二 影からの依頼
「クロウ、前に話してた件なんだけど、上が話をしたいって」
亜麻色髪の居候がそう言い出したのは、家主の少年が青年教官の依頼を終えて家に帰ってきた直後。奥の居住区に入った途端のことであった。
赤髪の機兵はこの唐突な申し出に瞬き、ついで、ああと思い出したように頷いた。
「例の仕事を依頼したいって件だな。いつだ?」
「できれば、今から」
「え、今からか?」
「うん。あ、もしかして用事がある?」
「いや、特にないから別にいいけど……、なんだか随分と急な感じだな」
「あはは、そこはごめんねとしか言いようがないわね」
シュタールの密偵、ミシェルは少しばかり申し訳なさそうな顔を見せる。
機体と共に出て行った家主が身一つで帰ってきたことで、なかなかに大変な依頼だったのだろうと察したのだ。
もっとも、彼女はそれで提案を引っ込めるようなたまではない。
「でも、連れて行く場所が場所だから、今の時分の方が目立たなくていいのよ」
密偵は訳知り顔で言い切る。その表情は先と変わらぬままだが、どことなく楽しげな雰囲気をまとっている。
そんな様子に、クロウはそこはかとなく嫌な予感を覚える。が、為した約束は約束である。また最初に無理を言ったのもこっちである。ここは先方の都合に合わせるのが筋だろうと割り切って頷いた。
「わかった、行こう。ただ、汗を流す時間だけは欲しい。構わないか?」
「ああ、それは大丈夫よ。今夜中にって話だから」
「了解。……頼むから、前みたいに覗いてくれるなよ?」
「ぬふふ、それはまた覗いてくれって振りかしら」
にやにやに厭らしい笑みを浮かべた前科者に、クロウは肩を竦めてぼやいた。
「振りじゃない。というか、男の裸なんぞ覗いて、なにが楽しいんだ?」
「そりゃ男が女の裸を見て興奮するのと一緒よ。ほら、クロウもお年頃なんだから、この辺りの感覚はわかるでしょ?」
「まぁ、わかるわからないで言うとわかるけど……」
と言葉を切ってから、少年は目の前に立っている相手を一頻り眺める。
顔もいいし、小麦色の肌にも艶と張りがあって色気がある。また時に身体を使って任を果たしてきただけあって、男の目を惹く程に美しい均衡がある。が、その分だけ凹凸はいまいちの観である。
同居人の身体を無遠慮に、特に胸のあたりを中心に見やってから、クロウは無情に告げた。
「相手による」
「ぬぐっ、お、男殺しと呼ばれた、この私の魅力がわからないなんてっ!」
「魅力うんぬんはともかく、物理的に殺したってのは最近あったばかりだな」
「わたし、みたままにかよわい。そんなあくいのあるふうひょう。ひろげるのよくない」
「風評ならどれだけよかったか。事実だっただけのタマがきゅっとなったわ」
「うん、だから、わたしもタマをキュッと、こう」
手をワキワキと、否、指先で丸い物をぎゅむと握る仕草をする女。
少年は無意識の内に腰を引くと、口元をわななかせながら言った。
「み、見せるな。冗談抜きで怖い」
「うふふ、前も言ったけど、クロウのはちゃんと優しく扱うって」
「いや、絶対に遠慮しとく」
「大丈夫大丈夫、多少失敗しても、ふたつあるんだから、ひとつぐらいなら」
「一つでも潰されたら、俺、一生、女と関わらないようにするから」
「うーん、そこはあれ? けんかいのそういって奴?」
「見解の相違で潰されたらたまらん」
「タマだけに?」
こういった具合に気の抜けた、それでいて無駄に緊張感のあるやり取りを密偵としながら、機兵は散湯所に向かうのだった。
「だから、当然のようについてくんなっ!」
「えー、背中くらい洗ったげるって、この身体でさ」
* * *
クロウ達が家を出ると、辺りは既に薄暗くなっていた。
「まったく、なんで湯浴み一つでこんなに疲れるんだよ」
「もー、大人しく抵抗を止めて、中に入れればいいのに」
「せっかくの気分転換なのに、邪魔されるのはごめんだ」
「えー、こっちの方が楽にも気持ち良くもなれるのに」
「そっちの方に体力使うくらいなら、身体を鍛える方がいい」
普段着姿の少年から漏れ出るぼやき。そこに外套を纏う女の合いの手が入り、またぼやきが出る。そんなことを繰り返しながら、二人は市内に入る為、港湾地区を歩く。
昼の賑やかさが消えた港。夜に抗するには弱い魔導灯が道路に沿って点々と並ぶ。船溜まりや埠頭には幾つもの魔導船が泊まっている。時折、動く人影。残照の名残が市壁や灯台の陰影を生み出す。そして、灯台から夜空に伸びる青白い光の柱が、昏い世界を支えている。
ミシェルが夜闇に沈みいく港を横目で見て呟く。
「うーん、女を口説くには絶好の場所かも」
「いや、どうだろうな」
「おやおや反論ですかね、機兵のダンナ」
「ダンナって……、いやいい」
クロウは一つ首を振り、隣を歩く女に話し出す。
「ここは人気が少なすぎるし、砂海との直接つながってるから危険だ」
「でも、蟲が入り込んだなんて話、聞いたことないけど?」
「今まではそうだったってのはな、これからもそうだっていう保証じゃないさ」
「あらら、万が一を考えるなんて、損な性格ね」
「そういう性分、そういう仕事だからな」
そう言い切りながら、クロウもまた港に目を向ける。
薄闇の中、人影が一つ、埠頭に佇んでいるように見えた気がした。
……が、よくよく見ると、誰もいない。
