。

 内に込められていた術式が解放され、炸裂。大音声を伴う衝撃が火球と共に広がり、辺り一面を吹き飛ばす。


 しかし、ラティアの行進は止まらない。

 爆裂に巻き込まれなかった個体が左右から迫り、後続が炎熱残る爆心地を踏み荒らしながら埋める。


 その様子を認め、忌々しいと舌打ち。

 クロウは一度魔導銃に目を向け、これを作り上げた者達の顔を思い出す。魔力が切れる心配はないと彼に話した小人の顔を……。


「あの言葉、信じるぞ、ミソラ」


 小さく呟き、他の群に向けて魔術弾を撃った。



 その後も、ラティアによる襲撃は断続的に続いた。

 轟く爆裂音が新たな個体を引きつけるのか、なにがしかの伝達手段でもってかき集めるのか、理由は明らかではないが、とにかくラティアは絶え間なく坂を上ってくる。百が千に、千が万にといった具合に、とにかく増え続ける。


 そして、クロウはその全てをことごとく吹き飛ばした。

 赤い光弾を撃ち出す度に、腹に響く爆裂音が空気を震わし、渓間に共鳴する。全周囲に放たれた衝撃が命を圧し殺し、広がり膨れ上がる高熱が酸素を燃焼させて窒息をもたらし、その場の全てを焼き溶かす。


 だがそれでも現れる数は一向に減らず、一リュートまた一リュートと彼我の距離が狭まっていく。

 四百あった距離が十二十と詰められて迫ってくる。


 無数の足が生み出す地響き。圧迫感に背中は汗に濡れ、焦りを覚える。

 ならばと、若者は射撃設定を三連射に変え、更なる轟炎を呼んで押し返す。


 一進一退が続き、気が付けば、夕焼けに染まる渓間。

 否、渓間を染めるのは夕焼けだけではない。度重なる爆裂によって焼かれ続けた大地もまた熱を帯び、空気を焼き揺らす。


 そんな渓を埋め尽くす、蟲、蟲、蟲。

 百二百といった一群がぞろぞろと集まって群団を、群団が重なり合って大きな群集団を形成し、狭い隘路を昇ってくる。その全てが数多の同胞の屍を踏みしめ、熱せられた大地と空気に焼かれながら、ただただこの場に唯一の殺戮対象を目指して押し寄せる。


 対するクロウは少しでも懐に差し込まれないよう、休むことなく、右に左に魔導銃を撃ち続ける。

 その表情はどこまでも引き締まり、大きく見開かれた両の目は爛々と輝いている。一人戦う彼を支えるのは必ず生きて帰るという意志と、目に入る蟲全てを鏖殺せんとする、どこまでも強固な殺意。

 不退転の意志により、ラティアに恐れを抱いていた常人としての感覚は麻痺し、代わりに表に出ているのは尖り切った遺恨の念。故郷を奪い、父母を奪い、友人を奪い、平穏を奪い、当然を奪った理不尽な相手に対する、尽きることのない憎悪だ。


 故に、彼はただひたすらに殺し殺す。


 しかし、蟲の波が止まる気配はない。

 絶え間なく押し寄せる波のように、時に全てを呑み込まんとする津波のように、小さな都市ならば蹂躙する規模を超えて押し寄せる。百が潰れてもその倍が、千が潰れても更にその倍がと、死を恐れぬ突撃は終わらない。


 状況が膠着したまま陽が沈み、夜になっても蟲の行群は続く。


 ぼうと赤く浮かび上がる渓間。

 死と破壊の熱風に幾度も晒されて、地は削れ焼け焦げ、所によっては溶融している。特に古き時代の舗装路は溶け出して泡を立てつつ窪みに流れ込む。粉微塵になった蟲の欠片や体液も蒸発し、えもいわぬ悪臭と蒸気が一面に立ち込めている。

 その中にあっても、ラティアは進み来る。溶けた舗装材に沈み燃え上がりながらも、それを足場として生ある限り迫り来る。


 無数の鮮烈な赤が蠢き光る。

 もはや小さな漲溢と呼べる程の尋常ではない状況にあっても、若者は揺るがず。殺戮の場より届く強い熱波や風圧に晒されても退かず、耳の通信機の呼び出し音にも応えず、もはや機械的とも呼べる動きで、それこそ息を吸うように殺し、目に収めるたびに殺す。


