六 望む先へ
夕刻。
クロウは整備に出していた機体を引き取る為、総合支援施設に出向いていた。
「で、どうよ、エンフリード。現場で使ってみた感触は」
「今の所、不都合はないです」
整備の喧騒の中、クロウは隣に立つ整備主任ダーレン・ブルーゾに応えた。
二人の目は引き渡し前の最終点検が行われている機体に向けられている。以前よりも数段は引き締まった姿形に、装甲を彩る深紅の照り。今までのパンタルにはなかった、見る者を魅了する色気が漂う。
けれども、赤髪の機兵は見かけの艶やかさに浸ることなく、ただ鋭い視線を機体へ向けて続ける。
「けど、まだ実戦を経験してませんから、不安は感じてます。いくら操作の仕方は変わらないと言っても、機体の反応や均衡といったものは変わってますから」
「はは、そりゃ実績を積み重ねてきた従来のモノと比べれりゃ、そう感じて当然だ。けど、そのこと認識してれば、そうそう死なんだろう。戦場って所は、調子に乗った奴から死んでいくもんだからな」
人の生死を語るには軽い声。
クロウは意外に思い、揉み上げの長い青年を横目で見やる。口元が笑みを形作っているが、目の色は陽性のものではなかった。こんな具合に皮肉気な笑みを浮かべたブルーゾであるが、若き機兵に見られている事に気づいているのかいないのか、更に言葉を続けた。
「これは機兵だけじゃないんだが、人ってのは力を持って扱いだすとな、どうしてもその効能に酔っちまうのさ。でもって、自分が酩酊していることに気付かずに調子に乗って、自らの墓穴を掘る。特に経験の少ない、若い連中はな」
この言葉に、自分は調子に乗っているだろうかと、少年は機兵になってからの行いを省みる。
初仕事でまぁ大丈夫だろうと構えていたら、事故に遭って機体の一部が吹き飛んだ。ゼル・ルディーラが来た時には機兵の義務を果たす為、砂嵐の中を彷徨い蟲と戦闘して機体を壊した。魔導鉄槌の試験では地面に呑まれ、魔導艇の試験では空を飛んだ。東方の機士との模擬戦では、凄まじい緊迫を強いられながらも必死になって相手に喰らいついた。そのお陰か、遺構発掘の時にはなんとなく操縦のコツを掴んだ気がした。けど、アーウェルで船を守る為に飛来する銃弾に晒されて、魔導機の限界を悟ると同時に、これまでにない死の恐怖を味わった。そして、人を殺した。高揚もなく怒りもなく、擲弾で幾人も吹き飛ばし、自らの手で一人、二人、三人四人五人、六人。
あれは……、いやな感触だった。
自然、クロウが表情に陰を生み出していると、ブルーゾが幾分明るい声を出した。
「ま、グラディさんやディーンの野郎に鍛えられたお前なら、そういった状態に陥りにくいだろうとは思うが、気を付けろよ」
「ええ、そうします」
と、これまで機体の周囲をぐるぐると巡りながら、点検照査表を片手に点検事項を一つ一つ潰していた整備士が最後の確認を終え、クロウ達へと振り返った。
「引渡し前点検、終了しました! 全点検項目に異常ありません!」
肩口まで伸びた黒髪に、黒縁眼鏡をかけた少女。言うまでもなく、エルティアだ。
クロウとは魔導機教習所以来の付き合いということもあって、この支援施設では専属扱いである。そんな少女の声に、ブルーゾは頷いて告げた。
「よし、点検終了を確認した。さて、これで引き渡しは可能になったんだが……、なぁ、エンフリード」
少年は先程以上に真剣な声での呼びかけに、表情を引き締めて応えた。
「はい、なんでしょう」
「ああ、これは仕事とは少しばかり離れたことなんだが、ちょっと気になることがあってな、お前さんにぜひ聞いておきたいことがある」
仕事とは別に聞いておきたいことってなんだろうと、クロウがブルーゾに目を向けてみれば、表情はいつになく厳しい。二人を見守る形となったエルティアもただならぬ雰囲気に目を瞬かせている。
厳めしい表情を作った整備主任。
彼が醸し出す固い空気に、場の緊張感が静かに高まっていく。
クロウは我知らずに唾を呑む。
そして、問いが放たれた。
「お前さんが女を囲ったって話が耳に入って来てるんだが、これ、本当か?」
耳に入った言葉に、エルティアの両の目が大きく見開かれる。
もっとも、がくりと項垂れたクロウはこの少女の反応に気付くことなく、ため息交じりに答えを返した。
「それ、似て非なるモノと言いますか……、色々と違います」
「そうなのか?」
「ええ、正確には、エル・ダルークで知り合った奴に、行き場がないって押しかけられたんですよ」
「おかしいな、俺は昔手籠めにして捨てた商売女とよりを戻したんだって聞いたんだが」
「そいつが俺を陥れる……居候する為に使った手口です。って、えらく人聞きの悪い話になってますね」
動揺や喜びが微塵も感じられない少年の乾いた声に、眼鏡の少女はほっと息を吐く。しかし、続いたブルーゾの追及にまた表情を固まらせることになる。
「でも、女と一緒に暮らしてるのは事実なんだろう?」
「まぁ、確かにそれは事実です。けど、本当に仕方なくなんですよ、仕方なく」
「本当か? なんだかんだで面倒を見てるんだ、身体の関係くらいは普通にあるんだろ?」
