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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
9 探索者は終末を巡る
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八 少年と砂海

「まだ追ってきてるよ。ほんとしつこいねー」


 後ろから上がった声に、クロウは諸計器が示す数値や状態を見ながら答える。


「まぁ、こっちも引きつける為に、わざと遅くしてるからな」

「そりゃそうなんだけどさー。ほら、ここまで諦めが悪いと質が悪い男みたいで嫌じゃない」

「女にも当てはまるだろ、それ」


 身に覚えがないかと少年は続けた。すると、ミシェルは飄々とした顔で返す。


「うーん、覚えはないなぁ。幸い、そういう女と関わったことないから」

「そりゃ良かったな。ほんと大変だぞ、そういうのと関わると。なにしろ、こっちがなんとかしようとしても、言うこと為すことコドルに説法。まったく通じないからな」

「ほーん、たいへんねぇ」


 女はニヤニヤと実に楽しげな顔で言った後、また後方を確認する。

 魔導艇が作り出す砂煙の向こう側。七つ目の蟲が六本足を絶え間なく動かして追ってきている。その数は優に百を超えており、おどろおどろしい響きを奏でながら、大量の砂塵を巻き上げていた。


「でも、後ろのはそういう類っていうより、ならず者って感じね」

「ならず者っていうと、あれか? お前がエル・ダルークで絡んだ連中みたいな?」

「そうそう。で、今の状況は、野郎、うちの家(拠点)に舐めた真似しやがって、生きて返さねぇ、って感じ」


 言いえて妙な表現に、クロウは苦笑する。

 ついで、前方及び周辺に視線を配りながら口を開く。


「連中にそんな考えがあるかはわからんけど、獲物認定だけは間違いなくしてくれてるだろうよ」

「うわー、こわーい」

「急に抱き着くな。俺はまだ死ぬ気はない」

「むー、淡泊っていうか辛辣っていうか、女に抱き着かれてるんだからさ、もう少し反応しても良くない?」

「不本意ながら、お前のやり方に慣れてきてな」


 なにかを悟ったような、それでいてどこか投げやりな声。

 その反応に女が文句を言う前に、当の少年が更に続けた。


「後三十分程して、南に変針する」

「りょーかい」


 ミシェルは頼もしい背中に頭を一頻り押し付けた後、不貞腐れた顔で答えた。



 人類の天敵たる甲殻蟲を引き連れて、魔導艇は荒野を進む。

 なだらかな丘を越え、瓦礫山の脇を抜け、波紋浮かぶ砂塵の海を走り行く。時に旧文明期の廃墟を遠方に眺めることもあれば、近くで崩れた建造物の近くを見ることもある。そして、廃墟が立ち並ぶ街のような場所に入り込むことも……。


「おー、すごいなー」


 ミシェルは空を見上げて、唸る。

 それは進路近くにあった傾いだ建造物。高さが四十リュートはありそうな廃墟だった。壁面は砂塵の赤錆に染まり、横一列に並んだ虚ろな口が幾層にも重なっている。そこに過去の繁栄を幻視するか、現在の没落を直視するかは人それぞれだろう。


「あの大きさなら、中にきっと売れるモノあるだろうなー」


 もっとも、廃墟を眺めていた女はより現実的であったようだった。黙々と艇を操っていた少年が呆れたように口を開く。


「俺はその前に、日陰でゆっくり休みたい」

「夢がないわねぇ」

「そりゃ、一度は叶えたらからな」


 クロウは軽い調子で答えると、進行方向に目を配る。

 遮るものない直線上、遥か先に天高い青空と地平線。左右には二十から三十リュート程の廃墟がずらりと並び、大凡にして十リュート程の谷間を生み出している。

 特に問題らしきものが見えないことから、魔導艇は真っ直ぐに進む。


 立ち並ぶ廃墟が作り出す日陰は、二人に砂海における貴重な涼をもたらす。


「おっほぅ、きもちいー」

「こんだけ涼しいと、ほっとするな」


 クロウは同意の返事に頷いた後、一つ尋ねた。


「それで、後ろの連中は?」

「まだまだ元気みたいよ」

「もう一時間超えているってのになぁ」

「それ位じゃないと、この世に跋扈なんてしないでしょ」

「確かに。……とはいっても、ここを抜けた辺りで変針だし、そろそろお別れの時間だな」


 と言った直後。

 魔導艇の進む先。砂礫に覆われた地面が不自然に揺れ動いた。


 クロウは目の錯覚かと幾度も瞬く。

 が、すぐに現実であると思い知らされる。


 なぜなら目に映る地面が急激に盛り上がったかと思うと、一直線に割れ崩れたのだ。


 それも一つではなく、周囲のあちらこちらで、ほぼ同時に。


 順調な航行の中で起きた、突発の事態。

 それがあまりにも唐突過ぎて、クロウは反応できない。


 しかしその間にも砂礫が地面に流れ落ち、砂煙がもうもうと立ち上がった。周囲に舞い上がる砂塵が増えるにつれ、視界もまた急速に悪くなる。その中を行く魔導艇が高さを増すナニカに乗り上げた。


 足元から持ち上がる動き。

 この力の働きに、艇体の均衡が乱れる。


 握った操縦桿を通して、艇の制御が急速に失われていくのが、少年にはわかった。


 無意識に、全力での制動。

 ここに至ってようやく事態を飲み込み、クロウは大慌てで対処しようと動く。けれど、その前に艇首から浮き上がる感覚。


 幾度かの経験から不味いと直感。

 身体全てを前に倒して、浮き上がろうとする艇体を抑え込む。それでも浮き上がりは収まらず、踏みしめる足元がより頼りなくなっていく。背中越しに悲鳴。気遣う余裕はない。向かい風に煽られて、艇が目に見えて仰け反る。


