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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
7 開拓者は荒野で祈る
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五 変転

 エル・ダルークに夜を訪れた。

 住宅区や中央区といった場所では、一日を終えようと人々が眠りへ向かっている。その一方で、工業区の大工場では機械が間断なく稼働を続け、繁華街では深更に向けていよいよ男女の駆け引きや客引きが活発になり始めている。


 そんな両者を混ぜ合わせ二つに割ったような場所、共同屯所は独特の色合いを見せていた。


 煌々と明かりを放つ街灯。

 照らし出された建物の中には既に灯が消されたものがあれば、窓より煌々とした光を放ちながら賑やかな宴の音を生み出すものもある。必要な物資を運ぼうとする運搬車があれば、ラストルが駐機姿勢をとって仕事を終えようとしている。急ぎ足で宿舎に戻ろうとする中年や疲れた顔で共同浴場に向かう壮年の姿があれば、これから繁華街へ繰り出そうとする若者達や手に銃器を持って仕事場に向かう者達の姿もある。僅かにある飲食店は閉める所があれば、開いたばかりの所もある。


 夜の街とも昼の街とも言えない様相を見せる共同屯所に、一際大きい建物がある。出入口傍にある銘板にはモンドラーゴ傭兵団屯所の文字。エル・ダルークのみならず周辺域にも名を知られた傭兵団の屯所であった。


 その建物の中、ゼル・ルディーラ到来中の訓練や大規模な集会等で使用される一番大きな部屋で、団長たるエルロイ・モンドラーゴが演壇に立ち、数十人の傭兵達を前に指示を出していた。


「今日の昼頃、うちの(もん)から情報を抜こうとした女がいたそうだ。それに加えて、昨日一昨日にもこれと同じ動きがとあったと聞いている。誰が何の目的でってのはわからねぇが、気に喰わねぇことにゃ違いねぇ。仕事が休みで、手隙の者はその女を探して捕まえろ。そんでもって、俺の所に連れてこい」


 厳つい身体をした中年男の太い濁声が大広間に行き渡る。


 一方、団長直々の指示を受けた傭兵達であるが、反応は鈍い。いや、それどころか半数以上の口から反論の声が上がった。


「なんだそりゃ、俺は金にならねぇことなんぞ、したくねぇぞ」

「ああ、こっちは長期の仕事が終わってやっと戻ってきたんだ。とっとと家に帰らせろ」

「あほらしい、んなしょうもないことでいちいち集めんじゃねぇ」

「そうそう、折角の休みなんだってのによ、面倒くせぇ」

「まったくだ。うちが抱えている情報なんぞ、たかが知れてる。そんな女、放っておきゃいい」


 モンドラーゴは傭兵達の反抗的な態度に思わず舌打ちする。


 誰がてめぇらの面倒を見てやっていると思ってやがる。


 そう罵声を浴びせたい所であったが、彼は必死に耐えて声を上げた。


「わかってる! 誰もタダでやれなんざ言わねぇ! その女を見つけて連れてきた奴に三千ゴルダ出す!」

「勝手にやってろ。俺は帰るぞ」

「俺もだ。明日も仕事があるからな」

「ちっ、なら五千だ! 女を見つけて連れて来たら、五千ゴルダだ!」


 帰りかけた十人程の男達の内、半数が足を止める。が、足を止めなかった者達は意に介さずに部屋を出て行った。


 モンドラーゴはこの事実に苛立ちを感じる。


 実の所、彼の姓こそ冠されているが、モンドラーゴ傭兵団で彼個人が意のままに使える傭兵など、全体を構成する二百余の人員の内一割未満……十人程度に過ぎない。

 なんとなれば、この傭兵団は統一された指揮系統の下に動くような組織ではなく、小さな傭兵組や個人の傭兵が寄り集まってできた互助組織であるからだ。

 そう、あくまでもモンドラーゴが諸々の面倒な所……仕事の獲得や報酬の交渉、必要な武器弾薬の手配、移送手段の提供、報酬の振込といったことをしているからこそ、代表の座に就けているだけなのである。


 俺の言うことを聞かねぇ、くそったれども!