「ありません」
「え、嘘だろ。お前だって男だし、ほら、男と女が一つ屋根の下なんつったら、お前、なぁ、ほら本当のこと言えって」
「ないです。……なんなら、こうなった話の裏、聞きます?」
クロウが疲れが垣間見えるうんざりとした顔で言う。
その表情から整備主任は何かを悟ったようで、無駄にさわやかな笑みを浮かべて答えた。
「長生きの秘訣は、面倒事に関わらずにいるのが一番だと爺さんから聞いてるからいい。……まぁ、なんていうか、お前さんも結構難儀な奴だな」
「いや、それは向こうが勝手に押しかけて来るんですよ」
少年が困り顔で断じた所で、エルティアが割って入った。
「えっと、いいですか、クロウさん」
「あ、ごめん、ティア、引き渡しだよね」
「それもあるんですけど、その、預かっているラストルの利用方法についても話がしたいんです」
「ん、了解」
「そ、それと、できればその! クロウさんが、女の人と暮らすことになった理由を、その、困ってるみたいだから、もしかすると私もなにかでお手伝いできるかもしれないですし! 事情を聞きたいと思うんですけど……、駄目、ですか?」
駄目か駄目でないかで言えば、駄目になる。
けれども、相手は間接的にとはいえ、自らの命を預けているエルティアだ。
いい加減、こっちも鬱屈したモノも溜まって来てるし、他ならない相手だから構わないだろう。
赤髪の少年は一人胸中で呟きながら、眼鏡越しにじっと見つめてくる少女に頷き返した。
クロウとエルティアは整備主任の面白そうな笑みに見送られて、休憩室に入る。
少年がいつもと変わらない様子なのに対して、少女の方は幾分かの緊張が見られた。そんな両者はどちらからともなく部屋の中央に鎮座する簡素な机、その席に座って共に一息。
それから少しばかりの沈黙の後、エルティアが意を決した様に口を開いた。
「ええと、まずは仕事から終わらせますね」
「うん、お願い」
「はい。最初に全体の点検結果ですが、機体に問題が起きている箇所は見られず、部品の交換はしていません。次に各箇所の個別報告ですが、魔力伝達系及び操縦系に断線等の不具合はありませんでした。また油圧系の油漏れ、熱交換系の液漏れも起きていませんでした。骨格に関しては目視による点検で歪みや破断等も見当たりませんでした。関節部の摩耗具合も安全域にありますが、次に戦闘等の激しい動きを行った後は、足回りから交換を検討した方がいいと思います。後、装甲と展視窓ですが、先に換装を行ったばかりということもあって、傷はほとんど見受けられませんでした」
「了解。もしも激しい機動をすることがあったら、関節部材の交換が必要ってことだね」
「そうですね、基準よりも少し早めの交換となりますが、関節部、特に足回りは負荷のかかる部分ですから、余裕を見ておいた方がいいと思います」
クロウは信を置く整備士の言葉に首肯して告げた。
「いつ何時、戦う破目になるかわからないし、今の内から部材の確保だけでもしておいてくれるかな」
「わかりました、一式確保しておきますね」
「あ、ちなみに値段は?」
「機体一式分で二万ゴルダです」
「あれ、意外と安いね」
「ええ、消耗品ですから」
エルティアの答えに、クロウは笑顔を見せて言った。
「そりゃ使う側としては助かる話だね」
「採算度外視だそうですよ」
整備士の少女は、その分だけ本体の価格に上乗せされているそうですが、とは口外せずに話を進めた。
「これで点検整備に関する報告は終わりますが、なにか疑問や質問はありませんか?」
「んー、甲殻装甲に予備があるかどうかって聞いてる?」
「ええと、クロウさん用の補充部材として、丸々二機分の装甲を置いていかれましたので、あるといえばあると言えますね」
「けど、まだ生産体制が整ってないって話だから」
「はい、これ以上をすぐに手に入れるのは難しいと思います」
「なるほど、できるだけ機体を壊さないようにしないとな」
もちろん命には代えられないけどと続けた後、クロウは次の話題へと矛先を移した。
「それで、ラストルの利用方法についてだけど、どういった案がありそう?」
「あ、はい、考えられる案は大きく分けて三つです」
クロウは机に肘をつくと少し身を乗り出すことで、話の先を促す。
エルティアも心得たもので一つ頷いて、説明を始めた。
「一つ目の案は、売却です。機体の点検をした所、あまり使われていないようでしたので、相応の値で売れると思います」
「ティアの予想だと、どれくらいになりそう?」
「相場次第ではありますけど、今の状態でしたら五十万以上の価値はありますから、その前後になると思います」
クロウはなるほどと頷いた後、先を促すように少女に目を向けた。それに応えるように、エルティアがまた口を開く。
「二つ目の案は、開拓地への長期貸与です」
「長期貸与?」
「はい、開拓地と節又は年単位での契約を結び、機体を貸与する方法です。利点は機体の維持費をかけずに収入が得られます」
「どれくらいになるの?」
「はい、一般的な相場としては一節二万前後、一年で八万辺りですね」