 そこに更なる突き上げるような衝撃。


 砂煙の中、艇首が直上へと上向いた。


 危難に遇し、少年の体感が遅くなる。


 全力で回転する思考の中、彼は考える。


 このまま、ひっくり返る艇に巻き込まれるか。


 それとも飛び降りて、正体不明の存在の傍で砂礫に身を預けるか。


 どちらも最悪としかいいようがない。


 だがそれでも、彼は悲鳴を上げるように叫んだ。


「とべっ!」


 かろうじて出せた声に、後ろの気配は反応せず。ただ、ぎゅっとしがみつく感触が背中にあった。


 ならばと相手の背に手を回し、身体を抱き込んでしっかと掴む。


 そして、自らの身を砂埃の中へと投げ出した。


 長く冷たい浮遊感。


 視界が塞がれた恐怖。


 来るであろう時に、身構える。


 一秒、二秒、衝撃。


「ッ!」


 跳ねる。


 肺から押し出される空気。


 また衝撃。


 防護具が割れ砕ける音。


 何かに当たって、跳ねる。


 より首を縮め、衝撃。


 抗えない力に押されるまま、身体が横に回転する。


 交互に伝わる、硬い凹凸と柔らかい感触。


 その度に、身に着けた防護具が壊れる音。


 幾度も幾度も、世界が巡る。


 延々と続くかのように思えたそれも、やがては勢いを失い……止まった。


 酩酊感に似た気持ち悪さに、起き上がれそうにもない。


 だが、それでもクロウは顔を上げた。


 震える足膝に力を込め、起き上がる。


 痛みを訴え始めた身体に鞭打って、左手に握った女の身体を引きずり、歩く。


 息は上がり、身体も熱い。


 一度倒れ、二度倒れ、三度倒れ、それでも前へ……、薄暗い砂煙の中、光を求めてさまよい歩く。


 崩れそうになる足。

 体から伝わる痛みが、まだ動けると心に活を入れる。


 挫けそうになる心。

 口内の鉄錆びた味が、まだ生きていると力を与える。


 どれほど惑い歩いたか……、彼の目が光を認めた。その方向へ向かって必死になって足を動かす。彼の努力は報われ、薄暗かった視界が急速に改善していく。


 そして、陽の光をその目に収めた。


 安堵のあまり、足腰から力が抜けそうになる。

 けれども、まだ危地にいるのだという自覚が、それを許さない。


 クロウはより確実に身の安全を確保すべく、腰の魔導銃を引き抜く。

 その瞬間、得物に目を向けるが、幸いなことに壊れた様子はなかった。


 少年は左腕に女を抱えたまま、砂煙を睨む。

 そこに風が吹いた。砂海の熱風が廃墟の谷間を駆け抜ける。


 砂塵が晴れた先に、彼は見た。

 細長く平べったい甲殻を纏った異形の姿を。数え切れぬ体節と数え切れぬ足を動かし、強大な顎牙でもってラティアを捕食する、十匹近い大きな蟲の姿を……。


 少年は必死に記憶を探る。

 その源泉は幼少期か教練時代。同期達と共に受けた座学を思い出し、答えを見つけた。掲示された写真に残された、ぶれた姿と姿形が一致したのだ。


「タン……セルヴェス」


 その名を呟くと同時に、彼は理解した。

 今し方、自分達が通り抜けようとした場所は、連中の餌場だったのだと。


 最悪な状況に、頭の中が焦りに満ちる。

 そんな彼を救ったのは、天敵たる甲殻蟲。長大な身体を持つ蟲が四対の触角を頻繁に動かしたかと思うと、体節を左右にくねらせ、クロウ達に迫ってきたのだ。その動きは想像以上に速い。

 不気味な五つの無機質な複眼がずんずんと近づき、ラティアのモノが可愛く見えるほどに長く大きい顎牙が横一線に開く。


 ここに至り、クロウは逃げるのを諦めた。否、この場を生き残るには、迫り来る脅威全てを排除するしかないと断じたのだ。


 魔導銃を連射に切り替え、近づいてくる大蟲に向ける。


 二十リュート近い長さのそれの、数多の足は波打って動き、生理的な嫌悪感を引き起こす。


 これで壊れていたら、餌食だな。


 そんな感慨を抱きつつ、彼は引き金を引いた。


 右手に構えた魔導銃、その筒先が光り輝く。

 尾を引く魔弾が絶え間なく生み出されては、大型甲殻蟲へと吸い込まれていく。


 まず左右に揺れる体節に命中した。

 波打っていた足が次々に砕かれ、根元の胴体を抉り取る。動きは鈍らない。次に大きく開いた口腔……牙が並ぶ顎が吹き飛び、巨大な赤目が弾けた。頭が砕かれ、緑色の血飛沫と共に顎牙が宙を舞う。前進は止まった。が、動きは止まらない。狂ったように胴体を捩って他の蟲を弾き飛ばせば、無数の足が大地を叩く。砂煙がまた立ち始めた。


 生命力の強さに恐怖を抱きつつ、クロウは撃ち続ける。

 その度に足が吹き飛び、甲殻が砕け飛び、肉片と緑血が辺りに散らばる。


 ようやく動かなくなった頃には、砂埃もまた湿気により落ち着きを見せた。

 ほっとしたのも束の間、後方から新たな大長蟲。三リュートを超える顎牙に緑血を滴らせ、口周りはラティアの肉片に塗れている。嫌悪とおぞましさに悲鳴を挙げそうになる。それでも為すべきことを為すべく、歯を噛みしめ口を閉ざすことで、外に出ようとする恐怖を押し込め、撃った。


 うねる胴体を壊し、顔を覆いつくす複眼を破裂させ、ざわつく足をもぎ取る。


 前進が止まった後でも、動きがあるならば撃つ。

 地に落ちた死骸もろとも破壊する。跡形がなくなり血煙に消えようとも、脅威が存在しなくなるまで延々と撃ち続ける。


 ラティアを捕食する為に暴れくねるタンセルヴェスも、顎牙にかみ砕かれるラティアも、数多の足で同族を踏み殺す大長蟲も、抗うべく噛みついた蟲も、標的をこちらに変えて近づこうとした七つ目も、逃げようとするかのように廃墟に登ろうとした五つ目も、全て等しく、魔弾でもって蹂躙する。