 そんなに言うことを聞きたくなけりゃ、ここから出ていきやがれ!


 と、怒りのままに叫ぶことができればいいが、他にも同じような形態を持つ傭兵団がある以上はそれもままならない。

 もし仮にそんなことをして、下手な噂を流されでもすれば、新規の入団者を獲得できるどころか更なる流出を招きかねない。そして、それは傭兵団を率いる者としては一番避けたい事態である。

 なにしろ、傭兵団は機兵団と違って数こそが力の源泉なのだ。構成員が減ってしまえば受けられる仕事も減るし、報酬や武器弾薬の購入等で相手と交渉する時に足元を見られるなんてことにもつながりかねない。


 モンドラーゴがぎりぎりと奥歯を噛みしめ、憤懣を鬱積させていると、残った傭兵から声が上がった。


「で、団長よぅ、どんな女なんだ?」

「ああ、亜麻色の短い髪。肌は薄茶色で、背丈は一六〇ガルトから一六五ガルト。痩せた身体つきで、胸も尻もねぇそうだ」

「おいおい、それだけでわかるわけねぇだろ」

「わかっている! おい、人相書きを配れ!」


 子飼いの傭兵に命じて、人相書きを配らせる。

 目撃情報を基に、彼個人が費用を負担して絵心得がある者に描かせた人相である。実物と比すれば、かなり目付きが悪い。だが、それ以外はかなりに似通った似顔絵であった。


「そいつを周囲の連中に見せて調べさせろ! で、見つけたら俺の所に連れてこい! わかったな!」

「わかったわかった」

「出向いた先で聞き込んでやるよ」

「それよりも報酬の件、忘れんなよ」


 傭兵達は白黒の人相書きが刷られたざら紙を受け取ると、団長の檄に口々に応じながら部屋を出ていく。


 場に集めた全員が部屋から出て行った後、モンドラーゴは疲れ切った顔で溜め息をついた。


 そこに子飼いの傭兵が声をかけてきた。

 陰気な相が表に強く出た、あまり他人受けしない小柄な男だ。モンドラーゴ自身もあまり好いてはいない。だがしかし、彼が手駒にする傭兵の中でも特に仕事ができる男であった。


「団長、こいつを捕まえた後なんですが……」

「ああ、捕まえて情報を吐かした後はどうしようが構わねぇ。お前が好きにしたかったら好きにしろ。……ただ、必ず殺せよ」

「へへ、わかってますって」


 舌なめずりする傭兵は好色な顔を隠さない。


 その気持ちの悪い顔から目を外して、中年の傭兵団長は歩き出す。


 彼の厳しい表情には強い焦りの色が滲み出ていた。 



  * * *



 一夜明けた。

 朝方の冷え込みが僅かに残る中、光陽は東斜面に立ち並ぶ集合住宅へと陽射しを送り込んでいる。その輝きは昼の力強さが嘘のように柔らかく、一日の始まりを生あるモノに優しく教えてくれる。


 そんな光を間接的に取り込んだ、中央区にある宿の一階。階の半分程を占める食堂では熱された油と香辛料の香りが混じりあった食欲を刺激する匂いが漂い、人々の声と食する響きで賑わいを見せている。

 その源の主たるは泊り客以外の客……通勤途中に立ち寄った者達で、市局や市軍、商会等に勤めていると思しき制服姿の男女、農作業用の麦藁帽子を背中に引っ掛けた男、地味な服を着た眠そうな顔の女、服に油汚れが薄く染みついた男と、実に多様である。


 そういった人々に紛れて、赤髪の少年が片隅の一席を占めて朝食を摂っている。


 彼の前に並ぶのは、コドルの燻製の厚切りが三枚とニニュの炒り卵、添え物として特製付汁(ドレッシング)がかかったテパース(葉物野菜)を乗せた大皿。その傍には大きい黒パンを一つ載せた皿と大きな陶杯一杯の粉乳。


