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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
10 尖兵は迷い霧を払う
86/96

四 時に忘我の癒しを

 共通歴三百十八年旭陽節第一旬二日。

 年始たる初陽日より一夜明けたエフタ。その港湾部にて、小さな舟艇が遥か東の地を目指して旅立とうとしていた。


 搭乗者は赤髪の少年。

 砂風や熱射避けの外套を纏い、風防眼鏡(ゴーグル)防塵面(マスク)を身に着けた姿は、乗り込んだ舟艇と相まって風来者を思わせる。


 その彼が岸壁上に立つ人々に目を向けた。

 彼が遥か彼方へと旅立つことを知り、見送りに来た三十近い人々。親代わりである孤児院の院長をはじめ、同じ院で育った者達に馴染みの商店の者達、組合の中年職員といった以前より付き合いのある顔があれば、まだ知り合ってから時が浅い者達……マグナ・テクタの面々や信を置く整備士、留守を任せる居候、老舗の女当主とその家族、付き合いのある市軍関係者や新人機兵達の姿もあった。


 そんな彼らとの別れは、もう既に終えている。後は最後の確認のみである。


 クロウが視線を前に向けると、夜の残滓を背にして、宙に浮かんだ身内の姿。

 翠の燐光をまとう姿は小さな見目姿もあって、どこか淡い儚さを感じさせる。とはいえ実際の為人を知ってしまえば、それは幻想にすぎないと多くの人が断じるだろう。そんな存在である。


 その相手が問いかけてくる。


「クロウ、これが最後の確認よ! 忘れ物はない?」


 この確認に対して、クロウは皮手袋を付けた手で、自らの装具を触れながら答える。


「防護具は着けてる。暗視装置は耳に付けたし、通信機も首に固定した。魔導銃とナイフ、湧水筒も革帯にある」

「よろしい! 乗っけたものはどう?」

「魔導鉄槌と天測具は手の届く所に。食料は予備を含めて十日分。シャリカも一袋あるし、双眼鏡と野営具、後、救急具も積んだ。記録用の筆記具と白地図は予備も含めて放り込んであるし、アーウェルの組合支部と旅団に届ける通信機も、この通り、後ろに縛ってある」

「うん、大丈夫ね! ならアーウェルですることは?」

「支部と旅団に通信機を届けて、設置と試験の立ち合い。それから追加の食料とか足りないと思ったモノを用意してもらうのと、北回り航路に関連しそうな情報をなんでもいいから集めて、航路設定や行動の参考にする。後は最後の休暇だったか? これを全部三日ないし四日で済ます」


 クロウがつらつらと言い並べた内容に、ミソラは満足したように頷く。


「よしよし、ちゃんと覚えてるわね」

「そりゃまぁ仕事だし」

「それができない人も、この世の中にはいたりするの」


 小人は苦笑して、まぁ、そんなどうでもいいことは置いといてと続けてから、表情を改めて澄んだ眼差しを少年に向けた。


「これからクロウが行くところは、予備知識がほとんどない未知の領域よ。これ以上進むのは無理だって感じたら、すぐに引き返しなさい」

「らしくないな。ここは、なにがなんでも達成しろって言うところだろうに」


 クロウの軽口に小人は微笑む。

 その小さな形に見合った淡い色。だが、その内に隠されているのは、確固たる心胆。優美に弧を描いた口より返されたのは否定の言葉だった。


「そんなこと言わないわよ。だって、死んだらそこで終わりだもの」


 ミソラは少年の目を見つめると、本性を剥き出しにして不敵に笑った。


「そりゃ引き返したら依頼は失敗でしょうね。でも失敗なんてものは、誰にでもあることよ。いい経験した、次の参考にするってと思う程度でいいじゃない。というかさ、そもそもの話、今回の遠征は一人で成し遂げるのは無理難題って言ってもいいことなんだからさ、失敗しても仕方ないって言い張れるっしょ」

「お、お前なぁ、行く直前に失敗の話か?」

「ふふーん、それ位の方がいいのよ。肩肘張って、なにがなんでもなんて考えていたらできることもできなくなるし、いざって時の判断も鈍るってもんよ」


 クロウは小人の物言いに、思わず笑う。

 だが、それで肩の力が抜けたのも事実だった。


「向きになるな、力抜けってことか」

「そういうこと。今回の件もね、失敗しても生きて帰ってこられれば、また挑むことはできるの。……生きてさえいればね」

「そりゃ金言だな。覚えとく」

「ええ、進むか退くか迷った時に、思い出して」


 少年は身内の忠告に頷くと、魔導艇の浮上機構を作動させた。

 途端、ふわりと浮き上がる船体。魔導艇を初めて見る者達からどよめきが起きる。それに導かれるように、クロウは岸壁へと手を振った。方々より気をつけて行けやちゃんと帰ってこいよとの声が上がった。


 クロウは面覆いの下で口元を緩める。

 けれど応えを返すことはせず、大きく首を縦に振るだけ。最後の言葉を残したのは、一番傍にいた小人に対してだった。


「じゃあ、行ってくる」

「ええ、いってらっしゃい」


 もう名残は惜しまず。ただ慣れた手つきで、変速装置を前進に設定。右手の握り……推進器の駆動装置を稼働させた。

 おもむろに二重反転(プロペラ)が回り出す。少しずつ高くなる回転音。艇尾後方で砂埃が巻き起こる。それに伴い、小さな舟艇も前へと進み始めた。最初はゆるゆると、次第に加速しながら。そうして岸壁から離れ、船溜まりを抜け出る。


 市壁の合間……錆びた荒野と群青の空が開けた。


 行こう。

 その意思を実現すべく身体が動き、小さな舟は速度を上げて奔り出した。


 これまでになく砂塵が吹き上がり、推進器の奏でる(甲高い)音がより大きくなる。


 しかし、それが目に入っていたのは十秒にも満たない程度。

 音は聞こえなくなり、砂埃が落ち着いた頃には、小さな舟艇などはじめからなかったかのように、常の光景だけが残されていたのだった。



  * * *



 見送りを受けて、勢いよくエフタを飛び出した魔導艇。

 最初の目的地であるアーウェルまでは、約二千四百アルト。距離と時間の短縮を優先して、魔導船航路を行かぬ道行であったが、出だしより順調の一言であった。


 出発前の入念な整備のお陰で、快調に回る魔導機関。

 二枚の回転翼もまた何の不具合もなく、絶えることなく空を掻き回し、強大な推進力を生み出す。

 また斥力型浮上装置の優れた走破性でもって、砂礫の丘陵帯を越え、瓦礫の平原を抜け、枯れた川底を渡り、道なき砂の海を駆ける。


 速度計が指し示す数字は、常に七十から八十の間。

 従来型魔導船のおおよそ三倍の速さだ。それだけの速度であるから、当然の如く周囲の景観……砂塵と瓦礫、廃墟で織り成される荒れた野は次々にその姿を移しかえていく。


 クロウはそうした景観へと目を向ける。

 巡航維持装置の導入により操作にかかる手数が減ったことに加えて、先の依頼での経験……今よりも劣悪な装備で十日近く砂海を旅したことも影響して、これまでになく計器類や周囲に目を配る余裕が増えた結果であった。