クロウは気のせいかと首を傾げる。
もっとも、そうしたことである記憶が浮かび上がった。
「後、ゼル・ルディーラが来てる時、殺しがあった」
「あー、例の麻薬絡みの」
「それそれ」
「けど、あれ、殺されたの売人だからいいじゃない」
「……返す言葉に困るな」
やっぱり裏に関わってると考え方が、と考えて、少年は先の一件で少女から向けられた眼差しを思い出す。
隠しきれない恐怖と怯え、それを縁取る信じられないモノを見る目。
小さな疼きが胸に湧き起こるのを感じながら、俺も大概かと苦笑。それからしばし瞳を閉じて、次に目を開いた時、なにかを吹っ切っるように口を開いた。
「まぁ、いいや。で、あの時に逃げた犯人が捕まったって話も聞かないし、もしかしたら……」
「あ、それ、情報が古いわよ」
「え?」
「犯人が逃げる時に使った交易船、遭難したそうよ」
「そうなのか?」
「ええ、今の所、まだ見つかってないらしいし、多分、蟲にやられてるんじゃないかな」
表向きはねと、シュタールの密偵は内々で付け足す。
一方のクロウであるが、直前までの会話に記憶を刺激されていた為か、犯人のことを聞かされた時のことを、より具体的にいえば、遭難という言葉から市軍大尉が呟いた言葉を思い出していた。
砂嵐の神様に連れていかれた。
元を辿れば、大砂海域でよく使われる幼子への戒め……悪いことをすると砂嵐の神に連れ去られるよ、という警句に繋がるであろう言葉である。
ただ、この言葉と今し方耳にした結末に、あの時の手紙の送り主と横を歩く女、その背後にある組織との関係を付け足せば、答えとまでは行かずとも、なんらかの関与があっての結末であるということは見えてくる。
「……怖い話だな」
「ま、為した行為は巡り巡って自らに帰るモノだから、仕方がないでしょ」
軽い言葉。
対照的に、そこに含まれる意味合いは重い。
クロウは己が胸にその重みを抱え込ませた後、先まで考えていたことを頭の中より流し、発言主に軽い調子で言い返した。
「確かに、誰かさんも人に迷惑かけたことが巡り巡って自分に帰ったな」
「うぐっ」
ミシェルは皮肉の声に胸を押さえる。
任務の最中、自らの正体が露呈してしまった一連の出来事を思い出したのだ。
渋い顔を隠さず、徐々に身体を震わせていく女。
「ま、まさかっ、うまくやったとおもったことが、あんなことに、なる、なんて……」
「あ、いや、まてよ。もし、あれで関わらないで済んでたなら……」
両者共に思う所があり、それぞれが唸りを上げる。
とはいえ、そんなことをしても結果は覆らないし、時も戻らない。
既に定まった過去に対して、不毛なことを考えていることにどちらからともなく気付き、二人して口々に言った。
「はい、やめやめ。どうせ考えるなら、もっと健全なことにしよう」
「ああ、今更な話だ」
「うんうん、そんなことを考えるより、しっぽりとした男と女の交わりについて……」
「残念、そろそろ門だから、大人しく口を閉ざすように」
「えー、そんなー」
「見知った門番の人に、微妙な目で見られるなんてことは勘弁してくれ」
彼らの視線の先。
市内へと通じる港湾門が口を開け、人の営みが生み出す彩りを含ませていた。
港湾門を抜けると顔を隠した密偵が一歩前に立ち、先導するように歩き出す。
門を出てすぐ、市内三方に通じる港湾門広場を東へ。
商会通りを真っ直ぐに伸びる魔導灯の筋。外と比べるまでもなく多く連なっており、光の道筋を作り出している。落ち着いた青白い光は行き交う人々……街の主たる住民達を照らし出す。
クロウ達もその内の一人となり、道を行く。宵の口、翌日が平日ということもあって、道行く人は多くはない。が、それなりの数ではある。
そんな人々の大部分が流れ行く先があった。
赤や黄、時に紫に緑といった光に彩られた不夜城。人が持つ欲と熱があふれる色と酒の街。夜の寂しさと日々の労苦を忘れる楽園。そして、人の営みに必ずついて回る影を一手に引き受ける悪所。そう、繁華街である。
その入口近くに至った所で、ミシェルは事もなげに告げた。
「あ、ここ左ね」
クロウは答えず、無言のまま追随する。
やはりというべきか、繁華街は空気が違った。夜闇に負けぬ煌めきが連なり、昼以上の熱気が肌を触る。
「今日、何食べるよ?」
「めんどくせぇし、いつもどおりでいいべぇ」
雑多な騒音の中、耳が拾った声。
その源に目を向けると、油染みた繋ぎ姿の男達が話をしながら近くの飲食店へ入っていく。その姿を追っていけば、店の前で満足げな笑みでお腹をさする女がいた。その傍らには、財布を開いて中身を確認する若者の姿。彼の顔は青い。
若者の顔色になんとなく同情してしまった間にも、街並みは色を変えていく。店の装飾は大人しめなモノから華美なモノに変わっていき、漂う空気もまたより熱くなっていく。
耳に入るのは、賑やかな歓声と女の嬌声。楽しげな演奏に調子外れの歌声が重なり、不意に轟く怒声と続く騒音。
鼻につくのは、酒気と香ばしい香りに、汗と化粧のにおい。不意に感じる錆くさい埃っぽさ。ほのかに風に乗ってくる腐臭。
目に入るのは、夜闇を忘れる眩い光。その前に立つ愛想笑いを浮かべた女達。呼び止められた男達がだらしのない顔でにやつく。
やっぱり、ここだけは慣れそうにないな。
