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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
8 早乙女は深窓で憂う
72/96

八 ただ護人であるが故に

 夜の帳は落ちている。

 寝ぼけ眼の中年大尉は人通りがほとんどない街路で紙巻(煙草)を咥えると、火を灯した。筒先がじりじりと焼け、うっすらと紫煙が上がる。その薄煙の向こう側に、一軒の住宅が街灯りを背に受けて影絵のように浮かんでいる。


 男は常と変わらぬ風情で一軒家を眺めつつ、静かにひと吸い。


 頭を強制的に冷やしながら、自身の周囲に集った者達に目を向ける。

 一点の頼りない火種に照らされた、七つの人影。赤髪の少年機兵と素性定かならぬ密偵、これに加えて、五人の警備隊員だ。


 リューディスはゆっくりと煙を吐き出すと、ここに至る道中で拾い上げた者達に向けて話し出す。


「さて諸君、さっきも言ったが、緊急事態だ。時間がないから、簡潔に状況を説明する」


 五人の男達が姿勢を正すのを見やりながら、市軍大尉は普段と同じ声調で続ける。


「つい先程、今現在において世間様を騒がせている案件に関して、ある筋から有力な情報が入った」


 茫洋とした目が俄かに鋭くなり、場の空気が張り詰めた。


「それによると、先の案件の被害者は、この家を根城にしている連中にかどわかされた、とのことだ。本来であれば。情報の真偽を確かめる為の裏付けを行い、正規の手順を踏んで捜査するべき所ではある。が、即急に動かなければ、被害者が酷い目にあわされる可能性が高いこともわかった。その為、現場判断……俺の独断専行で、これより強行突入を敢行することとした」


 語られた内容を理解して、ただ将校に言われるままに付き従った隊員達の顔に緊張が走る。


「とはいえ、いきなり、こんなことを言われても戸惑ってしまうだろう。実際、ガセネタの可能性もあるにあるからね。……ま、この辺りの問題は全ての俺の責任ってことで、君達に責が及ぶようなことにならないようにするから、安心するように」


 下士官と思われる厳つい男が安堵したように息を吐き出した。

 それを視野に収めながら、リューディスは手振りで残る二人を指し示して言った。


「後、今回の強行突入に際して、心強い伝手(この二人)が手を貸してくれることになった」


 クロウは無言のまま会釈。その背後に立つミシェルは外套のフードで顔を隠し、無関心の態を見せる。


「彼らについては、もしかすると見知っている者がいるかもしれない。だけれども、諸々の事情で……、というよりも、事の真偽が定かではない状況で、善意でもって協力してくれる彼らに罪が及ばないようにする為、また同時に、市軍の面子が立つようにという、俺達にとって大変ありがたい配慮の申し出があった為、この場には彼らは存在しなかった、ということになるから、十分に心得ておいてほしい」


 自身の言葉が隊員達に浸透するのを見て取ると、大尉は手にした煙草を指揮棒代わりに、隊員一人一人に手早く指示を出す。


「よし、君と君は裏口を固めて、逃亡を図る者がいたら捕縛をはかれ」

「はっ」

「了解です」

「残りの三人は、俺と一緒に正面の玄関からだ。扉を確保して中に入った後、兵曹と君は出入口を固めてくれ。最後の君は、俺と一緒に動いてもらう」

「は、了解です!」

「わ、わかりました」

「了解しました」


 そういったやり取りの後、リューディスは改めた様子で、協力者達に目を向ける。


 道中、姿が見えなくなったと思ったら様々な道具を確保して戻ってきた女密偵と、彼女から渡された大鉄槌を背負った少年。密偵の手慣れた動きに加えて、少年の自然体な様子が実に頼もしく見えた。この先の荒事を考えれば、力強い味方である。


 だが、事件を早期に解決する為とはいえ、本当にこれで……、裏取りもできていない情報を丸呑みして、彼らを巻き込み、利用していいのだろうか?


 中年男は己が保身と良識の問いかけに苦味を覚えながら、それでも平然を装って内々で嘯く。


 法規に従って動くだけならば、誰にでもできる。

 時に自らの決でもって、場における最良だと思うことを選択する、否、できてこそ、将校(責任者)だと。


「で、君達のやることは、道中で話した手はず通り、俺達正面組が動き出したら、二階の露台(バルコニー)から突入だ」

「わかりました」 

「けど、正直に言うとね、市軍に籍を置く身としては、情報が少なすぎる状況で君達に一番危険な所を頼んでいいのか、悩む所なんだ」

「大尉、それは……」

「うん、わかってるよ。君が自ら望んでやってくれるってことも、今ここにいる中で、君……、君達が一番状況に対応できる技術を持っていて、荒事に慣れているということもね」


 いや、こんなことを言いたかったわけじゃないんだけどと、この場に来てはじめて笑みを、苦笑ではあるが浮かべて続けた。


「ほんと今更の話だ、忘れてちょうだい。……さて、最後の確認だけど、二階の内部構造は頭に入ってるね?」

「ええ」


 クロウは返事と共に、ミシェルから教えられた構造を思い出す。


 二階は大きい部屋が二つ。

 家の主が寝起きする主寝室と、主がくつろぐ居住室で構成されている。そして、主寝室は居住室とだけつながり、居住室は露台や階段がある廊下と繋がっている。

 この内、まずは突入場所となる居住室を制圧。そこでリィナを保護できればそれでいいし、いなければ更に奥へと踏み入る。


 中年大尉は薄っすらと見える少年の顔から大丈夫だと判断するや、手に持っていた煙草を握り潰し、場の者達全てに向けて告げた。


「おっと大切なことを忘れていた。今現在、わかっている連中の数は、七だ」


 ついで気負いなく付け加えた。


「ここにいる面子で、やってやれない数じゃあない。日頃から鍛えた力量をいかんなく発揮する時が来たと思えばね。……よし、じゃあ始めようか」



 指揮官の言葉を合図に、各々が家を囲う低い塀の内に入り、静かに動き出す。

 クロウとミシェルもまた小走りで、露台を見上げる場へ向かう。陽が沈んで暗くなった為か、動きはそれほど目立たない。内部の人間や周囲に気取られることなく無事に到着する。