 撃つ、撃つ、撃つ。

 彼は自身と相方の生き残りを賭して、ただひたすらに引き金を引き続けた。



 少年が魔導銃を降ろしたのは、大凡十分の後のことだった。

 鏖殺の場となった通りは、そこかしこに肉片や甲殻の破片が散らばっている。また乾いていた砂地は死骸より流れ出た緑血を吸って湿り、場所によってはぬかるみになっている。


 それを為した人物は通りの様相をじっと見ていた。が、不意に息を吐き出したかと思うと、思い出したように顔の面覆いと防護帽(ヘルメット)を外した。湿り気を帯びた空気が汗まみれの肌や髪を撫でる。気持ち悪さに顔を歪めた所で、力を失ったように膝をついた。


 今し方の出来事での疲れもあれば、飛び降りた時の衝撃も残っている。気力だけで立っていたようなものだったのだ。


「う……ぅ」


 すぐ傍での呻き。

 疲れた目で、声の源を見る。左腕に抱きかかえていた女が顔を上げ、力ない声で言った。


「ごめん。……左足、折れたみたい」

「他は、大丈夫か?」


 クロウの問いかけにわずかばかりの沈黙。そして泣きたくても泣けない、そんな声音でミシェルは答えた。


「体中が、痛い。あと、右腕……、肘から先の、感覚がない」

「……腕の止血帯で、縛った方がいいか?」

「うん。お願い、できる?」

「ああ。その前に、寝かせるぞ」


 魔導銃を戻した後、慎重に女を地面に降ろし横たえる。

 そして、マスクやゴーグルを外して、女の顔を見た。表情の消えた顔。諦観が滲み出ている。その様子に一抹の不安を抱くも、今度は身体の様子を検める。身体に着けていた防護具は全て割れ壊れたようで、装着具だけが残っていた。その一方で、防護帽や旧文明期産の防護服には異常が見られなかった。


 クロウが調べている間、その顔をじっと見ていたミシェルであったが、力なく口元を緩めるといつもの調子で言った。


「もー、ど、どうせなら、じろじろと見るのは裸の時に、してくれないかなー」

「調子、戻ってきたか?」

「ごめん。結構、カラ元気」

「なら無理するな。……防護服が、いい仕事をしたみたいだな」

「みたい。右腕残ってるもん」


 女密偵は萎えた顔で笑ってから、クロウの全身に目を走らせる。それが左腕で止まり、また微笑む。


「そっちも酷いありさまよ。防護具なんてどっかいっちゃってるし、左腕なんて、服までボロボロで血まみれになってる」

「けど……ぃつつ、打撲か擦り傷程度で、折れてないさ」

「頑丈だよねー」

「誰かさんの誘惑をはねのける為に、鍛えてきたお陰だな」

「あはは、なら感謝して、覚えておいてね」


 少年はその物言いに違和を覚えるが、すぐに込められた意味を察した。仲間を犠牲にしてでも任を達する密偵の掟。それに倣い、自分はここで朽ちるのだと考える、女の心情を察したのだ。

 ほろ苦い感情が胸の奥で湧き起こり、彼の手は自然と動く。その手指は女の頬へ。そっと撫でたかと思うと、次には軽く抓った。


「安心しろ。お前をこんな場所に連れてきたのは俺だからな、ちゃんと連れて帰るさ」


 反論は効かぬと言わんばかりに強い調子で言い切ると、クロウは女の身体に残った装着具で右腕の止血帯を縛った。それが終わると、表情と声を改めて告げた。


「魔導艇を探してくる。あれがどうなってるかで、今後の予定が変わってくるからな」

「……クロウは、強いね」


 万感こもった女の声に、少年は言葉返さず笑みだけで応える。

 それからまた女の頬を撫でると、おもむろに立ち上がって通りに足を向けた。


 彼は湿り気を帯びた地を歩く。

 肉片を踏みしめ、甲殻を蹴飛ばし、ぬかるみだけは避け、乗ってきた代物を探す。その表情は女に見せたものと違って険しい。 


 彼が考えているのは現在位置と、辿り着かなければならない場所との距離。そして、自分達の置かれた状況や環境だ。


 少年は考える。

 エフタまで最低でも千二百ないし三百超。途中に、エル・レラがあるから現実的ではない。他に、ここから一番近場にある都市は……、北東に位置するエル・ダルーク。そこまでも千二百余り、それより近場にある開拓地でも千はある。

 それにここは人が生きるに向かない砂海だ。昼夜の寒暖差が著しく激しい上、水源を見つけることも難しい。物入れに入れたままの湧水筒が無事でだったら、希望も出てくるだろう。だが、それが壊れていたら、絶命の一歩手前だ。

 それにミシェルの怪我もある。あいつを運ぶ方法もなんとか考えないといけない。


 クロウは眉間に深い皺を刻みながら探し続け、それを見つけた。

 死んだ大長蟲の傍ら。ひっくり返った艇体。幸いにも足に蹂躙されなかったようで、無事なままの底部が二本並んだそりを晒している。若干の期待を抱きつつ、艇尾に目を向けた。機関部は押し潰されていた。


「くそっ!」


 思わず漏れ出る罵声。

 更によくよく見ると、推進器を構成する重要物……二本ある回転羽(プロペラ)垂直翼(方向舵)と共に折れてなくなっていた。

 当然ながら艇に予備の部材など積んでいないし、元より彼に修理できるだけの技術もない。肩を落としながらも近づき、小舟を元の状態に戻すべくひっくり返す。その際にそりや艇体が地面等にぶつかり、大きな音を立てた。

 とはいえ、既に蟲に襲われた後のことである。今更だと言わんばかりに、彼が気にする様子はない。否、それ以上に、希望が持てる結果が見れたことで、どうでもよくなったのだ。


「まだ壊れてない。浮いてる」


 魔導艇の浮上機構が正常に働いていたのだ。少年の硬かった表情、その口元がわずかに緩む。

 だが、もっと重要なものがあると、視線は艇体へ。素早く走らせて、状態を確かめる。推進機関の上部が大きく凹んで破損し、風防は全て割れている。また艇を覆う甲殻装甲も大部分が壊れていた。

 けれども、計器類のほとんどが無事であり、骨格にも異常は見られない。また艇尾両側面に装着した荷物入れも残っていた。


 クロウは一筋残る希望に縋りながら、物入れの中を乱雑に漁る。

 そうして手に取ったのは、湧水筒。鼓動がこれまでになく早まるのを意識しながら、術式起動(ボタン)を押す。早鐘の如く、打ち続ける心音。それが回数を重ねる内に、手に持った円柱が重たくなっていった。知らぬ間に詰めていた息を吐き出し、今度こそ表情を緩めた。


