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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
8 早乙女は深窓で憂う
71/96

七 夕闇に呑まれる

 暦進み、第二旬。

 エフタでは、特に何ごともない穏やかな日々が過ぎていく。

 クロウは変わらずに郊外の建設現場で警備に立ち、それに合わせるように、リィナも仕事が終わる頃を見計らって顔を出す。そんな毎日が続く中で、少女は少年のことを少しずつ知っていく。


 グランサー時代に甲殻蟲に追われたことがあること。なんとか逃げ切ったけれど、しばらくの間は夢に出てきて魘されたこと。孤児院で共に育った者達がエフタで暮らしていること。それぞれが頑張って自立して、陶器工房で修行していたり、市軍で機兵を目指していたり、工場で働きつつ学術院の休日学校に通っていたりすること。グランサーの時よりも今の方が規則正しい生活を送っていること。これが好きという訳でもないけれど、黒パンと粉乳の組み合わせを食べるとなんとなく落ち着くということ。時間がある時はできるだけ身体を鍛えているということ。

 ただ彼女にとっては残念なことに、勇気と思いきりでもって女性の好みといったことを聞いた時には今一な反応であった。否、それどころか、逆にリィナこそどうなのと問い返された時には大いに焦る破目に陥り、近くにいた兄みたいな感じかそれと反対かといった具合に誤魔化したりしている。

 また、こういった会話の中で、件の商売女……リィナの心を乱した存在についても話題となった。この時ばかりはかなりの緊張を内に抱えることとなったが、喜色とは程遠い顔での簡潔な釈明があり、女と関係があったか否かは置いて、少なくとも恋人のような存在ではないことに確信を持つことができもした。

 もっとも、居候しているという部分に関しては、それはどうなんだろうか不満に思ったりもしている。ではあるが、今はこれ以上の追及はできまいと、胸の内に収めている。


 とにもかくも、リィナは短いながらも連日の交流を通して、クロウ・エンフリードという少年をより身近な等身大の存在として捉えることができるようになり、世間一般に言われる機兵像とは遠い存在であるとも認識したのだった。


 そして、そうこうする内に、半旬余りが過ぎた。



  * * *



 第二旬十四日。

 既に一日の三分の二が終わり、砂海を照らしている光陽も西に傾いている。

 天の主が寝所に向かいつつあることもあって、エフタでも西空には黄赤が、東空には暗色が少しずつ混じり始めている。市内の商店街では夕餉の材を求める者達が自然と集まり始め、住宅地では初等学校から帰ってきた子どもたちの嬌声が響く。街路を行き来する荷車や人足は終業が近いことを自らの五感で感じ取り、忙しなく足を進める。


 こういった市井の空気から少し離れた場所、中央区の住宅区画。その一画に位置する協立学術院内のある講義室において、三人の少女達が筆記具を広げて机に向かっている。

 傍目から見れば、彼女達の姿は自主勉強をしているように見えるだろう。否、実際に予習復習といった具合に勉強はしている。付け加えれば、既に十日以上続けている為、見知りの者達から感心の目から見られているし、友人達の手助けもあって約一名の学習効率がかなりよくなっている。

 だがしかし、これらは副次的なものであって、本来の目的ではない。そう、この勉強会の本来の目的は時間つぶし。郊外で為されている市壁拡張工事が終わるまでの時間つぶしなのだ。


 今も各々が学習に取り込みながら、他愛のない話を続けている。


「ふーん、マリネール商会は大忙しなんだ」

「ええ、アーウェルの需要に加えて、北部域の復旧が本格化してますから、支部間の連絡と注文品の買い付け、輸送の差配、それら全ての調整管理といったことで走り回ってます」

「アナは手伝わなくてもいいの?」


 リィナの問いかけに、ふくよかな少女は穏やかな声で返す。


「私としても手伝いたいと思わないのではないのですが、まだまだ半人前なので皆の足を引っ張るだけです。心苦しいとは思いますが、こうして自学自習している方が今後の為になります」

「そう言っている割には楽しそうだけど?」


 もう一人の少女、マリカが筆記具を指先でも弄びながら、口元目元を緩めて口を挟む。これに対して、商会の娘も朗らかな笑顔で答えた。


「ふふ、マリカさんでもあるまいし、実家の手伝いから逃げられて楽しいなんて思ってませんよ」

「おっと、言ってくれるわね。こう見えても私、家事を一通り仕込まれているんだけど?」

「またもぅ、ほら、二人とも手が止まってる」


 そして、なにかとじゃれ合うことが多い馴染み二人の間に入るように、リィナが苦笑して言った。それを受け入れたのか、はたまた最初から想定していたのか、アナとマリカはそれぞれ視線を黒髪の少女に向け、各々が楽しげな風情で口を開いた。