 すると早速、女密偵がロープの束を懐から取り出し、先についた鍵爪を振り回し始める。そうして勢いをつけると、露台の陰影に向かって放り投げた。


 数拍の間の後、金属が何かを噛む小さな音。


 だが、それは夜の街の遠い喧騒に紛れて消えていく。


 ミシェルは幾度か引っ張って、しっかりと引っ掛かっているかを確認する。それで安全だと判断するや、お先にと言わんばかりにするすると昇り始めた。少年は女の影を見上げながら思う。


 さっきもいつの間にか道具を確保してくるし……、本当に手慣れてるな。


 そんなことを考える間にもぞもぞと昇り行く影は中程を過ぎ、露台の縁に至った。そして、慎重に様子を探るように頭を動かしてから、音も立てずに中に入り込む。ついで手が中空に伸び出ると、上がってこいとの合図が為された。

 これを受けて、クロウはロープを掴み、上を目指して昇り始める。普段から鍛えていたことが幸いしたというべきか、或いはロープには結び目が適度に作られていて比較的昇り易く作られていた為か、とにもかくも、そう時間をかけることなく露台に辿り着いた。


 物音を立てないよう、少年は慎重に欄干をまたぐ。それを脇目に見ていた先行者が囁き笑った。


「もう少し時間がかかると思ってたわ」

「小さい頃から木登りはそれなりにしたからな、なんとかって感じさ」


 クロウも小さく答えた後、室内への開き戸に目を向けながら続けた。


「鍵は?」

「残念なことに、背中のモノの出番よ」

「わかった。……ミシェル、大尉に合図を頼む」


 この言葉に、女密偵は短く質す。


「本当に、やるのね?」

「ああ、こうして機会を与えられて、しかも後始末まで約束してくれた。なら、後はやるだけだ」

「中の状況がわからない以上、私としてはやめてほしい所なんだけどねぇ」

「別に無理してまで、付きあう必要はないぞ。荒事、苦手なんだろ?」

「冗談、女にも意地があるの。ここまできたら最後まで付きあったげるわ」


 そう言い返しながら、女密偵は玄関近くの塀に向かって小石を三つ、立て続けに投げる。


 乾いた音が連続すると、近くにいた人影が手を振った。


「うん、向こうが気付いた。……始めるみたいよ」


 その言葉が合図であったかのように、玄関側で力強く戸を叩く音が響いた。


 少年は背負っていた大鉄槌を降ろしながら、ミシェルを見やって告げた。


「おまえって、思ってたよりもイイ女だよな」

「そう言うなら、手の一つでも出しなさいよ」

「それとこれとは話は別さ」

「そう言うと思った。……で、心の準備はできた? この先はどう転ぶかわからない、出たとこ勝負って奴よ?」


 クロウは大鉄槌の柄を力強く握ると応じた。


「今までもこれからも、大抵はいつもそうさ。なら、普段通りにやることをやるだけだ」

「わかった。……対応に出てきたみたい。こっちも始めよっか」


 クロウはミシェルが閃光弾を取り出したのを認めると、大鉄槌を手に腰を捻じり、叩きつける場所を睨み据えた。



  * * *



 室内では四人の男達が肉欲の饗宴に酔いしれていた。


「くはっ、イイ締りだ」

「こっちもなかなか……、随分と坊ちゃんに仕込まれたみたいだ」

「ふひひ、役得役得。下の連中は残念でしたって奴だ」

「なーに、次の機会を譲ってやればいい」


 男達は下卑た笑みを隠さず、部屋の真ん中で女を嬲る。

 肌に赤毛を張りつかせた女は既に半ば意識を失い、為されるがまま。好き放題されている身体は汗と体液で塗れ、性臭を放つと共にねっとりとした光沢を帯びている。男達に囲まれて救いがないと悟っている為か、女の瞳は虚ろに周囲の光景を映すだけであった。


 絶望の縁にいる女に頓着せず、快楽と愉悦に浸っていた男達であったが、その享楽の時は唐突に終わりを迎える。


 いきなり破砕音。


 女以外の者達が驚き、その源へと目を向けた。


「なっ」


 誰かが声を発しようとした時、大きく開いた戸より飛び込んできた物体に気付く。


 そして、それがなんであるかと理解する前に、鮮烈な閃きで目を焼かれた。


「がぁっ! め、めがっ!」

「ぐっ! ちくしょうっ!」


 真っ白に焼き付いた視界。


 下半身を丸出しにした男達は女を放り出すと罵声を上げ、目を押さえる。


 一人が状況を悟り、階下の仲間を呼ぶべく、あらんかぎりの大声で叫んだ。


「ちくしょうっ! 強襲だっ!」


 また、もう一人も効かなくなった目を庇いながら、記憶を頼りに自分達の武装を確保すべく動き出す。


 だが、その動きは唐突に為された腹部への檄打によって妨げられた。


「ぁがっぁぇっ」


 鉄塊による痛烈な不意打ち。


 思わず腹を押さえて両膝をつくや、激しく嘔吐する。


 これを為した襲撃者は無力化した相手の横を抜け、別の相手……大声で仲間を呼ぶ男、その口へと掌打を強かに叩きつけた。


 激烈な一撃は顎を砕き、血と涎、歯が舞い飛ぶ。


 口元を破壊された痛みに抗しきれず、白目を剥いて崩れ落ちた。


「ぐぁぁっ! く、くるなっ!」


 次に、突然の襲撃に恐怖し、狂ったように叫ぶ男に目を向けた。

 目に見えぬ相手を少しでも牽制しようと両の手を振り回している。そんな相手に襲撃者は姿勢低く迫り、鳩尾へ拳。痛みに息が詰まり、声にならぬ声が漏れる。

 だが、それでも抗おうと振るった腕を取り、今度は間接を捻じる。痛みに耐えかねた男が姿勢を崩した所を足払い。そのまま勢いをつけて引っ繰り返し、服や防護具が置かれた椅子へと叩きつけた。