 彼の目……風防越しに映るのは、ありのままの世界。


 周囲三百六十度、見渡す限りの地平線が天地を隔てている。

 向かう先、視野の過半を占めるのは空。そこを朝陽がゆるゆると昇り行く。強い光を浴びて輝いていた大地はいつしかその色を失い、元の赤錆に戻っている。そこは影色少なく荒廃した世界。重なり転がる瓦礫。風紋刻む砂礫の丘。砂塵に半ば埋もれた廃墟。遥か彼方に開拓地のモノと思しきわずかな緑が見えた。そのあまりにも場違いな色に違和を覚える。


 直後に首を一振り。

 あれこそが人が生きる証拠だと、狂いかけた感覚を改める。


 それからは見方を変え、動く影がないかと再び砂海へと意識を向ける。

 三十分程探してみるが、やはり動くモノはなきに等しい。あったとしても、それは六足の異形(ラティア)だ。彼が見知る通り、頻繁に触角を動かして彷徨っている。付け加えれば、魔導艇の存在に気が付くと、当然といった観で追跡を試みてくる。彼我の速度差や距離もあって、追い付かれないとわかってはいる。だが、気分のいいモノではなかった。


 幾度目かの追跡を受けながら、人が連中よりも優位に立つのはいつになるのか等と考える内に、陽はより高くなる。とはいえ旭陽節が始まったばかりだけに、盛陽や爛陽の頃に比べれば、角度は浅い。同じく日照時間も少ないことから、降り注ぐ熱射量も少ない。

 だがしかし、ここは遮るモノのない砂の海。刻一刻と熱せられる荒野は夜の冷え込みを忘れたように熱くなり、いつしか陽炎を揺らし始める。時折、吹き抜ける熱風が一時吹き消すことはあれど、完全に消えることはない。

 またその風は塵芥を舞い上げ、気まぐれに渦を巻く。そのまま消えていくものもあれば、螺旋を描き空に向かって伸びていき、唐突に散らされるものもあった。


 そして、正午近く。

 見晴らしの良い場所で一旦船を止め、光陽の位置を測る。同行者がいないことで周囲にも意識を向ける必要があり、なんとなく落ち着かない。覚悟していたとはいえ、やはり一人は大変であった。

 それでもしっかりと観測情報を記録し、砂海図を使って現在位置を割り出す。行き足が順調であったこともあり、当初の想定よりも一割増の距離を稼げていた。満足できる結果である。しかし、この感慨を共有できる相手はいない。

 否、いるにはいる。だが、定期の通信は朝の出発時と夜の野営時の二回と取り決めたこともあって、勝手はできない。この取り決めは魔力の節約を考えて、また通信の回数が多いと自分も向こうも煩わしいかもしれないと思ってのことであった。


 少年は携行食(堅パン)を取り出しながら、顔をしかめる。

 自らの変化……グランサー時代や機兵になった頃は、今のような状態が日常であったのに、いつの間にかそれが当然ではなくなっていたのだと気が付いたが故に。


 思い浮かぶのは、小人と居候の顔。

 両者ともにしてやったりと言わんばかりに、輝かしい笑顔だ。そんな顔が自然と思い浮かんでしまうことに、なんともいえぬ悔しさを感じながら、堅パンに歯を立てる。いつものように硬く、歯が軋んだ。



 昼休憩の後、午後からの航行も順調……を通り越して、快調といえる出来であった。

 陽が傾き、夕暮れの色が強くなり始めた頃。野営地を探し始めた段階で、当初想定の三割増しの距離に至っていた。


 これならば明日の昼までには着くだろうと安堵しながら、今日の野営場所として、まだ建屋が残る廃墟に目星をつける。崩れそうにない程に頑丈そうで屋根と壁がある、更には魔導艇が収まる程度の大きさもある、そんな廃墟だ。

 少し離れた場所にある瓦礫の合間に着船し、魔導銃片手に接近。中に蟲が入り込んでいないか、また入り込めるような隙間がないかを間口より確認する。もっとも、地下遺構に潜ったこともある彼にしてみれば、この程度は児戯に等しい。一分もしない内に、特に問題がないと結論を出した。


 中の安全を確認した後は、魔導艇と共に内部に潜り込む。

 砂海では貴重な日影ということもあってか、少し空気が冷たく感じられた。

 暑熱から逃れたことに加え、野営場所を確保できたことで、クロウは大きく息を吐く。なかなかに重く深い吐息。そのことに自ら気づき、笑おうとして失敗。できそこなった表情は、しかめ面に似た歪みを顔に刻む。


 彼にとって、一人旅は今回が初めてである。

 彼が自分で意識していた以上に、緊張していたのだ。


 初日でこれかと微かに動揺を覚えつつ、魔導艇の点検に入る。

 魔導機関に関しては問題なく動いていることから手出しをせず、操舵で使われている鋼線(ワイヤー)の張り等の確認や、回転翼にこびり付いた砂塵の清掃を行う。これが終わると、内部を伝う魔力導線に断線がないかを目視で、また制動系の反応を確かめるべく動かしてみる。どちらも問題がないとわかれば、点検は終了である。


 簡単すぎるかもしれないが、彼は素人。

 資格持ちならばやり方も変わろうが、今のクロウにはこれくらいが精一杯であった。


 点検が終われば、野営の準備を始める。

 魔導艇の傍らに横になれる広さの布を広げ、その上に組み立て式の骨組みを建てて天幕をかぶせる。全てを一人でこなさなければならない為、彼が思っていたよりも多く時間がかかった。見れば、外の景色は朱と臙脂に染まっている。


 夕焼けに染まる様子を見て、クロウは魔導艇に乗っている時よりも疲れるような感覚に陥る。

 けれど、やることはまだある。食事の準備だ。


 携行用加熱器に小鍋を乗せ、中に水と堅パン、粉乳を放り込んで茹でふやかす。

 携行食(堅パン)のもっとも一般的な調理法だと、開拓大全に書かれていたままの調理法である。どんな風にできるのかと鍋の様子を見守る。

 徐々に沸き立つ水。粉乳が溶けて白濁し始める。乾ききった堅パンにも水分が浸透して、ゆっくりとほぐれていく。こうして三十分近く煮込むと、銃弾すら防ぐとも言われている堅パンも姿を消していた。そこに香辛料を少々で、完成である。


 柄ではないと思いながらも、食前の祈り。

 書かれた通りに作ってみたがと思いながら、出来上がったパン粥を口に運ぶ。


 塩気が足りていないことはないはずなのだが、薄く水っぽい感じ。

 また粉乳の味も今一溶け込んでいない。香辛料の香りもどこかに飛んでいってしまっている。


 はっきり言って、まずかった。


 いや、まずいのを否定しようがないが、食べようと思えば食べられなくはない程のまずさだ。

 とはいえ、ミシェルが作ったモノを口にしていた影響か、更に食べようという気にはなれなかった。


 それでも栄養の補給は必要である。

 なんとか口内のモノを嚥下した後、少年は匙を咥えたまま、死んだ目でぼやく。


「これ、戦場食かなんかだろ」


 明日の朝からは自分なりに味を調整しよう。後、アーウェルで調味料とか絶対に買おう。


 そう一人決意しながら、クロウは鍋に追加の塩と香辛料を落とした。


 なんとも微妙な食事を終えてからは、天測の時間まで一息つく。

 同行者がいないこともあって、なんとなく手持ち無沙汰だ。しかし、出入り口を封鎖していない為、気は抜けない。仕方なく魔導艇に精を預け、外の様子を眺める。

 刻一刻と色を失っていく世界。陽が陰り、消えていく様に寂寥を感じる。それが影響したのか、クロウの頭に一人の少女のことが思い浮かんだ。


 その少女は、リィナ・ルベルザード。

 先の事件以来、顔を会わせていなかったが、出発前の挨拶回りで、久しぶりに言葉を交わしたのだ。

 その際、リィナからの感謝を皮切りに、近況に関する話や今回の依頼の話といった風に話題が移り変わっていったのだが、やはりというべきか、彼もリィナもぎこちなさを隠し切れず、話は弾まなかった。