少年が思案するように顎に手をあてたのを見て、整備士は判断の基となる情報を追加する。
「ただ、この方法には欠点がありまして、開拓地が甲殻蟲による襲撃を受けた時に、機体を損失することがあります」
「あれ、保険があるんじゃ?」
「土木作業等の普段使いの中で起きた事故、あるいは故障には保険が効くんですが、蟲による損害は免責になるんです」
「あー、蟲だけは別枠で、補償の対象にならないってことか」
「そうなります。なので開拓地へ貸与されるラストルは、その、かなり状態が悪いモノといいますか、製造から十年を越えたあたりのモノが主になってます」
「な、なるほど」
最近、北部域で蟲の襲撃と襲われた後の開拓地を見てきたばかりなだけに、クロウには貸し手が古いモノを出す気持ちがわかった。
とはいえ、クロウからすれば、機体を供出することでで開拓地を支援するのも悪くないとも思っている。なにしろ、元々が予期せぬ報奨として手に入れたモノなのだから。
ただ、どうせならこの機体を上手く使いたいという思いが、この機体で収入を得て、それを孤児院に寄付できればいいな等という欲もあったりするので、即決はできなかった。
「なら、最後の案は?」
「はい、三つ目の案は、ここで短期の貸し出しをする方法です」
「短期の貸し出しか。……具体的には?」
「機体を貸し出す期間は一日から一旬の間です。その為、必然的にエフタ近辺での運用になります。もちろん、この方法でも先の長期貸与と同じで蟲による損害は免責になりますが、機体を損失する可能性は数段小さくなります」
「うん、それはわかる。それで、利点と欠点は?」
「主な利点として、今言ったように機体の損失の可能性が低いことと機体を手元で管理できることです。逆に欠点は、整備費用をこちらで負担する必要があることと、日によっては借り手が見つからない場合もあること、また契約ごとの事務手続きが面倒であることです」
「うーん、確かに面倒かも。……ちなみに相場は?」
「基本的な相場は一日三百ゴルダ、それ以上の日数となると、需給次第で変動しますね」
クロウは腕を組んで目を瞑り、それぞれの案を比較対照する。
彼の気持ちとしては、せっかく手に入れたのだから上手く使いたいという思いがあるので、第一案は不採用である。ならば、第二案と第三案のどちらかということになるのだが、それぞれの利点欠点を聞くと流石に惑う。
うんうんと唸りながら、首を小さく右左に傾げる少年。
エルティアは精悍さに隠されていた愛嬌を目にして、思わず口元を綻ばせる。その一方で、その裏に隠されたもう一つの顔を、以前垣間見た陰も思い出す。
その陰を認めた当初、彼女には少年がそういった表情を見せるようになった理由がわからなかった。
けれど、今はわかる。
というのも、理由だと思われる答えが母親からの手紙の中に書かれていたのだ。
賊党との交戦と撃破、騒乱者との戦闘と首魁の討伐。
彼女はその内容を読み取った瞬間、ああ、クロウさんはその時に人を殺して、それを引き摺っているのだと得心した。
そして、エルティアはこう思った。
彼の為に、私には何ができるだろうか、と。
自然と浮かんだこの思いに、彼女はどうしてそう思ったのと自問する。
この問いかけに対する答えは、単純にして明快だった。
だって、クロウさんだから。
私を信じて頼りにしてくれる人さんだから、困っていた私に手を差し伸べてくれた人だから、本当に苦しい時に、悲しい時に欲しかったモノを私にくれた人だから、今度は私が手助けをしたい、少しでも支えてあげたい、と。
こうして導き出された答えは、同時に少女の内にあった淡い想いにも火を入れ、彼女にある感情を自覚させるに至る。
ああ、私はきっと、クロウさんのことが好きなのだ、と。
エルティアは胸に宿った暖かな想いを確かに感じながら、また、その想いが女の影を感じとったことでざわつくのを認めながら、それでも全てを呑み込んで、想い人に向かってある提案を出した。
「クロウさん、これは私からの提案といいますか、私案なんですけど、聞いてくれますか?」
「ん? あ、うん、正直、決めかねてるから、聞かせてほしい」
「はい。私からの提案は、第三案の欠点部分を私が補う方法です」
クロウは首を傾げるも、なんとなく意味合いを感じ取って、推測を口に出した。
「つまり、ティアが面倒な手続きを代わりにしてくれるってこと?」
「そうですね、だいたいはその認識であってます。私からの提案は、ラストルを支援施設で預かって管理や整備をすると共に、貸し出しの契約手続きを引き受ける、ということです。ただ、これをする場合、こちらも管理整備費と契約代行料を貰わないといけないので、収入は半分か場合によっては三分の一程になります」
「けど、面倒な部分からは解放されて、管理も任せることもできる。……うん、悪くないな」
少年は腕組みを解き、悩みが晴れたと言わんばかりの明るい顔で、エルティアに告げる。
「よし、それでいこう。ラストルの管理運用に関することは、全部ティアに委任する」