 高級品であろう木製の椅子が弾け壊れ、男は声も出せず、そのまま血反吐を吐き出して気を失った。


「さっすが、現役機兵。やる時はやるわね」


 クロウは声に引かれて、鋭く底光りする視線を向ける。


 声の主であるミシェルが、締め落とした男を床に放り出す所であった。


 クロウはすぐに答えず、意識を失って倒れている女に目を向ける。リィナでないことに安堵し、汗や体液に塗れた裸体に眉をひそめる。けれども、それ以上の反応は見せずに大鉄槌を拾い上げ、奥の主寝室に繋がる扉に目を向けながら短く問う。


「すぐにいけるか?」

「もう少し人手があったらいけないこともないと思うけど、ここは一拍置いて、こいつらの拘束を先にしましょう。……想定してたよりもここにいる数が多かったから時間が掛かったし、かなり騒がれたわ。間違いなく、下にいるだろう連中や本命もこっちの動きに気付いてるはずよ。まぁ、下は……怖い大尉さんが頑張ってるみたいだから任せるとしても、ほら、それ」


 少年が密偵の示す指先を追ってみれば、大きな机。豪奢な装飾がなされたそれの上には、鈍く輝きを放つ拳銃が置かれていた。


「せめて、相応に準備しないとね」



 壁を挟んだ向こう側では、家の主であるアントンが落ち着きなく目を走らせていた。


 階下での騒ぎは続いているようであるが、隣室からはすでに騒音と叫び声が聞こえなくなっている。

 護衛達から声がかからないことから、不味い状況だと窺い知れた。否、それどころか、すぐにこちらに乗り込んでくる。そうなるのは間違いないように感じられた。


 どうするっ、どうするっ!


 小太りの男は大きな焦りを抱えて、寝台の傍らで周囲を見渡す。


 布覆いがされた窓、光を絞った照明、細工付の壁掛け時計、大きな姿見の鏡台、それに映る自らの醜態。


「ぐぅぅっ」


 おろおろする自らの無様な姿に、常人よりも強い自尊心が削れて呻く。


 歯ぎしりをしながら、先程まで乗っていた寝台に目を向けた。

 ずたずたになった服だったモノが辛うじて残っている獲物が横たわっている。張りのある肌は汗にまみれて艶めかしいが、自らが作り出した幾筋ものミミズ腫れが走っていた。

 涙に塗れた顔、嗚咽で枯れた声、先程までの強気な色はもうない。それどころか意識が朦朧としてきたのか、反抗的な態度が薄くなっている。ならばと、そろそろ純潔を奪って泣き叫ぶ様を見てやろうと考えていた所であった。


 男は焦りを抱きつつも、ギリギリと歯噛みする。


 今の状況が……、これからという時に全てを台無しにされたことが腹立たしい。


 そう、腹立たしいのだ。


 商会の御曹司は内に芽生えた恐怖を苛立ちと怒りに塗り替え、すぐ傍にあった枕を鞭で叩く。布地が千切れ飛び、中の羽毛が群れを成して宙を舞う。それが自らの顔に降りかかったことで、自らが為した結果であることを無視して、より苛立ちと怒りが募らせる。


 強い情動が血流を強め、大きく見開いた目は血走る。


 激しく起った分身が、下着に先走りの染みをつくる。


 無意識により多くの酸素を求めて、鼻息が荒くなる。


 その甲斐があったのか、彼はあることを思い出す。


 思い出したのは、父より授かった護身具。


 御曹司は手にしていた者を床に叩き付け、大急ぎで鏡台に近寄る。そして、備えられた引き出しを力一杯に引き出し、中身を床にぶちまける。その中に、彼が欲した護身具……拳銃があった。信頼性が高い回転式。震える手を伸ばし、掴みとる。六つの弾倉につまったままの弾丸。また銃本体の重みが頼もしく感じられ、ほんの少し心が落ち着く。だが、それ以上の高揚が、人を容易に殺せる武器を手にした事実によって、鼻息をより荒くする。


 血の巡りが良くなった為か、はたまた身を守る手段を得た為か、彼の頭に護衛より教えられた非常時の心得が甦って来る。


 いざって時に坊ちゃんがすべきことは、相手を積極的に攻撃することじゃなくて、我が身を守ることです。

 で、身を守る方法としては、場から逃げ出すか隠れる、味方を呼ぶってあたりが順当ですが、どうもしようもなくなったら、その銃を使うのもありです。


 アントンは自らの置かれた状況を鑑みて、銃を使うしかないと判断する。すると、再び心得が頭の中で響いた。


 使い方は簡単です。ただ、そいつを真っ直ぐに相手に向けて、引き金を引く。しっかりと銃を握って、何も余計なことを考えずに、一番大きな胴体に向けて、引き金を引く。それだけです。けどまぁ、それ以前に、俺達がなんとかしますから、安心していてください。


 なんとかできていないじゃないかっ、と御曹司は顔を真っ赤に染めながら歯噛みして扉を睨む。もっとも、我が身の危機をより認識した結果か、為になりそうな記憶が浮かんできた。