 それらを少年は急がず騒がず黙々と、それでいて嬉しそうに食べている。


 その向かいに同席……というべきかは難しい所であるが、机の上に座る小人の前には皮が剥かれた柑橘(シャリカ)

 ミソラは表情を歪め身体を大いに震わせながら、口いっぱいに頬張っていた果肉を飲み込む。それから涙目になった顔を上げて、千切った黒パンを齧っているクロウに話し掛けた。


「あ、あんた、それ、好きよねぇ」


 クロウはミソラの声にすぐに応えず、咥内の食べ物を飲み込んでから口を開いた。


「黒パンか?」

「うん」

「いや、別に好き好んで食べてるわけじゃないぞ? ただ、昔からの習慣でこっちが普通なだけで、後、安いし日持ちするし腹持ちするし」

「でも酸っぱくて硬いし、食べにくくない?」

「そりゃ白パンと比べたらなぁ。……おねーさんの感覚や基準だと白パンが普通なんだろうが、この地域だと、こっちの方が普通さ」


 そう言って軽く笑い、粉乳を一口。ぱさぱさになった咥内に水気を補給して続ける。


「それよりも、よくシャリカを生で齧れるな」

「まーねぇ。心の傷(トラウマ)を癒そうと何度も食べてたら、他にはないガツンと来る酸味がやみつきになったみたいな?」

「俺から言うとそっちの方が凄いわ」


 クロウは呆れた声で言い、唯一の野菜をフォークで差して口に運ぶ。しゃっきりとした歯ごたえ。特製付汁のほのかな酸味と旨味ある油、テパーズの苦味が口に広がる。口の中がさっぱりとする食感であった。


 少年は食べることに小さな幸福を見い出しながら、改めて面前の小人に訊ねた。


「で、今日はどうするんだ?」

「別に、特に何もすることもないわ」

「ってことは、昨日の交渉は上手くいったんだ」

「うーん、上手くいったっていうよりは、こっちからの要望を出したから向こうの返事待ちって感じ」

「へぇ、話は聞いてもらえたんだ」

「そりゃあ仕事っていうか、儲け話だもの。話くらいは聞くでしょ。……ところで、クロウ」

「なんだ?」

「今回の私の仕事なんだけど、上手くいくと思う?」


 唐突に問われて、クロウは瞬き。

 だが、彼の頭はミソラが口にした仕事……甲殻蟲由来の素材、その仕入れ先の開拓について考え始めている。


 仮に自分が受ける側ならば……。

 ラティアの甲殻を剥ぎ取ることはできる。ただ部位をしっかりと指定してもらいたいとは思う。また目の水晶体に関しても特に問題はない。いざとなれば頭部を丸ごともげばいい。ただ、体内に収まっている器官を取り出すとなると、けっこう厳しいかもしれない。


 少年は結論を声に乗せた。


「上手くいくかは条件次第だろうな。ただ、できるかできないかだとできることだし、仕事自体は受ける方向なんじゃないかなとは思う。……けどまぁ、手間と危険、それらに合うだけの報酬が提示されていればの話だけどな」

「あはは、真理ね」


 ミソラはクロウの答えにうんうんと頷く。その顔はどことなく嬉しそうだ。


 少年はその理由がわからず首を捻る。

 しかし、特段に気にする事ではないだろうと燻製肉に得物(フォーク)を突き立てた。そして、それを口に運ぼうとした所、食堂の出入り口に見覚えのある姿を認めた。


 亜麻色の短い髪、貧相と一言で言い切れる身体つきに浅紅の全身衣(ワンピース)を纏っている。

 昨日、クロウに面倒を押し付けてきた相手であり、かつらを被って砂の風華亭に勤めていた若い女だ。誰かを探すように頻りに首を左右に振っている。


 関わり合いたくない彼は素知らぬ顔を決め込んで、肉を口に運んで咀嚼する。燻製の風味と程良い塩気が美味い。不意に教習所にいた頃に、青年教官から聞いた話を思い出す。熱々の肉の厚切り焼(ステーキ)を食べようとして、出撃で食べられなかった機兵の話だ。それだけでも悲しくなるというのに、その機兵は出撃で甲殻蟲にやられて戦死。末期の言葉は、俺の厚切りだったらしい。あまりにもあまりな話だった。