「え、そ、そんな簡単に決めて、いいんですか?」
「いやだって話聞いて悪くないと思うし、そもそもラストル自体が偶然手に入れたようなものだからね。こっちの財布が赤字にならなくて、なにかで役に立ちそうなら、それで十分さ。なによりも、ティアが考えてくれた案だから大丈夫だって信じられるし」
ああ、これだ。
この真っ直ぐな目が、自分を信じてくれる気持ちが、私の心を満たしてくれる。
胸いっぱいに広がる充足感に、エルティアの顔が無意識に華やぐ。
それを認めた少年は自分の言動がそれを引き起こしたのだろうと思い至り、なんとなく照れくさい面持ちで続けた。
「ただ、五年後くらいには開拓地への長期貸与も考えてるから、また意見を聞かせてほしいかな」
「は、はい! あ、そ、それで、ラストルの管理委任の手続きですけど、次の機体整備の時までに用意しておきますね」
「うん、頼むよ」
クロウは微笑みを浮かべたまま頷き、ふと何事かを思い出したように目と口を小さく開いた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、ちょっと話が変わるんだけど、別のことで相談に乗ってもらっていいかな」
「え?」
この突然の申し出に、エルティアは驚きの色を見せる。
だが、直に我を取り戻し、内々で俄かに生まれた喜びを表に出して微笑んだ。
「ええ、クロウさんからでしたら、幾らでも聞きますよ」
「あはは、ありがとう。……実は今日の朝、ミソラから自分達が作る工場に投資をしてほしいって頼まれたんだけど、どうしようかなって迷ってるんだ」
「ミソラさんが……、となると、甲殻装甲の?」
「いや、それもあるにはあるらしいけど、まずは魔導艇をって考えてるらしい」
魔導艇には将来性もあるから悪い話ではない。
そう応えようとしたエルティアであったが、少年の話は続いた。
「それから、今マディスさんが創ってる多脚型とか、そういった技術を集約させて魔導機とかにも手を出したいって言ってる」
整備士の少女は目を見開いた。
だが、すぐに自らの知見と今聞いた話、見聞きしている開発室の内実、そして仮定に基づく想像でもって思考を回す。
優秀な開発員、魔導鉄槌や魔導銃、斥力盾、甲殻装甲を創りだした実績、需要や将来性のある魔導艇の開発成功、試作機が正常に動いた多脚型と運用の絵図、組合開発室において次世代魔導機の開発が進んでいない現実、新技術の集約によって陰影らしきものが見えてきた次世代魔導機、なによりも旧文明期を知る小人の存在。
「ただ、俺にはそれがどこまで実現できるかがわからなくて。けど、出したいって気持ちもあって」
「クロウさん、その話は受けた方がいいです」
「へ?」
エルティアは確認するように自分を見つめてくる少年に対して、確信を込めて答えた。
「クロウさんが一番体感しているからわかると思いますが、魔導艇が世に出れば、間違いなく社会に影響を与えます。一定量が普及するまで、需要は途切れることはないと思います。多脚型にしても開発に成功した場合、開拓地の守りの要となるでしょうし、前線で魔導機を強力に支援してくれる頼もしい存在になるはずです。これも世に出れば、需要があるのは確実です。それに新しい魔導機の開発にしても、魔法や魔術への理解が深く、魔導の仕組みをよく知るミソラさんが関わるとなると、成功する可能性が高いです」
「ティアから見ると、そう見えるんだ」
「ええ、本来、新しいモノを生み出すのは並大抵のことではできません。けれど、ミソラさん達は短期間のうちに成果を出している。その原動力が開発員の皆さんなのは間違いないですが、それを支えているのはミソラさんの魔導師としての力です」
クロウは少し笑って口を挟んだ。
「そんな風には見えないけどな」
「普段はそういう風にみえますけど、魔術師としても魔導技師としても、おそらくは今の世で一番かもしれません」
「はー、あのおねーさん、そんな凄い存在だったとは」
少年が感嘆の声をもらすと、彼の内にある小人の心像が、ふふんとーぜんの話ねと薄い胸を逸らして踏ん反り返り、そのまま宙を一回転する。
確かに凄いんだろうけど、実物は結構抜けてるよなぁ。
ミソラが知れば、それはアンタもでしょうがと憤慨して返すようなことを思っていると、再びエルティアが口を開く。
「これは私の勝手な想像ですけど、ミソラさん達の工場が本格的に動き出したら、世界が変わっていくような気がするんです。人が蟲に脅かされない、人が人として生きられるような、そんな世界に」
クロウは少女の静かに熱を帯びた声を聞くと、腑に落ちたような顔で幾度も頷く。
自分がどうしようかと迷いながらも、投資はしないという選択肢を持たなかった理由がわかったのだ。
それは、未来への期待と呼べるものだった。
「そっか。……うん、なんとなくわかった」
それがわかれば、少年の決断は早かった。
「うん、覚悟ができた。ミソラ達に投資することにするよ」
「そう、ですか? ……あの、私の話、お役にたちましたか?」
「もちろん。ありがとう、ティア」
クロウは莞爾と笑った。