 肩の力を抜いて、蓋を外す。筒内に満ちた水。ほっとしながら一口。ぬるい水が乾いた口内に満ちる。そのまますすいで吐き出す。また一口。今度はそのまま飲み込む。干上がっていた喉が潤い、心が上向いてくる。その上向いた勢いのまま、水筒を頭の上へ。水を被る。


 肌髪伝う水に熱が引いていく。

 それと同時に、身体の感覚が状況を訴えてくる。身体の各所からは打撲の鈍い痛み、左腕からは表面に走る疼くような痛み。けれども、動きを阻害する程の痛みはない。

 彼は新しい水を生み出すと、左腕に目を向けた。ボロボロになった袖、染みができたそれの裂け目より赤い滴りが見える。傷といった傷がこの程度で済んでいることが疑問だった。自然、もしかするととある考えが浮かぶ。


 ミシェルが身代わりになったのかもしれない。


 そう思ってみると、不思議と間違いないという考えが生まれてくる。


 口内に苦み。水を左腕に流す。


 痛みが強くなった。


 だが、この程度は動けること考えれば安いものだと、魔導艇に目を向けた。


 水もある。ミシェルを運ぶ手立てもある。


「後は生きて、連れて帰るだけだ」


 少年は自らの決意を声に出して確認すると、一つ大きく深呼吸。意識を入れ替えて、壊れた小舟を押して歩き始めた。



  * * *



 爛陽節第四旬七日。

 朝陽を浴びるエフタ市内は、北西に位置する倉庫街。そこにあるマグナ・テクタの社屋で、宙に浮かんだ小人が難しい顔をしていた。というのも、社屋に詰める者達がどうにも落ち着かない為であった。


「うーん、どうしたものか」


 その呟きは、まさに今のミソラの心情を表したもの。

 先の表情はそのままに、腕組み。浮かない様子の面々に目を向ける。


 一人は落ち着かない様子で休憩室をいったりきたりしている優男。常の柔らかな表情もなく、なにかに耐えるように口を引き締めながら、しきりに時間を気にしている。

 もう一人は自身の仕事場で製図台に向かう厳つい男。先の優男よりは軽いものの、時折、動かす手が止まり、物思いにふけるような観があった。

 そして、実験台の前に陣取るも微動だにしない少女。机の上に並ぶ機材は数日にわたって使われた様子はなく、埃が積もり始めている。


 小人は腕を組んだまま、横に首を傾げていき、そのまま一回転して二回転して三回転する途中で止まった。逆さになった世界を見つめながら、また呟く。


「今日で三日遅れ、か」


 小人が口にしたのは、日にちの遅れ。 

 本来であれば四日、遅くても五日には、エフタに帰還しているであろう者達の遅れのことだ。

 今までにない事態に何が起きて、遭難しているのかもしれないと、彼女としても気になるところではある。だが、それ以上に関係する者達が精彩を欠いて、仕事にならない状況に陥ってしまっているのが問題であった。

 実際、新規に雇った者達への技術指導にも影響が出てきており、今この場にいないカーンからは、この程度で腑抜けるなとの檄が飛んでいる。

 とはいえ、人というのはそう簡単に割り切れる生き物ではないのも事実。たとえ正論だろうが、当人達の心が付いてこない以上は中々に難しいだろう。


 ミソラは世界を元に戻すと、短い翠の髪を勢いよく掻いた。そして、整った顔を顰めながら内々に思う。


 こんなことになるんなら、魔導通信機の完成まで引き留めるべきだったと。


「ほんと……、失敗したわ」


 今度からはもっと我がままになって、こっちの都合だなんだって言って、押し通すようにしよう。


 そんなことを決心しながら、溜息を一つ。

 ついで、クロウ達が向かった先……北西へうっすらと伸びている赤い(魔力)の糸を見やりながら、独りぼやく。


「まったく、さっさと帰ってきなさいよね」



 同時刻。

 エフタ港湾地区にある総合支援施設では、眼鏡の整備士が黙々と仕事を進めていた。

 懸架に据えられたラストル。脚内部の油圧機構を点検する動きに乱れはない。だが彼女の表情は硬く、目の下を縁取った隈も色濃い。


「左三番栓よし」


 状態を確認する声出しにしても常の張りはなく、声音自体も精彩を欠いている。


 そんな彼女のどこか危うい後ろ姿を、作業全体を統括する整備主任は困った顔で見つめている。そこに届く声。振り返ると彼よりも実務経験が豊富で、なにかと頼りにしている初老の整備士だった。


