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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
7 開拓者は荒野で祈る
61/96

六 流転

 ジルトが砂の風華亭に入ると、一階の食堂は常よりも静かだった。

 昼食や午睡の時間は終り、また夕方の飯時には至らずで客が少なく、埋まっている卓は一つか二つ程度だ。それ故にか、彼が懸想する女給仕の姿もない。休憩中なのだろうと少しばかり残念に思っていると、カウンターにて宿の亭主たるシエロと何事かを話す同期の姿が目に入った。


 意識せず、足が向いた。


 近づくにつれて、二人の会話が小さく聞こえてくる。


「……う訳です」

「ふん、そんな裏か。……しかし、面倒なことに首を突っ込むな、お前さんも」

「はは、そうかもしれません。けど、少しばかり関わりがあることですから、知った以上は」


 とクロウが言った所で、亭主がジルトに気が付き、相手の言葉を遮るように声を上げた。


「ダックスか。今日は早いな」

「仕事場が近場だったので」


 と答えながら、ジルトは振り返った同期、クロウの顔を見る。

 彼が知るいつもの顔、いらぬ力が抜けた落ち着きある表情。教習所時代はその表情が余裕の表れだと感じられて、自分だってと一人勝手に張り合っていたクロウ・エンフリードの顔だ。


 その顔がジルトを見てにやりと笑う。


 ただそれだけであるが、彼の持ち前である負けん気に火がついた。


 ジルトにはそれだけで十分な刺激だったのだ。


 彼は語気を荒くして同期に問い質す。


「それで、君はここで何をしているんだ、エンフリード」

「いや、明日には帰るからな。今の内に知り合った人に挨拶しに回ってるんだよ。……それよりも、ダックス」


 そう言って、クロウが笑みを深めた。

 ジルトにとっては見るも不快になる厭らしさあふれる笑みだ。知らず、彼の内でこの同期への反発心が沸き起こり、胸の内にあった暗い感情を塗りつぶしていく。その結果、睨むような目となる。


 もっとも、クロウはジルトの強い視線に慣れている。まったく頓着せずに続けた。


「昨日、あれからあの人とは上手くやれたか?」

「ふんっ、君には関係ないことだ」

「うわっ、冷たっ。もしかしたらと思って、口出ししてやったのに」

「それこそ大きなお世話というものだ。だいたい、君の口出しなんてなくても、僕はフロランスにちゃんと……」


 勢い込んでの言葉。

 亭主が呆れた顔を浮かべ、クロウが興味深そうに目を輝かせているのに気づき、ジルトは口を閉ざす。そこにすかさず、クロウの追撃が入った。


「ほうほう、フロランスにちゃんと、の続きは?」

「こ、これ以上は、それこそ君に関係のないことだ!」

「あー、それは残念」


 クロウは表情から揶揄の色を抜き、ついで浮かべた笑みを苦笑に変えた。


「まぁ、でもなんだ……、俺達って命懸けの仕事だし、後悔をしないようにしろよ」


 命懸けとの言葉に、ジルトは心底にある不安を揺さぶられる。しかし、彼は己の負けん気に則って返事をする。


「と、当然だ。君こそ、後悔をしないようにな」

「ああ、死んだら終わりだしな。……うん、後悔することがあっても納得できるような生き方をするつもりだ」


 クロウは言い切ると、表情を改めて亭主に向き直った。隙も甘えもない男の顔だった。その急激な変わり様にジルトは戸惑い焦る。


「では、俺はこれで。……さっきのこと、よろしくお願いします」

「ああ、元雇主の誼だ、やらせてもらおう。それと、達者にやれ」

「ええ、ありがとうございます」


 赤髪の少年は軽く頭を下げると、ジルトの前へ。冗談の気のない真面目な顔で告げた。


「じゃあ元気でな、ダックス。この先も機兵録から落ちるなよ」

「あ、ああ、君こそ、抹消されるなよ」


 ジルトは同期の目に、その表情に気圧されつつも言い返す。すると、クロウは微笑んで頷き、共に励んだ仲間の肩を軽く叩いてから店を出て行った。


 銀髪の若者が後ろ姿を呆けたように見送っていると、シエロが小さく笑った。


「いい同期だな」

「思う所は、多々ある。……けど、嫌いではない」

「そうか。……で、あいつは後悔するなと言っていたが、実際の所はどうなんだ?」

「僕は……」


 ジルトは亭主のあやふやな問いかけに一言だけ呟き、目を閉じる。


 今し方の同期とのやり取り。どこにでもあるような短いものだった。


 けれど、それはジルトの胸に思いがけずに大きく響くものであった。


 その響きが彼にもたらしたモノ。


 それは、自分が、自分達がいつ死んでもおかしくない立場にいるのだ、という現実の再認識。

 初陣の時に強く意識していた己の死。この街に来て順調に日々を過ごす内に、それが薄壁の向こう側にあると誤解して、すぐ隣にあるという事実から目を背けていたことに気付いたのだ。


 そんな誤解をしてしまった原因は、彼自身の気の緩み。

 機兵として厚遇されることから来る慢心や一度二度の戦闘で完勝したことから来る増長、蟲の襲撃が長くなかったことから来る油断、何の根拠のない楽観等々。こういった所から必然的に生じた心の緩みだ。


 そして、この緩みこそが起き得るであろう事態を前にした時に混乱と恐慌を生み出し、死への恐怖や怯えを必要以上に大きくして、彼を動揺の渦へと引きずり込んだのである。


 ジルトは今更ながらに自身の不明を思い知らされて、口元を苦々しく歪めて思う。


 本当に、ついさっきまで、自分は何を狼狽えていたのだろうか?


 戦いの中で、死の恐怖や怯えは必ずついて回る。

 それこそ誰が為などという理由とは関係なく、自身が機兵として戦いの中で生きる以上は決して死の可能性はなくならず、戦うことを辞めない限り、もしもという仮定や不安からは逃れられない。