 クロウは重い息を吐き出す。

 リィナと住む世界が違う、とは思いたくはなかった。けれど、求められる役割や置かれた立場が違うということは認めなければならない。そして、危険と隣り合わせに生きる者と、そうでない者との間には、隔てる一線があるのだということも。


 少し鬱屈した気分に浸っている間に、外が暗くなる。

 暗視装置を作動させ、時計を見る。天測の時間が迫っていた。気分を入れ替えようと一息に立ち上がり、天測具をもって外へ出る。周囲に脅威となりそうなモノがいないことを確認してから、暗視装置を一度切る。


 白黒の世界が色を持つ。夜空には、早くも多くの星が煌めいていた。

 必要となる星を探し、手早く観測。必要な数値を手に入れたら、すぐに野営地に引き返す。一人である以上、星空を楽しむなどという余裕はない。加えて、まだやるべきことが残っているのだ。


 それは野営地の安全を確保する為の、出入り口の隠蔽封鎖である。

 クロウは廃墟周辺に落ちている瓦礫を入り口に運び、真ん中に積み重ねていく。間口は幅と高さそれぞれ三リュート程。その半分程を埋めようというのだから、中々の重労働である。彼はグランサー時代を懐かしみながら、それをこなす。

 こうして瓦礫を適当な大きさ……ラティアが入り込めない程の幅と高さにまで積み上げた。次に湧水筒より瓦礫に水を振りかける。流れ落ちる水が地面にまで達したのを見てとるや、魔導銃を取り出し、凍結弾倉を装着。


 距離を取ってから、水滴る瓦礫に魔術弾を撃つ。

 白く輝く魔弾は当たった瞬間に、瓦礫の表面や隙間に入り込んだ水気を凍てつかせる。これを二度三度と繰り返した所で、砂海ではまずお目にかかれないであろう氷漬けの防壁のできあがりである。

 ゆっくりと休む為にはどうすればいいか、ミソラに相談して考え出した方策であったが、彼の思惑通りに出入り口は半ば塞がれ、ラティアが入り込めそうな隙間はなくなった。そこに加えて、鋼線と閃光音響弾(スタングレネード)を使った警戒線を張る。


 これで連中の襲撃があってもすぐにわかるだろう。 


 そう思えた段で、少年は脱力する。

 それからは落ち着いた気分で、為すべきことを為す。天測結果を基に正確な現在地を割り出して、砂海図に現在地を書き込み、出発点とを線で結ぶ。これと予定線とを比較し、現状を確認。行程を順調に消化できたことがわかり、頬を緩ませた。


 通信機を作動させる。

 相手方を呼び出す為の呼び鈴が一定間隔で連続して鳴っている。それが一回二回と続いた後、唐突に切れて声。


「はいはーい! こちらミシェルだよー!」


 賑やかで明るい応答。

 砂海に馴染んだ耳には、大きくてけたたましい。しかし、同時にほっとした。しかめ面になりながらも口元は緩む。


「もう少し声を抑えてくれ。耳にくる」

「あはは、ごめんねー。まーでも健気なわたしが今か今かと連絡を待ちわびていた気持ちが噴き出したものだと思ってゆるしてほしいところなんだよねー」

「長い。予定通り、三分で終わらせるから短く頼むわ」

「辛口ぃ! もっと待ってる人を大切にした方がいいと思うよ! わたしは!」

「わかったわかった。考えとく」


 クロウの答えが気に入らないのか、ミシェルの口から文句が一頻り。

 そのいつもと変わらぬ様子に、少年は笑みをこぼす。それでも先にやるべきことを済ませようと口を開く。


「文句を聞く前に、現在地を報告したいんだが?」

「あいあい、ちょっと待ってねー。……うん、準備できた。いつでもどうぞー」

「ああ」


 クロウは地図に書き込んだ経緯度を読み上げる。

 相手からの復唱を聞いて、あっていることを確認。一日の最後の仕事が終わったとほっと息をつく。それを聞きとめたのか、ミシェルが少し笑いを含んだ声で訊ねてきた。


「一人だと、やっぱり疲れる?」

「そりゃな」

「そう。……あーあ、私も一緒に行けたら、うまい具合に心の隙間に付け込んで、ねちょねちょな関係を実現させたのに」

「ほんとぶれないのな、お前」


 本当にこいつはもうと、クロウは一人項垂れた。



 普段と変わらぬ調子で互いの状況を伝えあった後、クロウは通信を切る。

 言葉一つに騒ぎ笑い怒り文句を言いと、あまりにも賑やかに過ぎる相手との通話が終わって、彼はぐったりとした風情で魔導艇にもたれかかる。一日で一番疲れたかもしれないと、口元を引き攣らせて息を吐く。


 そして、心寂しさを覚えた。


 彼の顔に驚きはない。ただ、あの賑やかさが自分にとって当たり前になっていたのだろうと、一人笑う。

 自らの胸の内に生じた感情に負けないように、同時に、自分一人ではもうどうにもできない心の動きから目を背けるように。少年は胸に残るに人恋しさに抗おうと、顔をしかめて小さく笑う。


 しかし、それは消え去ることはなかった。


 クロウはまた一つ溜息。

 首を振って笑みを払うと、明日も早いと自らに言い聞かせて、天幕の中へ。傍らに一番の頼り(魔導銃)を置き、寝具にくるまって自らの身を抱く様に横になると、静かに瞳を閉ざした。



  * * *



 寝込みを襲われるといったこともなく、一夜が明けた。

 クロウはなにかに急かされるかのように手早く準備を整えて、夜明け前には野営地を後にする。

 魔導艇は昨日と同じく、これといった問題はない。順調に航程を重ねていき、陽が中天に差し掛かる頃に、アーウェルを遠方に捉えた。


 エフタに到着した旨の連絡を入れると共に、アーウェルを遠景を眺める。

 久方ぶりに見るが、少し外観が変わったように見えた。その原因がなんなのかを考える内、知り合った者達のことを思い出す。


 特に印象に残っているのは、緋髪の踊り子と盲目の奏者。


 奏者とは二度と会えないが、踊り子とはもしかすると会えるかもしれない。

 そんな淡い期待を抱く一方で、今回はすぐに離れるから、会わない方がいいかもしれないとの思いも抱く。


 相反する思いを胸に秘め、灯台(港湾管制)との入港にかかるやりとりを済ませて、港湾部へと入る。


 船溜まりには、彼が想像していたよりも多く船が泊まっていた。

 着実に元の状態に戻りつつあるのだと思い、クロウの表情も緩む。そのまま旅団が使用する区画……灯台の膝元の埠頭へ。埠頭には三隻のバルド改級の他にラーグ級が四隻ほど接岸しており、幾つかの船上には作業をする人影も見えた。