「そう言っているリィナさんも、さっきから止まってますよ?」

「だよね。なんか心ここにあらずって感じ」


 自覚があった為、リィナは言葉に詰まる。ついで、向けられた視線より目を逸らす。

 そんな彼女に追い打ちをかけるように、二人の舌は滑らかに動いた。


「その反応だと、今日、一歩踏み込むつもりなんですね」

「あ、アナもそう思ったんだ」

「ええ、朝からどことなく浮ついているように感じられましたから、おそらくはと思ってました」

「あはは、私も落ち着きがないように見えたから、今日行くんだなって思ってたんだ」


 とても優しく、それでいて楽しげで、まっすぐに励ますように、けれど面白そうに見つめてくる、二対の瞳。


 リィナは自らの心情とこれからの行動を見透かされて、なんとなく気恥ずかしくなる。自然、この場からいったん離れて仕切り直そうと考え、席を立った。


「も、もうすぐ時間だし、お手洗いに行ってくる!」


 少女は語気強くすることで内で沸き起こった熱と恥ずかしさを吹き飛ばすと、講義室より足早に出て行った。


 その後ろ姿を顔を緩めながら見送った後、マリカが何度も頷きながら口を開いた。


「うんうん、なんかいい感じに距離を詰めてきてるって感じだし、今回のお誘い、余計な邪魔とか向こうの都合が悪いとかなかったら、乗ってくると思うな」


 アナもまた微笑みと共に頷いた。


「そうですね。リィナさんもエンフリードさんのことをより知って、前のような惑いがなくなってきたみたいですし」

「あはは、これはあれだ。もしかしたら、場の勢いに乗って、行く所まで行くかも」

「流石にそれはないでしょう。リィナさん自身にそこまで行く勇気がないでしょうし、エンフリードさん自身も節度のある方みたいですから、……よくて手を繋ぐ辺りかと」

「その辺りが妥当かなぁ。私としては、女になった感想とかを是非とも聞きたかったんだけど」


 スラリとした少女の明け透けな物言いに、アナは吹き出して笑った。


「な、なによ」

「マリカさんはまずは相手を探さすところから始めないと。あ、もちろん、リィナさんを羨むのは構いませんけど」

「……ねぇ、アナってさ、私には結構厳しくない?」

「そうですね。遠慮をしていないのは確かです」

「いや、確かに遠慮はいらないけどさ、ほら、もう少しこう、言葉遣いとか対応を優しく柔らかくしてもいいじゃないかなって思うわ」

「あら、マリカさんがまっすぐに向かってくるから、そのお返しをしていただけなんですけど?」

「ぬぐ。そ、そう言われると、こっちが変えないといけないような感じになるけど、ここは私よりも視野が広いアナが柔軟に返すとか」

「私はそこまで器用ではありませんよ。……それでもというなら、一度、お互いに意識して変えてみますか?」

「あー、ごめん。私、まどろっこしい言い回しとか、そういうのはちょっと無理」

「なら、これまで通りですね」


 二人は笑みの質こそ異なるが、含む所なく笑い合う。


 それからしばらくの間、ふたりの待ち人はとりとめのない話を続ける。

 耳にした市井の噂話、同期生の人間関係、市軍内の裏話、砂海航路の現状と、思いつくままに話が転がっていく。そうする内に五分が過ぎ、十分が経ち、夕焼けが講義室に入り込んでくる。


 と俄かに、マリカが首を傾げた。


「遅いな、リィナな奴。いつもならもう帰って来てるのに」

「ふふ、もしかすると、この後の本番に向けて、心を落ち着かせているのかもしれませんね」

「あー、そういうのあるかも」


 と話をしてから、更に一周二周と壁掛け時計の秒針が巡って、また五分が経過した。


 なんとなしに時計を見ていたマリカであったが、訝しげな顔を友人に向けて訊ねた。


「リィナの奴、お腹でも壊したのかな?」

「わかりません。それらしい気配はありませんでしたが」

「だよね。ほんとどうしたんだろ」

「他に考えられるとすれば、旬のモノが急に来たのかもしれません」

「あー、それはあるかもしれない。……よし、ちょっと見てくるか。さすがに入れ違いはないだろうけど、前に掃除とかしてたのを見たことあるから、別の階のを使ってるかもしれないし、アナはここで待ってて」

「わかりました」


 マリカはよろしくと言い置いて立ち上がり、廊下へと出る。

 最後の講義が終わってから、かなりの時が経っていることもあって、学生の姿はない。もっとも、それが当たり前であるため、少女は別段気にすることはなく、馴染みが向かったであろう手洗いへと歩き始めた。


 講義室に残った少女もまた、おもむろに立ち上がるや窓辺へと向かう。

 彼女達が居残っているのは学舎三階、街路に面した講義室の一つ。故に眼下には薄朱と陰影に彩られた通りが見える。

 夜が近いこともあってか、行き交う荷車や人の数は相応に多い。開いた窓より顔を覗かせて目を凝らして見るが、彼女の友人らしき姿は見受けられない。ただ、遠く聞こえる街の喧騒と昼の熱気を残した生温かな風が入ってくるだけである。


 目に見えぬそれらの、頼りのない生活音の協奏と肌を這うようにまとわりつく流れに、思わず身震いする。


 少女は自らを抱きしめるように腕を擦り、夕闇に沈みつつある街へともう一度目を向けた。


 いつもと変わらない光景であるはずが、急に見知らぬ世界であるように感じられた。


 明確な形のない、ぼんやりとした不安が、少女の中に生まれてくる。


 心落ち着かず、無意識のうちに窓枠を握り締めた。


 どれ程、そうしていたのか?


 後ろから足音が聞こえてきて、我に返る。


 その心強い律動に……、否、忙しないと評せざるを得ない響きに、鼓動が跳ねた。


 彼女が振り返るのと、友人が駆け込んでくるのは同時であった。


「アナ! おかしい! リィナがいない!」

「え?」


 困惑の色を露わにした友人がなにを言っているのか、少女にはわからなかった。そのことに焦れたのか、マリカは足早に窓辺に近寄って、より大きい声で告げた。


「だからっ! リィナがいないんだってばっ!」


 先程感じていた不安が、現実に象られたような気がして、アナは息を呑んだ。


 言葉を失った彼女に言い聞かせるかのように、マリカが言い募る。


「この階にいなかったから下にも行ったんだけど、どこにもいないの! 名前を呼んでも返事がないのっ!」

「そ、それは……、先に……、いえ、リィナさんは私達に何も言わずに行くような人じゃないですし……」


 自分達が広げた荷物を見つめて続けた。


「荷物を置いていく理由もありません」

「そうだよっ! いくら恥ずかしいからって、今更隠れる理由なんてないし、一声かけることもしないで行くなんて、それこそありえない!」

「なら……、いったいなにが?」


 アナも困惑して呟き、自らの内で問い掛ける。


 いつ? どこで? だれが? なにを? どうして? どうした?