「おい、ブルーゾ。六番懸架は終わったぞ」

「ああ、お疲れです。次は……、ラファンを手伝ってやってください」

「おう、わかった。……で、ラファンの奴、あのままで大丈夫か?」

「正直言うと、ちょっとマズイと思ってるんですがね。なかなかどうして、声が掛けにくい」


 いい年頃ですしね、それなりに気を使ってるんですよ、との整備主任の弱音に、年嵩の整備士は苦笑して返す。


「まぁなぁ。年頃の娘ってのは気難しいからなぁ。うちの娘もそうだったわ」

「なら、その経験を生かすってことは?」

「無茶言うな。友達付き合いで口出した結果、一旬近く口きいてもらえなくなったんだぞ?」

「はは、そりゃ大変っすねぇ」

「おめぇも嫁さんもらって子どもできりゃあ、(男親)の気持ちもわからぁな」

「当分はないと思いますがね」


 ブルーゾは肩を竦めて応じると、首筋に手をやって何度か叩き撫でた。ついで困り顔を隠さずに続ける。


「話し戻しますけど、なんか考えありませんか?」

「そりゃ事の原因を引っ張ってくるのが一番だろ」

「それができてりゃこんなことになってませんよ」

「ならもう、他の誰かに感情を吐き出させるか、時間に任せるかって辺りだな」


 この意見を受けて、整備主任は周囲に散らばって仕事する男達に目を向ける。しばし順々に見ていったが、最後の一人まで見終わった所で、首を横に振った。


「うちの連中は……、慰めるよりも下半身で動きそうだから、論外ですね」

「……おまえ、意外と過保護だな」

「いや、ボルトの奴にくれぐれもって頼まれましたし、ラファン自体が払いの良い上客(エンフリード)のお気に入りですからね」

「おぅおぅ、やっぱ他所との付き合いってのは面倒だなぁ」

「誰かさんが引き受けなかったから、俺に回ってきたんですけどね」


 青年が少し恨みが混じった目で睨むと、初老の整備士は知らぬ顔で整備帽をかぶりなおす。それから、次の仕事場に向けて歩き出しながら告げた。


「それなら小人の嬢ちゃん所の……、ほれ、帝国からきた魔導士に頼んでみたらどうだ?」

「お、それいいかもしれないですね。今晩にでも、マディスさんに話を持っていきますわ」


 ブルーゾはとりあえずの解決策を見い出して一息。

 そして長いもみあげを撫でながら、人の面倒を見るってのは大変なもんだと呟いた。



 所変わり、エフタ市中央地区。

 組合連合会本部五階にある一室において、青髪の麗人が夜間に届けられた情報に目を通していた。

 簡単に仕分けられた書類を一枚また一枚とめくり、軽く目を走らせることで大凡の内容を把握し、処理順序を定めていく。その区分けがあと少しで終わろうという時に、執務机に置いてある小さな通話機が鈴の音を奏でだした。


 単調に続く鈴音。

 セレスは書面から音の源へと怜悧な目を向ける。仕事を中断させられたとはいえ、特に不機嫌な様子はない。手を伸ばして釦の一つを押し、壁一枚隔てた相手に淡々と尋ねた。


「なにか?」

「朝の定時情報が届きました」

「……一緒に見ますので、中へ」

「わかりました」


 短いやり取りが終わってから十秒後。閉ざされていた扉が開き、黒髪の秘書が入ってきた。その手には十枚ほどの書類がある。


 部屋の主は顔を上げて、手にある書類を見た後、直属の部下に尋ねる。


「なにか変わったことは?」

「特にありません」


 一拍の間。


「そうですか。わかりました、そちらに置いておいてください」


 黒髪の秘書は畏まった様子で頷くと、手にした書類を置いて退出していった。


 席に座したままの麗人は新たに届いた書類を無言で見つめる。秒針が時を刻む。微動だにしない姿は物思いに沈んでいるようにも見えた。だが、十に満たない内にふっと小さく息を吐き、また書類を読み始める。


 静かな息遣いと紙をめくる音だけが響いた。



  * * *



 赤髪の少年がエフタに戻らぬことで、関係ある者達に影響を与えている頃。

 当の本人達はゼル・セトラス大砂海にて、いまだ人類生存圏を目指す旅の途上にあった。


 瓦礫と砂礫が作り出す、赤錆の大地を二人は行く。目指す先は北北東。砂海図に載る中でもっとも近い開拓地だ。

 クロウは眠そうな目で朝陽を見上げて、幾度も目を瞬かせる。青く広い空に昇り行く光陽は少しずつ力を増しながら、陽光と熱射でもって砂海を暖め続けている。


 目を転じて、遥か彼方の地平線を見やる。そのまま赤と青を隔てる境界を眺めて、また瞬く。


 しばらくの間、ぼんやりとした顔でいたが、頬を撫でる流れを感じて、口を開いた。


「風が、出てきたな」


 漏れ出た呟き。

 その呟きの通り、向かってくる風が軽い砂塵を少しずつ運び始める。それは少しずつ力を増していき、ついには砂埃を巻き上げては散らしていく。


「はー、向かい風は面倒なんだけどな」

「ふふ、愚痴れるなら、まだ大丈夫よ」


 ミシェルの声を受けて、少年は首筋を掻きながら振り返る。

 魔導艇の後部、推進機関や方向舵が載っていた場所に、女が横座りで座っていた。骨折した左足を天幕で使っていた骨組み(フレーム)で固定し、動かぬ右腕を首後ろで結んだ三角巾で吊り下げて。


 クロウは疲れの浮かぶ顔で、それでも口元を綻ばせて言った。


「愚痴が出なくなるまで働けって?」

「うん、だからそうならないように私がって、かー、残念だわー、怪我してなかったら、身体で心身を癒してあげるのになー」

「はいはい、今日も元気で大変結構なこって」


 女の怪我を忘れたかのような調子に、少年は呆れを隠さず言うと動き始める。


 浮上機構を作動させ、ロープを握って足を踏ん張り、手を動かす。


 宙に浮かんだ小舟が風に乗り、ゆるゆると動き出す。

 クロウは動き出した景色を眺めながら、願うように呟く。


「さて、今日も昨日よりは進みたいもんだな」


 目を転じて空を見る。

 彼の視線の先、蒼天を背景に風を受けて膨らむ布地……帆があった。



 向かい風を斜めに受けながら、小さな帆船は砂海を行く。

 その行き足は、従来の魔導艇が生み出す速度と比べれるまでもなく、遅くゆっくりだ。けれども、人が歩くよりも下手をすれば走るよりも速く、砂礫の大地を走っていく。


 操縦席に陣取るのは赤髪の少年。

 風を捉まえる為に垂れ下がった帆の下端、そこに巻き付けたロープを右に左に引っ張っては、艇体に固定する作業を続けている。それ以外にも、時に風を受けすぎて傾く艇体の均衡を保つ為、身体を使って重心を移動させたり、風に流され過ぎないように、また方向を転換する際に、舵代わりの代物を地面に押し付けて摩擦を作ったりと、なにかと忙しい。

 他方、艇後部に座った亜麻色髪の女。艇の後方で振り落とされない為の取っ手……装着具を再利用して作った固定具を無事な左手で握って、周辺に脅威がないかと警戒の目を向け続ける。