 その埠頭の一つに手を振る数人の姿。

 そちらに近づいていくと、大きな声が届く。


「お待ちしておりました! 街を護った英雄をまた迎えられて、光栄の限りです!」


 大仰なと思いはしたが、これも一つの評価。

 その評価に恥じぬよう、心身を引き締めて行こうと彼は思った。



 魔導艇と魔導式通信機を旅団の整備士に預け、出迎えの者達と顔を会わせる。

 先の言葉にもあったように、この地で起きた騒乱に関わり、事の元凶たる首魁を討ち果たしたということもあってか、両者の態度は友好的かつ丁重であった。

 和やかな空気のまま、魔導艇や砂海の旅路について、あれこれと世間話をしながら最寄りの旅団詰所へ。

 一息ついた所で、今後の予定について話し合う。その結果、担当者揃っての昼食の後、必要な物資についての相談と出発日の決定、通信機の設置と試験、宿への案内、ということになった。


 そんな訳で、まずは腹ごしらえである。

 場所は旅団詰所に併設された食堂。潰し豆の丸め揚げに挽肉の葉物巻きといった料理に舌を慣らしながら、アーウェルの復興状況や変わった所、近隣域の様子、移民の現状、東方領邦域の情勢、魔導船航路の現在、北部域での大規模行群のあれこれ、エフタやエル・ダルークの様子、マグナ・テクタ創設関連、魔導艇の乗り心地と、互いが知る情報を伝え合う。


 特に話の中心になったのは、マグナ・テクタ関連。

 組合にしろ旅団にしろ、場所が離れているとはいえ、支部と本部との繋がりが相応にある。当然ながら、マグナ・テクタが有用性の高そうな品々……魔導銃や甲殻装甲、魔導戦脚といったモノを開発していると伝え聞いている。

 そこに今回の魔導式通信機の試験導入が決定したことに加え、従来の魔導船とは一線を画した魔導艇を自らの目で見たのだ。関心も高まろうというもので、あれやこれやと質問が少年に飛んでくる。

 それらへの受け答えをなんとかこなしていると、自然と流れはクロウの仕事……新航路開拓遠征の話へと移り変わっていく。


 その中でクロウが特に求めたのは、アーウェルに集まっている未開域に関する情報。

 どんな情報でもいいのでとの言葉に、組合と旅団の担当者からの返答は、ある程度まとめてあるので、明日の朝には宿に届けます、であった。

 最低限の情報は得られそうだと安堵しながら、出発の日取りも決める。クロウが要望した品を揃えるのに、それほどの時間を必要としないだろうということもあり、荷物の受け渡しが五日の昼、出発は翌六日の朝ということになった。


 打ち合わせを兼ねた会食が終われば、アーウェルでの一番の仕事である魔導式通信機の設置と試験である。

 最初に港湾に着船している第二遊撃船隊の旗船で、それが終われば、市の中心部に位置する組合支部でといった具合に、それぞれの通信機を設置し、問題なく作動するかどうかの試験を実施。

 結果、まずエフタ本部との通信に成功。次に本部に設置された中継交換機を介して、支部と旗船との間の連絡が可能であるかを確認する。ほぼ全ての者が初めて触るということもあって、最初の試験でまごついたりすることもあったが直ぐに慣れていき、最終的には通信中継にかかる手順や応答を間違いなく進めるにはどうすればよいかといったことまで、話が為されるようになった。


 こうした具合に試験が終わる頃には、陽は西に傾き始めていた。

 用意された宿へと案内される。奇遇というべきか自然というべきか、以前使用していたアーウェルで一番の老舗宿であった。さすがに部屋までは同じではなかったが、見覚えのある場所ということで、少し気が落ち着く。

 部屋に荷物を置いた所で、案内役より夕食はどうするかと聞かれる。街の様子を見て回りたいと告げると、人の良さそうな中年職員は訳知り顔で微笑み、では明日の朝にまた伺います、良い夜をとの言葉を残して去っていった。


 言われた直後は意味が分からなかったが、立ち去った後に勘違いされていることに気が付く。


 少年は思わず苦笑して、痒くもない頬を掻いた。



 クロウは汗を流して服を着替えると、アーウェルの地下街へと出向く。

 夕刻が迫る頃合いの、相応に穏やかな様子。一見だけでは例の騒乱による影響は見受けられない。

 しかし、実際には繁華街をはじめ、幾つかの道筋は封鎖されたままであったし、焦げた跡が壁に生々しく残っている場所もあった。


 そして、街行く人々の表情。

 直後に見た陰りは見えない。無論、見せていないだけかもしれない。だがそれでも、表情を取り繕うことができるだけの余裕があるか、気持ちの整理が進んでいるのではないかと思えた。


 クロウは賑やかな声が聞こえてくる、一つの通りへと引き寄せられるように足を向ける。

 通りには以前にはなかった、小さな露店が整然と立ち並んでいた。食料品や衣料品、更には日用雑貨といった類を扱っているようで、エフタ繁華街のような猥雑な印象は受けない。ただエフタの商店街のような陽性の活気があった。

 心地よい雰囲気に、彼の表情も緩む。そのまま歩いていると、ある店に目が止まった。植物の種と花を扱う店。店先の展示場には色とりどりの花が飾られている。とはいえ、砂海で成るゼル・セトラスでは花は嗜好品。飾られているほとんどは造花だ。

 足を止め、歳経た店主に花束を頼む。生花と造花、どちらでと問われ、生花でと応じる。途端、今から結婚の申し込みにでも行くのかいとからかわれた。クロウは軽く笑って首を振り、目的を口にする。それを耳した店主は少し目を伏せるが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて用意を始めた。


 小さな花束を手にすると、また歩き出す。

 一本一本が高いだけに十本にも満たない数であるが、白と青、それに黄色と比較的落ち着いた色合い。鮮やかな色彩は赤錆たこの地に生きる者を和ませる。特に造花にはない自然な色調は、道行く人々……特に若い女性の目を引くようで、すれ違う度に花と顔に視線が飛んでくる。少しばかり落ち着かない気分にさせられるが、地上に出ればそれもなくなった。


 足を止めることなく、街路を行く。

 道行き、地上の様相を見る。建設中の風の塔、時折すれ違う荷車、通行止めのロープ、洗濯物を取り入れる人影、変わらない古い市壁、病院から聞こえてくる子どもの泣き声、回り続ける揚水風車、長く伸びる水道橋に短い苗で満たされた麦畑。