 ただ死と炎熱で織り成された世界を見据え、そこで蠢くモノ全てが消えてなくなるまで、彼は引き金を引き続ける。



  * * *



「え、クロウから連絡が来ない?」

「うん。定期連絡の時間になってもこかったから、こっちから連絡したんだけど、応答がないの」


 真剣な顔、真剣な声。

 ミソラは夜更けになって訪ねてきた相手……ミシェルの言葉を受けると何かを追うように東を見る。それから首を捻った。


「応答がない、ねぇ。……別に一回くらいは大丈夫でしょ。一昨日もなかったんだし」

「いや、一昨日はアーウェルにいるってわかってたから」

「今回も似たようなものじゃない?」

「い、いやいや、今回はさ、ほら、外に出てるわけじゃない」

「うん、だから単純に、通信ができない程に忙しいだけでしょ」

「いやいやいや、それで終わらせるのもどうかと思うんだけど!」


 女は自分が思っていたような反応が返ってこないこともあって、必死に食い下がる。その見目良い顔に滲むのは心配の色。

 それを認めたミソラは意外なモノを見たと言わんばかりに目を瞬かせる。それから破顔し、軽い調子で言った。


「大丈夫だって、クロウなら。そんな簡単に死ぬような、軟な男じゃないわよ」

「う……」


 小人の絶対の確信を込めての言葉に、ミシェルは怯む。


「で、でもさ、ほら、私が怪我したみたいに、もしかしたら問題が起きてるかもしれないっじゃない!」

「んー、大丈夫よ。怪我もしてないし、ちゃんと生きてるって」


 当然のように言い切る小人。

 どうしてそう言い切れるのかとの疑問を抱きながら、ミシェルは問う。


「根拠は?」

「勘」


 即答。

 これは嘘だと、女の密偵としての感覚が察知する。自然、睨むような目。

 ミソラは女の強い視線を受けて、苦笑い。ついで後ろを気にするような仕草。小人の後ろ、応接室の出入り口より同居する魔導士が不安そうな顔を覗かせていた。女密偵も思わず口を閉ざす。


 また小人が言う。


「大丈夫大丈夫。今のクロウはね、昔とは違うの。多少の困難なんて、笑って乗り越えられるわ」

「でもさっ」

「あれ信じられない? クロウのこと」

「う……、ま、まぁ、信じる信じないで言ったら、信じるよ、私だってさ」


 死ぬだけと思ってた所から連れて帰ってもらったからねと続けた後、ミシェルは口を尖らせて、ミソラを睨む。


「というか、ミソラちゃん、その言い方はずるくない?」

「ずるくないですー。信じられない方がわるいんですー」

「ぬくっ、なんかイラッてくるなっ、その言い方っ」

「ふふん、絆の太さがちがうのよ」

「き、絆で言ったら、わたしだって同棲してるしー。湯上りの姿、いつも見てるしー」

「え、その程度ならわたしも見てるわよ。というか、わたし、上から下まで生まれたままの姿をじろじろ見られたんだけど?」


 妙な方向に話がずれ始めた。

 この場にいない少年との繋がりを自慢しあう会話に、離れた所で二人のやり取りを見ている少女の顔が不機嫌なものへと変じていく。それに気が付いているのかいないのか、ミソラが唐突に表情を緩ませると、落ち着いた声音で改めて告げた。


「まぁ、とりあえず明日の朝まで待ってみなさいな。それでも連絡がつかなかったら、今度こそなにか考えましょう」

「んー、了解ー。いやー、ごめんねー、夜中に騒いじゃってさー」

「いいわよ、別に。……ただ待つだけってことはさ、とても辛くて大変で、心を試されることだから」

「なんか改めてそう言われると、今から心が折れそう」

「大丈夫よ。さっきも言ったでしょ。クロウはそう簡単に死ぬような軟な男じゃない、多少の困難は笑って乗り越えられるってさ。だから、明日の朝には、悪い、ちょっと忙しくて連絡できなかった、って声が聴けるわ」


 小人はそう言い切ってから、普段はどこに隠されているのかと思ってしまう程の、柔らかく慈愛に満ちた顔で微笑んだ。



  * * *



 払暁。

 先に力尽きたのは、蟲であった。

 終わりが見えない程の、それこそ渓間を埋め尽くした数が全て塵芥と化したのだ。


 薄明りの下、それを為した若者は血走った眼で鏖殺の場を見渡す。

 いまだ冷めやらぬ熱気の中、あちらこちらで薄い煙がくすぶり昇り、削り取られた場所には流れ込んだ溶融物が固まり始め、赤茶け色の中で黒い染みのようになっている。


 そこに動くモノはない。


 男は一時目を閉ざし、凝り固まった両の腕をゆっくり降ろした。

 息を吐こうとして、ひりついた喉が渇きと痛みを訴える。同時に、全身にだるさを覚えた。急に重くなる身体。棒のようになった足をゆっくりと動かそうとして、ふらりと視界が揺れる。