 そう、戦う者ならば誰にも避けられない定め。


 死の恐怖を抱えて、不確定の未来に怯えて、それでも戦うことが戦場に立つ者に課された定めなのだ。


 不意に教習所の老教官が別れに際して告げた訓示が、その一言一句が彼の脳裏に思い出された。


 機兵の信条、機兵の意地、機兵の使命。


 ジルトは一人嘆息する。


 あの時の言葉が巣立つ者への励ましだけではなく、死地で戦う者への標であり、決して己の死が無為ではないと思わせてくれる寄り辺なのだと、気が付いたのだ。


 そして、その上に重ねられた、後悔をしないように生きろとの言葉。


 今ようやく、その重さを実感する。


 ジルトはふっと息を吐き出して、これまでになく素直に思った。


 いつ死んでも悔いがないように、思うがままに今を生きようと。


 若者は心定めてゆっくりと目を開ける。それから、亭主を揺るぎのない瞳でまっすぐに見て告げた。


「フロランスは、今、どこに?」

「奥で休んでる。……泣かすなよ?」

「無論だ」


 普段と変わりのなく、それでいてより深く自信のある声で応えると、銀髪の若者は奥へと入って行った。


 見送ったシエロは苦笑を浮かべて呟く。


「ちょっとしたことでも、変われば変わる、か」


 その小さな響きは、新たに入ってきた数人の客の足音に紛れて消えた。



  * * *



 所変わり、エル・ダルークの街路。

 クロウが宿に帰るべく足早に歩いている。荷役で賑わう東港湾区を通り、一つ二つと門を抜けていく。それに伴って平坦だった道は坂となり、彼に相応の負担を強いる。だが、鍛えているだけあって、少年の足が遅くなることはない。

 気が付けばまた門を抜け、居住区に入った。昼下がりの強い陽射しを避けてか、人通りはさほど多くはない。クロウは天を仰いでちらりと脇道を見やる。

 無言のまま一人勝手に頷いて、中央区に向かう本筋から柱廊(アーケード)がある集合住宅の狭間へ向かった。それから小さな商店や路地の様子をもの珍しそうに見やって、自然な風体で後ろを振り返る。


 離れて歩いていた男が何故か慌てたように目を逸らした。しかも、一人ではなく数人である。


 クロウは不自然に立ち止まった男達の、目に見えての怪しい動きに些か呆れを抱く。けれども、それは表には出さず、素知らぬ振りで近くの露店でシャリカを一つ買う。そうしてから再び本筋へと向かって歩き出し、男達とすれ違った。


 それなりに鍛えた身体つき。だが、服の着こなしはだらしがない。


 おそらくは傭兵と当たりをつけて、今度こそ宿へ向かって歩き出した。その後ろを距離を開けて、男達が続いた。



 数分後。

 クロウが宿の部屋に戻ると、窓枠に座っていたミソラに声をかけた。


「どうやら押し入って来なかったみたいだな」

「ええ、部屋の外をうろうろとしている気配はあったんだけど、宿の従業員に見つかって一悶着。んで、市軍の衛士を呼ばれそうになって退散したみたい」

「強引には来ないってことかね」


 クロウはミソラの脇にシャリカを置くと、苦笑して続けた。


「こっちも予想通り、後をつけられたよ。行きも帰りも、建物に入るまでしっかりな」

「中に入れないなら、せめて情報を持って帰ろうってとこでしょ」


 と、そこに別の声がクロウ達の話に入り込む。


「どう、これで私の話、少しは信じてもらえるかしら?」


 軽い声の主は寝台で横になっていた女、ミシェル。

 彼女は亜麻色の短い髪を揺らして上体を起こすと、クロウに向かって艶っぽく笑いかけた。少年は溜め息をついて、寝台の空いた場所に腰を下ろす。そして、面倒事を持ち込んだ女を横目で見ながら答えた。


「まだ半信半疑だ。けど、連中が大げさな位に、あんたにご執心なのは認める」

「もぅ、まだ信じないなんて、疑い深いなー」


 ミシェルは口を尖らせて拗ねた振り。クロウは取り合わずに告げた。


「性分だ。さすがに、あんたが調べていた連中……モンドラーゴ傭兵団がここで麻薬の密売をしようとしたり、アーウェルで使われた武器爆薬を横流したりしたって話、証拠もなく信じられないからな」


 と口にしているが、クロウはミシェルから聞き出した事情自体は信じられると考えている。そうでなければ、砂の風華亭に出向いて亭主に頼みごとをするような真似はしない。


「でもでも、仲間の組が麻薬を乗せた船を制圧したのは本当だし、喜んで答えたくなる尋問で吐いた言葉も信用できるわよ。それに武器や爆薬の横流しだって、アーウェルに出向いた組が市軍と一緒に賊党から聞き出したって話だし」


 これも何度も聞いた内容。

 クロウが知っていることや伝え聞いていることに近い為、その信憑性は高い。だからこそ動こうと決断した。


 残りの問題は、今、面と向かい合っている相手に関してのこと。


 拗ねた素振りを見せる女、その為人に対して、クロウはどうしても心許せない。


 故に、彼はこう答えるのだ。


「いや、そう言われてもな、話す人間が信用できないし」

「ぬ、ぬぐ、ね、根に持つわね」


 そう言うや、小麦肌の女……シュタール家傘下の密偵と名乗った女はクロウににじり寄り、その腕に自身の腕を絡めた。クロウは微かに片眉を上げるもそれ以上の反応はしない。それを許可と受け取ったミシェルは口で弧を描くと、自らの胸を押し付けて、若い機兵の耳元で甘く囁く。


「なら、私のことを信じてくれたら、今夜一晩、好きにさせて、あ、げ、る」

「三十点。品を作り過ぎて胡散臭すぎる」

「む、やっぱり手強い」


 と言いつつ、今度は後ろに回り、胸を背中に押し当てながら圧し掛かる。その際、首筋や耳に息を吹きかけるのも忘れない。


「ほらほら、なんやかんやあったけど、私のことを気に入って、組んず解れつな関係になってエフタに連れて帰るんだからさ」

「あんたを助ける為の設定でな」

「だからこそ、イタシテ事実にした方が自然でしょ。シエロさんに頼んで、そういう話を広めるんだし」

「こちらに注目させて、あんたの仲間の内偵を助ける為にだろ」

「もぅ、無粋なことは言わないの」


 女の腕が首に絡みつく。


「どうせなら楽しんだ方がいいじゃない」


 これまでになく熱く、心動かされそうな声音での、脳が痺れるようなささめき。


 途端、クロウの脳裏に、幾人もの顔が浮かぶ。

 中年の事務員は薄い頭を叩き、金髪の魔導士は軽蔑の目、青年教官はしたり顔で頷き、眼鏡の整備士は寂しそうな顔、髭面の先達は苦笑して、黒髪の学生はそっぽを向く、老船長は豪快に笑い、緋髪の踊り子は剥れ顔。