 いえ、今は理由や原因はいらない。


 いまさっき……、今までの二十分程の間に、この学術院で、なにがおきた?


 この疑問に対して、彼女の中でまっさきに浮かんできたのは、商会が雇っている警備担当の言葉。


 確かにエフタの治安は良い方です。でもだからって、絶対に安全という訳ではありません。

 特にお嬢さんはマリネール商会の跡取り娘なんですから、一人で人通りのない所に行かないようにしてください。もしも誘拐なんてことになれば、それこそ一大事になりますから。後、年頃の娘である以上、親しげに近づいてくる男にも注意を。そういう奴は大抵何がしかの下心を持ってますので。


 すぐに、そんなことが起きるはずがとか、街中でそんなことが起きるはずがとか、否定的な見解が生まれてくる。今まで大丈夫だったんだから、そんなことが起きるはずがないといった考えが膨らんでくる。


 だが、彼女には、今の不可解な状況に直面して、絶対に起きるはずはないと否定しきることができなかった。


 自らが行き着いた仮説に動揺しながら、アナはなんとか声を振り絞った。


「ま、マリカさん。も、もしかすると……、え、ええ、もしかすると、なんですが、その、リィナさんの身に、なにか、良からぬことが、起きたのかも……」


 この言を受けて、マリカはそんなことがあるはずがないと口を開こうとするが、彼女もまた、現実にリィナを見つけられない以上、何がしかのことが起きていると感じざるを得なかった。


「ど、どうする? どうしよう! アナ!」


 結果、いつもの余裕が見る影もなくなり、歳相応の顔で動揺を露わにする。その姿を見つめながら、商会の娘は努めて意識して、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。そうして困惑と動揺を抑え込むと、静かに口を開いた。


「マリカさん、もしかすると私達が勝手に騒いでいるだけで、実際にはリィナさんが一人で行った可能性もあります」

「でも、リィナがそんな勝手なこと!」

「ええ、先も言いましたが、私もリィナさんが一言もなくそんな勝手をするとは思えません。けれど、私達があちらこちらを走り回って騒ぎを起こした後、実はなにもありませんでしたとなった場合、事の原因を作った私達は愚か者扱いされて、いろいろな方の信を失う可能性もあります」

「そんなのどうでもいいよっ! もしものことを考えたら! リィナに換えられない!」


 ああ、マリカさんと友人になれて、本当によかった。


 商家の娘は大きな安堵と強い誇らしさを胸に頷き、親友へと告げた。


「なら、まずは他の誰かに状況を知ってもらい、共に動いてもらうことが一番です。市軍と、院の事務局に通報をしましょう。その後、リィナさんのお母様とお兄様に連絡をつけます」

「わ、わかった!」

「マリカさんは市軍が即急に動くように、お父様にお願いしてください。その後、可能ならば、リィナさんのお母様への連絡をお願いします。私は事務所で事の次第を伝えてから、南大市門への道筋、リィナさんを探しながらお兄様への連絡に向かいますので」

「もしもの時とかの、連絡はどうする?」

「取りあえず、今言ったことが終わったら、南門の内広場で待ち合わせましょう。今は、そこが一番わかりやすいです」

「わかった!」


 マリカは返事と共に駆け出す。


 その友人を見送るのもそこそこに、アナ自身も事務室に向かうべく足を動かし始め、やがて駆け出した。



  * * *



 光陽が西空を沈み行く。

 エフタ市の内外を繋ぐ南大市門、その頑強な門構えも朱に焼かれている。

 大きく開かれた門扉は常の平日と同じく、一日の終わりを前にして賑わっている。いやむしろ、明日が休日ということもあってか、出入りする者の数はより多いだろう。

 そんな市門の外広場の一画。どことなく浮き立った人々が屯する場に、クロウのパンタルがあった。通常の機体とは異なる形状と艶やかな色の為、やはり目立っている。が、今日に至るまでほぼ連日にわたり衆目に晒されたこともあってか、物珍しさに足を止める者はほとんどいない。


 搭乗者たるクロウも向けられる視線が減ったことに加えて、賃金支払いの流れが確立されて滞りなく行われるようになったことで、乗機から降りる余裕ができていた。

 今は上着を羽織って、少し呆けたような風情で機体に寄りかかっている。機兵は休める時にしっかりと休めるようになって一人前。そんな老教官の教えを自分なりに実践しているのだ。

 日中の仕事で固くなった身体から余計な力を抜き、自律と緊張を保っていた意識を拡散して、目と耳、肌に感じるありのままをただ受け入れる。


 臙脂と朱、足音とざわめき、暮れ時の生温かな風、砂埃の錆びたにおい、景観を織りなす簡素な家々、人々の話声、色濃く伸びる影、香ばしい油の匂い、灯った青白い光、手を繋いで何かを待つ大小の影。


 無意識のうちに、手を繋いだ影……、おそらくは親子であろう二人を目で追いかける。


 そわそわと落ち着かない幼子、その手をしっかりと握って離さない母親。


 どこかで見たことがあるような気がして、目を細める。


 その内、幼子が門の方向を指差してはしゃぎ出す。辿ってみれば、逞しい壮年の男が嬉しそうに微笑みながら二人の下へ向かっていた。幼子が母親の手から逃れ、おそらくは父親であろう男の駆け寄る。残された母親は困ったように、けれどそれは柔らかくて温かい、慈しみに満ちた微笑みを浮かべて、自らも二人のもとへ歩き出した。