 最後に出来立てを食べられる時はなんとしても食べろよとの言葉の後、ちなみに今の話は古く旧文明期から伝わっている嘘が大本だと続いたが……、それでもやはり悲しい気分になった。


 少年が食べられることのありがたみをしみじみ実感していると、人影が卓の向かう側で立ち止まって影を作り出す。


 ミソラが振り返り、クロウも顔を上げる。


 例の若い女だった。

 無言のまま、青い瞳でクロウを見つめてくる。その顔は無表情というよりは何かを耐えているような観。机の上にいる動く人形を見ても変化はない。


 小人がただならぬ様子の女を一頻り眺めた後、少年に顔を向けて訊ねた。


「お知り合い?」

「まさか。ほら、昨日の夜に話した……」

「ああっ! あの! 飛んだ陶杯が頭に当たって気絶した喜劇の主役(ヒロイン)!」


 ミソラの言葉に若い女の身体がびくんと跳ねて、肩にかけた布鞄が揺れる。目は虚ろになっていた。


「いやいや、それだけじゃなくて、俺に面倒を押し付けた奴だって」

「覚えてるわよ。……で、でも、ぷっ、それ以上に、その後の話が印象に残っててねぇ」

「まぁ、俺も見つけ次第一発拳骨くれてやろうと思ってたんだけど、あれだけ笑われているのを見たらどうでもよくなったもんなぁ」

「ぷくく、あんたも笑われてたんじゃないの?」

「はは、俺からすれば、気にする程のことじゃないさ」


 クロウは苦笑して頭を振った。ミソラは笑いを耐えながら口を開く。


「で、確か、その後で事情を雇主に話したのよね?」

「ああ、面倒事を押し付けてきた相手だってな。……うちの従業員がすまなかった、けじめはつけると、頭下げられたよ」

「うん、しっかりした人で良かったわね」


 二人の会話が堪えたのか、昏い光を宿していた若い女の目にじわりと涙が浮かんだ。


「うっ、うぅっ、あ、あんたのせいで……、せ、せきにんとってよぉ」


 嗚咽混じりの、弱々しい言葉。


 だが、責任とってという言葉の響きだけは妙に大きく通る。当然、食堂の隅々にまでしっかりと広がった。


 ざわりと周囲から音が消える。


 こいつ、自分に有利な流れを一瞬で作りやがった。


 小人は状況を即座に理解するや、笑うに笑えない顔でクロウに言う。


「た、確かに、これは難物みたいね。……とりあえず、この子を連れて出ましょうか」

「ああ、どうやらそうした方がいいみたいだな」


 少年は落ち着いて食べられなくなった朝食を遠い目で見つめて頷いた。


 周囲から見えない若い女の口元は確かな笑みを形作っていた。



 クロウ達は好奇の視線にさらされながら食堂を出る。

 向かう先は三階にある少年の泊り部屋。早く人目から逃れようと、階段を駆け上り足早に廊下を行く。これで逃げられればと思うが、件の若い女は泣いた振りをしたままだというのに同じ速さで着いてくる。クロウから見れば嫌がらせとしか思えず、変なのと縁ができたと嘆きに身を任せたくなる。