 思い浮かぶ顔の男女差に少し面白みを覚えつつ応えた。


「なぁ」

「ん?」

「実は我慢してたけど」

「うんうん」

「あんた、見た目より重いのな」


 どんと突かれて、クロウは立ち上がった。振り返ると、ミシェルが目を尖らせて文句を言い始めた。


「あぁもう、手強すぎるわよ。いい加減に堕ちなさいってば」

「いや、お前、下心満載の女に油断するわけないだろ」

「それでも堕ちる時は堕ちるのが男ってもんでしょ。男は野獣なんだからがっつけ」

「んな無茶苦茶な」

「無茶苦茶でもいいの。ほら来なさい。私がしっかりとイカせてあげるから」


 色気も何もない言葉に加えて、長いナニカを握りしめて上下に動かし、舐めるように舌を艶めかしく動かす等の卑猥な動き。


 クロウはいい加減疲れた目でミソラを見る。


 小人は面白そうな顔で頷いた。


「はいはい、戯言とお遊戯はそこまで。そろそろ私の仕事が支部であるから、あなたは大人しく待ってなさい」

「え、独りになったら突入されちゃうじゃない」

「大丈夫よ。魔術で部屋を封印するから。……もっとも、その効果を信じるか信じないかはあなた次第よ」


 ミソラは悪戯に笑ってミシェルの不安を煽ると、クロウの肩に飛び移った。



 クロウとミソラはそれぞれに扉を施錠すると、周囲に注意を向けながら廊下を歩き出す。


「上がってこないか」

「私達がここから出たらわからないわよ」

「懲りたって思いたい所だ」


 誰にも出会わないまま、階段を下りる。

 その途中、クロウは踊り場で止まり、視界に人がいないことを確かめてから小人に訊ねた。


「で、どうだった?」

「あの子、嘘はついてないみたいよ。クロウがいない間も、別段不審な動きもしなかったし」

「そうか。……って、あれが素なのか?」


 クロウは嫌そうな顔でミソラを見る。

 彼はミソラに頼み、ミシェルが本当に信を置ける人物かどうか見極めてもらっていたのだ。


 ミソラは首肯する。


「少なくとも、言葉や態度に裏表はないと思うわ」

「……なら、シュタール家の密偵って話も本当か」


 クロウは一度だけ会ったシュタール家の女を思い出す。表情を崩さない冷然とした美貌。ミソラの話を聞く限りは決して悪い人物ではないのだろうが、なんとなく苦手意識がある。


 少年は青髪の麗人のことを心底に沈めると、話を続けた。


「でも普通、無関係の人間を巻き込もうとするか?」

「あんたに仕事をダメにされた意趣返しじゃない?」

「逆恨みだろ、それ」

「ふふ、確かに。……後、他に理由をつけるとしたら、そうね、手が足りてないとか?」

「手が足りない? 仲間はいるだろ」

「任務優先で、助けるよりも内偵を優先している。あの子を囮にしてね」


 クロウは難しい顔で押し黙る。


 ミソラは少年の不機嫌な顔を見て言った。


「気分が悪い?」

「少しな」


 クロウは髪を一頻り掻くと、大きく息を吐き出した。

 ついで彼の顔に浮かんだのは、未消化の感情を持て余すような、なんともいえない表情。彼はそのままの顔で自らの思いを声に乗せた。


「あいつ、見ず知らずの俺に、面倒事を押し付けて逃げただろ?」

「うん」

「それって、目的の為になら他の人間はどうなろうが構わないって、考えているんだって思ってたんだよ」

「まぁ、その一面はあるわね」

「ああ、だから、どうしても不信の念が残ってたんだけど、仲間もその範疇に含まれるのかと思ったらな」


 なんか急に寂しくなったよ、と少年は続けた。


 ミソラもまた神妙な顔で頷いて、口を開く。


「きっと綺麗ごとだけで回らない世界なんでしょうね」

「ああ、仲間を囮にしてでも、だからな、そうなんだろう」


 両者共、感慨にふけるかのように黙り込む。


 それから分針が一回りする位経って、クロウは溜め息をついて声を上げた。


「でも、だからこそ、そんな世界に巻き込んでくれるなって泣きたくなる」

「クロウの立場ならそうなるわよね。……あ、もしかしたら、あんた、あの子に惚れこまれたんじゃない?」

「どこに惚れる要素があるんだよ。悪質な冗談は勘弁してくれ」


 クロウは心底嫌そうな顔で答えた。


 小人は笑って煽りを入れる。


「あら、意外と頼りになりそうだったから頼ったかもしれないじゃない」

「いやいや、あれは間違いなく私怨だろ。というか、いいように利用してやろうって考えてたとしか思えん」

「ぷくく、確かにそっちの方が濃厚ね。けど、実際、クロウは助けようと動いてるんだし、男を見る目はあるんじゃない?」


 少年は顔を顰めた。


 その頬を、ミソラは小さな手でぺちぺちと叩きながらあやすように言う。


「ほら、クロウ、そろそろ気持ちを入れ替えなさい。協力するって決めた以上はね。じゃないと、いい男になれないぞ」

「はぁ、いつも思うんだけど、おねーさんのいうイイ男ってのはとんでもない聖人君子だわ」

「うーん、私の考えるいい男は、どっちかというと些細なことは笑い飛ばすような豪快な方かな」

「うわー、細かい所で引っ掛かる俺からは程遠い」

「ふふ、そうね。だから、心を広くするいい機会だと思いなさいな」

「はいはい。……とりあえず、必要以上に邪険にはしないようにする」

「そうしなさい」


 おねーさんに相応しい優しい笑み。その顔が急に改まる。


「ところで、クロウ」

「なんだ?」

「あんた、あれだけ直截に誘惑されてるのに小揺るぎもしないなんてさ、もしかして不能なの?」


 真面目な顔で失礼なことをのたまう小人。


 眉根を引き攣らせた少年は、その頭を指でピンと弾いた。



  * * *



 夜。

 エルロイ・モンドラーゴは屯所の団長室で、子飼いの傭兵から集まった女の情報について報告を受けていた。


「団長、例の女なんですが、今は組合の客人に囲われて、手が出せません」

「ちっ、誑かしやがったか。……いや、まずは順に、女についてわかったことを話せ」


 陰気な傭兵は頷き、情報を列記した紙を見ながら話し出す。


「まずはあの女の身元ですが、名前はシャル。流れの奏者を騙って、一年近く前に砂の風華亭に雇われたらしいです」


 モンドラーゴは一年近く前との言葉を聞き、背中に冷や汗が沸き上がるのを感じた。麻薬の密売をしないかと、ある商船乗りから持ち掛けられたのが、一年とちょっと前辺りだった為だ。