 ああ、そうそう、言い忘れてましたけど、襲ってくる連中にも幾つか手順ってのがありましてね、市軍といった治安組織だと、大概の場合は最初に目晦ましや大爆音を使ってこっちの感覚を潰そうとしてきます。これの対処としては、なにかを目にしたら目を塞いで、口を開けて、ってあたりが妥当でしょう。最初のこいつに耐えきれれば、意外と状況に対応できるもんなんです。ただまぁ、不意打ちだとそれも難しいんですが……、ま、来るとわかってるなら、意外と耐えられますよ。


 意外と耐えられる。


 アントンはその言葉を信じ、興奮に震える心身でもって、手にした銃を隣室に繋がる扉に向ける。


「最初を耐える、まっすぐに撃つ、胴体に向けて、まっすぐに撃つ、最初に耐える、それから撃つ、入ってくる奴の胴体に向けて、撃つ」


 座った目でブツブツと教えを呟きながら、手腕に力を込めて身構えた。



 壁掛け時計が、時を刻む。


 ゆっくりと、せわしなく。



 元より緊張に慣れていない為か、男の息がだんだんと上がっていく。



 隣室から音は、聞こえてこない。


 階下の争う音は、聞こえている。



 騒ぎが続いている事実に、まだ助かるかもしれないとの希望を抱く。



 扉越しに、音を耳にした。


 直感して、引き金に指を。



 経験したことがない緊張に、心臓が激しい鼓動を刻む。



 吹き出す汗。


 上がる呼吸。



 銃を保持する肩と腕が緊張と重みに震える。



 扉が突然に弾け開く。


 放り込まれたナニカ。



 来たっ!



 両目を力強く瞑り、口を半開きにする。


 瞼越しに閃光を感じ、直に目を眇める。


 視野に入った人影。


 男は迷わずに撃つ。



 乾いた音が立て続けに続く。



 銃撃を受け、影が仰け反るように揺れる。


 立ち込める硝煙の香り。


 薄煙の向こうで、人影は糸が切れたように崩れていく。


 やったと確信して注視。


 人影の正体は、護衛の一人であった。


 白目を剥く見知りの姿に、動揺。


 それを見越したかのように、護衛の背後から何者かが飛び出て来た。


 目が追い付かず、鮮やかな赤だけが目に焼き付く。


 左脇腹に突き刺すような、衝撃。


 ついで、身体の奥に浸透してきた痛みに目を剥いて、身体を折った。



  * * *



 クロウは相手の上体が前へと沈み込んでくるのに合わせて、左膝を勢いよく跳ね上げる。


 狙い違わず、顔面は鼻先へと吸い込まれ、強打。


 顔面を潰した衝撃力は上半身、ひいては身体をも浮き上げた。


 飛散する赤い飛沫。


 クロウは小太りの男が大きく仰け反ったのを認めるや、今度は身体を鋭く回転させて、右足でもって両足を刈り取った。


 支えを失った体躯が、背中から床に叩きつけられる。


 息することすらままならない相手、その右手にある銃に目を向け、手指を容赦なく踏みつける。骨が砕かれる音。手にする力がなくなったと見ると、凶器を蹴り飛ばした。


 そして、男が何をしても対応できるよう警戒したまま、後から入ってきているであろう、ミシェルに問いかけた。


「リィナは無事か?」

「ええ、縛られた上に怪我をしてるけど、乙女としての致命傷はさけられたようよ」

「……そうか」


 その言葉に安堵していいのか悪いのかが今一分からず、少年は表情を困らせるも質問を続ける。


「囮はどうなった?」

「運良く防護具に当たったみたいね、辛うじて死んでなかったわ。ま、多分、助かるんじゃない?」


 人の生死について平然と返す間にも、女密偵は手早く拘束を解き、リィナの肌を隠すように自らの外套で包んだ。


「ぅ……」


 身体の自由を取り戻したお陰か、黒髪の少女は呻き声を上げて意識を取り戻す。そんな彼女に、ミシェルが囁いた。


「良かったわね、キズモノにならなくて」

「あ……なた、だ、れ?」

「ふふ、ないしょ」


 場に似合わぬ悪戯な声。

 だが、その平素と変わらぬ声こそが、リィナの心に助かったのだという認識を植え付けた。


 大きな安堵とぶり返す恐怖。

 少女は見知らぬ誰かに縋りつき、新たな涙を流し出す。


 声に満たない嗚咽と断続的な震え。

 自らが体験した理不尽を思い出してのことだった。


「はいはい、もう大丈夫だから、安心なさい」


 女密偵は少女を抱き起すと、その背をあやすように軽く叩きながら優しく抱擁する。


 リィナは母を思い起こさせる行為に更なる涙を流し、心身に残る恐怖に抗した。


 クロウは微かに聞こえるやり取りを聞いて、今度こそ安堵する。


 だが、それは、俄かに発せられた叫びに打ち壊された。


「お、おまへらっ、こ、こんなことをひてっ、た、ただでっ、すむとおもふなよっ!」


 少年は打倒した相手を改めて見る。


 小太りの男は血と唾を周囲に撒き散らしながら、憎悪を宿した目をクロウに向け、あらんかぎりの声で叫んでいる。


「かならす、おまえのことをしらへてっ、つふしてやるっ! せったいにっ、せったいにたっ!」


 クロウは黙したまま、ただ見下ろす。

 リューディスに後始末を任せたことに加えて、無力化した相手に手を下すまでもないとの判断もあった。


 一方、商会の御曹司は自らを傷つけ、今もお前のことなど屁でもないと言わんばかりの態度を示す相手に、今まで感じたことがない屈辱を抱きながら吠え続ける。


 全てを聞き流していたクロウであったが、次の言葉を耳にして考えを改めた。


「おまえに、かかわるやつらか、どうなるか! ひ、ひひ、ひひひ、ひひひひひ、そのおんなも、おんなのかそくも、このさき、どうなるか、たのしみにしておけ!」


 それは少年にとって、家族を失った悲しみを知る者として、聞き流せない言葉であった。


 ああ、こいつはここで潰した方がいいな。


 そう決断するや、常と変わらぬ目のまま、一歩近づく。


 これまで反応を見せなかった相手から動きを引き出し、アントンは暗い喜びを抱く。だがしかし、次の動きを……、無言のまま、自らの首に足を乗せるという動きを見て取ると、盛大に表情を引き攣らせた。