 そして、三つの影は一つの大きな固まりとなり、夕焼けに馴染む貧民街へと消えて行った。


 それを見送った少年は視線を落とし、両の口端を少しだけ持ち上げる。


 もはや戻らぬ在りし日の温もりに、失ったモノの大きさを今更感じる己に、澱となって心に沈む哀しみを誤魔化すように。


 それから、なんでこんなことを急にと、ぼんやりとした頭で原因を探る。


 彼の中で、その答えは思いの外すぐに出た。


 居候である。

 家に居着いた亜麻色髪の女が、仕事が見つからないと嘆く居候が、家に帰ると必ず、おかえりと一言声をかけるようになった為である。さらに言うと、孤児院から独立した後はずっと一人暮らしを続けて、家に誰かがいるという状況を忘れていたこともあって、より心に響いたが故であった。


 クロウは今度こそ笑みを……苦笑ではあるが浮かべて頬を一掻き。


 イロイロと思う所はあるけど、あれだけは悪くないんだよなぁ。


 そう思うと、自然、あいつは仕事を見つけることができただろうかと、居候の今に意識が向く。途端、亜麻色髪の女は想像の中にあっても、おお、遂にでれた、これでぬちょぬちょでねちゃねちゃな関係に一歩進んだと、にやついた。とりあえず手刀を勢いよく喰らわせると煙のように消えた。

 変わって現れたのは、学術院の制服に身を包んだ黒髪の少女。表情明るくにこにこと笑いながら、身を乗り出してこちらを見つめてくる。まっすぐに向けられる視線と確かに感じる好意にむずがゆさを覚える。


 とここで、内に潜っていた意識が急浮上する。


 ついで、クロウは開かれた門に目を向けて呟いた。


「そういえば……、そろそろリィナが来る頃かな」


 確認するような独り言に含まれていたのは、微かな期待。

 少年も年頃であることがわかる声音であった。もっとも、彼自身はそれに気付いていない。人という生き物……、いや、クロウ・エンフリードという少年は、自分で思う程に自分のことを知っている訳ではないのだ。


 その彼の目が、こちらに急ぎ足で向かってくる一つの人影を認めた。

 リィナだろうかと瞬間思うも、姿形も勢いも明らかに異なる。ならばと人波を突き破る姿に目を凝らしてみると、夕照に浮かぶ顔は工事現場で保安を担う男、ゴンザのものであった。


 何か問題でも起きたのだろうかと、クロウは機体に預けていた身を起こす。

 その間により近づいた顔には、明らかに焦りの色が見えた。ただ事ではない様子に、先程まで緩んでいた心身に活が入る。そして、当人が目の前に辿り着いた。


「エンフリード殿」


 押し殺した、それ以上に切羽詰った声。


「問題が起きました」

「問題、ですか?」

「はい。……お嬢の行き方がわからんのです」


 クロウは内容を理解するや訝しげな顔となり、ゴンザに問いかける。


「わからないって、どういうことです?」

「我々もまだ何が起きているのかはわかっておりません。ただ、マリネールのお嬢さんがこちらに駆けこんでこられて、ついさっき、学術院でいなくなったと仰るのです」


 クロウは悪い知らせに眉根を寄せる。

 だが、ひとまず原因や真偽を置いて、これからの対応を訊ねた。


「市軍へは?」

「シベリスのお嬢さんがすでに連絡に走っていると。ですので、うちも若い連中を探しに出すつもりで動いています」


 クロウは告げられた内容に対して、自分に何ができるだろうかと考える。

 すぐに思い浮かんだのは、三つの顔。寝ぼけ眼の中年に亜麻色髪の居候、そして、小人だ。


「俺も伝手に頼ってみます」

「お願いします」

「いえ、これくらい構いません。それで、なにか情報が入った時はどこに?」

「店を拠点としますので、そちらに」

「わかりました。では、今はこれで」

「はい、ご協力、感謝します」


 ゴンザは大きな体躯を半分に折る勢いで頭を下げると踵を返し、門に向かって走っていた。


 クロウは見送るのもそこそこにパンタルに乗り込む。


 さっきまで日常そのものであった夕焼けの光景。だが今は、その朱色が禍々しく見えた。



 クロウは自宅に戻るまでの間、まずもって自らに平静であれと言い聞かせる。


 それから、リィナの身に何が起きたのかを考え始めた。


 まず思いつくのは、家出。

 だが、見聞きする限り、する理由自体がないように思える。


 ならば、事故。

 けれども、事故で姿が見えなくなること自体がおかしい。


 最後に残るのは、事件。

 そう、姿が見えない以上、リィナが事件に……、かどわかしにあったと考えた方が自然であった。


 では、誰が? どこに? どうやって? 何の目的で?


 少年は更に思考を回そうとするが、直前にそれこそ本当にただの推測にしかならないと気が付いた。故に彼は疑問をひとまず棚上げし、今は足取りを追えるような情報を集める方が先だと切り替える。


 頼れる伝手は三つ。

 一つ目である市軍のリューディス大尉には元より持ち込むべき話なので、確定。


 次に居候の背後にある、シュタールの密偵組織。

 これは話を持ち込んだとしても動いてくれるか自体がわからない。だが、居候を受け入れている以上は頼んでみること自体は構わないだろう。


 そして、最後にミソラ。

 彼自身としては是非にも頼りたい所であるが、先の二人と違って、どこにいるかがわからない。事が起きてから時間がそう経っていないことを考えると、今の段階では探す時間が惜しく感じられる。なので、連絡が取れそうならば、という所が無難だろう。