 だが、それでもクロウは気分を立て直そうと、ミソラに減らず口を叩く。


「なぁ、もし疫病神がいるとしたら、あんな感じなのかな?」

「いや、あれはそのものでしょ。……私にもその気はあるでしょうけど、あそこまでじゃないもの」

「あ、おねーさん、自覚あったんだ」

「ええ、ありますとも。だから、あんた限定に厄が行くように抑えてるわ」

「いや、そこは厄そのものを抑えて欲しい所なんだが?」


 苦笑いを浮かべるのと部屋の前に着くのはほぼ同時だった。

 少年は下衣(ズボン)の物入れから鍵を取出して、扉を開ける。中は奥の窓からの外光もあって明るい。そこそこ大きい寝台と収納家具だけがある寝室だ。若い女を先に通し、自身も中に入ると扉と鍵を閉めた。そのまま扉に寄りかかって天を仰ぐ。


「さて、何から聞いたらいいか」

「あっちも余裕あるみたいだし、適当でいいでしょ」


 ミソラの言葉に釣られて見れば、若い女は既に泣き真似を止めて、寝台に身を投げ出して寝ころんでいた。心なしか表情が緩んでおり、心地よさそうにも見える。付け加えれば、服の裾が捲り上がって、素足の滑らかな肌が見えている。