 意図を察した男が大口を開けるも、既に圧迫され声が出せない。


 ならば手足を動かそうとするが、それが当然であるというような、冷徹な殺意を目の当たりにして、満足に動かせない。


 顔が怯え一色に染まる。


 クロウはただ自らが殺す相手を、その最期を見届けるべく、じっと見つめたまま。


 そして、足の力をわずかに抜き、一息に首を折ろうと……。


「そこまでだよ、エンフリード君」


 彼を止めたのは、リューディスであった。


 クロウが振り返ると、中年大尉が部屋に入ってくる所であった。先程よりも制服に乱れがあり、額からも汗が噴き出している。


「……大尉」

「うん、君が言いたいことは、なんとなくだけど、わかるよ。でも、君はここまでだ」


 柔らかい物言いであったが、反論を許さぬ力があった。


 峻厳たる眼差しであったが、そこには労わりがあった。


「ここはエフタの街中だ。市壁の外でならともかくとして、この場所でそういう輩に引導を渡すのは、俺達の仕事さ」


 リューディスは少年の凝り固まった殺意を解そうとするかのように、肩を叩いて続けた。


「君が、必要以上に背負う必要はないよ」


 それから困ったように笑うと、一人の少女を指し示して言った。


「それにね、怖い目にあったルベルザードのお嬢さんに、これ以上の衝撃を与えちゃいけない」


 クロウはそう言われて、はじめてリィナ達に目を向ける。


 自身の視線を受けて、黒髪の少女が身体をびくりと震わせたのがわかった。


 ついで、見開かれた瞳に明らかな怯えと恐れの色を認めた。


 クロウは向けられた目に彼我の距離を感じて、一抹の寂しさを抱く。


 だが、表には出さず、少女から視線を切り、ふっと息を吐いて足を退けた。


 そして、リューディスに頭を下げた。


「後はお願いします、大尉」

「ああ、こいつの処理や彼女の親御さんへの説明も含めて任されたよ。……君はこの場にいなかった。俺達が踏み込んだ結果、こいつらは仲間割れを起こして自滅って形でいくから、そのつもりでいてほしい」

「わかりました。俺は家に帰ります。あいつはリィナを任せられる人が到着次第、適当に消えると思うんで」

「うん、了解。今回は助かったよ、ありがとう」

「いえ、こちらこそ、助かりました」


 クロウはミシェルにだけ目配せすると、リィナの目から逃れようとするかのように、独り場を後にしたのだった。



  * * *



 星煌めく夜更け。

 市内で事件があったことすら知らぬように、エフタの繁華街は賑わっている。

 男達が酒を片手に笑い、楽しい楽曲に歌い、商売女と艶やかな雰囲気を楽しむ。女達は上機嫌な男から金を絞り取るべく、また意中の相手を手に入れるべく、様々な知恵を絞り、時に媚を見せ、時に笑い、時に泣き、時に怒って見せる。


 そんな混沌と欲望の牙城より、南東に位置する工房街。

 その一画にあるルベルザード土建の社屋において、社長たるナタリア・ルベルザードと市軍大尉ゴウト・リューディスが応接室において、余人を交えずに話し合っていた。


「そう、エンフリード殿が……」

「ええ、本件の解決に至る糸を結んでくれました。また、市軍に籍を置く者としては立場がない話ですが、緊急ということでお嬢さんを助け出す際の協力も」

「そうですか。……本当に、エンフリード殿にはうちの子たちを助けてもらってばかりね」


 娘の誘拐という大きな緊張から解放されたこともあってか、ナタリアの顔には微笑みを浮かべる余裕があった。

 そんな彼女の娘であるが、市立病院で治療を受けた後は帰宅しており、今は危難を周囲に伝えてくれた友人達と共に自身の部屋にいる。


 少しでも元気を取り戻す励みになればいいけれど。


 ナタリアは帰ってきた直後、己が胸の内で号泣した娘を思いながら、娘だけではなく自分達の心をも救ってくれた恩人の処遇について話し出した。


「彼についての報告は、やはり?」

「はい、報告書には載せません」

「何故と聞いても?」


 中年大尉は頷くと、まっすぐに向けられる暗緑色の瞳を寝ぼけ眼で見つめ返しながら、理由を話し始める。


「まずもって申し上げておきたいことは、本件を解決する為に為した強行突入は正規の手続きを踏んだモノではなく、私の独断でもって為されたことである、ということです。これが正規の手順で為されたモノであるならば、何の問題もなかったのですが」

「独断であるから、問題があると?」

「ええ、いくら現場裁量が認められているとはいえ、法規を逸脱して動いた以上、それが何のお咎めなしに認められるという訳にはいかないということです。例え良い結果が出ていようとも、心得違いを出さぬよう、行動と責任は必ず一体であることを、何がしかの処分で示さなければなりません。私は、この処分で彼に類が及ぶ可能性をなくしたいのです」


 真面目な顔で言い切ってから、リューディスは少し肩を竦めて続けた。


「無論、事を為した全責任は私にありますから、彼に責が及ぶようなことがないように努めます。また、そういった責任云々以前に、彼自身の功は認められて然るべきものであるとも思っています。ただ、それを認めるとなりますと、彼の功績は大きすぎて、市軍の面子を潰してしまうのですよ」