 こうした具合にすべきことをあれこれと整理するうち、展視窓越しに機兵長屋が見えた。


 さて、ミシェルが家にいてくれると助かるんだが。


 そんな風に考えた後、いつもなら仕事探しでいない方が望ましいって思う所だなとの思いが、クロウの頭を過ぎる。

 両者を思い考えた状況は異なっているとはいえ、やはり自分に都合のいいことしか考えていないことには違いない。俺も勝手なモノだと、少年は口を歪めた。



 クロウが自宅に辿り着くと、格納庫の扉には鍵がかかっていなかった。

 ならば、中にミシェルがいるはずだと、幾ばくかの安堵を覚えつつ扉を開く。


 途端、ギューテの旋律が耳に入ってきた。


 聞いた覚えのある心に染み入るような、郷愁を誘う物哀しげな調べに、思わず動きが止まる。が、直後に演奏が止まり、居住部二階の窓から亜麻色髪の女が顔を覗かせた。


「おかえり~、今日はいつもより早かったね」

「あ、ああ、ただいま。……ミシェル、練習中に悪いが、話がある」

「おっ、なになに、ついにこのミシェルさんの身体が欲しくなったとか?」

「戯言で遊ぶ余裕がない。真面目な話だ」


 数度目を瞬いた後、ミシェルは悪戯気な顔で応じる。


「あれ、私としては真面目なつもりだったんだけど?」

「なら、俺とお前とでは真面目って言葉の意味合いが違うんだろうって、だから冗談抜きで急ぎの話だから、話の腰を折るなよ」

「はいはい、わかりましたー。いまおりますー」


 不貞腐れたようでいて、笑いを噛み殺した声。

 この先のやり取りを思い、少年は溜め息をついた。



 クロウがパンタルを駐機させて降り立つと、懸架支柱にもたれていたミシェルが早速声を上げた。


「で、話って何?」

「ああ、頼みたいことができた」

「おやおや、それは私個人、それとも……」

「怖いけど頼もしい裏方に」


 裏方……シュタールの密偵組織に属する女はクロウの言葉を受けると、苦笑して告げた。


「シュタール家以外の一個人が頼みごとって、初めてかもね」

「そうなのか?」

「うん、あくまでも裏であって、公な組織じゃないから。……ちなみに対価はある?」

「まだ考えてない。けど、動いてもらう以上は何かで報いる」

「なら、その辺りは後で要交渉ってことで。その顔だと、急ぎなんでしょ?」


 女密偵は少年に配慮しつつも、不安を煽るような実に爽やかな笑顔で言い切る。それから、表情を改めて口を開いた。


「それで、私達に頼みたいことって?」

「ああ」


 クロウはどう言ったモノかと少し考えてから、言葉を選ぶように言った。


「はっきりと断言できないことなんだが……、リィナ……ルベルザード土建の娘さんが行方知れずになった、らしい」

「それはまた、えらく不確かな話ね。というか、家出じゃないの?」

「ないと思うけど、本当のことはわからない。ただ、実際にいない以上、とにかく今は、安全が確認されるまで動くしかない」

「ふーん、安否、とは言わないのね」


 ミシェルの手厳しい言葉に、少年は眉間と口元を強く絞らせた。


 その顔から密偵はクロウが現状を正しく認識していることを読み取り、こうでなくてはと微笑んだ。


「りょーかいりょーかい、意地悪言ってごめん。とりあえず、仲間に情報がないか聞いてくる。最後に目撃されたのは?」

「今からだと……、だいたい一時間前くらいか? 場所は学術院らしい」

「ん、わかった。こっちで情報を集めた後の連絡は、どこでどうやってする?」

「俺もこれから市軍の伝手に話を持っていきたいから……、組足支部の酒場で待ち合わせってことでいいか?」


 ミシェルはクロウの答えを聞くと、今度こそ面白そうに笑って返した。


「エフタの中心で待ち合わせってことね。クロウ、やっぱりいい感覚を持ってるわ」



  * * *



 クロウ達は身支度も程々に家を出るや市内に向かう。

 途中、港湾門の内広場でミシェルと分かれてから、少年は一人暮れ時の市内へ。機兵服に上着を着ただけであるが、薄暗くなってきた状況ではさほど目立たない。人波に紛れて速歩で進む。

 繁華街の賑わい、店先が閉められ始めた商会通り、雑多に人が流れ行き交うトラスウェル広場を経て、南大通りを北へ。黙々と歩き続けて、目指す先である市軍本部に辿り着いた。


 堂々と大きく開かれた門扉、門柱傍の立哨達は常の如く直立している。

 深夜でない為か、特に誰何されることもなく敷地の中へ。本部に至るまでの道筋も往来はない。だが、途中、駆け足で外へ向かう一団とすれ違う。振り返って見ると、門から出るや方々に駆け出して行った。


 もしかするとといった思いを胸に、開かれたままの正面玄関から中へ。

 分厚い壁の内、玄関広間は魔導灯の青白い光に満たされている。クロウは真正面に受付らしき場所を認めて近づく。が、その前に脇からの声に呼び止められた。


「やぁ、エンフリード君。多分来るだろうって思ってたよ」


 見れば、寝ぼけ眼の中年とその相方を務める若い少尉であった。


「リューディス大尉」

「うん、話は伝わってるよ。なんだか大事になってるみたいだね。警備隊の待機組が出動したし、第二、第四、それに今し方、第五小隊が動いた。鑑識分隊も学術院に向かったよ」


 市軍が動いていると聞かされて、クロウの肩からわずかばかり力が抜ける。


 そんな少年を労わるように、中年大尉は柔らかい口調で続けた。


「その様子だと、君も同じ件で来たんだろ?」

「ええ、大尉を頼らせてもらいに」

「うん、その期待に応えよう、って格好よく言いたいところなんだけど、おじさんの担当からだと、すこーし外れるんだよねぇ。だからせめて、君の不安や思いを聞く相手になろうじゃない。そうすれば、少しは気も楽になるだろうさ」