 傭兵は表情を固めた団長の様子に気付かず、読み続ける。


「シエロの野郎や常連から聞き出した話だと、長い黒髪の鬘を被って仕事をしていたらしくて、昨日のちょっとした騒動で初めて気が付いたそうです」

「擬態も完璧って奴か。それで?」

「シエロが言うに、今日の朝、首にしたと」

「理由は?」

「身の上を誤魔化すような奴は信用できない、と言っていたそうです」


 モンドラーゴは亭主の言が本当なのかどうか、疑いを抱く。もしかすると、シエロも女の仲間で正体がばれた女を切り捨てたのかもしれないと。


 膨らみ出す疑心を抱えながら、中年の団長は先を促す。


「で、それから、シャルって女はどうした?」

「へい、追い出されてからはふらふらと歩いてたそうですが、いきなり中央区の宿に向かって、例の客人に絡んだらしいです」

「……その間、誰かに接触したようなことは?」

「さて、そこまでは」


 必要な情報が得られず、モンドラーゴは表情をむすっとしたものへ変える。


 陰気な傭兵はその変化を見て取るや拙いと考え先を急ぐ。


「で、で、なんですが、その客人がその女を連れて部屋に上がりまして」

「上手く籠絡された、ってことか」

「みたいです」


 モンドラーゴはじろりと報告者を見て、質問を投げかけた。


「その客人については?」

「一昨日ここに来たエフタの若い機兵らしくて、昨日の昼、うちの者が女を追った際に囮にされたって話を聞いてます」

「胡散臭ぇな」

「確かに嘘くさい話ですが、繋がりはないみたいです」

「本当か?」

「旅団の機兵隊長がその機兵と女は無関係だと保証すると」


 モンドラーゴはその言葉を信じることはできない。むしろ、旅団も一枚噛んでいるかもしれないと疑心は深まるばかりである。


 懐疑的な視線を向けられた傭兵は慌てたように付け足す。


「後それと、例の女の擬態がばれた騒動なんですが、その機兵が絡んでいるみたいです」

「……なに?」

「そいつ、女に囮にされた後、第一の機兵隊長とシエロの店に行ったそうなんですが、そこで起きた喧嘩を収めた時に、偶然、女の擬態を暴いたって話です」

「なるほど、わざわざ仲間の正体をばらす馬鹿はいねぇか」

「俺もそう思います」


 モンドラーゴは少し落ち着いた様子を見せて口を開く。


「つまり、シャルって女がその機兵を利用しようって訳だな」

「みたいです。例の機兵、シエロの店に来て、女の身体がイイ具合だったから連れて帰るって言ってたらしいですから」

「けっ、機兵とはいえ、所詮は若造だな。上手く騙されてやがる。……それで、そいつはいつ帰るんだ」

「明日です」

「な、明日だとっ!」


 モンドラーゴは血相を変えて立ち上がった。血走らせた目で小柄な男を睨む。


「本当か! それはっ!」

「へ、へい」


 怯えたように後ずさった傭兵。

 それを見ているのか見ていないのか、中年の団長は鼻息も荒く頭を動かし、視線を彷徨わせる。彼の中はどうするどうすると焦りに焦る。十秒近くその状態が続いて、急に視線が止まって陰気な傭兵を見据えた。


「仕方ねぇ、今夜、その機兵の部屋に押し入るぞ」

「あ、いや、それが、部屋を開けようにもびくともしなくて、そ、それに、宿の連中も警戒しているようでして」

「ぐっ、くそったれがっ!」


 モンドラーゴは力一杯に執務机を叩き、部屋に罵声を轟かせる。


 けれど、次の瞬間には机を見つめて、ぶつぶつと算段を始めた。


「宿以外なら……、街中か? 銃を持ち込めば……、いや、捨て身でできるような奴はいないし、門衛の連中、見ていないようで見てやがるからばれる可能性が高すぎる。それこそ、下手して市軍に踏み込まれる方が拙い。これは無理だ。なら、エフタまでの帰り道で……」


 団長が再び部下へと目を向ける。


「そいつが帰る船については、わかっているのか?」

「そ、それは、その、なんでも新型の船らしくて、航路を使わず一直線に……」

「聞いたことにはっきり答えろっ!」

「は、はいっ! 機兵が乗ってきたのは新型の一人か二人乗りの小さな舟らしくて、それで帰るとっ!」


 モンドラーゴの頭に天啓の如く、一つの考えが浮かんだ。


「よし、なら、船を出して、航路で待ち伏せしろ」

「へ?」

「聞こえなかったかっ! 船を出してっ、航路で待ち伏せしてっ、お前の組を使ってっ、殺せっつったんだっ! じゃないと、あのことに関わった、てめぇらもとっ捕まるんだぞっ!」

「へ、へいっ! わかりましたっ! すぐに準備しますっ!」


 陰気な傭兵は逃げ出すように部屋を飛び出し、廊下で立ち話をしていた傭兵を突き飛ばして走り去った。


 モンドラーゴは扉がゆっくりと閉まるのを見ながら、荒々しく腰を下ろす。


 そして、苦々しい顔で掻き毟る。


 全ては一年程前から始まった。

 当時、モンドラーゴは儘ならない傭兵団の経営に憤懣を溜め、自分の思い通りに動く傭兵団を作る為の金を欲していた。そこに折よく、麻薬の密売話を持ち掛けられたのだ。

 その時、話を持ちかけてきた相手が麻薬融通の条件として出したのが、武器や爆薬の提供。


 彼は一旬程悩み、一線を越えることを決めた。


 それからモンドラーゴは団長の権限を利用して、傭兵団で使う武器や爆薬の調達量と消費量を弄り、横流しに必要な量を調達した。そして、仕事の合間に取引相手と船で落ち合って引き渡した。だというのに、肝心の麻薬は船が遭難して届かなかった。


 その時のことを思い出して腹立ちと苛立ちが生まれてくる。


 だが、それ以上の焦燥感が心に広がり、男の額にじわじわと汗を沸き立たせた。


 アーウェルで起きた騒乱の話はモンドラーゴの耳にも届いている。

 彼がそのことを耳にした瞬間、自分が提供した武器や弾薬がそこで使われたのだと気付いた。けれど、そのことについて、良心の呵責などは感じなかった。ただ、自分の立場が極めて不味い方向に傾いだことだけが気にかかった。


 以来、彼は息を殺して生活してきたのだが、何者かが彼の行いに気付いたのか、探りを入れ始めた。


 その何者かが具体的な姿となったのが、亜麻色髪の女だ。


 だからこそ、彼は女を捕まえて何を探っていたのか、またその正体についても暴きたかった。しかし、状況が著しく変化したことで、悠長にことを進める余裕がなくなってしまった。


 明日、砂海で機兵諸共女を殺すしか、女が掴んだ情報を消す方策はない。


 一か八かの賭けであったが、モンドラーゴにはそうするしか生き残る道は残っていなかった。


 彼にとって眠れない夜が更けていく。



  * * *



 日変わり、爛陽節第一旬六日。

 東空の高い場所に座した光陽の下、エル・ダルーク南西域を行く小型貨物船があった。

 そのラーグ級の甲板に乗る主な積荷は開拓地や郷がもっとも必要とする建築資材。その他には日用品や医療品、魔導機器、塩や食料品、少量ながら煙草や酒といった嗜好品もある。