 倒れると思った時には膝をつき、腰が落ちる。膝立ちのような態勢になり、両手で握ったままの魔導銃を見る。十の指が魔導銃と一体と化したかのように握りしめている。手を放そうとするが、ぴくりとも動かない。


 言うことを聞かない身体に、ふっと口元が緩んだ。


 音が戻ってくる。

 風の音、自分の鼓動、なにかがくすぶる音。

 切っ掛けを作った忌々しい蟲の羽音やラティアの足音は聞こえてこない。


 安堵と腹立たしさを抱きながら、また顔を上げる。

 視野には先と変わらない光景が広がっている。今更ながらに現実感が戻り始め、昨日の昼から今にかけての出来事や自らの所業が嘘のようだとの思いが……、そう、夢のようだとの思いが沸き起こってくる。


 しかし、事実は変わらない。

 殺し間には運よく形を残す個体を除いて、なにも残っていない。彼が……クロウ・エンフリードがただ一人でもって、渓を昇ってきたラティアを、その全てを尽く葬り去ったのだ。


 あまりにも非現実的な、あまりにも規格外の戦果。

 機兵として教練されたが故に、一個人で為せる訳がない戦果であると思い知らされる。


 若者は視線を落として、魔導銃を見る。

 砂塵に汚れた以外、先日をほとんど変わらない。

 だが、それこそが事を為した全て。一個人が扱うに過ぎた、魔性の力を帯びた武器であった。


 もしも、あの時に、これがあったら。


 クロウは過去を振り返り、そう思う。

 けれど、覆すことができない時の重みを、また自らが積み重ねてきた出会いと経験を思い、目を伏せる。

 現在()があるのは、過去があるからこそで、喜びも幸せも、悔いも嘆きも、何もかもが埋め込まれた時間を経て、今の自分になったのだとわかっているが故であった。


 だが、それでもと思う気持ちを抑え込み、少しばかり昏い目で銃を見つめる。


 これについて、ミソラに聞いた方がいいな。


 胸の内で呟き、心なしか重くなったそれより手を離すべく、指を一本一本、ゆっくりと引きはがす。

 十分近くかけて手指の強張りを解き、魔導銃を腰の銃嚢(ホルスター)に収める。心が少し軽くなった気がした。


 気が抜けた為か、全身のだるさを改めて認識する。

 脱水になっていると感じて、顔を顰める。しかし思うように力が足に入らない。しかたなく四つん這いで魔導艇へと向かう。なんとなく今の自分がおかしくなって、笑みをこぼす。

 這う這うの体どころか、実際に半ば這いながら艇に辿り着き、湧水筒を取り出す。それから背中を艇体に預け、水を口に含もうとして、面覆いをしたままであることに気付く。我ながら抜けていると口元を歪め、それらを外した。外気に触れて感じるのは涼しさ。同時に鼻をつく強い臭気に苦る。ほっとした気分がげそりと削れて呻く。

 酷い場所だと、自らが生み出したことを無視して、眉根を曇らせる。そして、今度こそ水筒に口を付ける。


 一口、水を含む。

 水気。血の味。吐き出す。


 思うままに呷りたい気持ちはあったが、それ以上に乾ききった口内が気持ち悪かった。


 再び水を含んで喉を濡らし、また吐き出す。

 そして今度こそ水筒をより傾け、随分と久しぶりになる水を喉奥へと流し始めた。


 体内を流れ落ちる冷たさに、身体の火照りを実感する。

 筒内の水がなくなった所で、あちらこちらの力が抜けた。より重くなった身体を唯一の味方に深く預ける。ぼうとしたまま数分が流れ、なんとなく声を出そうとして、咽る。慌てて水を呷り、また咽る。なんとか収めた所で、その時に一番感じた思いが声に出た。


「初日から、これか……。先は、長そうだな」


 酷い仕事を請けたものだと思い、それを喜んで受けたのは自分だったと苦笑する。

 そんな折、耳に付けた通信機が呼び出し音を奏でだした。ああ、昨日は連絡できなかったなと思いながら、通信機を作動させる。


「こらーっ! 定期連絡はするって決めたんだから、ちゃんと連絡くらい入れなさいよ!」


 耳元での第一声。

 強い語勢に、顔を顰める。

 しかし、ミシェルの声を聞いて、心の緊張が解けた。意識が日常に戻ってきたことにつられて、表情も緩む。


 緩んだ顔のまま応えようとして、今し方の出来事をどう伝えればいいかと迷う。

 彼としてもありのままに伝えればいいとは思う。が、やったことがやったことである。まず信じてもらえるかはわからないし、信じてもらえたとしてもより心配させてしまうだけのような気がした。