 陽が西に傾き、開けた麦畑にも街影が長く伸びる。

 自然とあの日のことを思い出しながら歩き続けて、目的地を目に収めた。


 そこはかつては東門があった場所。

 先の騒乱で犠牲になった者達を追悼する慰霊碑だ。

 碑は門を塞ぐように設えられた巨大な一枚板で、足元には数え切れぬ造花が添えられている。


 わたしたちは、あなたたちをわすれない。


 そう短く刻み込まれた碑文を見上げ、ついで、その下に嵌め込まれた複数の金属板を見る。

 幾つもの名前が刻み込まれた銘板。その刻字を一つまた一つと目で追い、そこに込められた生と死を思う。そして、探していた名を見つけた。


 出会いから予期せぬ別れまで、短い間でしかなかった。

 けれど、耳にした郷愁を誘う旋律と共に覚えている。


 少年は花を手向け、瞑目する。

 どれ程の時が経ったのか。物音を耳にして目を開く。音が聞こえた方向に視線を送ると、慰霊碑の前で静かに佇む人影があった。顔は影となって見えなかったが、姿形から相応に歳をとった女の観だった。


 女もクロウの視線に気づいたのか、落ち着いた声で訊ねてきた。


「あなたも、誰かを?」

「ええ、この街に来て、知り合った友人を」

「……そう」


 人影は短く応えて、首を垂れる。それからまた口を開いた。


「わたしも息子を亡くしました」

「そう……ですか」

「市軍で機兵となった、自慢の息子でした」


 感情のない平坦な声。

 女は顔を上げて、碑を見つめる。


「あの日も、いつもと同じように朝を食べて、いつもと同じように家を出て……帰ってきませんでした」


 クロウは思い出す。

 市軍機兵の葬儀で、泣き崩れた女の姿を。


「あの日、きっと大丈夫だと信じて、無事に帰ってくると祈って、待っていました。でもやって来たのは隊長さんで、息子が死んだことと遺言を伝えられて……、隊長さんは決して悪くはないのに、あの時は感情を抑えきれませんでした」


 自らの行いを悔いるような告白。

 少年にはなんと応えればよいかわからない。ただただ黙して、耳を傾けるのみである。


「あの子は小さい頃には本当に臆病で、夜になる度に一人は怖いと添い寝をねだったりして、なにもない所で転んでちょっと怪我をしただけで大泣きして……、そんな子が機兵になると言い出した時は本当に驚いたし、実際になれた時はもっと驚いたわ」


 女は一度語を切り、静かにこぼす。

 あの時に反対しておけば、よかったと。


「それは……」

「たとえ息子に嫌われたとしても、あの時にダメだと言い含めておけばよかったと、今になって思う時があるわ」


 一人の母親は様々な感情を押し込めて、話し続ける。


「不思議なものでね、どこにいても事あるごとに、あの子と一緒にいた、本当になんでもない時のことが思い出されて、あの時にああしておけばよかった、こうしておけばよかったって考えてしまうの。……いまさら遅いのに」


 小さな溜息。


「あの子の死は……、皆が言う通り、自らの命を犠牲にして、多くの人の命を守ったのだから、決して無駄なものではない、誇りあるものなのかもしれない。でもね、それでも……、わたしは、あの子に、あの子に生きていてほしかった! 臆病者と呼ばれてもっ、卑怯者と呼ばれてもいいっ。ただっ、ただ……生きて、帰ってきてほしかった。生きて、生きてさえいて……」


 乱れた言葉は徐々に小さくなり、不意に途切れた。


 強く走り抜ける風。

 足元の造花がざわりと揺れる。


 遠く風車が回る音。

 陽は黄昏、世界は紅に染まる。


 あの日と同じように……。


 数秒とも数分とも取れそうな沈黙の後、再び人影が声を発した。


「急に、こんなこと言いだして……、ごめんなさいね」

「いえ。……でも、どうして自分に声を?」

「ふふ、後ろ姿が息子と似ていたから、かしらね。あの子のことを忘れられなくて、毎日ここに来ていたけど、今日は本当に驚いたわ」


 そう言ってから、話に付き合ってくれてありがとうと告げて、女は慰霊碑に背を向けた。


 クロウも自然と振り返り、その背を見送る。

 肩を落として、ゆっくりと去っていく後ろ姿。長く伸びた影もあってか、寂しく見えた。



  * * *



 なかなか寝付けなかった夜が明けて、四日。

 昨日の約束通り、朝食後に未開領域に関する情報が宿に届けられた。


 とはいえ、さほどの量はなかったようで、紙にして二枚だ。

 クロウは手にした書類を読み込み、おおよその所を抑える。記されていたのは従来航路からの分岐点と周辺の様相、そこからの昇り斜面と頂点となる峠に関する情報が主で、その先に関しては伝聞による未確認情報のみであった。


 やはり十分とは言えない。

 けれども、入り口の情報が明確なだけでもありがたいと思い直す。後は自分なりに伝手を頼ってみようと考えて、部屋を出る。

 直後、エルティアから預かった手紙を忘れたことに気付いて踵を返す。まずは手紙を届けてからだなと、クロウは知らずに逸っていた自分に苦笑した。


 ラファン家に赴き、在宅したエルティアの母に手紙を渡してから歓談。

 程々で切り上げて、今度こそ目的を達するべく港へと向かう。伝手が港にいるかいないのかは賭けになるが、その時はその時で出直せばいいと割り切っての行動だ。

 地下街は通勤時間が終わり、雑踏の賑わいも一段落といった所。代わって耳に届くのは、工業区画からの機械音。一定の間隔で何かを打つ音や削り切り取る金属音が遠く聞こえてくる。


 音を背に受けながら、地下通路南端より門前広場へ。

 広場に繋がる道は運搬路と化しているようで、幾つもの荷車が人やコドルに曳かれて往来し、港へつながる南市門を出入りしていた。クロウも道の端を歩いて、市門をくぐる。衛兵から特に見咎められることはなく、港湾区画へ。

 船溜まりの船は昨日よりも増えていた。左右に広がる岸壁や突き出た埠頭では盛んに荷役が行われており、ゼル・ルディーラ(大砂嵐)直前の飛び込み依頼の多さを思わせた。


 この様子なら船長たちも仕事だろうと思いながら、この地で世話になった老船長の船を探して歩く。残念なことに、記憶にあった西側の岸壁には別の船が接岸しており、貨客船ヴィラ号の姿はなかった。


 夕方に出直した方がいいかもしれない。


 そんなことを考えつつも、念のために東側にも足を向ける。

 都市間交易の担い手であるビアーデン級貨物船が五隻ほど並び、その向こうに十近いラーグ級。それらの船に備え付けの起重機が荷台を上げ下げすれば、荷役運搬車が大物を運び、荷役の者達が肩に担ぎあげて倉庫との間を行き交う。

 仕事の邪魔にならないよう、気を付けながら奥へ奥へと進む。残り三隻ほどといった所で、一番端の船に見覚えがある気がした。もしかしてと思いながら近づいてみれば、案の定、それはヴィラ号であった。