が、次の瞬間には情けない顔になって語を紡いだ。
「後は例の話についてなんだけど……、もう、ほんとにね、そんな色気のある話じゃないから」
「え、えっ?」
「冗談抜きに真面目な裏があるんだけど、それでも聞く?」
唐突の話題転換に戸惑うエルティアであったが、一つ大きく息をすることで落ち着きを取り戻し、しっかりと頷き返した。
「聞きます」
「そっか。……正直に言うとさ、俺も誰かに聞いてほしかったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。けど、やっぱり信用できる相手にしか言えない話でもあるから、簡単に話す訳にもいかなくて」
「あの、私でいいんですか? ミソラさんとか……」
「確かにミソラになら相談もできるんだけど、なんというかなぁ、この裏ってのが、そのミソラに関することでさ。だから残る選択肢としては、院長先生かマッコールさん、後はティア位なんだ」
少女の中にある乙女心が、他の少女の名が出てこなかったことに、そこはかとない満足を生み出す。
それは暗く後ろめたく、それでいて熱い昂ぶりをもたらし、そしてなによりも甘美な悦びがあった。
この精神の高揚は身体にも影響を及ぼして、少女の顔が上気すれば緑瞳が潤み、薄褐色の肌もしっとりとした艶を帯びる。
「な、なんというか、その、そう言ってもらえて嬉しいです」
「いや、そんな大仰に受け取らないでいいから。……ただ、この場で聞いた内容はティアの胸に収めてほしい」
「もちろんです」
少女は即答する。
少年の言葉に、信じてもらえる喜びを抱きながら。この先に今以上の関係が生まれることを願いながら。
「後、なんとなく愚痴っぽくなる気がするから、もう嫌だと思ったらそう言ってくれたらいいから」
「大丈夫です。最後までお付き合いしますから、聞かせてください」
クロウは少し気が楽になったようで、少し気の抜けた顔で笑った。
「ありがとう、ティア。……さて、どこから話したものかなぁ」
* * *
休み明けて、第二旬となった。
休日を自宅にてうんうんと唸りながら過ごしたリィナは学生の本分を果たすべく、学院へと赴いて勉学に励む。
彼女が学んでいるのは、家業の手伝いができるようにと考えた上で、経理関係である。今日もこれまでと同じく、講師による講義を受け、時に十露盤を弾き、時に会計簿の内に含まれた間違いを探し、時に組合共通商法規を紐解いて読み、時に決算書を作成する等々、黙々と課された演習をこなす。
そんな少女の顔であるが、近寄りがたい程に真剣で、歳に似合わぬ皺が眉間に立っている。
普段であれば、いくら気を入れているとはいえ、皺が寄る程まではならない。
ただただ、自らの意識を勉学に没頭させようとするが故に、赤髪の少年について色々と考えて、思考がこんがらがるように絡まってしまうのを避けようとせんが為に、無理無理に自らを追いつめた結果である。
今も筆記具を動かす少女の頭の中で、数字が足され引かれ掛けられ割られ、不意に目に入った赤色に意識が乱される。首を一振りして、表に計算結果を書き加えていけば、なんとなく穏やかな顔が浮かびそうになる。ならばと眉間により一層に力を入れて、法規書を読み進めていると、いつの間にか少年の名が意識の傍らを揺蕩いだす。
そういった意識を吹き飛ばすように大きく息を吐き出した後、改めて十露盤を弾き始めると、今度は唐突に女の後姿が脳裏に浮かんで手元が狂い、思い切り珠を弾いて算式を崩した。
ここに至って、リィナは勉学で自分の気を逸らすことは無理だと諦めて、手を止めて窓の外に目を向けた。天で輝く光陽はどこまでも眩く、憎らしいまでに自らの存在を誇示している。
少女は睨むように蒼天を見るも、急に力萎えたように目を伏せ、近くの街路に視線を転じた。黙々と荷車を引く人、緑地に水を撒く人、急ぎ足でどこかへ向かう人。
そんな人々を眺めながら、クロウは今も仕事してるんだろうなと、内で小さく呟く。
その呟きが、ただ一つの名が胸中で響いた途端、これまで蓋をして閉じ込めていた相反する心が、巡り巡る乙女の複雑な思いが頭の中へと溢れ出す。
だからなんの問題もないんだからいつも通りに顔を出して声をかければいいじゃない、でもまたあの女が来たらどうしよう、クロウ本人がただの知り合いだって言っていたんだからそれを信じていつもの調子で行けばいいの、けどもしかしたらあの女が言ったようなことをしたのかもしれないし、そんなのはあの女のでまかせに決まっているじゃないクロウをもっと信じるべきよ、だけどクロウも男だしああいった商売の女に手を出してもおかしくないかも、だからといってまずは信じないと話にもならないでしょ、それでもしもあの女の話が本当だったらどうするのよ、そんなのは関係ない自分がクロウをどう思ってるかが大切なんだから、そうかもしれなけど自分だってあんな風に扱われるかもしれないじゃない。
もう、クロウに限ってそんなことはないわよ、いい加減にしなさい!
でも、機兵は女に手を出すのが早いって、皆が言ってるんだからわからないじゃない!