 そういった船荷から少し離れた場所で、ジルト・ダックスはパンタルの傍らで荒野を眺めていた。

 普段ならば緊張を滲ませた顔をしているのだが、今日は平静そのもの。というのも、今回は護衛の仕事として乗り込んでいるのではなく、仕事の目的地に向かう為に同乗させてもらっている為である。


 彼が向かう先はギャレー。

 彼が懇意にしている女給仕、フロランスの故郷だ。


 ジルトは船縁に寄って手をつき、青空を見上げる。


 思い浮かぶのは昨日のこと。

 同期を見送った後、彼はその足で女給仕の下へ行き、色々な話をした。自らのこと、相手のこと、故郷のこと、これまでのこと、そして、これからのこと。

 話が後半になるにつれ、こちらが一方的に話す様相になってしまったが、はっきりと自身の好意を相手に伝えることができた。その上で、君の故郷を見てくるとも口に出せた。


 今思うと、あまりにも前のめり過ぎた気がして、気恥ずかしさで顔が歪む。


 それでも彼女は顔を赤くしながら最後まで聞いてくれた。

 そして、最後には自分の顔をしっかりと見て、とても嬉しいですと答えてくれた。ジルトさんに私のことをもっと知ってほしい、私もあなたのことをもっと知りたいとも。


 そう告げられた時のことを振り返り、ジルトの紅潮した表情がしまりなく崩れた。


「おぅい! 機兵の旦那! ギャレーが見えたぞ!」


 銀髪の若者は緩んだ顔をすぐさま引き締めて、声が聞こえた船体前方にある船橋に向かう。船橋二階にある操舵室から見知りの船長が顔を覗かせていた。


 ジルトが声をかける。


「見えたのか?」

「ああ! 後、三十分もしねぇで着く! 降りる準備をしな!」

「わかった!」

「で、帰りの予定は二旬後……、三旬の七日でいいんだな?」

「今の所、そのつもりでいる!」

「わかった! えーと確か、ギャレーは……、三旬になる前後に魔導技士の巡回訪問があったはずだ! 予定が変更になりそうなら、その時に伝えてくれ!」

「了解した!」


 ジルトは張りのある声で応じた。



 同時刻。

 エル・ダルークの東港湾区では、旅団が占用する岸壁で魔導艇が船溜まりに降ろされようとしていた。

 小さな舟の操縦席に座るのは二人。前に普段着に革の上衣を纏ったクロウ、後ろに黒い繋ぎを着たミシェルだ。もう一人の同行者たる小人はクロウの左肩に乗っている。


 二十人以上の整備士や魔導技士、旅団員からなる野次馬達が見守る中、魔導艇を乗せた荷台がゆっくりと着地する。


 クロウは見送りに来た人々……、特に面識のあるジグムント・サンダールを見上げて、短く挨拶する。


「短い間でしたけど、お世話になりました」

「世話するって程の世話をしてないさ。というか、俺としてはお前さんともっと話をしたかった所なんだが……、まぁ、これも仕事だから仕方がない。おやじ殿やレイリークの野郎によろしく伝えてくれ」

「ええ、もちろんです」


 機兵隊長は後輩の後ろに座る女へと目を向け、面白そうに笑った。


「しかし、二日三日で女を……、しかも厄介な奴を引っ掛けて帰るとは、お前さんも大した奴だよ」


 この言葉に応えるかのように、ミシェルがこれ見よがしにクロウの背中に抱き着いた。


「んふふ、途中イロイロあって迷惑を掛けたりしましたけど、今はイイ感じですよ。昨日の夜も狭い寝台で盛り上がっちゃって盛り上がっちゃって! 本当に、もう勘弁してって言っているのに、今日の朝方まで離してくれませんでした。……でも、彼って、絶倫な上に、結構上手なんですよ?」

「ほぅ、そうなのか?」

「はい! それもう、途中で何度も頭が真っ白になっちゃって、しばらく戻って来れなかったくらいなんです」


 程良く艶っぽく、それでいて晴れ晴れとした良い笑顔だ。


 野次馬の男達から感嘆交じりのどよめきが広がり、冷やかしとやっかみの声が飛ぶ。


「ひゅー、やるな、若いの!」

「俺もあやかりてぇぜ!」

「かー、若い癖しやがって、はげろ!」

「いや、素直にもげろ!」


 クロウの口から乾いた笑いが漏れ出る。


 語るまでもないことかもしれないが、ミシェルの話で本当なのは狭い寝台で二人で寝たということだけで、他は全て嘘である。

 付け加えると、本当の部分……二人で寝たという部分にしても、寝る時くらいは心安らかに眠りたいというクロウの強い要望で、抗議するミシェルをミソラの魔術でもって強制的に眠らせている。


 つまり、この猥談、欺瞞の信憑性を高める為との理由があるにはあるが、どちらかといえば、ミシェルによる意趣返しの色の方が強いのである。


 とにもかくも、場は虚構の絶倫男へのやっかみで大いに盛り上がる。


 だが、その空気を破壊するかのように、頭皮を汗で光らせたニルス・レームがミソラへと声をかけた。


「ミソラ様! 例の件、よろしくお願いします!」

「了解! 帰ったらすぐに計画案と試料を送るようにするわ!」

「はい! こちらも結論を即急に出しますので!」


 そう言うとレームは魔導艇を食い入るように見つめる。その目は尋常ではない程に輝いていた。


 クロウは場の空気を潰してくれた中年職員に感謝するも、この人も変わった人だったなと思う。


 それから気分を入れ替えて、防護兜(ヘルメット)をミシェルに被せる。その時、少し力が入り過ぎて、ぐりぐりと頭を押さえるようになったのは致し方がないといえなくもない。


 後ろからの抗議の視線を無視して、クロウは自身も二眼ゴーグルを装着し、別れを告げた。


「では、これで」

「ああ、気を付けて帰れ」


 赤髪の少年はしっかり頷くと、魔導艇を起動させる。

 艇体がふわりと浮き、背中に抱き着くミシェルの腕に力がこもった。そのことを意外に思いながら、クロウは旅団式の敬礼を送る。見送る男達から答礼が返ってきた。クロウは口元を綻ばせて、変速装置(シフトレバー)を前進へ。