そんな感想を少年が抱いた所で、突然、近づく気配。自然、機兵としての意識が反応し、心身に活が入る。直後、自分の者以外の体温を首筋に感じて足を止めた。
強い香水のにおい。腕に感じる柔らかい豊満な感触。視界に入り込む女の顔。潤んだ褐色の瞳に、長い睫毛。器量よしとは言えないが、愛嬌があった。薄褐色の肌には少し厚めであるが、綺麗に化粧している。
客引きの女か娼婦だろうと当たりをつけて、身体に込められた緊張を少し解く。
ただ慣れない状況であっただけに、戦場に立つ時の如く、心の平静を保つように努めた。
「ねぇ、お兄さん、ちょっと遊んでかない?」
媚を含んだ甘い常套句。頬に掛かる熱い息。股間近くをまさぐるように這う手。
瞬間、どう対応するかを考えるが、場馴れしてそうな青年教官の姿を思い浮かべて、言いそうな言葉を真似て吐き出した。
「あー、誘ってもらえるのは男冥利に尽きるって話なんだけど、生憎と今日は先約があるんだ」
「あら、こっちを選んでくれたら、他の娘も呼んで、たっぷりとご奉仕するわよ?」
「……ちょっと興味を惹かれる話ではあるけれど、約束を破るような男になりたくないんで」
「ふふ、そう、残念ね。あなたとなら、イイ夜になりそうだって思ったんだけど」
「それは光栄」
クロウが苦笑して返すと、女は腕を解き離れる。
彼我の距離が少しできてから、少年は改めて相手を見る。歳の頃は五つ六つは上。波打った暗褐色の髪を背中に流し、豊かな胸元を強調するように大きく開いた淡紅の貫頭衣を着ている。愛想なのかもわからない、余裕のある表情。今の仕事に就いて、それなりに慣れたといった観であった。
女もまたクロウを改めて見やり、クスリと笑って言った。
「けど、今度は、もう少し上手な嘘をお願いしたいわね」
先まであった温もりを少し名残惜しく感じながら、クロウは問い返す。
「上手な嘘?」
「ええ、口では調子のいいこと言ってるけど、最初からまったく興味がないって顔だったわ」
「それは失敬。何分、こういった場所で誘われるの初めてだったもので」
「あら、初物?」
明け透けな問いかけに、少年は少し素の顔で笑って応じた。
「さて、どうでしょう」
「……今の方が素ね。さっきまでの澄まし顔よりイイ顔してるわ」
「はは、まさか。そこらの男と変わりませんよ」
「あら、私としては結構、食指が動いたんだけど……、今からでも遅くないから頂こうかしら」
「素人にお姉さんを満足させることなんて到底無理ですから、遠慮しときます」
「ふふ、やっぱり芯が強いわね。さすがは機兵と言うべきか、機兵らしくないと言うべきか」
その言葉から、目の前の女が自分の素性をある程度知っていると気付いて、困った顔で言葉を探す。だが、さすがに経験不足で、気の利いた言葉は出てこない。
口ごもった少年に対して、女は悪意なく笑うと表情を柔らかくして言う。
「無粋なことを言ってごめんなさい。でも、君と同じ位の年頃なら、普通はだらしない顔でコロッとついて来る所なのよ」
「機兵になる前なら、俺もそうなってた気がします。……っと、連れが待ってるんで、これで」
「ええ、本当に残念だけど……、もしその気になったら、そこの店に来てちょうだい。贔屓にしてくれたら色々と教えてあげるし、たっぷりと楽しませてあげるから」
「は、はは、その気になった時は」
色っぽく秋波を送ると、女は離れていく。
それを見送っていると、周囲の女達から目を……、正確に言うならば、獲物を見定めるような目を向けられていることに気づき、再び足を動かし始める。
やっぱり、ここはコワい場所だ。できるなら一人で来たくない。
そんなことを思っていると、足を止めていた密偵に追いついた。
「むー、なんというかなんというか、もやもやするっていうか、やっぱりむねなのか」
「分析は後にしろって。また絡まれる前に、早く案内してくれ」
「ま、初心な反応。わたしの時とは大違い」
どことなく拗ねた気配。
少年は面倒くさそうな目で案内人を見やり、簡潔に告げた。
「最初にいらんことしてなかったら、誰かさんへの対応もあんな風になってたろうさ」
「ほんとうにー?」
胡乱気な声を受け、少年は考えるように顎に手を当て、ついで無言で相手の胸を見る。
「クッ、やっぱりむねかっ、むねのぜいにくかっ」
「はいはい、世の男の……、多分、六割か七割くらいはそうじゃないかな」
「どうして世間の風はこうも私に冷たいのか」
「うーん、世間に顔向けできないから?」
「やだ、この子、わたしのこころ、折りにきてる」
「はいはい、今はそんなこと、どーでもいいから、早い所、頼むって」
「ま、人の悩みをどーでもいいですって、ほんともう、ひどい男がいたものねぇ」
とぶつぶつと文句を口にしながらも、ミシェルは歩き出した。
それから程なくして、案内役は表通りより分かれる細い小路、その一つに入る。
幅三リュート程の路地は先までいた大通りと違い、光源が少なく薄暗い。そして、その分だけというべきか、表よりも猥雑さが増している。そんな周囲に目を向けながら、クロウは先導者の後を追う。