 船上で煙草を吹かしていた白髭の男が彼に気付き、声を上げた。


「……お? なんだおめぇ、おい、エンフリードじゃねぇか」


 驚いたといった風情で目を丸くしたのは、ヴィラ号の船長カルロ・ベナッティであった。



 船長を含めた乗組員たちとの再会の挨拶もそこそこに、相談したいことがあると告げると、上がってきなとの声。

 クロウは少し懐かしく思いながら、船に足を踏み入れる。もっとも感慨が浸る前に、ゆったりと紫煙を吐き出した老船長が訊ねてきた。


「んで、なんなんだ? 相談したいことってのはよ?」

「ええ、こっちに来たことの理由っていうか、請けた仕事の関連なんですけど……」


 と前置きして、彼が請けた仕事……東方北回り航路の開拓について話し出す。

 その話を聞き終えると、老船長は黒光りする禿頭を一撫で。呆れたようにも面白そうにも見える顔で言った。


「機兵だけじゃなくて船乗りもしてたってか? しかも、一人で未開域に突撃たぁ……、ほんと、おめぇも生き急いでるなぁ」

「あはは、ま、まぁ、報酬が魅力的なこともありましたし、そこまでの成り行きもありまして」

「いや、別に責めちゃいねぇさ。人生なんざ、人それぞれ。他の誰のモノでもねぇんだ。思うように生きるってのもいいもんだからよ。……しかし、北回りに、未開域の情報たぁなぁ」


 紙巻を咥えたまま唸り、どこまで調べたと続けた。


「従来航路が谷間を下っていくだけなのに対して、想定航路は分岐点から北東には谷間を昇っていく必要があるということ。それ以上のことっていうか、峠を越えてからは未確認の情報が多くて……」

「まぁ、その辺りが限界って奴だろうよ。峠の向こう側は谷幅が狭隘な上に、魔導船殺し(ダ・ルヴァ)が出る。船で行くにゃ相当の覚悟がいるってなもんだ」


 見てきたかのような物言い。

 もしかしてと思い、クロウは日焼けした顔を見る。にやりと笑う顔があった。


「船長、もしかして行ったことが?」

「この船を手に入れてしばらくした時によ、興味本位で峠を越えてみたんだよ」


 老境の男はあの頃は無茶したもんだと遠い目をする。

 一方のクロウは思わぬ所に生の情報があったことに驚き、少しばかり焦り気味に口を開いた。


「ど、どういった感じでした?」

「んなもん、幅が狭いだけで谷間自体はそこらと変わらん。……だが、あんときゃよ、はぐれか偵察かは知らんが、ダ・ルヴァに見つかってなぁ。たまたま外れたから助かったが、下手すりゃ沈められる所だったわ」


 老船長は顔を顰めて、身震い。

 心底から嫌そうな顔を認めて、少年は聞いておく必要があると感じた。


「ダ・ルヴァの習性は知識としては知ってますけど、実物はどんな感じなんです?」

「ああ、ありゃあ怖ぇもんだぞ。突然、吹鳴機(サイレン)みてぇな音が聞こえたかと思ったら、いきなり大きくなってよ。影が見えたと思ったら傍らにドカンだ。船乗りからすりゃ、アレは冗談抜きに洒落にならねぇ奴だ」

「……先に見つけられないと、まずいですね」

「いや、あいつに関しちゃ、先に見つけてもまずいことにゃ変わらんだろうよ」


 クロウは空にも注意を向ける必要があるなと記憶する。

 それと同時に、北回り航路を実際に使おうと考えるならば、ダ・ルヴァの掃討ないしそれに抗するだけの対策が必要だと思った。


「他に、なにか知っていることはあります?」

「あるにゃあるが……、これは経験したもんじゃなく、人から聞いた話だ。それでもいいか?」

「ええ、教えてください」


 ベナッティは少年の真剣な眼差しにわかったと頷き、こいつは俺が若い頃に聞いた話だと言い置いて話し出す。


「大酒飲みで有名な年寄りの船乗りがいたんだが、そいつが言うにはよ、谷を抜けた先は低木が生えていて、よく霧が出るらしい」

「きり?」

「ああ、水でできた砂埃みてぇな……、あー、そうだな、ほれ、風呂場の湯気に似た奴がよ、外で大々的に立ち込めるって理解すればいい」

「なる、ほど」

「まぁ、ゼル・セトラスじゃまずお目に掛れねぇが、水気が多い所だとそれなりに起きる現象だから、覚えときな」

「了解です」


 少年が頷いたところで、続きが紡がれる。


「んでよ、その低木帯を抜けた先には草原が……、この辺りより草の量が多い平原があって東にずっと続くそうだ」

「へぇ、それは凄いですね」

「……おい、エンフリード。こいつは酔っ払いから聞いた話なんだからよ、でたらめだって前提で聞いとけよ?」

「はは、その辺りはだったらいいなって思っておきますよ。……ちなみに、蟲は?」

「出るって話だ」

「種類は聞いてます?」

「ああ、なかなかの語りっぷりだったからな、覚えとる。ラティア(七目六足)に地面を這いずる奴、低空で飛ぶ奴、跳ねまわる奴、低木に化ける奴、硬い殻のでかい奴が出るらしい」

「お、多いですね」

「どっかで聞いた奴を、適当に並べたような感じもするがな。後、聞いた話自体はここで終いだった」


 唐突に切れた観があり、なんとなく中途半端な気がした。

 が、どこまで本当なのかわからない話である以上、そんなものだろうとも思いもした。これに付け加えると、組合や旅団から手に入れた情報には、今し方聞いたような内容はなかった。


 ならば、一つの参考になるかもしれない。

 そう考えれば、船長に話を聞けて良かったと思えるというモノである。


「わかりました。情報、ありがとうござます」

「おい、さっきも言ったが、こいつは酒飲みが酒代をせびる為に語っていた話だ。どこまで本当なのかはわからりゃしねぇぞ」

「あー、言われてみれば確かにそんな感じですね。……けどまぁ、行き先がイイ環境かもしれないと思えば、行こうって気にもなれますから」

「希望がないよりはマシってか?」

「ええ、どうせ行くことには変わりはないですし、なら、そっちの方がいいような気がしてきまして」

「……へっ、その前のめりな姿勢、機兵にしとくのが惜しくなるな」


 老船長はクロウの物言いが気に入ったようで、楽しげに笑った。


 そこから話は移り変わり、互いの近況を伝え合う。

 当然の如く、話の中で出てくるのは、クロウと親交を結んだ踊り子のことであった。


「そういえばよぉ、おめぇ、あの娘っ子とはもう会ったのか?」

「いえ、会いに行ってないです。明後日には出発しますし……、会ってもすぐに別れることになるんで、それもどうかなって思っちゃいまして」


 クロウの言葉に、老船長は何かを言いかける。

 だが、結局は何も言わず。口と目を閉ざして腕組み。少年の言葉の裏にある迷いや思いをくみ取り、ただ短くそうかと言って続ける。


「まぁ、おめぇがそれでいいって言うなら、それでいいかもしれねぇか」

「ええ」

「なら、むさくるしい爺さん連中と昼飯でも食うか?」

「いいですね、って言いたいところですけど、船長、仕事は?」

「請けた奴は去年の内に終わらせてらぁな。今日は飛び込み待ちって奴だからよ、別に構わねぇさ」

「なら行きましょうか。美味い店、期待させてもらいます」

「おうおう、任せときな」



  * * *



 任せろと言った通り、老船長が選んだ店……黄金の陸鳥は味量共に満足いくものであった。

 もっとも、突如として生まれた臨時休暇ということで気が高ぶってしまったのか、乗組員たちがここぞとばかりに酒を頼んだ為、宴会じみた様相となってしまった。

 賑やかに賑やかに、酒の勢いもあってか歳経た男達は失敗談や過去の恋話、更には猥談を肴に盛り上がる。そうした話の一つ一つがまた別の話を呼び、見知った者やたまたま店に食べに来ていた者達を絡めとる。そして気が付けば、店にいた者達全員を巻き込んでの酒宴となり、賑やかさに惹かれて集ってきた者達の為の机椅子が用意される。そうなると隣近所の飲食店にも人がひっきりなしに入るようになり、ついには全てが溢れて、地下通路を塞ぐ勢いでの大宴会である。