 魔導機関が始動し、二重反転回転羽(プロペラ)が回り出した。


 艇がゆっくりと進み出す。


 しがみ付く腕の力がよりきつくなる。


 荷台の上から砂地へ。推進器が生み出す奔流に砂が流されていく。


 クロウは小声で同乗者に告げた。


「なぁ、もう少し力を緩められないか?」

「何言ってるのよ。見せつける為よ」

「いや、それはわかってるんだけど、結構きつくてさ」

「良い感触を味あわせてあげてるんだから、我慢我慢」


 クロウはもしかしてと内々で呟きつつ、慣れた手つきで操縦柄を動かし、艇首を港の外へと向ける。


 それから前方に何もないことを確認して、左手にある岸壁を仰ぎ見た。


 男達が手を振っていた。


 少年の肩口に立つミソラが岸壁を向いて手を振る。


 クロウも右手で振り返す。ついで人の悪い顔で笑って、後ろでしがみ付く女に言った。


「ミシェル」

「ん、な、なによ」

「みんなが手を振ってくれてる。礼儀でもあるし振り返してくれ」

「……わかった」


 ミシェルは若干口元を引き攣らせながらも、少年の服を握り締めていた手をおそるおそる左手だけ離した。そして、岸壁に向かって手を小さく振り出した。


 男達が気が付いて、その手の振りが激しくなる。


 賑やかな見送りを受けながら、魔導艇は船溜まりを形作る簡易防壁の間を抜けて港を出た。


 途端に横風が吹き付けて、舟が揺れた。


「ひっ!」


 ミシェルは短く悲鳴を上げ、クロウに強くしがみ付いた。


 少年は小さく笑って訊ねた。


「なぁ、もしかしてなんだが、怖いのか?」

「こ、怖くて悪かったわね! なんか、こ、これまでの船と違って、足元が不安定で覚束ない感覚なんだから仕方ないでしょ!」

「あー、心配するなって、直ぐに慣れるよ」


 笑いを堪えるような声音。ミシェルはしがみ付く背中を睨みつけて悔しそうに呟いた。


「くっ、あ、あなた、普段は大人しい振りしてるけど、実はいい性格してるでしょ」

「まさか、裏も表もない善良な機兵です」

「うそうそ、絶対うそよ、それ。わたしが押しかけた時だって、人のこと散々馬鹿にして煽った上で逃げ道を潰して、全部事情を白状させるし」

「いやいや、全て織り込み済みで動いてたミシェルには負けるよ」


 少年の厭味に対して、女は据わった目で微笑み、引き締まった腹を思いきり抓る。


「ぐっあだだだっ! ちょ、危ないから止めろって」

「んふふ、わたし、良い男相手なら心中してもいいって、ずっと思ってたんだ」

「いや、冗談抜きに怖いっていうか、現状だと洒落にならない」

「そうよ、女は怖いんだからぁっ!」


 魔導艇が針路上にあった小さな瓦礫の上に乗り上げて軽く跳ねた。ミシェルは声にならない悲鳴を上げ、これでもかと言わんばかりに少年の胴部に回した腕に力を込める。クロウの口から押し潰された重苦しい声が漏れ出た。


「だ、だから! いくらなんでもきつすぎる! もっと力を抜けって!」

「あ、あんたこそっ、もっと安定した操縦をしなさいよっ!」

「無茶言うなっ! あんなに強く締め付けられたら、それこそ操縦に失敗するわっ!」

「そこを耐えて操縦するのが、男ってもんでしょっ!」


 ミソラは黙ったまま、二人のやりとりをにやにやと楽しげな笑みを浮かべて見ている。これはエフタに帰った後、面白くなりそうだと思いながら。


 魔導艇は言い争う二人を乗せて、砂海を疾り始めた。



 去り行く魔導艇を、埠頭から見送る人影がある。

 険しい表情を浮かべたモンドラーゴだ。目の下に色濃い隈を作った彼はぎりぎりと歯を噛みしめて、唾を吐き出す。その顔は不機嫌そのものであったが、船影が予期せぬ早さで小さくなるにつれて、不安の影が差しこんでくる。

 モンドラーゴは魔導艇の姿が完全に見えなくなると、口を引き結んだまま踵を返し、急ぎ足で場を後にした。



 所戻り、再びエル・ダルーク南西域。

 ジルトはパンタルの中で近づいてくる開拓地、その周辺を見回す。

 開拓地の中心と思しき場所……高さ五リュート程の小さな塔と塗装の剥げたラーグ級の近くに、貧民街にありそうな簡素な住居が数軒立ち並んでいる。

 塔の近くには砂塵の汚れが目立つラストルが一機と数人の人影。塔に連なる壁らしきモノを築いているようだった。その建設現場から少し離れた場所に十本程のルーシが並び、然程広くない麦畑が見えた。


 これが、フロランスの故郷。


 ジルトがじっと見入る間にも、青旗を掲げたラーグ級は簡易な港……と呼ぶのもおこがましい、瓦礫を積み上げて作られた段差に近づいていき、着船の振動が走る。ついで、砂礫が擦れる音が続いて完全に止まった。


 段差との距離を測っていた船員が装置を動かし、斜路が降りていく。


 少し緊張を感じて、ジルトは大きく息を吸いこむ。


 先の船員が斜路が降りたことを確認すると、青い手旗を振る。それから、ジルトに笑いかけた。


「行けるぜ、旦那!」

「ああ、送ってくれてありがとう」

「はは、気にすんな。ただの護衛はこっちもありがてぇさ」


 ジルトは得物である大剣とフロランスから頼まれた荷物を持って斜路を進み、開拓地ギャレーに降り立った。


 彼を出迎えたのは、十人程の住民達。

 彼らは予定になかった魔導船の来訪に、何事かと仕事の手を止めて見に来たのだ。その内の数人の子ども達がパンタルの姿を見て歓声を上げた。そして、そのままの勢いで近づこうとするのを傍の大人達に阻止される。

 場が俄かに騒がしくなる中、住民の中から一人、壮年の男が進み出てきた。力仕事をしているのか腕も太ければ足も太い屈強な身体つき。ジルトはその男の陽に焼けた顔に、女給仕の面影を見い出して瞬く。