悪臭の一歩手前のきつい匂いが漂う中、魔導灯の下で鼾をかいて眠る男がいれば、壁に向かって説教をする酔っ払いがいる。路地にまで椅子を出した小さな居酒屋では年増の女がなにやら喚きながら酒を煽れば、気があるのかその隣でべたべたしている男がいる。ガラクタにしか見えないモノを軒先に並べる店があれば、なにが原料なのかわからない乾物らしきモノがぶら下がる店もあった。
そんな小路の脇道……建物と建物の狭い路地を覗けば、暗がりのゴミ箱を漁る小さな人影。視線を感じたのか振り返り、相手の出方を探るようにじっと佇む。通り過ぎて、別の路地。立重なる人影が激しく律動し、押し殺した女の艶声と男の呻き声が微かに聞こえてきた。
クロウは生々しい営みに口を閉ざし、また前を見る。その折、ミシェルが声を上げて立ち止まった。
「着いたわよ」
「ああ」
そこは高さ三階程の建物。
少年が目を走らせると、規則正しく並ぶ明り取りの窓から光が漏れているのがわかった。
それから改めて出入り口と思しき間口を見る。黄昏のような光が漏れる傍、看板が打ち付けられている。風砂で汚れた盤面にはヴィル・エマの銘。その下に休憩二時間二百ゴルダ、一泊五百ゴルダの文字が並ぶ。明らかに連れ込み宿であった。
クロウは若干の疑いを持って、案内人に訊ねる。
「ほんとにここなのか?」
「ええ、ほんとよ。というか、わたしたち同棲してるんだから、だまして来る必要ないでしょ」
「いや、同棲じゃなくて同居だろうが。当然、だまされる可能性はあるだろ」
「……むー、もう少し可愛げのある反応があってもいいんじゃない?」
「既成事実化、なんてことになりたくなからな」
ミシェルは手強いわねぇと口を尖らせるが、次の瞬間には楽しげに笑って少年の腕を取る。
「おい」
「はいはい、とにかく入るわよっと」
「いぎっ」
密偵は手強い相手に間接を極め、これ以上は問答無用といわんばかりに中へと連れ込んだのだった。
* * *
中に入ると、縦横三リュート程の待合があった。
少し低めの天井より温かみのある光。間口の近くに申し訳程度に椅子や観賞植物が置かれ、最奥に受付らしき応対机があった。机の向こう側に座っている人影。奥にも部屋があるのか扉が見える。そんな受付所の手前側、左手の壁には上階への階段と一階客室用の通路があった。
もっとも、クロウにそれらを見る余裕はない。
彼は引きずり込んだミシェルの脇の下をつつき、拘束を緩ませる。それから一息で腕を抜き取るや、不機嫌な顔を相手に向けた。
「お、おまえな」
「だって、こうでもしないといつまでも入りそうになかったし」
「こういうことをするから、疑わしく感じるんだよ」
「えー、それはそれとして、ほら、連れ込み宿の前に立ち止まって踏ん切りつかないのって、傍から見ててなんか格好悪くない?」
一理ある気がした。
それ故、クロウは渋い顔で抗議を控え、文句の代わりに溜め息をついた。
けれど、密偵に動揺はなく、むしろしてやったりといった顔。それどころか、クロウって何気に押しやなし崩しに弱いのではと内々で思っていたりする。が、すぐに当初の目的を思い出して受付へ。少年もまた後に続く。
「はーい、お昼ぶり」
隠していた顔を晒しての一言。
受付に座っていた女……ミシェルよりも少し年上といった風情の女は訪問者を認めると黙したまま頷く。それから手慣れた様子で背後にある棚より番号札付きの鍵を取り出した。その鍵を受けとりながら、密偵は更に訊ねる。
「変わったことは?」
女は短い黒髪を左右に揺らした。
「もう来てる?」
受付の女はゆっくりと頷いた。
「わかった。ありがとう」
再度、女は頷いて、背後に立つクロウに目を向けて会釈した。少年もまた会釈を返した所で、ミシェルが振り返った。
「じゃ、付いてきて」
「ああ」
ミシェルに導かれるまま、すぐ脇の階段を上へ。
一段一段と昇る度に繁華街の喧騒が遠のいていき、二階に至った頃には気にならない程になっていた。
そうして踏み出した廊下であるが、照明は玄関口と同じようで落ち着いた色合い。床や壁にしても相応に掃除が為されているのか、砂塵や埃の類は見受けられない。それどころか森を描いた壁掛けや乾燥花が飾られていた。
「結構、綺麗なんだな」
「そりゃ、ここはそれなりに歴史があるもの」
「そうなのか?」
「ええ、今はこうだけど、元は普通の宿よ。周りが繁華街になったから相応に変化しただけ」
そういうモノなのかと納得半分で頷きながら廊下を行く。壁一枚で通りに面した通路を歩き、道なりに右へ。奥行き十数リュート程の廊下、その左右に扉が並んでいた。
亜麻色髪の密偵は慣れた様子で進み、右側に二つある扉、その手前側の戸板を二三叩いてから告げた。
「お連れの方をご案内してきました」
「入ってください」
落ち着きのある女の声。
クロウがやり取りの意味合いを考える間もなく、ミシェルが扉を開けて中に入る。少年も一拍遅れて中へ。
部屋は廊下よりも明るく、思っていた以上に奥行きがあった。
ただ連れ込み宿としてあるべきもの……寝台の類いはなく、代わりに応接用の机と椅子だけが置かれていた。
そして、応接用の椅子に女が一人、背筋を伸ばして座っている。
クロウが見るに、年の頃は大凡で四十手前程。硬質の整った目鼻立ち。艶を帯びた長い黒髪を結い上げている。隙のない佇まい。身軽に動く為に無駄な肉を削ぎ落したといった観の身体には、市井によくある服。また装飾の類は身に付けていない。けれども、隠しきれない女の色気がある。