 それぞれが役目を果たす中、時に気ままに向きを変える風に右往左往しながらも、なんとか捉まえて前へ前へと小舟は進んでいく。

 進路にある瓦礫の丘を迂回し、先の経験(失敗)もあることから廃墟には極力近づかず、できる限りなだらかで平らな場所を選んで、船を走らせ続ける。


 風に乗って時に速く、風向きが変わって時に遅く。


 一時間二時間と時が経つにつれ、周囲の景観もまた変わっていく。

 岩が多い場所、砂礫だけの場所、廃墟が立ち並ぶ場所、緩やかな丘陵が連続する場所、かつては川であったと思しき縁が残る場所。


 砂海が見せる様々な顔を乗り越える内に、光陽が天頂に。

 その頃あたりになると風も弱まってくる。クロウは時間を見計らって浮上機構を停止。魔導艇を着船させる。そして、天測。光陽の位置を調べることで現在の緯度を測る。それで得られた情報と出発点からの航行距離とを合わせることで割り出した、大よその推定位置を砂海図に書き込む。


 それが終わると、食事だ。

 調理する余力もないことから、堅パンと乾燥果物、それに水である。二人は硬すぎる携行食(堅パン)を口内でふやかしながら、ゆっくりと食べる。


 非常に根気がいる食事の中、ミシェルが口を開いた。


「ねぇ、クロウ」

「……なんだ?」

「なんていうか、意外となんとかなるのね」


 少年が女を見ると、その視線はあり合わせで作られた帆柱や帆に向けられていた。クロウも応急品に目を向ける。


 天に伸びる三リュート弱の帆柱。

 操縦席の計器類、それが埋まる構造体にワイヤーで幾重にも巻かれて括りつけられている。また不意の突風に対抗する為に、帆柱の中程より艇の前部に一本、左右のそりに一本ずつと、ロープが繋がれていた。

 こうして立っている帆柱であるが、実は大長蟲……タンセルヴェスの顎牙を重ね合わせたモノ。四本ほどを重ねてワイヤーや装着具でもって縛りあげた代物だ。今に至るまで強い風を受けても軋まず、折れる気配もなかった。

 帆けた……帆柱より斜め上に伸び出て帆を垂らすのは、ラティアの牙を重ね合わせてつなげたモノ。これもまた帆柱にワイヤーで幾重にも巻かれて固定されている。今の所、異常は見られない。

 その帆けたより垂れ下がる帆は、天幕で使っていた長さ二リュート弱、幅一リュート半強程の布地である。現在はその下端にラティアの触角……繊毛を削り取ったモノを巻き付ける等、若干の加工を施すことで帆の代わりにしていた。

 そして艇尾に取りつけた重し(摩擦具)。魔導艇が風に流されるのを防ぐ為の取り付けた、タンセルヴェスの触角である。


 クロウは自らが作り上げたモノを見て、笑うようで困るような複雑な顔で答えた。 


「正直、本当に使えるかどうかなんて、まったく自信はなかったよ」

「そう? 結構、自信満々に見えたけど?」

「まぁ、怪我人に不安な思いをさせたくなかったからな」

「あらら、気づかいしてもらったみたいだけど、その前にっていうか、突然、できたら儲けものだなんて言って、蟲から牙とか触角を剥いできた時に、物凄く不安になってたわよ。状況が悪すぎて、気が狂ったんじゃないかって」


 直截な物言い。

 少年は気を悪くするでもなく、ただ苦笑して応じた。


「そりゃ悪かったな。俺も最初からこんな風にするなんてこと、思いついてなかったんだよ」

「……え、そうなの?」

「ああ」


 クロウは目を丸くするミシェルに頷いて見せた。


 そう、クロウも最初からこうしよう等という考えはなかった。

 むしろ、魔導船を引っ張って歩いていくしかないだろうと思い込んでいた位である。


 それが覆ったのは、怪我の応急処置をしたり所持品の確認をしたりした後の、短い休止の時である。

 ミシェルの傍ら、魔導艇にもたれて目の前に広がる光景を、通り中に散らばった蟲の死骸を見る内に、ふと、小人との会話を思い出したのだ。


 それはかつての時……甲殻装甲ができたあたりの頃に、ミソラが産物(甲殻装甲)を触りながら語った言葉だった。


「クロウ、確かに甲殻蟲は人類の天敵かもしれない。だけどね、見方を変えれば、あれは人類の糧よ。……え、あんなモノを食う気はない? いや、今のは表現の一つで、誰も実際に食べろなんて言ってないわよ。あれはね、人が工夫して利用するモノ……資源よ」


 その記憶に刺激されたのか、ミソラが折々に話していた内容が次々に思い出されていった。


「ん? ラティアの甲殻をどう利用するのかって? んー、性質を詳しく調べたらなんかで使えるようになるでしょ」

「人が甲殻蟲に勝る最大の武器はね、今に至るまでずっと受け継がれてきた英知と技術。それを残す記録情報よ」

「今はうまく使えなくても、いつかは使えるようになるわ。……なんでかって? そりゃ、人がそういう生き物だからよ。……なに? もっとわかりやすく言えって? あー、簡単に言うと、人っていう生き物はね、ごく一部の例外を除いて、楽したがりなの。でも、その楽をしようとする、怠けようとする正直な不心得こそが、持ち前の好奇心と合わさって、発見を生み、技術を生み、知恵を生んだの。で、必要があれば、そうやって生み出したものを使って、相応な物を作るのよ。……嘘くさい? あはは、かもね。実際、今のは私の偏見が混じってるから。……だからクロウもさ、もっと色んな本とか読んだり人の経験とか聞いたりして、知識を蓄えなさいな。そうしたら自分なりの見識で、物事を判断できるようになるから」


 なんでもないようでいて、確かに記憶に刻まれていた言葉の数々。

 それはまた、別の記憶を呼び覚ました。この最近時間があれば読んでいた、開拓大全の冒頭に書かれていた前書きの一文だった。


「開拓に立ち塞がる問題を解決し、困難な状況を乗り越える源泉は、人の力の結晶ともいえる知識と技術、そして、個々人の知恵と発想である」


 知恵と発想、という言葉に導かれるように、また周囲を見渡した。


 壊れた魔導艇に野営関連品、各種探索装備に甲殻蟲の死骸。


 それらを見つめながら、これらを使って、今の状況に役立ちそうなモノはないだろうかと考える。すると不思議なことに、また記憶が蘇ってきた。


 それはアーウェルで出会った老船長より、賊党の襲撃を制圧した後に聞いた話だった。


「船の足が壊れた時か? そりゃお前、放っておくと死んじまうんだから、なんとかせにゃいかん。一番は機関士か魔導技士が修理できりゃいいんだが、それが叶わないとなりゃあ、助けを呼ぶしかねぇ。……なに? 助けを呼べなかったり、呼んでも来れない時だ? そんな時ゃ、ほれ、あそこにある帆柱に帆を張ってよ、風を使うのさ」