自身が接してきたクロウという存在を信じようとする心と、これまで見聞きしてきた機兵という存在を警戒する心とが、真っ向からぶつかり、答えを見いだせない。
好き勝手にぶつかり合う強気と弱気。
リィナの心に座した天秤は釣り合いが取れず、ゆらゆらと揺れに揺れ続ける。意識せず、口端を下げ、目を閉ざし、眉間に皺を寄せた。少女の勝気な顔が強くなる。
こういった具合にひたすら煩悶するうちに、講義の終了を知らせる鐘が鳴った。午前最後の講義でもあった為か、静かだった講義室の空気が一変し、気の抜けたざわつきが広がった。
不機嫌そうな顔で延々と問答を続けていた少女も例外ではなく、その体をパタリと机の上に倒し、身体の緊張を解こうかとするように息を……鬱気が多分に含まれていたが……吐き出した。
堂々巡りで熱を持った頭。
頬に触れる机はひんやりと心地よく、頭に残る憂慮と相まって、身体を起こす気力も湧かない。
頭に篭った熱を追い出す間、まさか自分がこんなにうじうじするなんて思ってもなかったと、なんとも情けない気持ちだけが広がっていく。
リィナは自虐的な心持ちのまま、ぼんやりと中空に視線を彷徨わせる。そこに耳に馴染んだ友人達の声が聞こえてきた。
「あれ、どう思う?」
「うふふ、それはもう、あれですよ」
「やっぱりそう思うよね」
動くのも億劫に感じつつもなんとか身体を起こして、頭を巡らせる。すぐ傍にマリカとアナの姿があった。どちらの顔も楽しそうに笑みを形作り、目が輝いている。
この事実に嫌な予感を抱きながらも、リィナは二人に問いかける。
「なに?」
意図せず、尖った声。
リィナは自らの声に表情を渋くする。対する友人達はそれぞれに僅かな驚きを見せたものの、直に笑みを深くして口々に話し出す。
「なんかご機嫌斜めみたいだけど、どーしたの?」
「なにか懸念があるのなら、相談に乗りますよ?」
人の思い悩みを観賞する、愉悦めいた思惑が透けて見える顔。
リィナは馴染み達のその顔に腹立たしさを感じる。だが直後、自分が同じ立場だったら間違いなくあんな顔をするだろうと思い直し、力なく項垂れた。
対する馴染みの二人であるが、文句の一つでも言うだろうと構えていただけに、友人の滅多に見られぬ弱った姿に戸惑う。ごく自然に視線を交わし、それぞれが表情を改めて口を開いた。
「あー、もしかして、リィナ、余裕ない?」
マリカの問いかけに対して、少女の短い黒髪が前後に揺れた。
「すいません、悪乗りが過ぎたようですね。……ですが、相談に乗るというのは本当です。リィナさん、自分の考えを整理する為にも、話してみませんか?」
先と異なり、労わりが込められた声音。
リィナはどうせ見透かされてるだろうし、恥ずかしさなんて言ってる程余裕もないし、と自らに言い聞かせながら小さな声で答えた。
「休みの日、クロウを遊びに誘おうと思ってたんだけど……、いきなり女が出てきて誘えなかったの」
アナとマリカは耳にした内容に再び視線を交わし、各々が首を傾げた。そうして数秒。マリカが確認するように訊ねた。
「それって、いわゆる恋人って奴?」
「クロウの反応とかから考えると、違うと思う」
「なら、別に何の問題もないじゃない。一度や二度の邪魔くらい、笑って踏みつぶして前進あるのみよ」
マリカはさっぱりと言い切った。
そのざっくばらんな物言いに、隣に立つふくよかな少女が苦笑して告げた。
「誰もがマリカさんみたいにできれば、世の中は苦労しませんよ」
「え、そうかな?」
「ええ、そうです。人の心は複雑なモノですし、なによりも傷つきやすいですから」
「……それ、私が単純で、鈍いっていう意味?」
「一面を見ればそうかもしれませんが、別の見方をすれば、心が強いということです」
マリカはアナの言葉に納得しかけるが、自分が出した疑念を否定していないことにも気付き、半目で友人を見やる。
「普通、こういう時ってさ、そんなことないですよって、否定するモノじゃない?」
「嘘はいけないと躾けられてますので」
「はぁ、いい性格してるよ」
二人のやり取りを見ていたリィナは、微かに口元を緩めた。そして、よしと足に力を込めて立ち上がるや二人に言った。
「うん、一人でああだこうだってうじうじするのも疲れたし、ちょっと相談に乗ってくれないかな」
「そりゃあもう、よろこんで」
「もちろんですよ」
リィナは馴染み達の返事にありがとうと返すと、なら続きは食堂のいつもの場所でと言って荷物を纏めだした。と、そこにマリカが冗談めかして言う。
「ところで、リィナ、相談のお代はいくら?」
「そうね、マリカが思い悩んだ時に相談に乗ってあげるわ」
「ああ、なるほど、リィナさん、踏み倒すつもりですね」
「……アナ、私に対する認識について、後でちょっとばかり話を聞かせてもらいたいんだけど」
スラリとした少女は片方の眉根だけを引き攣らせて、嘘をつかない誠意ある友人を睨んだ。
三人の少女達はやいのやいのと言葉を交わしながら講義室を出て、食堂に向かう。
早くもリィナの相談事に気が移っていたこともあって、誰もがその背を見送る粘ついた目が、不気味に底光りする一対の瞳があることに気付くことはなかった。
食堂へと場所移した三人であるが、話の前に昼食の確保ということで食券を買いに列に並ぶ。