少年が知る中で照らし合わせると、ルベルザードの女社長と似ている。が、それとはまた異なる魅力がある。そんな女であった。
ミシェルの上役であろう女は立ち上がると、歓迎の意を示そうとするかのように微笑み、口を開いた。
「ようこそ、お出でくださいました。どうぞこちらへ」
「あ、は、はい」
先に耳にしたモノと同じく、落ち着いた声。
クロウは少し抜けた返事を返しながらも、同居人の脇を抜け、女が指し示した場所……相手の真正面に向かう。
一方、ここまで案内してきたミシェルであるが、扉を閉めると仕事は終わったと言わんばかりに、そのすぐ傍で彫像のように立ち尽くしている。
そのことに気付かぬまま、少年は黒髪の女と向かい合うと、小さく息を吸って肚に力を込める。それから改めて挨拶を口にした。
「初めまして、公認機兵のクロウ・エンフリードと申します」
「こちらこそ初めまして、私はエマ。そこのミシェルの上司であるとだけご記憶ください」
「わかりました。……まず、先日は友人を助ける際に協力していただき、ありがとうございました」
「その感謝、お受けいたします。ですが、今回の協力は偶然にもこちらに益があった結果ともいえましょう。こちらが常にそちらの意に沿えるとは限りませんので、そのことだけはご承知ください」
「はい」
エマと名乗った女はクロウの目を見て頷き、どうぞお座りくださいと促す。クロウが席に座ると、女もまた座った。
席に着いた二人であるが、すぐに口を開くことなく、互いに互いの目を真っ直ぐに見つめる。
少年は女の透徹な瞳から孤児院の院長を思い起こした。他方、女は少年の若く輝く瞳に在りし時の過ぎ去った日々を思い出し、胸の内で歎息する。
確かに、いい目をしている。ミシェルが心惹かれたのもわかる。
不意に訪れた感慨に、それぞれが無言のまま時が流れる。
十数秒の見つめ合いの後、エマがおもむろに口を開いた。
「こちらからも、ミシェルを受け入れてくださった件について、礼を言うべきでしたね。失念していました」
「え? ……あ、それは気にしないでください。受け入れたのは、ミソラを守る為でもありますし」
と一度言葉を切った後、照れくささを誤魔化すような苦笑を浮かべて続けた。
「誰かが家にいてくれるのも、意外と悪くない。そんな風に思うこともありますから」
「そうですか」
女は少年の仕草と言葉、その背後でぐぐっと拳を握り込んだ部下の姿に少し微笑む。そして、机の上に置かれていた数枚の紙を手に取り、クロウに向けて差し出した。
「今日、お呼び立てしましたのは、先の協力の件、その見返りとして仕事をお願いする、ということになっていましたが、これに関してはミシェル受け入れの件と相殺するという形にさせていただきます。ですから、我々がお願いしたい依頼について、受ける受けないの判断はそちらに委ねたいと思います」
「え? ですが……」
それでいいのかと少年が問う前に、エマが話し出す。
「既にご承知であると思いますが、我々は社会の影で生きる者です。エル・ダルークにおいて、ミシェルがあなたにご迷惑をおかけした時のように、任を達する為、様々な仕法手段を使います。だからこそ、わかることがあります」
表情から感情を消し、淡々と話す女。
「人を便利使いする、相手の人の好さにつけこむような付き合い方は、いつか必ず、破局が訪れるものです。また相手の苦しい時に弱みを握り、いいように操るような真似にしても、決していつまでも続かず、末は破滅に至るでしょう。そして、利だけによる繋がりはそれ以上の利によって蔑ろにされ、情に頼った繋がりはその情に引き摺られて打ち断たれてしまいます」
エマは一呼吸して続ける。
「故に我々は、手を組むに足る相手と巡り合えた時、求めるものがあります」
クロウは唐突な話に戸惑いながらも訊ねた。
「それは?」
「まずは信義。互いへの誠実さを」
「それは、わかります」
「つぎに利益。互いに実りのある関係を」
「それも、わかります」
「なによりも、人の理を守ることを」
少年は最後の言葉に首を傾げて応えた。
「それは当然のことでは?」
「ふふ、ええ、当然のことです」
女はほんの微かに口元を緩めるが、目は先のまま変わらない。
「ですが、世の中では時に当然が当然であるとは限りません。アーウェルで騒乱を引き起こした者達やエル・ダルークに麻薬禍を持ち込もうとした者達、ここエフタで先の一件を引き起こした輩やその一味のように」
「確かに」
クロウは表情を渋めて頷いた。
素直に感情を表す少年を見つめながら、黒髪の女が再び口を開く。
「けれど、我々も先の輩とそう変わらぬ存在です。法を無視し、力を振るうことが多いので、悪と呼ばれる方がしっくりと来るでしょう。なにしろ、時に人を騙し陥れ、時に刃でもって命を奪うのですから。その我々が人の理を守ることを求めることを、あなたは笑いますか?」
赤髪の機兵は問いかけの答えに悩むように眉根を寄せて数秒。それから、目を鋭くして訊ねた。
「あなた方が力を振るうのは、何の為に? 誰の為に?」
「……世の不条理と理不尽な力を打破する為に、平穏の中で生きる人々の為に」