 ナタリアは相手の率直な言葉に笑って応える。


「ふふ、ここで、面子を気にしますか」

「ええ、気にしますとも。なにしろ、この所、彼が各地で残している功績は、一個人としては些か大きすぎまして。今回の件が加わるとなると……」

「北部域や東部域での活躍ぶりもあって、市軍の者からの嫉視は必定、ですか」

「その通りです」

「なるほど、一理あると認めます。ですけど、少しばかり面子が潰れた方が、市軍の方々の尻を叩くには良いように思いますが?」


 含み笑い。だが、女社長の目は鋭い。


 それをしっかりと受け止めながら、リューディスもまた笑って返す。


「はは、勘弁してください。……ルベルザード社長には言うまでもないでしょうが、組織ってのは結局の所、人の集まりです。でもって、その人ってのは、大なり小なり、嫉妬って奴と無縁ではいられません。一個人の妬みが足の引っ張りを生んで、彼に迷惑をかけるのは面白くないですし、それが市軍全体に影響して、うちと彼の関係がこじれるのも困るんですよ」

「そこは、あなたの努力次第ではなくて?」

「これはまた手厳しい。私としても努力はしたいところなんですが、何分、しがない不良な中年将校に過ぎない身でして、上からの受けは良くないんですよ。そこに加えて、今回の一件での処分です。恐らくですけど、悪くて降格の上に停職一節、良くて停職二旬といったところになると思うんですが……、さすがに、そんな立場で更に口を出すと、事がまずい方向に大きくなるだけです」


 自称不良中年は、飄々と言い切る。


 もっとも、ナタリアはエフタの名士として市庁や組合本部を始め、各所と繋がりを持っているが故に、市軍上層部のリューディスへの評価……有能なくせ者であるという評価を知っている。そして、今に至るまでのやり取りでもって、その評価は正しいと肯かざるを得なかった。


 そう、目の前の男が一番の貧乏くじを引いて、事件を解決し、後処理でも各所の関係を荒立たせずに収めようとしている以上、何も言えなかった。


「わかりました。私どもとしても、恩人であるエンフリード殿に利がないことをしたいとは思っていません。今回の一件で彼に功績があったということは、当人と私、息子の内だけで収めたいと思います」

「助かります」


 リューディスは真摯な顔で頭を下げた。


 本当に、イイ男というものは、どこにいるかわからないものね。


 そんな思いを胸の内に収めると、ナタリアは話題を切り替えるべく、改めて口を開いた。


「ところで、うちの娘をキズモノにしようとした輩ですけれど……」

「ええ、名はアントン・サルマン。ザルバーンに拠点を置く、サルマン商会の三男坊です」

「どのような理由で、この地へ?」

「表向き、学術院で学業を修めるということになっていますが、西部域に詳しい者から聞く限り、ザルバーンでかなり好き放題をした結果、いられなくなった為のようです」

「そう」


 何をやったのか大凡の想像がついた為か、女社長の勝気な顔に不快の色が滲む。けれど、彼女は意思の力でもって表情を殺し、ただ淡々とした声で問い掛ける。


「サルマン商会は、確か、新興の商会でしたわね?」

「はい、今の会頭が初代です。同盟とそれなりの伝手をもっているようで、短期間で影響力を拡大しています」

「それも聞いたことがあります。……その急成長の影で、どれほどの方が泣いたものかしらね」

「さて、それは……」


 私のような者にはわかりかねますと返事をしようとして、リューディスはナタリアの目を見た。


 切れ長の目は爛々と輝いて苛烈な色を帯び、それでいてゾッとするほどに美しいモノであった。


 身内を傷つけられた女丈夫は妖艶な微笑みを浮かべて、いっそ優しいと呼べる声音で告げた。


「まぁ、後ろ暗いことをなさっていなければ、泣いた方も仕方がないと諦めがつくでしょうね。……ですが、そうでないならば、近いうちに、サルマン商会と取引する店は減り始めるでしょう。ええ、信が大切な世界である以上は、因果は必ず巡りますから」

「なるほど、道理であります」


 黒髪の美熟女が醸し出す気配に背筋に怖気を感じつつ、リューディスも口元を緩めて伝えるべきことを伝える。


「実の所、アントン・サルマンもいささか埃が溜まっている身でして、全てを吐き出すまで叩く予定をしています。まぁ、どれ程の埃が出てくるかはわかりませんが、身が軽くなり次第、罪に見合った相応の刑が執行されるでしょう」

「ふふ、そう。……結果を楽しみにしているわ」


 一人の母親は冷たい目で微笑んだ。



 大人二人が後の始末について話しあっている頃。

 クロウは自宅の格納庫で、自らの乗機の前に立って、その姿を見上げていた。


 青白い魔導灯の光を受け、光と陰を際立たせた紅い機体。彼にとって見れば、たとえ姿形が変わっていても、教習所時代より危地と苦難を共に潜り抜けた相棒であり、命を預けるに足る頼もしい存在である。