「なら、一緒に組合支部に来てくれませんか? ……他の伝手も頼ってますんで、そこからの情報を一緒に聞いてください」


 リューディスは寝ぼけ眼を微かに大きくした後、口元を吊り上げて答えた。


「いいねぇ。是非にもお願いしたい話だよ、それは」


 早速場所を移そうじゃないかとの言葉を合図に、三人は場所を移すべく歩き出す。


 その道々、クロウは市軍大尉に問いかける。


「市軍の捜査はどうですか?」

「はは、まだ動き出したばかりさ。ただまぁ、警備隊が動いているから、早々に街中……、特に街路という街路は組織的に確実に調べられるはずだ。後、第四分隊と鑑識分隊が学術院に出張って調べているから、遠からず、なんらかの痕跡を見つけるだろう。それに、第三、第五も各々の方法で行方を追っている。だから、どこかでナニカが必ず引っ掛かる。……なにしろ、人ってのは完璧な存在じゃない。事を起こした連中もね」


 リューディスは若い同行者達に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「だからこそ丹念に、ただ丹念に調べて、浮かび上がった可能性や仮説を潰していけば、事実だけが残る。だからこそ、一足飛びとはいかないんだけど、それが俺達のやり方さ」


 ただ、このやり方はどうしても時間と手間が掛かるから、イロイロと間に合わないこともある。その結果として、様々なモノに手が届かなくなることも……。


 そう言い掛けたリューディスであったが、隣を歩く赤髪の少年を慮り、胸の内に収めた。


 それからはしばし無言で南へと歩く。

 陽が彼方で沈んだのか、辺りから夕色が薄れて暗くなり始めた。けれど、休み前の宵の口ということもあって、街は落ち着きなくざわめいている。それを煽ろうとするかのように、街灯が一つまた一つと灯り始め、南大通りを青白く照らし出す。人の営みを象徴する灯りだ。けれど今のクロウには、どことなく冷たく感じられた。


 少年は埒もない感傷に、思わず首を振る。


 それを横目で見ていたリューディスが知らぬ顔で問い掛けた。


「やっぱり心配かい?」

「そう、ですね。ええ、心配です。俺にとっては、貴重な女友達ですから」

「おやおや、女友達かい? なんとも機兵とは思えない弱気な発言だ」

「はは、機兵だからって、誰もが女に慣れてる訳じゃないですし、手を出してるってこともないですよ」


 クロウが思わずと言った風に苦笑して返す。


「それは何とももったいない。おじさん的には羨ましい立場なんだけどねぇ」


 と、リューディスは飄々と言ってのけた。

 そんな彼らの視線の先、市内一の交差点であるトラスウェル広場が近づいている。相変わらず、人の流れが尽きていない。三人は流れの縫うように目的地である組合支部に向かい、中に入った。



 支部の中は喧噪に満ちていた。

 遺物買い取りの受付ではグランサーと職員が大声で値段交渉を繰り広げ、酒場は酒場で酔客が酒を片手に盛り上がっている。それに負けぬと言わんばかりに楽隊が明るい曲を奏で、給仕たちは威勢の良い声を張り上げる。誰もが自分達の仕事に、息抜きに夢中であるようであった。


「うーん、とりあえず出入口が見える席にでも行こうか」


 世慣れたリューディスの提案で、昇り階段のすぐ傍にある空席へと向かう。

 四人掛けの席にそれぞれが適当に座って、一息。各々が周囲に意識を向けようとした所で、机に影が差した。


「遅かったわね、クロウ」


 聞き知った声に思わず顔を上げる。

 そこにはにんまりと笑顔を浮かべるミシェルが立っていた。その姿は分かれた時と異なり、長い黒髪を背中まで流し、肩口まで小麦肌を露出した接客婦の出で立ちであった。


「へ?」


 クロウは想定外の事態に、間の抜けた顔で意味のなさない声を上げることしかできない。

 というのも、彼が想定していたよりも遥かに早く、ミシェルがこの場に来ていたことに呆気にとられたのだ。


 そんな少年の姿がおかしかったのか、女密偵は楽しげな様子で眺める。ついで空いた席に座ると、先とは一転して、艶っぽい流し目を他の男達に送る。

 突然現れた女の色気ある目付きに、若い少尉は思わず身を固くして赤面し、中年大尉はふっと笑って流した。


 目聡く気付いたミシェルは頬を弛めて言った。


「あら、おじさん、場馴れしてるのね」

「なに、歳の功って奴さ。……さて、君がエンフリード君の伝手って奴かい?」

「ええ、ご明察。この地の裏でこそこそ動く、青い影の一員よ」


 俄かに鋭くなったリューディスの視線を受け流し、女密偵は隣に座っている少尉の頬を淡く一撫で。若者がびくりと身体を跳ね上げ、若干前屈みになるのを満足げに見届けてから、赤髪の少年と中年大尉に醒めた目を向けた。


「さて、ご挨拶もこれくらいにして、クロウに、切れ者の大尉さん、話をしていいかしら?」


 それで我を取り戻したクロウが、短く問いかける。


「情報があったのか?」

「ええ、びっくりする程に集まってたわ」

「ふむ、話を聞く前に、それはなぜ、と聞いていいかい?」


 リューディスの質問に、ミシェルは肩を竦めて答えた。


「私達が監視していた、要注意人物が関係していたからよ」

「なるほど、なら、その人ぶ……、いや、これは後にしよう。今回の件で、そっちが把握していることを教えてくれるかい?」

「ええ、でも、今回の件を話す前に事の経緯から始めさせて。その方が理解しやすいだろうから」


 二人が頷くのを認めて、女は語り出す。


「事の始まりは先旬の末頃。その要監視対象を見張っていた仲間から、胡散臭い動きがあると知らせてきたの」

「具体的には?」

「まず、拠点にしている家で人の出入りが多くなった。それまでは、食材の買い出しに日々のお勤め、後は借りている倉庫の管理といった具合に、本当に最低限といった感じだったんだけど、唐突にね。これを受けて、私達は対応班を組織して監視を強化。外に出る連中がなにをしているのかを探った」