「なら、笑いませんし笑えません。昔、孤児院で必要悪という言葉を学びました。それがどういったことなのか、なぜあるのか、その時は意味合いが掴めませんでしたし納得もいかなかったけど、先の一件やエル・ダルークやアーウェルの件で、あなた方のような存在が必要なのだと、よくわかりましたから。……でも、そういった必要悪で抑えていることも表側で解決できるなら、それが一番だとは思いますけどね」
そこまで言った後、クロウは常の表情に戻して、密偵の上役を見る。
「これで答えになりますか?」
「ええ、十分に。……クロウ・エンフリード殿、我々は今後も良き付き合いを望みます」
「いえ、こちらこそです」
「それと、この先に関してですが、もしなにかありましたら今回のようにミシェルを連絡役としてください。動けるか否かはその時次第ですが、最低でもなんらかの助言、或いは情報か物資での支援を致しますので」
「わかりました。助かります」
と答えた所で、少年はこれまでのやり取りに、あれ、なんで依頼の話が協力云々の話になったんだろうか、と今更な疑問を抱く。が、エマが机に上に置かれた紙に手を添えた為、霧散して消えた。
「さて、改めて、こちらからの依頼についてです」
「あ、はい」
「今回、用意したのはこの二件。ですが、これらは仕事をする場所が違うだけで、内容はどちらも同じです」
「拝見します」
クロウは二枚ある紙の内、一枚を手に取って読み始める。
件名は、エフタ近郊旧文明期地下遺構二十五番、内部調査。
意外に思いながら依頼内容に目を移すと、地下遺構内を探索し、内部構造の見取り図を作成するというものであった。
クロウは裏の組織がこれを為す理由がわからず、紙面より顔を上げて口を開いた。
「ええと、質問をいいですか?」
「可能な限り答えます」
「ありがとうございます。ええと、その……、いつもこういった探索をしているんですか?」
「いえ、特に要請がない限り、遺構の探索は行いません」
「なら純粋な疑問なんですけど、これをする目的はなんですか? あ、もちろん差支えがなければでいいので」
瞬間の沈黙。
ついで、平静な女声が理由を述べ始めた。
「その遺構が利用できるかどうかを調べたいのです」
「利用する?」
「はい。現在、エフタに駐留する旅団幹部より、駐留船隊の泊地を新たに建設できないかという要望が連合会に上がってきています」
「泊地を……、つまり、今回の依頼はここに書かれた遺構に建設できるかどうかを調べる為の」
「事前調査ということになります」
クロウはなるほどと肯き、再び紙面に目を落とす。
実施期間は特になく、代わりに期限が三一八年末日とだけ書かれている。更に下段へと目を走らせると、探索に必要となる用具等は応相談とある。
「必要な用具……、暗視装置の類いは借りれますか?」
「お渡しできます。ですが、我々も使用していますので、予備の性能が低い物となります」
「わかりました」
性能が低くてもないよりは遥かにマシだ。借りられるなら受けてもいいかもしれない。
クロウの意識は受ける方向に傾く。ついで、報酬と書かれた部分に目を向ける。
依頼受諾時に、準備金として一万ゴルダ。
依頼達成後、成功報酬として、最大六万ゴルダ。
その他、探索時に得られた旧文明期の遺物の所有権。
少年は世のグランサーが羨む条件だな等と考えながら、気になる点を声に乗せた。
「成功報酬とありますけど、これはどういった基準で判定を?」
「情報の正確さ、見取り図の精度です。こちらの判定につきましては……、幸いなことに、我らに属する者で、かつ、エンフリード殿の傍に侍っている手隙が一人おりますので、その者を随行員につけることで対応したいと考えています」
上司から指名された女が世の中はやっぱり甘くないと肩を落とした。
他方、クロウであるが、この条件なら悪くない。否、地下遺構に単独で挑む必要もない上に、達成するべき目的も明確であるし報酬も上々である。視野がある程度確保できるという条件ならば、最低限の仕事はできるだろうと判断していた。
ただ、損害を受けた際の補償や補填といったものがないので、もしもの時の対抗手段が必須である。
これに対する備えであるが、行き帰りは魔導機を使えるので身の安全は自分の腕次第。けれども、遺構内部となると魔導機が使えるとは限らない。その為、少年は魔導機以外に何か他に身を守る術がないかと思考を走らせる。
逃げる時の目晦ましは必須として、なにかの自衛手段があればいいんだが……。
彼の脳裏にまっさきに浮かんだのは、やはり翠髪の小人。
けれども、その小人は新たな事業を立ち上げるべく忙しい日々を送っている。頼むのは無理だと判ぜざるを得ない。同じ理由で金髪の魔導士も不可である。ただ、その二人との繋がりで、使えそうなモノを思い出す。いまだに強烈な印象が残っている凶器の存在を。
アレをなんとか借りれたらより安全になるんだけど……、まぁ、駄目だったら駄目だったなりに、似たようなモノを用意すればいいか。扱い方も覚えたし、ラティアでも一対一なら、やり方次第で潰せないこともないだろうし。
かつての彼からすれば、考えたこともないようなことを考えつつ、もう一枚の依頼書を見る。
先に聞いていた通りのようで、エフタ近郊旧文明期地下遺構三十七番、内部調査と件名に書かれている。内容にも目を通すと、こちらも先のものと同じ文面であった。必要な情報はこれ位かなと思った所で、クロウは重要な点を忘れていたことに気づく。