「機兵さんが、こんな所に、何か用かい?」


 強い困惑を露わにしての言葉。ジルトは前面部を開放して顔を見せると、質問に答えた。


「ああ、仕事をしに来た。ここの警備に」

「へぇ?」


 理解が追い付かなかったのか、黒髪の壮年は目と口を丸くする。


 ジルトはその素朴な反応に相好を崩して続けた。


「知り合いの……、フロランスの故郷と聞いて興味を持って、ここに来た。二旬程、仕事をさせてもらいたい」

「うちの娘の知り合い、ですか?」


 壮年の言葉を耳にした人々の口から次々に声が上がった。


「あらまっ、フローラちゃんの知り合いだって!」

「ほー、フローラ嬢ちゃん、機兵の知り合いができたんか」

「まぁまぁまぁ、もしかして、あの子……」

「あはは、かもしれないねぇ」


 女達の姦しい声や男達の感心する声で更に賑やかになる中、小さな男児がジルトを見上げて声を上げた。


「きへいさん、フロラねーちゃんのともだちなのかー?」

「ああ」


 ジルトは問いかけに頷いて、柔らかく微笑んで答える。


「フロランスは、僕にとって大切な……、大事な友達だよ」



  * * *



 エル・ダルークから南へ三百アルト。

 エフタに至る魔導船航路からかなり外れた場所で、一隻のラーグ級が廃墟の陰に隠れるかのように、南を向いて停船していた。

 広い甲板には日除けの天幕が張られ、その中には直射砲が一門。砲身を後方へと向けている。傍らには暇そうに寝転がる数人の男達。その近くに十数の砲弾が無造作に転がっている。

 また、両舷の縁には機銃が一定の間隔で設置されて並んでおり、銃口を周囲に向けていた。


 寝そべる男達……モンドラーゴの子飼い達はぬるい水を呷り干し肉を齧りながら、口々に不平をもらす。


「暇だな、おい」

「まったくだぜ。だいたいよ、あの女と連れ、ここ通るのか? 航路から外れてるんだぜ?」

「さぁ知らねぇよ。つーか、本当に来るのか?」

「それこそ俺にわかるかよ。見張りに聞け、見張りに」


 陽は中天を越えた辺り。

 盛りに向かう暑さに耐えながら、それぞれが船橋を睨む。


 その船橋の中では、小柄な傭兵が陰湿な表情で椅子に座っていた。

 暗く俯いた顔、その口からは内に溜まった憤りを少しでも吐き出そうとするかのように、ぶつぶつと不平不満が漏れ続けている。


「団長の野郎、いい気になりやがって、俺達がいないと何もできねぇくせに、偉そうにしやがって、誰のお陰でふんぞりかえってられると思ってやがる」


 その様子を気味悪そうに見る腹の出た中年男……ラーグ級の船長であったが、必要以上に話し掛けたくない為、努めて口を閉ざす。

 この中年船長、モンドラーゴが傭兵団を立ち上げる以前から付き従っており、傭兵団の大きな財産であるラーグ級を任される程に信用されている。当然、先の取引相手へ武器弾薬を提供する際にも事情を打ち明けられており、地位や金と引き換えを条件に手伝っている。

 今回も同様で、これから為さねばならないことが人殺しであること、これに失敗すれば自分達が破滅へと転がり落ちるということも知らされていた。


 そんな船長が船橋の空気を悪くする同僚をいかに放り出そうかと考えていると、周囲を見張っていた操舵手が声を上げた。


「船長、蟲がおるぞ」

「あん、どこだ?」

「あっこだ」


 声と指差しに導かれてみれば、船の右舷方向。一アルト程離れた場所は折り重なる瓦礫の上に、数匹のラティアがいた。頻繁に触角を動かして、周囲を窺っている。


 船長は近づかれては拙いと考えて、共犯者でもある傭兵組の長に告げた。


「おい、組長。右舷方向にラティアがいる。連中を排除せんと危ねぇぞ」

「……わかった。うちの連中に潰させる」


 陰気な傭兵は団長や今の状況への呪詛を呟きながら、階下へと降りていく。


 船長はやれやれといった風情で息をつくと、魔導技士がうんざりとした顔で口を開いた。


「あいつ、今日はいつにも増して酷いな」

「そりゃ、気ままな団長の近くに普段からいるんだ。離れたら自然と愚痴も増えるだろうよ」


 投げやりな声で擁護の言葉を返すと、例の組長の声が外で響く。


「おい、起きろ。右舷側に蟲がいる。機銃でぶち殺せ」


 この指示に応えるように、幾つもの声が続いた。


「へいへい」

「いい暇つぶしになるか」

「なぁ、賭けしようぜ、賭け」

「賭け金は?」

「百くらいでいいだろ。一番に最初に当てた奴の総取りで」

「乗った」

「俺もだ」


 船長は蟲の様子を気にしつつ、甲板へ目を向ける。


 四人の男達が右舷の機銃にそれぞれ取り付き、瓦礫の上にいるラティアを狙って構える所だった。


「誰が合図する?」

「くみちょー、頼むわ」

「……わかった。三秒後だ」


 不機嫌そうな顔で、陰気な組長が数えだす。


 三、二、一。


 ゼロの声は連続する発砲音に掻き消された。


 射線は数匹のラティアに分散して走り、時折交じる曳光弾が薄い帯を残す。


 あっと言う間に、強固な外骨格はずたずたに砕き穿たれ、全てのラティアが無残な姿で地に沈んだ。


「ひょー、俺だろ、当てたの!」

「馬鹿言うな、最初に当てたのは俺だっての」

「嘘つくな、俺に決まってる」

「ははは、俺の総取りだな」


 笑い交じりの声が周囲に響く。


 だが、すぐにその声は消え去った。


「……な?」


 船長にもその理由がわかった。


 いや、わかりたくはなかったが、わからざるを得ない光景が、彼の視野に広がり始めたのだ。


 それは流れ出た血が地面に広がるような、赤黒い浸食。


「きっ、機関始動! 浮上しろ!」

「へっ?」

「いいから早く回せっ! 機関全力っ! 針路そのまま! 障害物に気をつけろ!」


 瓦礫の向こうから姿を現した、数え切れぬ程の蟲の群であった。



 同じ頃。

 クロウ達が乗る魔導艇はエフタを目指し、一直線に南下を続けていた。


 唸りを上げる魔導機関、宙を掻き回す回転翼、巻き上がる砂煙。


 どれもこれも重量が増えたことをまったく感じさせず、順調そのもの。


 復路で増えた重量ことミシェルであるが、そろそろ魔導艇の感覚に慣れてきたのか、周囲に目を向ける余裕ができている。今もなんの変哲もない荒野を見回していたのであるが、唐突に訝しげな顔を浮かべて首を傾げた。


 その動きを回された女の腕と己の背中で感じ取り、クロウは束の間振り返って訊ねた。


「どうかしたか?」


 マスク越しのくぐもった声。ミシェルは少年の問いかけに答えた。


「いや、あのね。ほら、モンドラーゴ傭兵団の船が夜明け前に出たって話」

「ああ、ミシェルが聞いたって言ってた奴な」


 宿から港まで移動する短い間で、ミシェルが市井の中から耳聡く聞き付けた話である。

 港に着いた直後にそっと耳打ちされたのだが、出発の準備や野次馬の対応で忙しく、詳しい内容までは聞けなかった。ただ、その耳の早さに流石は密偵だと感心したことは覚えている。