 ミシェルは偽りの髪を掻き上げ、問いかけた大尉に向けて、物憂げな表情を作って続けた。


「結果、飲み屋街や娼館といった場所で、運搬人に、特に汚物運搬人を選んで声をかけていたわ」

「どういった内容で?」

「仕事をやめられる程、金になる話があるんだが乗らないかって感じ」

「それはまた、汚物運搬人には絶大な誘い文句だ。……で、話の流れから考えると、引っ掛かった奴がいたと」

「ええ、貧民街の男が一人、ね」


 面白くもなんともないといった風情で、誰だって嫌な環境から逃れたいと思うのは当然でしょと付け加えてから、女密偵は溜め息。それからまた口を開く。


「半旬ほど前から、その男が使っている汚物運搬車に、先の連中の一人が清掃助手を装って乗り込むようになったわ」

「ふむ、それからは、特に動きはなかったと」

「ええ、今日になるまでは……」


 これまで黙って聞いていたクロウが口を挟んだ。


「なら今日、なにが起きた?」

「例の汚物運搬車が巡回する中に、例の学術院が入っているんだけど、そこに入ってから出てくるまでの時間が、いつもより倍近くかかっていたわ。……例のいなくなった時間帯に重なるように、ね」

「なら、そいつらがっ」


 相手の姿形が見えてきたことを受けて、今まで鬱屈としていた少年の意気が上がる。


 ミシェルは頷き返すが、強い視線でそれ以上の動きを制した。


「十中八九、そうでしょう。ただ、まだ少し続きがあってね。その運搬車が学術院を出た後、借りている倉庫……バーンボルト商会が所有している北西部の倉庫に寄ったの。これも今までなかった動きだったから、現場が直接的に探りを入れようとしたんだけど、その前に拠点に日用品を運ぶ別の荷車が出てきたから見送りということになったらしいわ。で、その後も運搬車を付けたけど、以後はいつも通りの動きになった」


 表情の選択に惑うように目を彷徨わせた後、仕方なしといった観で笑って告げた。


「私がクロウからの話を持ち込んだ時は、丁度、この動きに何の意図があったのかって話をしている所だったのよ。そこに今し方起きた出来事を伝えたら、全てが自然に組み合わさっていって、最後に拠点監視者からの情報に、拠点に入った荷車から人一人を入れられそうな荷袋がいくつも運び込まれていたことが確認されて、全てが埋まったのよ。……どうやらお手柄みたいよ、クロウ」

「いや、ちょっと待て、俺は頼んだだけで、お手柄もなにもないだろ」


 リューディスは首を振って、少年の考え違いを正した。


「いや、お手柄だと思うよ。必要な時にうまい具合に別の視点を持ち込んで、全てを繋げたんだから」


 そう言いながら、中年大尉はずっと呆けたままでいた若い少尉の肩を掴んで激しく揺すった。


「モット君、モット君! ぼーっとしてないで、仕事の時間だよ」

「え、あ、は、はい」


 中年大尉はミシェルから汚物運搬車の車体番号を聞きとると、即座に少尉に命を下す。


「君は少佐の所まで走って、今聞いた車体番号の持ち主の身柄確保、任意で聴取するのと並行して逮捕令状を……、誘拐幇助あたりで取るようにって伝えてちょうだい。市民からの通報で怪しいのがわかりました、今、巷をにぎわす一件の共犯者である可能性が高く、主犯に繋がってるのではないかって、俺が言ってたってね」

「わ、わかりました」


 だが、立ち上がった若者の足はどことなく覚束ない。不安を覚えたリューディスは活を入れるように背中をどやすと、今までにない鋭い声で言った。


「いつまで呆けている! 気合入れろ! 行け!」

「了解です!」


 若い少尉は強い声と俄かに集まった周囲からの視線に押し出されるように、足をもつれさせながらも駆け出して行った。


 自らの行動で注目を集めてしまった為か、中年大尉はらしくもないことをしたと言わんばかりに首を振って見せると、接客婦に笑いかけた。


「いやはや、たったあれだけで骨抜きにするとは」

「ふふ、初心な坊やみたいだったから、ちょっと遊んじゃったわ」

「おお、こわいこわい。……ところで、君らが監視している対象者だけど、俺はエフタに潜りこんだ害虫、もとい西の街出身のボンボンだと思うんだけど、その辺の答え合わせはどう?」


 ミシェルは遠回しな言葉に頷き、困ったような顔で答えた。


「正解。わたしとしては、今の話でそこまで推測できるおじさんこそ怖いわね」

「そりゃ光栄。……けど、そうなると、ルベルザードのお嬢さんを攫った理由は」

「ええ、金ではなく、身体よ。なにせ、その筋じゃ有名な色狂いだもの」


 見知らぬ相手の目的を耳にして、少年の精悍な顔が不快気に歪む。

 彼自身が平静であれと努めていたとしても、やはり強い感情は押し殺せすことはできない。


 その様子を横目で見ていたリューディスであったが、それでも予測を口に出した。


「なら、解決が今夜中、いや、早ければ早い程、お嬢さんが不快な思いをせずに済むって訳か。けど、俺が言うのもなんだけど、市軍がいくら頑張って動いたとしても踏み込むのは夜半を過ぎるだろうな。……てな訳でだ、エンフリード君、君はどうする?」

「俺は……」


 ひとまずルベルザード土建に連絡をと、クロウは続けようとした。


 が、それよりも早く、耳にした話に熱せられた心が、思うままに言葉を紡ぎ出していた。


「今から動きます」


 そう口にして、少年は今更ながらに己の内にあるモノを自覚する。

 それは人を守る役を負う一人として見過ごせないという矜持であった。理不尽に恐怖して、怯えているであろう少女を助けたいと思う義侠もあった。また強引に自らの欲望を叶えようとする相手への言いようのない嫌悪感があれば、一人の男として、女を弄ぼうとする輩への侮蔑もあった。


 だがなによりも、自らの周囲にある平穏を崩さんとする状況が気に喰わないという、深甚な怒りがあった。


「なるほど、それなら俺も少しばかり頑張るとしよう」


 その言や良しと言わんばかりに、リューディスはにやりと笑った。



  * * *



 同じ頃。

 リィナ・ルベルザードは遠くで騒ぐ女の声を耳にして、薄っすらと意識を取り戻した。

 頭の中にぼんやりと霞みかかったような感覚があり、うまく考えがまとまらない。


 わたし、いつのまにねたんだろう。


 ただ、そんな思いを抱きながら、両の手が背中に回るという窮屈な態勢を改めようと身動ぎして、手首と足首に違和を覚えた。


 あ、れ、うごか、ない?