 自らが付いてきたとはいえ、見方を変えれば知らない男の部屋に連れ込まれた形だというのに、あまりにも大胆不敵で無防備な姿であった。


 クロウは呆れた表情で応じた。


「……みたいだな」


 それから溜め息を一つ。腕組みをして、くつろぐ女に話し掛けた。


「あんたの名は?」

「んー? 私の名前?」

「ああ」

「私はミシェルよ。機兵のおにーさん」


 ミシェルと名乗った女は上体を起こすと、これ見よがしに目配せ(ウインク)する。


 クロウは微かに眉を動かすが、それ以上は取り合わずに話を進めた。


「了解、ミシェルだな。……それで、どうやって俺の居場所を突き止めたんだ?」

「今日の朝、おにーさん、街中を走ってたでしょ。その後をつけたのよ」

「最悪だ。日課が仇になるなんて……」


 苦い顔で呟く。だが、次の瞬間には表情を戻して続けた。


「で、わざわざ俺のことをつけてまで、ここ来た理由は?」

「もちろん、責任を取ってもらう為よ」

「なんの?」

「か弱い私が職を奪われて、この世知辛い世の中に放り出された責任よ」


 ミシェルは口を尖らせる。

 ただそれだけの仕草であるが、ほのかな色気と愛嬌がある。しかし、警戒心を抱いているクロウには通用しない。


 少年は動揺もなく返す。


「なるほど、風の風華亭から追い出されたのか」

「ええ、誰かさんの所為で、身上を隠して人に迷惑をかけるような奴は置いとけないって、今日の朝、綺麗さっぱりにクビになりましたー」

「人の所為にするな、人の所為に」


 クロウがミシェルの言を切り捨てる。と、今度は宙に浮かぶミソラが代わって口を開いた。


「そうね、別にあんたの生活に関してはどうなろうと、私達が知ったことじゃないわ。自分でどうにかなさい」

「うわー、冷たーい。……って、さっきは我慢したけど、どうして人形が動いているっていうか飛んでるのよ」

「魔法がある以上、世の中には不可思議なことが一杯あるのよ」


 と言い切ってから、ミソラは目を鋭くする。


「それよりも、あなたはいったい何者なのかしら?」

「え、ただの流れの演奏家よ?」

「ええ、表向きはそうでしょうね」


 小人の言葉に、クロウは訝しげな顔を浮かべる。


 若い女は薄く微笑んで片足を引き寄せて裾が捲れる。伸ばしたままの足との合間、その付け根の下着まで丸見えになる。


「変なことを言うのねー。私には表も裏もないわよー」

「はいはい、なら表も裏もなくてもいいから、あんたの事情を吐きなさいな」

「えー、私は流れの演奏家であってー、別にこれといった事情なんてないもーん」


 そっぽを向いての答えに、あまり気が長くない性質のミソラは声を荒げ始める。


「ああもう! まどろっこしいわね! 誰にも言わないからさっさと言いなさい!」

「だからー、本当に何もないわよー」

「がー! いつまでも優しくすると思わないでねっ!」

「きゃー、こわーい」

「おらぁ、いい加減に吐け! じゃないと、身体に聞くわよっ! こいつがっ!」


 ミソラに指差されて、クロウは思った。


 こいつはいったい何を言っているんだと。


 その間にもミシェルはちらりとクロウを見て、微かに頬を染める。


 ……不自然なほどに自然すぎるが故に、とても胡散臭かった。


「だ、だからっ! 事情なんてないわよっ!」

「ふーん、まだ白を切るんだ。……後で泣き叫ぶ破目になってもしらないわよ」

「お、脅されても答えようがないわよ! なんにもないんだからっ!」

「ほほぅ、本当に、いいのね?」

「くっ、や、やれるものならやってみなさいよっ! わたしはそんなおどしにくっしたりしないんだから!」


 白々しさを感じさせる声。


 あまりにも胡乱であった。


 というよりも二人の芝居めいたやり取りを見ている内に、少年の内にあった毒気が抜かれてしまう。


 もっとも毒気が抜かれた事が幸いして、クロウの頭は回り出す。

 思い浮かんだのは目の前の女から面倒を押し付けられた時のこと。あの時、この女を追ってきた男達は何と言っていただろうか、と。


 クロウはその時の記憶を辿る。


 確か……、女を使って、うちの連中から、情報を抜こうとした、だったか?


 となると、こいつはあの男達から何らかの情報を得ようとする理由や事情があるということ。


 では、あの男達は何者か?


 機兵隊長から口から出た言葉は確か……。


「モンドラーゴ」


 クロウの呟き。


 ミシェルは少年を見る。先程までの惚けた顔と違い、浮かんでいるのは楽しそうな笑み。


 クロウはその顔から面倒を押し付けられた時の笑みを連想し、露骨に顔を顰めた。


「あんた、面倒事に巻き込むつもりだな」

「うふふ、そこは我慢してほしいかな。誰かさんの所為で隠伏が剥がれちゃったんだからさ」

「自業自得だろうが」

「えー、そうかな? あれは自業自得というよりも、どう考えても想像の埒外というか、あなたの起こした偶然の奇跡って奴?」

「偶然の奇跡なら、俺が巻き込まれる云われもないな」

「あはは、そんなこと言わないで。ほら、か弱い女のお願いなんだから、手伝ってよ。なんだったら、この健全な色気溢れる身体でお礼もしちゃうから」


 亜麻色髪の女は媚びるように顔を上げ、誘うように太腿を見せつけながら上半身をくねらせる。また、薄く口を開いてちろりと舌を出し、艶めかしく動かして唇を舐める。十人の男がいれば八人位がすぐに頷きそうな程に、色気が出ていた。


 もっとも、クロウには効果はなかった。

 そういった仕草や色気はアーウェルで知り合った踊り子の方が数段上なのだから当然である。故に、少年はわざとらしく鼻で嗤って言い切った。


「身体に凹凸が足りないし、動きに色気を感じない。後、表情にも惹かれないし、気持ちもそそられない。何よりも性根が信じられない」


 ないない尽くしの否定。


 初めて女の顔が固まった。否、顔だけでなくくねらせていた身体ごと固まった。


 彼女にとって、クロウの塩対応は想定外だったのだ。


 もっとも他人の目から見れば一連のやり取りは滑稽そのもの。実際、ミソラは思わず吹き出してしまう。そして、そのまま空中で器用に身体を倒して足をばたつかせて笑い始めた。