 クロウとしては、あれ、どうしてこうなったんだろうと思わずにいられない状況だ。


 ベナッティは向かいの席に座った少年の、途方に暮れた顔に気付いて笑う。


「なに、例の件があってからよ、こういう風にバカ騒ぎができねぇ空気があったからな、うっ憤を溜め込んでた連中がここぞとばかりに憂さ晴らししてるんだろう」

「憂さ晴らしにしては、勢いがありすぎですよ」

「そんだけの勢いが必要なほど、例の件が重かったって話だ。見ろよ、アレ」


 促されてクロウが店の外を見てみれば、騒ぎに駆け付けた若い警邏が酔っ払いの女に絡まれて、酒を飲まされていた。


「飲ませた女は留置所で一晩、若いのは叱責と始末書だな」

「うわぁ」

「けど、アレでいい。アレがいいのさ。時に勢いでバカなことが起きるのが、本当の日常って奴さ」


 老船長はほろ苦く笑って、酒杯を口に運ぶ。


「確かに、あの騒乱は酷いものだった。生活はめちゃくちゃになったし、最低限の信用や信頼も吹き飛んだし、なによりもたくさん人が傷ついて死んだ。……けどよ、いつかどこかで、その犠牲と経験を踏みしめて、前を向かなきゃいけねぇ。いつまでも変に引きずってっと、冥府に逝った奴が安心できねぇからな」


 老境の男は少年を見て、少し寂しそうに告げた。


「どんな辛くても、それが今も生きている奴らがしなきゃならねぇことだろうよ」



 時が経つ。

 酒食の宴はその盛り上がりを衰えさせることもなく、むしろ規模を拡大させていく。

 通りに溢れ出た人垣が別の通りを塞ぎ、機を見るに聡い者達もそれに乗じて商いに精を出す。食欲をそそる匂いが、威勢の良い掛け声が、心弾ませる演奏が、趣深い様々な動芸が、地下通りに広がっていく。

 伝播する熱気とから騒ぎは新たな酒食の場が生み出し、更なる賑やかさと熱気を周囲に撒き散らす。ここ最近なかった歓声や楽し気な笑声、演奏や歌声に吸い寄せられるように、次から次へと人が姿を現す。まずは年寄りや休みの者達が、次に子ども達や家を預かる者達が、そして最後に夕刻となり、仕事を終えた者達が、歓声や笑声に満ちた地下道に現れる。


 多くの人々は呑めや歌えやのバカ騒ぎに驚き、ついで笑顔となりその中に混ざり入っていく。


 この騒ぎに対して、市庁は大きな反応を見せず。対して治安を預かる市軍は最初期こそなんとか制御しようとした。が、集った者達の熱気と勢いに押されて、本当に最低限の介入……喧嘩の制止や飲み過ぎたり熱にあてられて倒れた者達の看病に努めるようになる。


 かくして、アーウェルが熱に浮かされた一夜……カァム・ダ・バルデ(慰霊の饗宴)が始まった。



 市史に残る夜が始まろうという時、クロウは地下街を抜け出し、人と熱気にあてられた頭を冷やしていた。

 場所はかつて訪れたことがある洗濯屋の屋上。風がよく通るそこへ、老船長の口利きで昇らせてもらったのだ。


 少年は火照った顔を手で仰ぎながら、いつかと同じように寝転がり、空を見上げる。

 既に陽は沈み、多くの星が煌めきだしていた。それは砂海で見るものと同じであるはずだが、どこか違って見えた。なにが原因だろうかと考える。耳に届くざわめき、人が生きる証を耳にして、すぐに答えは出る。


 他の誰かがいるかいないか、それが一番の違いだと。


 だが、その答えとは裏腹に、彼の心は寂しさを感じている。

 他の誰かがいたとしても、心許せる相手が……、減らず口を叩きあえるような相手が傍にいない事実が、そう感じさせている。


 胸に隙間風が吹き込むような感覚に、クロウは目を閉じて耐える。

 一人で暮らしていた時は、こんなこと感じもしなかったのにと考えて、それはそれで悲しいことなのだろうと思い直した。


 あと少し休んだら戻ろう。

 そう考えた時、北からの風が吹いた。昼の名残か、まだ熱がある。しかし、熱を持った肌にはちょうどいい加減。

 さらりと撫でていく流れが、一時の涼感をもたらす。しかと結ばれていた口元が綻ぶ。それで気が抜けたのか、急に眠くなった。


 少しくらいなら大丈夫だろうと、うつらうつら。

 睡魔の誘惑に意識を飛ばし飛ばし、明るく楽し気な響きを遠くに聞きながら、時折吹く風を全身で感じながら、直近の記憶を脳裏に浮かべながら、時を忘れて身を地に委ねる。


 起きているのか寝ているのか、彼自身もわからないような中、近づく足音を耳にする。


 船長でも来たのか?