 帆を張って、風を使う。

 その考えに至った時、頭の中にあった砂塵嵐が吹き散らされるような感覚があった。


 しかしながら、この発想の転換があったからといって、なにもかもが順調に行った訳ではない。むしろ、その後からの方が大変であった。


 クロウは顔に浮かんだ疲れをより色濃いものにして、今日に至るまでの五日間を思い出す。


 一日目……壊れた魔導艇を確保した後のことであるが、その日はひたすらに、発想を形にする為に動いた。


 けれども、それは簡単にはいかなかった。

 というのも、まずもって、心強い味方だった自身の記憶が最大の敵となった。

 彼が思い出して再現しようとしたのは、風を受ける帆の作り方。その源泉は、船舶免許を取る際に使った教本。そこに付帯記録として書き描かれていた、旧文明期以前より受け継がれてきた航法術の歴史や仕組み、それぞれに対する絵図と解説だ。

 この絵図を読んだ記憶があるという覚えを頼りに、ただただ思い出そうとした。もっとも読んだ時には、昔はこんなのがあったんだ程度の流し読みである。そう都合よく思い出せるはずもない。

 中々に思い出せず、思い出しそうで思い出せない、なんともいえぬもどかしさに何度も唸ることにもなれば、思い出したにしても、それを形にしていく最中に本当にこれで合っているのだろうかという不安が常に付きまとった。


 この思い出す作業と並行して、必要なものをどうやって確保するか、どうやって使えるようにするかと考えながら、完成図を自分なりに描き、手元にある所持品で広げ、また甲殻蟲の死骸を漁っては使えそうな物を選んで、試行錯誤を繰り返す。

 とはいえ、この試行錯誤、当然ながら一つを為すにも時間がかかる。自然と時が過ぎれば、陽も傾く。このままの状態で夜を明かすのは危険だということで、すぐ近くにあった廃墟を探索し、一先ずの安全を確保。ミシェルや魔導艇、作成物を運び込んだ。

 さて仮拠点ができたから集中して作成作業に……、ということには、残念ながらならなかった。諦めの悪いラティアの新たな追跡隊の到着である。この増援による襲撃への対処で睡眠すらままならず、警戒しながら作成作業をする内に一夜が明けた。


 襲撃が終わったとみて通りに出てみると、道はラティアの死骸で埋め尽くされていた。

 ミシェルが顔を引きつらせながら写真を撮っていたのが、彼の印象に残っている。


 二日目。

 ラティアの襲撃がないうちにと、仮拠点を離れて砂海へ移動。夜なべ仕事の末に一応は形が成った帆を魔導艇に取り付ける。あやふやながらも完成形がわかる為、ここは意外と上手くいった。

 が、上手く帆を立てることができたとしても、それを操ることまで上手くいくとは限らない。むしろ知らないことを初めて為すので、普通にできようがない。


 まず、風を受けた時の帆の扱い方がわからない。

 試行錯誤して効率よく風を受ける方法を見い出し、それに対応する改修を船体に施すのに数時間。


 帆に風を受けて進むようになっても、今度は真っすぐに進まない。

 ラティアの牙(舵代わり)を地面に突き立てて、微調整する方法を生み出すまで半時間。ラティアの牙と帆を使った方向転換を見い出すまで半時間。向かい風を受けた時の操船に慣れるまで数時間。


 それが終わって試走する中、強風が吹いた時に帆柱が傾いだ。

 倒れないようにする為、ワイヤーで更に頑丈に縛ると同時に、探索装具のロープを使って補強。一本では不安だから違う角度からも更に二本と考えて、長いロープを三つに切断。船体に結ぶ作業に一時間。


 更には魔導艇特有の問題……強い風を受けた時に、あまりにも抵抗がなさ過ぎて、風下に流されてしまうということもわかった。

 これに対処するにはと悩んだ結果、なら重しを着ければいいと着想して創意工夫。結果、タンセルヴェスの触角を半分に切って使おうと決めて、加工して取り付けるまでに数時間。


 気が付けば、昼過ぎである。

 ちょうど風が弱まったこともあり、仮眠を取ろうということになった。が、無情にもラティアによる再度の襲撃である。怒り心頭、彼は据わった目で魔導銃を乱射する。仮拠点としていた廃墟に流れ弾が多数当たった結果、壁の一部が損壊。建物が傾いた。


 反省と仮眠もそこそこに、仮拠点に残していた物を回収。使えそうな蟲の部材も確保して、いざ出帆……しようとしたが、出発点がわからないのはまずいということで、現在座標を得る為に夜を待つことに。


 暑さに耐えながらじりじりと待って、夜。

 天測で得られた経緯度を砂海図に書き込み、今度こそ出発する。

 追い風に乗って、一番近い開拓地がある北北東を目指す。練習したこともあり、進むには進む。けれど、まだまだ操船がぎこちないこともあって速度が出ない。夜の冷え込みに凍えながらも、休み休み六十アルト程進んだ。


 三日目は昼に関しては、特に問題はなかった。

 少しずつ操船に慣れたことで風を掴みやすくなり、速度も上がった。暑さと寒さに耐えた結果、約百八十アルト進んだ。

 夜はしっかり休もうと廃墟を一つ確保した。けれども、夜の冷え込みが厳しすぎたことに加え、天幕も使えない状況であったこともあり、厳しい一夜となった。特にクロウはミシェルに防寒具を優先使用させたこともあって、震えに震え、いつ寝たかわからない睡眠だった。


 四日目。

 朝から強風が吹いた。しかも向かい風である。必死の操船でなんとか乗り越えたが、舟を切り返す際に一度転覆しかけた。

 そういったこともあって、慎重に速度を落として航行した結果、進んだ距離は百六十に満たなかった。更に夜にはラティアの斥候と遭遇したことで野営地を変更するなどといったこともあり、やはり眠れなかった。