「ぷはっ、あはははははっ、く、クロウ、言うわね」

「いや、真面目な話、アーウェルで見たものと比べるとな、一段どころか数段下」

「え、え、なにそれ、知りたい。どんなのだったの?」


 クロウが応えるよりも早く、固まっていたミシェルが再起動した。


 もっとも、心への打撃はしっかりと残っているようで声が硬い。


「ふ、ふふ、そう。て、手伝って、くれないんだ」

「ああ、あんたが何のために動いているのかは知らないし、知るつもりもない。それにな、迷惑を振ってくる相手を助けるなんて、お人好しじゃないつもりだ」

「ふーんだ、どうせ私は性悪で捻くれていますよー。……あー、なんかもう、どーでもよくなってきた。どうせ失うモノなんてないし、ここで悲鳴の一つでも上げようかしら」


 ミシェルの投げやりな物言いにクロウはミソラと顔を見合わせる。


「一時は騒ぎになるかもしれないけど、それだけじゃない」

「だよなぁ」


 二人して首を傾げた所、扉越しに声が小さく聞こえてくる。


「おぅ、うちの団に迷惑をかけた女を出しな。亜麻色の短い髪の女だ。ここに入ったのはわかってんだぞ!」


 声の主は明らかに目の前の女を探していた。


 ミシェルはまた余裕の表情になった。対する少年と小人は溜め息。それから口々に言い合う。


「なぁ、ミソラ、別に突き出してもいいよな」

「そうね、ここは突き出しましょう」

「……あれ、予想外の反応。ここは普通、これはもう仕方がないから助けてやろう、っていう風にならない?」

「ないな」

「ないわね」


 冗談の気が欠片もない声に、ミシェルは焦りの色を滲ませた。


「え、えーと、本当に?」

「当たり前だろ。さっきも言ったが、俺にあんたを助ける云われはない。いや、真正面から助けを求めてくる相手なら考えなくもないけど、事情も話さずに、身体や戯言でこっちを良いように利用しようとする奴なんて、助ける気になるわけがないだろ」

「そうよねぇ。元から私達はまったくの無関係だもんねー。あ、クロウ、鍵を開けてくれる?」

「まってまってまって! ちょっとまってほしいかな!」


 ミシェルは今更ながらに慌てたように起き上がって縋りついてきた。


 クロウとミソラは顔を見合わせて、淡々と続ける。


「いや、別に待つ理由もないし」

「そうね、早い所引き渡しましょ」

「いやいやいや、引き渡されたら、酷い目にあうから!」

「酷い目にあうのは俺達じゃないし」

「別に構わないわよねぇ」


 少年と小人が飄々と言い切る。ミシェルは懇願するように見上げて叫ぶ。


「こ、こんなか弱い女を見捨てるつもりなの!」

「はは、さっきからか弱いか弱いって言ってるけど、面白い冗句だな。……そもそも、こっちはあんたがどうして追われてるかも知らないんだぞ? 見捨てるも何もないだろ」

「うんうん、確かモンドラーゴだっけ? そこのことについてどうして調べていたのか、理由も知らないしねぇ」


 まずはこうなった理由を話せ、話さないと見捨てるとの圧力が二人の視線から放たれる。


 ミシェルは言葉に詰まり、弱ったように目を彷徨わせる。


 だが、クロウに妥協するつもりはない。


 逃げようとする目に己の瞳を強引に合わせ、厳しい声で告げた。


「あんたが抱えている事情を全部話せ。助けるか助けないかはそれから決める。……後、嘘や妄言が通じると思うなよ?」


 ミシェルが少年の冷めた眼差しに屈して事情を話し出したのは、一分後のことであった。



  * * *



 ミシェルががくりと項垂れて事情を話し始めた頃。

 ジルト・ダックスはエル・ダルークから東へ五十アルト程行った所にあるジャラド郷にいた。

 エル・ダルークからは建築資材等を、ジャラド郷からは農作物等を運搬する小型輸送船。これを護衛する仕事で出向いているのだ。今は簡素な港で荷揚げ作業をする船の近くで、パンタルに乗り込んで周辺を警戒している。