 少年は相棒(パンタル)の装甲にそっと触れ、被膜された表面を撫でる。付着した砂塵のざらつきの下に、滑らかな手触り。明日は掃除でもしようかなと微笑み思う。


 そんな彼の内にあるのは、寂しさ。


 今日、初めて、機兵と一般人との感覚に距離があることを実感したが故に、生まれたモノであった。


 ああ、確かに、これを体感したのなら、機兵が女に手が早いというのも、わかる気がする。


 クロウは、今までにない空隙が心にできたような感覚に、なぜ機兵が人肌を求めるのか、その理由が理解できた気がした。


 すると、機兵における軽い風体の代表格ともいえる青年教官の顔が思い浮かんだ。そうだろうそうだろうと訳知り顔で頷いている。クロウは思わず苦笑した。


 微笑んだことで気が紛れ、身体を翻し、今度は背を預けた。


 背中を預けられる力強さ。


 だが、そこにはやはり、温もりはない。 


 それ故にか、無性に、誰かと会いたくなる。


 まず小人の姿が頭に浮かび、次に眼鏡の整備士、緋髪の踊り子、金髪の魔導士と続き……、途中、黒髪の少女が浮かびそうになったが、それは打ち消した。


 少年は俺も男なんだなと思いながら呟く。


「……見事に、女ばっかだな」

「ほうほう、何が女ばっかなのか、詳しく聞かせてもらうじゃない」

「おぉっはぁっ!」


 クロウは返るはずのない独り言への応えに、飛び上がった。それから慌てて振り返ると、機体の脇に変装を解いた女密偵の姿があった。


「うふふふ、で、で、なにが女ばっかのよ」


 亜麻色髪の女はにやにやと笑いながら、ずずいと顔を近づけてくる。その分だけ、少年は上体を逸らせて逃げる。


「ほらほら、答えなさいって」

「いや、別に」

「別にって、ほんとはさっき見た女の裸を思い出して、興奮してたんでしょ。やーらしー」

「ちょ、つつくなって」


 クロウが逃れようとしても、上手い具合に距離を詰め、ミシェルは人差し指で少年の額や頬をつつく。その表情は実に楽しそうであり、見ているだけで、少年の気が紛れた。


 だが、そんな女の顔が不意に真面目な顔になり、心配するような声で言った。


「大丈夫なの?」

「……なにが?」

「ここよ、ここ」


 ミシェルの指が、クロウの胸に当てられる。


「あの反応からして初めてでしょ、価値観が違うっていうか、人と距離があるって感じたのは」


 少年は反射的に否定しようとした。


 が、胸の内に巣くう寂しさが、それを許さなかった。


「どうして、そう思った?」

「そりゃ一緒に見てたもの。あんたの目」

「あー、そうか」


 クロウは諦めたように口元を緩め、仕方なくといった風情で頷いた。


「正直に言うと、ちょっと、心に来た」

「……折れそうなら、身体で慰めてあげるわよ」

「はは、まだ、そこまでじゃない。……ただ、友達と距離を感じて、寂しいと思っただけだよ」


 明らかに強がりの態であった。


 だが、そんな少年の虚勢に男の心意気を見て、ミシェルは胸の底と身体の芯が疼いた。それと同時に、この世の現実に擦れて、ひびが入っている心が震えたように感じた。


 うーん、潔癖という感じゃないし、まぁ、この強がりも悪くない、かなぁ。


 女密偵はそう思いながら、念を押すようにもう一度訊ねた。


「本当に?」

「ああ。……けどまぁ、折れそうになったら、その時は頼むかもしれない。けど、今はまだ、大丈夫さ」

「むむむ、少し素直になっただけマシだけど……、まったく、この強がりめっ。そんな奴は、こうだっ!」


 亜麻色髪の女は真正面からクロウに抱き着くや、この突然の強行に対処できなかった少年の頭を自らの胸の内に抱え込んだ。とここまでは良かったのだが、残念なことに彼女の肉付きは薄い方である。加えて、抵抗を見越して抱きしめる力が強かった。その結果が、クロウの口から悲鳴が漏れた。


「いたっ、ほねか、かたいいたたっ!」

「まっ、女の胸に顔を挟まれて痛いなんて、なんてこというのよ!」

「いたいものはいたいっ!」


 と言って、クロウは拘束から抜け逃れた。もっとも、その顔は若干赤い。


「はぁ、いきなりは勘弁してくれ」

「んー、その物言いだと、もしかして満更でもなかった?」

「もっと胸が大きかったらな」

「まーもー、なになに、照れ隠しって奴?」


 ミシェルは少年の顔と言葉に、ニヤニヤと厭らしく笑う。


 クロウは彼我の関係が不利になってきていると感じて、即座に別の話題を切り出した。


「ところで、あの後はどうなったんだ?」

「あ、逃げた」

「そりゃ逃げたくもなるよ。……で、どうなったんだ?」

「はいはい、しばらくあの子を慰めていたら、応援が順次到着し始めてね、その中に女の救命隊員がいたから任せたわ」

「そうか」

「ええ。ただ、あの主犯の醜男が連行される途中でまたうるさく喚き出したから、帰り際に玉を潰しておいてやったわ。イイ声で哭いてたわよ」


 女密偵はぎゅっと握り締める仕草をして見せると、朗らかに笑って言った。


 少年は無意識に腰と尻を引き、辛うじて頷く。


「そ、そうか」

「ええ。例え、使う機会が二度とないってわかっていたとしても、ああいうのは念入りに心を折っておかないとね」

「同情したらダメなんだろうけど、正直、同情しそうだ」

「大丈夫大丈夫、クロウのを触る時はそんなことしないようにするから」

「いやいや、そんな機会を作らないように、心身を鍛えるから安心してくれ」


 クロウは引き攣った顔で首を振り、やっぱりこの女は怖い奴だとの認識を新たにする。


 ミシェルは無言のままにこにこと笑顔で見せることで、怯える少年の反応を楽しんでいたが、不意に何事かを思い出したように表情を改めた。


「そうそう、道具を返しに行った時に上の方から言われたんだけど、頼みたい仕事を幾つか見繕うから、できそうなものを一つやってくれないか、だってさ」


 シュタールの密偵組織にできた借り、その返済のことだとわかり、クロウは頷く。


「今回助けてもらったからな、もちろん受けるよ。具体的には?」

「そこまではまだ決まってないみたい。けど、報酬は出すって言ってたから、ただ働きにはならないはずよ」

「そりゃありがたい。……けど、いいのか?」

「いいの。今回の一件、私達にしてみれば、懸念を一つ潰すことができたって利益が出てるからね」


 女密偵はそう答えながら、支払う報酬以上の利益を思う。

 まずもって、監視に使っていた行動班が別のことに使えるようになる。次に、機密度や優先度が低いながらも、必ずやらなければならない仕事を一つ減らせる。最後に、目の前の少年に実力次第ではあるが、更なる仕事を回すことが可能になるかもしれない。