 クロウはそう思うが、今ばかりは起き上がるのも億劫で、横になったまま相手を待つ。


 徐々に大きくなる足音。

 しかし、記憶する船長の歩みと比べて、かなり軽やかに思われた。


 足がすぐ傍で止まる。


「また寝てるの? 夜にこんな所で寝たら、風邪ひくわよ」


 少し呆れた調子。

 聞き覚えのある声に意識が覚醒し、目を開く。


 認めたのは女の姿。

 平素な服を着て、落ち着いた風情。しかし星空を背に浮かび上がった線はすらりと、それでいて女らしい凹凸が際立っており、絵になっていた。


 短い緋髪が風に揺れる。

 陰影がこちらを見下ろすが、薄暗さで顔がはっきりとは見えない。しかし、目が馴染んでくると、記憶に残っている目鼻立ちの通った顔が微妙な表情をしているのがわかった。


「なんか締まらないけど……、久しぶり、クロウ」

「ラウラ」


 クロウは驚きの表情で踊り子の名を呼んで、そのまま固まる。

 その様子にラウラは不満げな顔になる。ついで、いまだに起き上がらない相手を半目で睨みながら厭味を声に乗せた。


「なんかね。こっちに顔を出したのに、唾付けた女の所に顔を出さない薄情な機兵がいるらしいわよ」

「え? 唾付けたって、どぅ……、あ、いや、なんでもない。……うん、そりゃ酷いな」

「まったく、ほんとに酷い男がいるものよねぇ」


 口を尖らせての言葉に、少年は苦笑。

 それから上体を起こして胡坐を組む。ラウラの目から逃れようとするかのように……。


「酷い男にも都合があるんだよ。……明後日には発つからな、気を使わせたくなかった」

「いらぬ気使いって奴よ、それは。どんなに時間がなくても、女の所には顔を出すのが男の甲斐性ってものでしょ」

「はは、男の甲斐性か。気苦労が多そうだなぁ」

「女にもてようと思ったら、それ位は当然よ」


 踊り子はクロウの背に言い切ると、自らも背中合わせに腰を下ろした。


 向き合わないまま、二人は黙する。

 一分二分とそのまま過ごし、不意に、女が男に背を委ねた。


「まぁ、私の本音としては、クロウにはもててほしくないかな。あ、ここで、どうしてって野暮を聞くのは反則だからね」

「それはまた、喜べばいいのか嘆けばいいのか、反応に難しいな。……ここは、船長から?」

「ええ、店に来て教えてくれたわ。クロウが来てるってことと、大きな仕事を請けてるみたいだから励ましてやれって」

「あー、はは、いきなりすぎて、励まされたっていうよりも、尻を蹴り上げられた気分だ」

「……ふーん、そんなこと言うんだ。なんなら、実際にやったげようか?」


 剣呑な声。

 クロウは肩を竦めて応える。


「それは勘弁。ところで、店ってのは?」

「クロウがエフタに帰った後、船長から踊りを売りにしてる店を紹介してもらったのよ」

「なら……」

「うん、食べていくことはできてるわ。ただ前みたいには、自由に踊れないけどね」

「そっか」


 背中から伝わってくる熱。

 今の彼にはこれ以上ない暖かさだった。自然と、クロウの肩から力が抜ける。


「元気に、してたんだな」

「……まぁ、そうじゃないとやってられないっていうか、ほら、まだまだ移民街に住んでた人達への風当たりが強くてさ。お前ならつながりもあるしできるだろうって、顔役の爺様から移った人達の相談役をやれって言われちゃってね。いや、確かにつながりはあったよ? でもほとんどは神官様を挟んでのつながりだったし。そもそも、こういったことってほんとは、に……」


 唐突に切れる語勢。

 話の流れから、彼女が誰の名を出そうとしたのかがわかっただけに、クロウは静かに告げた。


「ラウラ、ゆっくりでいいよ」

「……うん」


 幾度かの深呼吸。

 それから、踊り子は先の勢いを忘れたかのように、ゆっくりと言った。


「二コラの方が、向いていたのよ。こういった相談事に乗るのは。あの子、辛抱強いから、どこまでも相手に、付き合って、話を聞くから。……目が、見えないから、その分、だけ、いろいろ、聞こえ、るんです、って、笑って、言ってさ」


 詰まり震える声。

 踊り子はそっと背中を離した。


 唐突に消えた温もり。

 少年は思わず振り返る。


 目にしたのは塞ぎ込むように顔を隠す姿。


「あはは、お、おかしいな、もっと笑って、話して、あげたかったんだけど……、ほんとに、普段は、大丈夫なの。二コラのことを思って、泣くなんてことないのに、な、なんでだろ、今、二コラのこと、話そうと、したら、急に、なんか、悲しくなって、寂しく、なって……」


 隠し切れない涙声。

 クロウは星空を見上げて、髪を掻きむしる。

 終わってしまったことへのやりきれない思い。ぶり返した喪失感に涙する女への慈しみ。好いた相手に何をすればいいのかとの迷い。そして、自らの動揺……温もりが背から離れた時に感じた心細さと渇き。それらがひとまとめに合わさり、彼に行動を促す。


 少年は身体の向きを変え、ラウラの隣へ。

 腕を伸ばして肩を抱き、大切なモノを包み込むように柔らかく、それでいてしっかりと支えられるように力強く、自らの胸元に引き寄せた。崩れる上体。抱え込まれるのが嫌だったのか、胸の内に収まった頭がむずかる様に動く。だが、しばらくして止まった。


「くろうってば、ごういんー」

「おれは役得」

「なーんか、さっきまでのこと、どっかにとんでいっちゃった」

「ならこうした甲斐もあったって話だな」

「むー、そのきもないくせにー」

「そりゃ、口説き方なんて知らないからな」

「きへいはてがはやいんでしょー」

「中には例外もいるんだよ」


 クロウは踊り子の不平を軽口で流す。

 ラウラは小さく笑うと、様々な思いを込めて頭をぐりぐりと男の胸に強く押し付ける。それから顔を上げ、惚れた相手を濡れた目で見つめた。


「なら、特別に、私が口説き方を教えてあげる」


 冗談めいた言葉。

 けれど、その響きは真に迫るモノがあった。


 少年がなにをと言いかける前に、踊り子の口から想いがうたわれる。


「ここにいる間だけでいいから、私とずっと一緒にいて」


 真っ直ぐな瞳と言葉に、彼は息を呑んだ。


「私だけを見て、私だけと話して、私だけに微笑んで」


 次々に紡がれる言の葉に、少年の鼓動が速まる。


「私だけを抱きしめて、私だけに口付けて」


 見上げる顔はほのかに上気して、女の顔を艶やかに彩る。


「他の誰よりも、私にだけ恋をして」


 耳にする声はどこまでも甘く、男の心を痺れさせる。


「嘘でもいいから、私にだけ愛をささやいて」


 彼我の距離が、少しずつ縮まっていく。


「私をひとりにしないで、朝までずっとはなさないで」


 ざわりと、欲望が目覚める。


「わたしが、とけてなくなるまで、愛して」


 もう互いしか見えない。


「わたしのぜんぶをあげるから……、あなたのぜんぶ、わたしに、ちょうだい」


 クロウは魅入られて動けず。


 そんな彼の唇に、踊り子はそっと口付けた。


「……あとは、いえで、ね」



 夜は更けていく。

 アーウェルの人々は眠ることを忘れたように歌い騒めき、時に泣いて笑ってバカをする。そうして生み出した熱気でもって、心にある陰りを払っていく。


 若い男女も唐突に生まれた熱に導かれるまま、情を交わす。

 さりとて、両者ともに初めてだらけのことだけに、慣れぬことに惑い、ぎこちなさは否めない。


 けれど、二人は焦らず。

 動けぬなら動かぬまま時を重ね、ただ絶え間なく口付を交わし、共に笑い温もりを分け合うにつれ、痛みや緊張がほどけていく。


 だが、生まれた余裕は欲に呑まれ、すぐに消えていく。


 睦みあう口唇。

 本能を刺激する香りと知らない味。


 見つめあう瞳。

 漏れ出る荒い吸気に熱い吐息。


 律動する身体。

 火照った肌に浮き上がる汗。


 男は収める処を満たす悦楽に呻き、女は欠けていたモノを満たされる感触に酔う。


 一度達し二度達し、それでも二人の欲望は止まることなく沸き起こる。けっして癒されぬ渇きにも似たそれを満たそうと、互いが互いを求める。今ある想いが求めるがままに、剥き出しになった欲望の赴くままに、ただただ相手を求め続ける。


 包み包み込み、溶けて混ざり合うような、原始の営み。


 幾度となく互いを達し達しさせて、いつしか言葉をなくし、動きもなくなる。ただ肌身を寄せ合い、身体を絡ませるだけになっても、交わりは終わらない。鋭敏になった肌で、自らの熱を相手に与え、相手の熱を自らに受け入れる。もはやそれだけで十分だった。


 二人して疲れ果て、眠りにつくその時まで、一時も離れることなく互いを(いだ)き続ける。


 時を忘れ、我を忘れたまま、刹那の交わりに癒しを求めて……。

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