その食堂であるが、昼休みが始まって幾分か経っていることもあって、既に大勢の学生達が詰めかけていた。そんな彼らの食欲を刺激するかのように、焼けた肉の匂いや香辛料の香りが辺り一面に広がっている。ここに食べに来る者達は比較的年若い世代が多いこともあって、空腹感と期待感、更には息抜きの解放感によって生み出されるざわめきと熱は大きい。
そして、場の空気をより一層熱くするかのように、食堂に詰める前掛け頭巾姿の中年女性達が口々に声を張り上げている。
「はい、お釣り五ゴルダ。はい、次の人!」
「日替わり定食は残り十だから、その子までよ! 悪いけど、後ろの人は別のにしてちょうだい!」
「コロ芋のつぶし焼は残り五! 腸詰定食は残り三! パン詰め《サンドイッチ》はまだ余裕があるわよ!」
食券を求める者達を捌く声。
「日替わりはこっちの列! その他はそっちの方よ!」
「はいはい、慌てない慌てないって、こらそこ! 割り込まない!」
「はい! この羮、まだ熱いから気を付けてね!」
食券と引き換えに食事を供する声。
こうしたの威勢のある声を聞くうち、リィナの心も少しずつ元気になってくる。
そんな中、前に並んでいたマリカが振り返って訊ねてくる。
「リィナ、今日は何にする?」
「いつも通り、パン詰めかな」
「うーん、線が細いんだし、たまにはがっつり食べたら? ほら乾酪焼とか」
そう言ってから、リィナの全身を見て、その後ろのアナを見る。それだけで意味合いを読み取った商会の娘はにっこりと笑って口を挟んだ。
「マリカさん、それ、私に対する厭味ですか?」
「あれー、アナはなんでそー思ったのかねぇ」
「うふふ、私からすれば、マリカさんが羨ましいです。食べた物が身に付かないんですから」
アナはその視線を、スラリとした少女の薄い胸に向ける。だが、まったく気にしていないのか、朗らかに笑って応えた。
「あはは、まぁ、重いモノをぶら下げないで済むから、肩は凝らないよっと、私の番だ」
リィナはさり気なく自分の胸をおさえ、やっぱり食べる量が少ないのかなぁと心中で呟く。だが、連れの少女達をちらりと見やり、それぞれの食事傾向を思い出した後、やっぱり体質なんだろうかと嘆いた。
こういったやり取りをしながら、それぞれが食事を手にすると、賑やかな食卓から少し離れた場所を適当に選んで座る。
「さぁて、リィナ。ぼちぼちと聞かせてもらうわよ。こーんなこわーい顔をしていた理由」
リィナは向かいに座ったマリカが作り出した表情……、眉間の縦皺に尖った視線、堅く引き結ばれて口端下がった顔を見せられて、これは酷い顔だと項垂れる。
そんな彼女に変わって、両者の斜向かいに座したアナが見た目に似合った柔らかい笑みで言った。
「あらまぁ、意外とマリカさんもお似合いですね」
「はいはい、アナ、今日は見逃したげるから茶化さない。今はリィナのことだから」
とは言いつつも、マリカはしっかりと発言の主を一睨みして、リィナに目を向ける。
そのリィナはやや俯き加減ながらも程良くしっとりしたパン詰めを一齧り。葉物野菜の歯ごたえと薄切り肉の塩気、パン内の調味料を味わっていた。すかさず、マリカが突っ込んだ。
「おぅい、リィナ! 今さっきまで落ち込んでたじゃない。というか、話の元がなにをのんびりと食べているかな!」
「昨日、似たようなことしてて、母さんから食べる時はしっかりと食べなさい、って叱られたばかりなのよ。だから、マリカもまずは食べよう」
「む、それを言うなら……」
と言って、隣に座るもう一人の友人に目を向けると、こちらもパン詰めに齧りついていた。これは駄目だと見せつけるように、マリカは色濃い茶髪を左右に揺らした後、口を開いた。
「もう、二人して色気より食い気ってこと?」
「マリカさんはご自身に縁がないからといって食いつきすぎです」
「アナは一言多い!」
憤然と言った後、マリカは皿の上の太い腸詰へと力強くフォークを突き差す。後から近くに座った男子学生数人が身震いした。そういった反応を引き起こした当人はそれに気付かぬまま勢いよく齧りつき、唇を油に濡らしながら咀嚼する。先の学生達がなんとなく座り悪そうに身体を動かした。
その全てを目にしていたアナは思わず苦笑する。
「なによ、アナ」
「いえ、ちょっと面白いモノが見れただけです」
「あっそ」
スラリとした少女はどことなく拗ねた雰囲気を醸し出す。
リィナは常日頃と変わらない光景を目にして、思わず表情を緩めた。
そうしてしばらくの間、昼食を食べながらも他愛もない掛け合いが続いて、それぞれが食事を終えた。
その頃には食堂にいた者達も過半が立ち去り、食後のまったりとした空気に浸る者や遅れてきた食べに来た者達、リィナ達のように仲の良い者達が幾つかの集団を作って残るだけとなった。
彼女達の周囲にも人気が少なくなり、今度こそといった風情で、マリカが口を開いた。
「うん、そろそろいいでしょ。ほら、リィナ、なにがどうしてああなったのか、きりきり話しなさい」
不本意に待たされたこともあってか、やや高圧的な物言い。
もっとも、リィナは馴染みの性質を知って慣れていることもあって、特に不快に感じることなく話し出した。
「正直、単純な話で、そんなに大したことじゃないんだけど、ほら、さっき言ったように、クロウに女がいるとかいないとか、そういうのが気になって、一人勝手に悩んでただけ」