 うんうん、使える人手と時間に限りがある以上、クロウを使えるようになるのなら、払う報酬なんて安いもんよねぇ。でもほんと、もっと人手が欲しいもんだわ。


 ミシェルは慢性的な人手不足という、属する組織の現状を憂いながら続けた。


「そういう訳で、しばらくしたら話を持って来るから、その時はよろしくー」

「了解。……ただ、俺の手に負える程度にはしておいてくれよ」

「ふふ、それはわたしの関知する所じゃないから、双子女神(レーシュ・ルーシュ)に祈った方がまだ現実的よ」


 少年は投げやりな返事に苦笑した後、自らの心を覗きこむ。


 穴が開いたような寂しさは消えていない。

 だが、それでも暖かなモノがあると感じ取ることができた。


 この暖かなモノを失わない限り、まだ戦いの場に立つことができると、そう強く思った。



  * * *



 深更。

 リィナは自室の窓より、薄っすらと見える街並みを見ていた。

 寝間着の下、鞭でもって傷つけらえた場所には軟膏を塗りたくられており、少しばかり薬くさい。だがそれでも、先に体験した恐怖と比すれば、なんの問題もないものであった。


 少女は肌がこそぎ取れると思える程に磨きに磨いた頬を撫でながら、自身を助ける為に尽力してくれた友人達を思う。


 マリカとアナは無事に再会できた時、大事に至らずに済んだことを我がことのように喜び、恐怖の一時を思いやって共に涙してくれた。本当に、得難い友達。今日はもう夜遅くなったということもあり、兄とゴンザに頼んで送って帰ってもらった。


 その兄やゴンザをはじめとしたルベルザード土建の社員達。私の行方を捜して、エフタ中を駆け回ってくれたと聞いた。私が保護されたとわかった時、酷い目にあったことに怒りを見せつつも、一様に安堵して喜んでくれたとも。

 正直に言えば、男という存在が怖いと思いができてしまったのだが、アレが特別なだけだと信じることができると思えた。


 あの苦境から助け出してくれた、市軍の人達。

 特に寝ぼけ眼の大尉は軍人と思えない程に優しく柔らかく、こちらの心情や身体を慮ってくれた。経験したことはできる限り秘すように頼まれたが、私としても思い出したくないことなので口を噤もうと思う。


 結局、最後まで何者かわからなかった、女の人。

 平穏な日常の中にある普通の声と態度で、もう大丈夫なのだと、私の凍えきった心を温めて救い上げてくれた。


 でも……、今ならわかる。


 ああいった場所で普段通りの態度を保てる人が、自然体で男の急所を潰すことができる人が、普通であるはずがないのだと。


 そして、クロウ。

 私は……、彼に助けてくれた礼を言うことができなかった。


 リィナは己の失態に、大きく溜め息をつく。

 彼女の内は今、相反する思いが複雑に入り混じっている。それ故に、赤髪の少年のことを思うと、心胆が冷たくなると同時に、胸が締め付けられるのだ。こうした具合に相反する態度を示す身体に自然と顔が歪み、短い黒髪を揺らして項垂れた。ついで、下唇を噛んで思う。


 私は……、私はあの時、彼に対して、助けてくれたことへの感謝よりも、恐怖を抱いていた。


 それだけ、あの時のクロウは怖かった。


 いつもと変わらない目。


 常日頃から目にしていたのと変わらない、極々普通の目だった。


 でも、間違いなく、その目で、アレを殺そうとしていた。


 私は、それが……、怖い。


 怒りも恐怖も、なんの感情を見せないまま。


 当たり前のように一つの命を断とうとした、その姿が異質すぎて、ただ怖かった。


 怖い。


 怖い怖い。


 クロウが怖い。


 彼が持つ死の気配が怖い。


 でも……、でもでもでも。


 私は、クロウに惹かれている。


 恐怖すると共に、心惹かれてしまった。


 あの目に……。


 彼に恐れを抱いて向けた目が、彼の心を傷つけてしまった時に、見せた目に……。


 この世の全てを受け入れて、あるがままの全てを認めるような、寂しい目が、どうしようもなく愛おしく感じられて、思い出す度に胸が締め付けられる。


 疼く胸を落ち着かせる為に、深呼吸。


 その瞬間、少女の脳裏に、名も知らぬ女の言葉が甦る。


「んー、やっぱり、イイ男。ああいう肝の据わった男って貴重なのよねぇ。……けどま、さっきの彼が怖いって思ったのなら、あなたはあなたに合う、他の男を探しなさいな。その方がきっと、彼の為であり、あなたの為だと思うわ」


 呪いのような言葉だった。


 でも、簡単には従えない言葉だった。


 今でも彼のことが怖いと思う。


 この思いが……、恐怖して向けた目が、彼を傷つけたこともわかっている。


 だけど、私は、彼に、これまで以上に惹かれてしまっている。


 ああ、なんて自分に都合がいいことばかりと、少女は自虐し、自らに嫌悪する。


 そんな思いに、純粋な慕情や根源的な恐怖、自らの所業への後悔、刺激された母性といったモノが混じり合う。


 心が千々に乱れ惑う中にあって、ただ胸だけが、強く強く、締め付けられる。


 少女は己がどうすればいいのか、答えを見い出すことができないまま、大きくなるばかりのもどかしさに胸を押さえる。そして、今にも泣きそうな目で夜空を見上げると、熱のこもった吐息をついたのだった。




 8 早乙女は深窓で憂う 了

 あとがき

 なんというか、色恋沙汰を書くのは難しいのだとつくづく思ってしまった。

 いろこいにえろはひつようだとおもうのだけれど、うまくえがくことができないのがむねんむねんでげす。

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