 否、動かそうとする度に痛みが走る。思わず呻き声が出そうになって、口が布で口輪されていることに気付く。それが少女の意識を覚醒させた。同時に、意識が途切れる直前までの記憶が甦ってくる。


 手洗いで用を足して、個室から出た直後。


 横から急に影が差して、なにか湿った布で口元を抑えつけられた。


 暴れたけど、あっという間に意識が遠くなって……。


 状況を理解して目を見開き、声にならない呻きを上げた。

 目に映るのは薄暗い部屋、見知らぬ天井、閉じられた扉、見た事もない寝台、鼻をつく生臭いにおい。自らの身体に目を向ければ、手は後ろ手に縛られ、両の足は大きく開かれて寝台に固定されている。


 ひたすらに混乱する少女の耳に、扉越しに女の絶叫が聞こえた。


「この、あくまっ、ひとでなしっ! ころしてやるっ! ぜったいにころしてやるっ!」

「くく、いい鳴き声だ。まぁ、その元気がいつまで持つか、楽しみだねぇ」


 ねっとりと粘り気を帯びた陰湿な声が、相手を弄ぶように楽しげに笑った。


 リィナの内で恐怖が膨らむ。


「どれ、少しばかり見物させてもらおうか、君の顔が絶望に歪むのを。ああ、待たせたね。君達も彼女に楽しませてもらってくれ」


 女の悲痛な叫びは、男達の歓声で掻き消された。


 少女は扉越しに聞こえてくる音を拒否するように、少しでも身を縮こまらせ、きつく目を閉ざす。


 だが、耳が塞げない以上、どうしても耳に届く。


 肉と肉がぶつかる音。


 男達の下卑た笑い。


 苦しそうな呻き。


 満足げな吐息。


 湿った叫び。


 音は途切れることなく続く。


 それからどれ程の時が経ったのか……、俄かに声が響いた。


「くく、なかなかに楽しい見世物だけど、新しい玩具が僕を待ってるからね。これからお楽しみの時間とさせてもらうよ」


 少女は聞こえてくる言葉の意を、自分は声の主にこれから穢されようとしているのだと理解して、背中に怖気を走らせる。


 そして、扉がゆっくりと開いた。


 入ってきたのは、見覚えのある男。

 学術院の同期生、アントン・サルマンだった。


「おや、起きたみたいだねぇ。ご機嫌は……、くく、良い訳がないか」


 アントンは上機嫌な様子を隠さない。

 今のリィナには何故どうして等と考える余裕はない。ただただ近づいてくる醜男(ぶおとこ)を睨みつける。


「これはまた、イイ目で睨んでくる」


 商会の三男坊は悦に満ちた表情で自らの服を脱ぎながら、リィナが寝かせられた寝台の傍らに立つ。下着以外全てを脱ぎ棄てて露わになった身体は緩み切っていて見れたモノではない。自然、リィナは嫌悪を視線に乗せた。


「本当に、その勝気な目が死んでいくことを考えると、ゾクゾクするよ」


 こいつ、狂ってるっ!


 口輪の布を噛みしめて、少女は唸る。


 そんな様子を一頻り愛でると、男は寝台に腰掛け、無遠慮に少女の太腿を撫でた。


 肌這う感触に、ざわりとリィナの全身が総毛立つ。


 男は反応が楽しいのかにやにやと笑いながら、吹き出物が目立つ顔をリィナの顔に寄せてくる。


 必死になって顔を背けようとするが、身体が固定されている以上、逃れられない。


 リィナの頬を、男の唾液に塗れた生臭い舌が舐め上げた。


 少女の、声にならない叫びが口輪に吸収される。


 嫌悪感が満身に溢れ、それが怒りに変わるや、少女は目の物体に頭を力一杯に叩きつけた。


「ぶはっ!」


 顔面に渾身の頭突きを受けて、アントンは鼻血を吹き出しながら寝台より転がり落ちた。


 リィナは涙目になりながらも、どうだといわんばかりに鼻息荒く吹き出す。


 だが、その強気も僅か。


 鼻を押さえた男は舌打ちして立ち上がると、少女の胸の上に跨り、頬を張った。


 一度二度と、それが絶え間なく繰り返される。


 痛みに耐え、屈辱に耐え、恐怖に耐え、それでも尚、少女は男を睨む。


 もっとも、男はそれを認めると逆に満足したように笑みを浮かべ、寝台から降り立った。


「うーん、いいねぇ。実にいい。思っていたよりも噛み応えがありそうだよ、君」


 そして、傍らにあった机より一本の鞭を取り出した。


「くく、どれだけ耐えてくれるか、楽しみだ」


 アントンは空を切るように鞭を数回振るった後、それを少女の身を守る制服の内側へと差し込み、一息に引き裂いた。


 薄明かりの下、露わになる肌。


 悦に浸る男の下腹部、下着が盛り上がるのを見て、少女の顔に怯えの色が混じった。

16/06/06 一部削除。

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