 クロウがその時のことを思い出していると、当のミシェルが戸惑い混じりの声で言う。


「うん、それなんだけど、もしかして、私達のことを待ち伏せしてるんじゃないかなって思ってたのよ」

「待ち伏せか。……うーん、どうだろう? ただ単に急ぎの仕事が入っただけかもしれないし」

「ええ、そうかもしれない。けど、そうじゃないかもしれない」

「ミシェルは待ち伏せがあると?」

「うん、街中で手出しできなかったから、外で仕掛けるかもしれないなって」


 クロウはミシェルの意見に目を鋭くする。


「賊行為か。……でも、連中にそこまでする度胸と覚悟があると思うか?」

「そこまでの度胸と覚悟があったら街中でもっと強引に来てもおかしくはないから、五分。それに加えて、私なら最後の望みを託してやると思うから、七割位の確率でやると思う」

「七割か。……けど、今に至るまで、あまりにも順調に進んでいる」

「うん、そういった気配が感じられなさすぎてさ、逆に嫌な感じ」


 二人の話し合いを黙って聞いていたミソラが口を挟んだ。


「それ、考えられる答えは幾つかあるわね。クロウ、思いつくままに言ってみなさい」

「え、俺かよ」

「そう、ほらほら早く」


 クロウは進行方向に目を走らせながら答え始める。


「船の行動について、可能性は大きく分けて二つ。一つは普通に仕事に行った。もう一つは俺達を待ち伏せしている。当然、俺達にとって問題なのは後者。仮に待ち伏せされてるとするなら、これと遭遇する可能性はゼロじゃない。……けど、低いとは思う」

「どうして?」

「相手は俺達が進む航路を知らないはずだし、常識的に考えて魔導船航路を進むと思うはずだから」

「はずはず、ね。……なら、相手がクロウのことについても情報を得ていた場合は?」

「可能性はかなり上がるだろうな。俺達が進む予定航路はエル・ダルークからエフタまで一直線だから、待ち伏せは容易」


 三者は揃って沈黙する。


 が、いち早く口を開いたのは、クロウだった。


「なぁ、ミソラ、今からでも航路を変更した方がいいと思うんだが」

「却下します! というか、私達を襲うような馬鹿は返り討ちにしたらいいじゃない!」

「血気盛んっていうか、余裕だな、おい」


 少年が更に何事かを言おうとする。


 が、その前に、彼の耳が遠く地鳴りのような響きを捉えた。


 魔導機関の唸りに紛れている為、はっきりとは判別できない。


 しかし、間違いなく聞き覚えのある音だ。


 クロウは類似する音の記憶を探り、その原因に思い当たって息を呑む。


「ね、なんか聞こえるんだけど、これって?」


 気付いたらしいミシェルの不思議がる声。


 その時、軽い破裂音が響き、直後に爆発音が轟く。


 クロウは表情を険しくして、周囲に目を走らせる。


 周囲に異常はない。


 即座に音が聞こえた方向……西へ目を向ける。


 なだらかな丘陵に廃墟と瓦礫が連なっている。


 その向こう側で風に流れる黒煙。


「ミシェル、なにか見えるか?」

「え、えーと、あ、右前! 瓦礫の陰! なにか動いてる!」


 ミシェルの指し示す辺りへ目をやり、廃墟や重なる瓦礫の向こう側に船橋らしき影を認めた。


 目測で一アルトもない。


「ミソラ!」

「仕方ないわね! 試験中止! まずは状況を把握するわよ!」


 今度は断続的に続く乾いた破裂音。


 クロウは機銃の射撃だと当たりをつける。


 そして、これは多分とあることを想像しながら、舵を右へ。


 近づくにつれ、船橋の形状がラーグ級のものだとわかってくる。


 更に近づこうとする前に、両者を隔てる瓦礫や廃墟が途切れた。


「やっぱりかっ」


 クロウは眉根をきつく歪め、


「これは……」


 ミソラは表情を険しくし、


「うそ、なに……、あれ」


 ミシェルは呆然と呟いた。


 彼らの視線の先、砂塵を巻き上げて、ラーグ級が猛然と進む。

 その船尾には何匹ものラティアが取り付き、乗り込む男達が必死に機銃を撃って対抗している。その背後に続くのは、大地を覆い尽くすようなラティアの大群。数え切れぬ多足がおどろおどろしい地響きを奏でたてている。


 その群の一部がクロウ達の魔導艇に気付いたのか、動きを変えた。


 接近を図ろうとする動きを見て取ったミソラが叫ぶ。


「クロウ! 近づいてくる! まずは逃げるわよ!」

「でも、あの船がっ!」

「馬鹿っ! 今は私達の身を守ることを考えなさい! 自分以外の命を預かってることを忘れるなっ! だいたいねっ、あの数に、準備もなくどう対抗するのよ!」


 小人の正論に反論できない。


 少年は歯を食いしばり、舵を左に切る。


 その間にも次々に赤黒い蟲がラーグ級に取り付いて、甲板へと這い上がる。

 一匹が屠られる間に二匹、三匹が潰される間に十匹と瞬く間に増え、遂に男達の対処能力と精神が限界に達する。誰もが射撃を止め、我先に船橋へ逃げ出そうとする。だが、それ以上の速さで間を詰められて、次々に餌食となっていく。

 甲板上に動く人影がなくなると、ラティアはラーグ級の両舷主翼へと近づいていく。そして、二匹三匹と主翼の上に乗ると躊躇もなく回転翼へ飛び込み、その身でもって行き足を潰した。


 推力を失い、ラーグ級の速度が少しずつ落ちていく。


 当然、更に多くのラティアが船体に纏わりつく。


 クロウ達がラティアの追跡を振り切った頃には、ラーグ級はその動きを完全に止め、無数のラティアに覆われて赤黒い塊と化した。


 遠目でその様子を確認すると、少年は悔しさと忌々しさとを混ぜ合わせた苦い声で告げた。


「ラティアの行群だ」

「あ、あれが……」


 蟲の圧倒的な数による襲撃を目の当たりにして、ミシェルは呆然と呟く。


 それに頷くと、クロウは肩口の小人に言った。


「ミソラ、最寄りの開拓地に行って、このことを知らせる。いいな?」

「ええ、明らかに非常事態みたいだし、構わないわ。……ほら、あんたも呆けてないで! 地図を用意しなさい!」

「あ、うん、わかったけど、地図ってどこ?」


 ミソラに指図され、ミシェルが慌ただしく砂海図を探す。


 そんな中、クロウは蟲の動きに注意を向けながら、針路を北へと向けるべく魔導艇を転回させるのだった。

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