「なんだ、ならもう解決したも同然じゃない。相手に女がいようがいまいが突き進んで自分のモノにするのよ!」
「何を言ってるんですか、マリカさんにあった解決法はリィナさんには合いませんよ」
アナより即座に駄目だしされたが、マリカ自身も自覚があったのか、特にその部分に反論することなく言葉を返した。
「なら、どんな解決方法があるっていうの?」
「そうですね。……まず最初に、リィナさんはエンフリードさんのことが好きなのですか?」
真正面からの問いかけに、リィナは即答できず一頻り唸ってから答えた。
「ゼル・ルディーラが来て凄く危険な状況だったのに、兄さんを助けて行ってくれたから、人としては間違いなく好き」
「なら、男性としては?」
「うーん、多分、好きなんだと思う。じゃないとこんなに悩まなかったはずだし」
「どうして、好きになったんですか?」
「えっとね、私と年が近いのに機兵をしてるし、今さっき言った兄さんの件もあったし、同年代の中では飛び抜けていい男だなって思ったから。まぁ、顔は誰が見てもかっこいいとは言わないけど、それでも私にはすごく男らしくてよく見えるし、自己主張が激しい訳でもなくて落ち着いていて優しいし、身体つきもなんていうか、うん、引き締まっていて鍛え抜いた男の人って感じがして頼りがいがあるし……」
「あー、それは私もわかるかも、実際、実物を見た時、市軍の機兵と変わらない位によく鍛えられているなって思ったし」
「はいはい、マリカさん、後にしてください」
アナはやんわりと横やりを封じると、更に問い掛ける。
「なら、リィナさんは、エンフリードさんとどうなりたいんですか?」
「う、うーん、どうなりたいかって言われると、今一、こう、像がわかないの」
「となると、まだ具体的な関係までは考えられないけれど、間違いなく男性として見て好意を持っている、といった感じですね」
「これって変、かな?」
リィナは話すことで自分自身の状態を把握して、少し不安そうな表情を浮かべる。これに対して、商会の娘は困ったように笑って応じた。
「申し訳ありませんが、私もこういった経験は不足していますから、男女の機微というモノをまだまだ計りかねています。なので、何とも言えません。ですが、こうは思いました。リィナさんは自分の気持ちに気を取られ過ぎて、まだエンフリードさんのことをよく知らないのではないかと」
「それって?」
「はい、具体的な関係までは考えられないということは、まだ表面的なものしか見れていないのではないかと、私は思うんです。例えば、エンフリードさんの些細な好みや癖、どこで生まれ育ってきたかといった生い立ち、友人やご家族との関係、機兵になるまでの経緯や機兵になってからの話、後、これまで好きになった女性とか、女性の好みといったこと。こういったことをリィナさんは知っていますか?」
確かにそう言われてみれば、自分はクロウについて、知らないことが多い。
いや、自分のことばかり話をしていて、聞こうと思ってなかったかもしれない。
リィナはアナの指摘を受けて、そういったことを今更ながらに思い知らされた。
考えに沈む少女に、馴染みの少女は微笑み、励ましの言葉を紡いだ。
「後、今回、リィナさんが悩んでいた女性の問題ですが、ここはご本人の言葉をまず信じてあげるべきです。人は自分を信じてくれる人には、自然と好意を持つものですから」
「なぁ、アナ、それってさ、危なくないの? ほら、詐欺師とかもいるんだし」
「もちろん相手を選んだ上なのは前提です。というよりも、マリカさん、言わなくてもわかる話です。エンフリードさんが、女性を騙して弄びそうな方に見えましたか?」
「あー、そうだね、騙されはするかもしれないけど、騙しそうな感じじゃなかった」
マリカは納得したように何度も頷いてから、リィナに告げた。
「ま、なんにしろ今の状況から抜け出そうと思ったら、自分から動かないとね。……とりあえず、今日もエンフリードさんの所に顔を出して、話をするようにしたらいいんじゃないかな」
「そうですね。地道に顔を見せて、リィナさんという存在をしっかりと認識してもらうことが今は大切だと思います」
二人の言葉に黒髪の乙女はうんと小声で答えた後、小さく、それでもはっきりと頷いたのだった。
* * *
「ふぅ」
アントンは満足げな溜め息と共に寝台に横たわった。
そのだらしのない体躯の隣には身動ぎひとつしない女が倒れ伏している。弱々しく辛うじて上下する胸回り。うっすらと開かれた目は虚ろで、瞳にはなにも映していない。汗と涎、体液といったモノに塗れた裸体には、新しい噛み痕の他にも、あちらこちらに赤や青の痣が刻まれている。
生々しい空気に満ちた、夜更けの寝室。
この薄暗い部屋の主は、にたにたと独り悦に浸る。
というのも、今日の夕刻。
彼の周囲に侍る護衛達より、かねてより準備をしていた計画、その段取りが終わったと報告を受けたのだ。
商会の御曹司は弛んだ顎や頬をより一層ゆるめて、その時が来るのを待ち望む。
ああ、楽しみだ。
あの勝気な顔がどんな風に泣くのか、あの凛とした声がどんな風に啼くのか。
熱のこもった舌なめずり。
機を窺う為に、今しばらくの時間が必要だと言うが、それはそれで、その時の楽しみが増すというもの。
ああ、本当に楽しみだ。
じきに来るであろう時を思って、男は歪に笑い自らの分身をいきり立たせた。