 そして、今日五日目。

 今に至るまでは、順調に進んでいる。

 先の天測での計算では、航行距離は大凡八十アルト程。十時間ちょっとの時間で、これだけ稼げたのは今日が初めてだった。


 クロウは長くも短い回想から覚めると、後半分程かなと今後の道程を思いながら口を開く。


「まぁ、なんにしろ上手く動いてよかったよ。歩いていくことを考えたら、遥かに早いし楽だしな」

「……そうだね。あ、クロウ、暑いかもしれないけど、風が吹き出すまで寝たら?」


 ミシェルの声に引き出されたのか、少年は眠たげに欠伸をした。


「そうする。悪いけど、見張りを頼む。でもミシェル、痛み止めはしっかり飲んどけよ」

「うん、わかってる。私としては、ほんとなら添い寝の一つでもしたいんだけどねー」

「ただでさえ暑いのに、んなことされると、干からびて風で崩れる。勘弁してくれ」


 戯言に戯言で返すと、クロウは帆の影に入り込んで目を閉ざした。


 十秒もしないうちに寝息が始まる。

 女は今まで見せなかった顔……、穏やかな顔で、愛おしむような眼差しで、少年を見つめる。それから動かない右腕や固定された左足に目を向けて、悔しそうな表情となる。が、それも力なく崩すと重い溜息をついた。



  * * *



 陽が西に傾き、風が吹き始めた。南寄りあるいは東寄りの風だ。

 追い風、或いは追い風に類するそれを帆に受けて、小舟は北へと向かう。昼過ぎからの風は朝の風よりも強く、舟の行き足もまた速くなる。その速度に対応する為、或いは舟の均衡を保つため、また障害物を避ける為、クロウは舵もどき(ラティアの顎牙)でもって大地を削る。その結果として巻き上がる砂埃が魔導艇に襲い来る為、マスクとゴーグルは欠かせない。


 決して良い環境とは言えぬ中、ただ黙々と舟向く先を見つめながら、少年は帆を操り身体をもって重心を安定させ続ける。


 帆を膨らませた小舟は、赤茶けの荒野を孤独に行く。


 陽は順調に傾いていき、順風も変わらず吹き抜ける。


 その最中、不意にミシェルが呟いた。


「ねぇ、クロウ」

「なんだ」

「人って、どうして生きるのかな」

「急にどうした」


 クロウは微かに首を動かして尋ねる。すると、女は暖色を含み始めた空を眺めながら答えた。


「んー、なんとなく聞いてみたい気分になったの。ほら前にクロウが言ってた通り、物思いに耽ってたらね」

「……そうか」

「うん。ま、今まで刹那的な生き方してきたから、こんなことを聞くのなんて似合わないって自覚もあるんだけどね。ちょっと気になったの」


 少年はミシェルの自らを貶める言葉に少し表情を渋める。だがそれでも困ったように頬を掻きながら言った。


「生まれたから生きるんだろ。そこには理由は必要ない、と思う」

「じゃあ、人はどうして死ぬの?」


 クロウは風向きを見て、舵もどきを左舷から右舷へと置き換える。それから相方の疑問に、自分なりの答えを口にした。


「わからん。ただ生まれたからには絶対に死ぬってことだけは知ってる」

「あー、ごめん。聞き方を間違えたっていうか、そういうことを聞きたかったんじゃなくて……、うーん、死ぬ理由、っていうのかな。こう、命を費やすっていうか、ここで死んでもいいって命を賭ける理由? そういうのってあるのかなって」


 少年はシェルが聞きたいことが今一つわからなかったが、取りあえず思ったことを声に乗せる。


「これといったモノなんて、多分、ないだろ。誰もが違う人なんだからさ」

「……そうなんだ」

「ああ、ある人もいればない人もいる。そんなの人それぞれさ」


 二人の声が途絶え、駆け抜ける風の音だけが耳に響く。


 静かな時が一時流れた後、またミシェルが声を上げた。


「なら、クロウはさ、そういうのって持ってるの?」

「ん、命を賭ける云々のことか?」

「うん」

「あー、正直に言えば……、ない、な。というか、どんな理由があったって、それこそ、いくら機兵だからって、命は簡単に賭けたくないよ」


 そう言い切った彼が思い出すのは、アーウェルで散った若い機兵のこと。


 自分ならできるだろうかという、自らへの問いへの答えは、時々で変わり続けている。


 クロウは帆で遊ぶ風を見ながら続けた。


「命は一つしかないからな。どんな理由でも、本当に賭けられるかどうかなんて、その時にならないと俺自身にもわからない」


 一度言葉を切り、朱色に染まりだした砂礫の海を見つめて告げた。


「ただできれば、俺はこの砂海で生きて、死にたいって思ってはいる」


 そこまで言ってから、自分はなにを語っているのかという意識が沸いてきた。身悶えしそうな気恥ずかしさを誤魔化すためにも、クロウは問いを返した。


「そういうミシェルはどうなんだ?」

「私? 私はね、今まではどうでもいいやー、って思ってたんだけど……、うん、自分の命より大切なモノがあったら、その為に賭けてもいいかな」


 何気ない声で出された答え。

 そこにあった軽さと重さに、クロウは返す言葉を失う。


 けれど、すぐに持ち直すと、茶化した声音で言った。


「賭けられた方からすれば、重いことこの上ないな」

「にゅふふ、私も女だからね。一時の激情に身を任せるのいいな、なんて思ったのよ」

「そうか。……まぁ、そんな時が来ないことを祈ってるよ」


 急に肩が重くなった気がして、少年は首と肩を巡らせた。


 世界が夕焼けに染まる中、小さな舟は静かに進む。


 砂海に生きようとする少年と、空疎な心に中身を注ぎ始めた女を乗せて。


 広大な乾ききった砂の海を、傷ついた舟はただただ走り続ける。


 吹き抜ける風に身を任せて、人が住まう緑の地()を目指して。




 探索者は終末を巡る  了

 あとがき

 ふふ、人生が良いことばかりで埋め尽くされていたら、きっと楽しいに違いない(おめめぐるぐる。

 ほんとうにどうえがくかまよいまよううちにじかんだけがすぎていくのはなんでなんだろうとひびおもふ。

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