「こちらの伝手で人を頼むのは?」
「極力、我々の存在を知られたくありませんので、エンフリード殿の知り合いで言えば、ミソラ殿以外は避けていただきたく」
「了解です。後、それぞれの遺構がある位置は?」
「二十五番がエフタの北、大凡七アルト。三十七番がエフタの西北西、大凡八アルトといった所です」
「少し離れているんですね」
「エフタの外郭陣地を兼ねる計画ですので」
エル・ダルークの北部監視所……、とはちょっと違うけど、そういった奴に近いかな。
クロウは自分の中で類似する前例を見つけて納得する。
こうして疑問点を潰し終えると、いよいよ依頼を受けるか否かの判断である。
もっとも、この点に関しては既に彼の中で答えは出ていた。
「この依頼、受けます」
これまでに得た経験と機兵として培った自信が導き出した答えであった。
「では、どちらをお選びに?」
「やること自体は変わりがないみたいなので、どちらでも構いません。そちらの都合で選んでくださって結構です」
クロウの返答に、エマは考えるように依頼書に目を落とす。ついで、少年の背後にいる部下へと目をやる。上司の視線を受けて、ミシェルは真面目な顔で頷いた。
エマはならばと言い置いて、改めて口を開く。
「この二件、両方を受けていただけますか?」
この申し出に、クロウはやること自体に変わりがないのだからと判じて頷き答えた。
「わかりました。ここに書かれた期限内なら、いけると思います。……あ、情報の引き渡しはミシェルに渡すという形でいいですか?」
「はい。こちらもミシェルを通じて残りの報酬をお渡ししましょう。……ただこの方法には一つだけ問題があります」
クロウはなにかと応じると、エマは少し困ったような顔を浮かべて言った。
「ミシェルが嘘を付いて、報酬を中抜きするかもしれません」
「はは、織り込み済みです。だから、その分だけたっぷりと働いてもらう予定です」
ちょぉっ! おかしらぁっ! わたしっ、んなことしませんよぉっ! というかっ、クロウこんにゃろぅ! ほんとに抜いてやろうかしらっ!
亜麻色髪の密偵は表情を保ったまま、内心で上司と家主の評価に憤慨する。
「といった冗談はここまでにして、ミシェルはそんなことはしないでしょう」
ッ!
ミシェルは少年の言葉に、確かな信を感じる声の響きに心打たれた。
「そう言えるだけの信を、彼の者に?」
「ええ、そうですね。騙されたらかなり怒ってきつい拳骨を喰らわせる程度には」
遠回しな言葉に、エマは思わず笑う。
クロウもまた苦笑して続ける。
「今まで周囲にいなかった手合いというか、普段はおちゃらけたというか色狂いの気があるというか、こちらを困らせて喜んでいる怪しからん奴というか、まぁ、かなりはっきり言って残念な奴だとしか言いようがないですけど」
……うっく、わ、わかっていたけど、けっこう心が削れる!
ミシェルは散々な評に心で泣いた。
「根は真面目というか、人を慮ることができるだけの暖かさは持ち合わせているようですし、親交を結んだ相手を理由なく裏切るような奴ではないと思っていますので」
うん、信じてたよクロウ、わたし信じてた!
続いた言葉に、女密偵は即座に掌を返した。
そういった転々と変化する心情を見抜いているのかいないのか、エマは面白そうな目を部下に向けた後、クロウに微笑みかけた。
「そうですか。こちらが考えていた以上に、ミシェルへ信を置いてくださっているようですね。……ならば、今後は彼の者の任であるミソラ殿の周辺監視の他、あなたへの可能な限りの協力も含めたいと思います」
「え?」
予期せぬ言葉に、クロウは目を丸くする。
しかし、エマの話には続きがあった。
「ただ、ミソラ殿の件に関して、今現在のように居候させていただいているのが一番自然な形ですので、叶うならば、このままの体制を維持していただきたいのです」
「あー、なるほど、協力は家賃ないし迷惑料ってところかぁ」
と少年は呟き、直に語を紡いだ。
「ミソラに関わることですから、居候の件は構わないんですけど、その……、アイツがなにかにつけて色で迫ってくるのを、なんとかできませんか?」
「それは……、難しいですね」
「えぇぇ、難しいですか?」
「はい。そこは彼の者の根の部分……、あるいは気質に関わる所ですので、私が釘を刺し自制を促したとしても、一日二日で効き目がなくなるでしょう」
「そう、ですか。筋金入りなんですか」
クロウはあからさまに肩を落とす。
それとは対照的に、ミシェルはご機嫌の色が無表情から滲み出ている。
両者の様子を一頻り眺めた後、エマは対談を閉めるべく宣した。
「依頼の件に関しては、以後、ミシェルを通じて行いたいと思います。必要な支援や情報等がありましたら、そちらにお願いします。今日は実り多き話し合いとなりました。エンフリード殿、今後も良き付き合いが続けられることを願います」
* * *
深更。
ヴィル・エマの地下にある部屋の一室にて、十に満たぬ者達によって会合が開かれていた。
「……の結果、課されていた案件の一部を公認機兵クロウ・エンフリード殿に委ねることができると判断しました。よって、作戦計画の一部を変更し、東方への増援を前倒しすることとします」