 ならば、これ以上の心配をさせる必要はないだろうと、意識して普段通りの声を作る。


「あー、悪い、ちょっと忙しくて連絡できなかった」


 すぐに返事が来るとばかりに身構えていたが、なぜか沈黙である。

 聞こえなかったのかと首を傾げるが、唸りらしき音は聞こえてきたので繰り返さない。


 十秒近く経って。重い重い吐息。

 いつもの彼女らしからぬ色気も何もない、呆れたと言わんばかりの溜息であった。


「まったくもー、こっちは夜も眠れない程に心配してたってのにさー、ちょっと忙しかっただけですかそうですかー」

「いやまぁ、そういう時もあるっていうか、こっちも知らない場所を行くんだから慎重に慎重を重ねてだな」

「はいはいわかってますー。わかってますよー、わたしが一人で空回りしてただけですよー」


 女のどこか拗ねた声に、なんなんだと首を傾げる。

 ただ言うべきことは言うべきだろうと、クロウは口を開いた。


「連絡ができなくて、あと心配をさせて、悪かった」

「まー、うん、了解。そういう時もあるもんねー」

「できれば忙しくない方がいいんだけどな」

「だねー」


 相手が普段の調子に戻ってきたと感じて、若者の気持ちも落ち着く。

 ついで、魔導銃に係る用件を解決しようと用件を口にした。


「ミシェル、頼みたいことがある」

「あいあい、聞きましょう。夜のおともに、私特級の喘ぎ声かな?」

「それを聞いてどうしろってんだ?」

「え、ナニってそりゃあ、わかるでしょ」

「そんなことしてる暇があるなら、寝る方がいいな」

「禁欲的ねぇ」


 危険地帯でそういったことをしないのが禁欲的なんだろうか。

 埒もないことを考えながら、強引に話を戻す。


「誰かさんと違って常識的なだけだ。で頼みたいことだけど、ちょっとばかり、ミソラと話したいことができた。次の連絡か……、いや、飯時ならいつでもいいから、話せるようにしてほしい」

「それ、ミソラちゃんだけでいいの?」

「え? ああ、ミソラだけでいいんだけど……、他に誰か話したいことでもあるのか?」

「かー、このにぶちんめー。わざとかー?」


 平坦な声。そこには呆れが多分に含まれていた。

 クロウは困ったように視線を彷徨わせる。夜明けが近いのか、先よりも周囲は明るくなってきていた。


「あのな、誰となにを話せっていうんだ? 今日一日ちょっと危ない所もありましたが無事でしたって、そんなことしか話せないんだぞ、こっちは」

「いやいや、その元気な声を聞かせるっていうのが大切なことだと思うなー」

「それは、まぁ、わからないでもない。けど、こっちもどれだけ日にちがかかるかわからないんだから、魔力はできるだけ節約したい。というか、だから定期連絡って決めたはずだろ」

「むむ、正論に立ち戻ったかっ」

「いや、今も結構無駄話してると思うんだけどな」


 と言いつつも、クロウは通信を切らない。

 やはり独りは寂しいものなのだ。特に命を賭けた後は……。

 そんな男の気持ちを見透かしているのか、ミシェルもまた通信を切らない。


 再び通信機の向こうより声が届く。


「ならさ、希望者がいたら一言二言だけでもいいから話すってのはどう?」

「まぁ、それくらいなら、大丈夫かな?」

「よし、なら今日、ミソラちゃんとこ行った時に話つけて、誰か手を挙げる人がいないか探してくるわ」

「ああ」


 クロウが頷くと、今度は笑いを含んだ声。


「あ、でもさー、クロウ。前に友達がいないって言ってたじゃない。……希望者、いるといいわねー」

「い、いると信じたいところだな」


 震えそうな声で答えて、若者はなんとなく胸がいたくなる。けれど彼は、我慢して続けた。


「とにかくそういうことだから、こっちから連絡するまでに話ができそうなら、そっちからの連絡を頼む」

「了解了解ー。ちなみに、現在地は?」

「……あー、北峠付近ってことで頼む」


 そう告げた後、クロウは相手に伝わらない程の小さな声で、とりあえず、あそこから仕切り直しだなと呟いた。

17/08/21 誤字修正。

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