黒髪を結い上げた女、先程までエマと名乗っていた女頭領が円卓に集った者達……密偵組織の幹部達にそう告げる。これを受けて、頭領の脇の席に座る線の細い男が口を開いた。
「今、頭がお話しされた通り、当初の予定を前倒しして東方への増援として、現在、エフタで待機中の七班を派遣します。この七班が先行して活動している三組と五組に合流した後、これまで得られた情報を元に、より踏み込んだ諜報を行う予定です」
作戦計画を担う男の声に、場の者達は賛同するように一斉に頷いた。
その中の一人、特徴がない凡庸な顔の青年が後を受けるように話し出す。
「しかしながら、東方への遠征は行動班にかなりの負担を強いていると、運営としては考えています。現状、十ある行動班の内、三班が東方へ。残り七班にしても、一班が帝国、二班が同盟、四班がアーウェル、六班がルヴィラ、八班はエル・ダルーク、九班及び十班はザルバーンと、予備が払拭している状態です」
「だからといっても、財務からは、新しい班を作り出す余裕はない、と言うしかないねぇ」
眼鏡をかけた老女が手元の帳簿を視線を落としつつ、濁声で応じた。
「ええ、それはわかっています。私が注目したいのは、今回の余裕を生んだ、案件委託についてです」
視線が集まったのを確認してから、どこにでもいそうな青年は言葉を続ける。
「運営から見まして、一部とはいえ、我々が抱えている案件を委ねるに足る存在と繋ぎを持つことができたことは、非常に有益であると判断しています。今回の事例のように、我々でなくともできる、機密度及び重要度、優先度が低い案件に関しては、外部の協力者に委ねることで、喫緊の課題である行動班の負担を少しは軽減できるのではないかと予想しています。故に、突然ではありますが、一部案件を外部協力者へ委託、またその仕組みを構築することを、この場で提案したいと思います」
この言葉に対して、左目に眼帯をした男が頷きながら応じる。
「行動班長として言わせてもらうと、現状の過負荷状態を思えば、今の提案は歓迎するに値するものだと思う。しかし、そう易々と外部に協力者を作って良いものだろうか? 我々にとって、注目を受けず、隠密に動ける状態にあることがもっとも重要だ。下手をうてば、我々の存在が広く知られることになる提案には、慎重な立場を取らざるをえない」
「ですな。確かに、私も今の提案自体は悪いものではないと思います。しかし、小石を集約する立場としては、存在を知られる、或いは、そのような組織があるということが広がることは、安全に関わる大問題であると捉えます。今現在の情報収集効率を維持したいならば、そういった事態を可能な限り避けていただきたい」
恰幅の良い中年が悩ましそうに眉根を寄せて言った。
ついで、白髪の初老が顎髭を触りながら応じる。
「とはいえ、現状のままでは拙いのは事実。そろそろ、全てを我々の内で収めるのも限界なのかもしれません。……ここは一つ、我々調達が外部と接する時のように間に別のモノを挟むなり、身元を偽装してはいかがでしょう。この方法ならば、今現在の危険度と然程変わらないはずです」
「つまり、組合への依頼に混ぜるということか……」
「ええ、この際、行動班の隠伏用も兼ねて、商会でも起業しますか? そこから組合を通じて依頼を出すと言う形に持っていけば、変に勘ぐられることも少なくなりましょう」
「しかし、その方法では出せる依頼が偏ってしまうだろう。いや、そもそも起業の元手はどこから出す?」
「それと委ねる相手への信用の問題もありますな。そこはどう担保しますか?」
老若の幹部達はどうすれば実現できるかと、様々に議論する。
そこに冷や水をかける声。
「こらこら、あんたたち待ちな。議論の前に、まずもって動かす為の予算について考えな。今回は予備費から回したけど、今後、案件が増えた時はどうするんだい? 予備費はあくまでも私ら全体の予備費だ。これを削って回すっていうなら、それはそれで構わんけど、いざって時にあんたたちが苦しくなるんだよ?」
最古参の言葉に、場に満ちていた声がピタリと止まった。
世知辛い話であるが、先立つモノがなければどうにもならないことを皆が知っているが故の結果である。
だが、その沈黙を破る者がいた。
「予算については、どうにかなるかもしれません」
黒髪の頭領である。
彼女は一番のうるさ型である幹部に向けて告げた。
「最近の話ですが、シュタール家は小人殿が興す企業に出資を為されました。ここからの配当の一部を予算として頂けないか、セレス様に掛け合おうと考えています」
「……ふむ。まぁ、シュタール家の財政はかなりの余裕があるからねぇ、こちらが頼み込めば、引き出せることは引き出せるだろうさ。けど、肝心のそこは儲かりそうなのかい?」
「私とアレイアが見るに、当分の間は間違いなく」
老女は眼鏡を押し上げると、頭領に告げた。
「なら今の話、まずはあんたたちの内で詰めておきな。具体化していくのは予算の確保がなってからだ」
「提案自体には反対しないと?」
「あたしゃ、金庫番さ。金勘定以外に関しては口出しはしない。お前さん方の思う通りにやればいいさね」
この言葉を合図とするかのように、再び幹部達が議論を再開する。
彼らの時間は始まったばかりであった。