 ジルトの目に映るのは黄金色に輝く小麦畑とそれらを取り囲むように植えられた果樹とルーシ。緑の葉の向こうに広がる赤錆びた荒野だ。彼は口元を引き締めて蠢くモノが存在しないか、妙な船が近づいていないか、荒野へと目を配り続ける。


 けれど、彼の頭にあるのは別のこと……、昨日、砂の風華亭の女給仕と話した時のことだ。


 ジルトは展視窓越しに荒れた大地を見ながら、その時のことを思い返す。



 ジルトが借りる二階の部屋に入った後、フロランスはてきぱきと治療を進めた。切り傷に消毒液を吹きかけ、酷い場所には綿紗(ガーゼ)を当てる。また、打ち身の痕には塗り薬を優しく擦り込む。


 痛みを伴う作業であったが、ジルトにとっては愛しい女に直に触れてもらえるという至福の一時であった。


 やがて一通りの治療が終わると、フロランスは嬉しさと悲しみが入り混じった顔で言った。


「ジルトさん、さっきは助けてくれてありがとうございました。……でも、無理はしないでくださいね?」


 ジルトは知らず緩んでいた口元を引き締め、首を振って応える。


「いや、無理なんてしていないし、身体も鍛えているからこれくらい平気だ。それよりも僕は、あいつらを上手くあしらえなかった自分が情けないよ」

「……いえ、そんなことは、現に助けてもらえましたし」


 二人して言葉が途切れ、気まずい空気。


 ジルトはお人好しな同期が作り出してくれた好機を生かせない、己の口下手を呪う。このままでは関係を進展させるどころではないと、銀髪の若者が心に焦りを抱いていると、女給仕が少し躊躇しながら口を開く。


「ジルトさん、少し関係ないこと、聞いてもいいですか?」

「え、ああ、なんでも聞いてくれ」

「ありがとうございます。その、ジルトさんの故郷って、どこですか?」

「僕の、故郷かい?」

「はい」


 ジルトは目を細めて、生まれてから機兵になる前まで住んでいた街を思い返す。優しい思い出と嫌な思い出が混じり合った、好きにも嫌いにもなれない場所のことを。


 郷愁とも恬淡ともいえない、小さな笑みが若者の顔に浮かぶ。それを認めた女給仕の目が微かに見開く。だが、ジルトは気付かないままに答えた。


「ザルバーンだ。……けど多分、もう帰ることはないだろうな」

「恋しいとは、思わないんですか?」

「それは……、わからない。まだ、そういった気持ちにはなったことがないよ」

「そう、ですか」


 戸惑いが混じった声。

 ジルトは次にどう話を繋げればよいかと考えて、今も下にいるであろう同期の顔が何故か浮かんだ。こちらの臆病を揶揄するような憎たらしい笑顔だった。あいつに負けてなるものかと思いが強くなる。すると頭の中に浮かんだ言葉が自然と声に出た。


「フロランス、もしかして、君はここの生まれじゃないのかい?」

「ええ、違います。私はギャレーっていう小さな開拓地の生まれなんです」

「ギャレーか。……不勉強で悪いけれど、どの辺りに?」

「ふふ、小さい所ですから、知らなくてもおかしくないですよ」


 と女給仕は笑ってから、場所はここから南西に船で半日程行った所ですと続けた。


 フロランスは遠くを見るように中空へと目を向ける。その顔は懐かしさと切なさに彩られていた。


「本当に、あそこには何もなかった。ここと比べるとずっと危険な場所だった。けど、家族がいます。……もうここに働きに来て五年位経ちますけど、それでも私はあそこが恋しいです」

「今まで帰ったことはないのかい?」

「もちろん帰ってますよ。忙しいし、あまりお金を使えませんから、年に一度だけですけど……」


 そう言って寂しく笑う。ジルトにはその笑顔に目と心を奪われつつ、内で生じた疑問を投げかけた。


「でも、どうして、ここに働きに? 開拓地でも人手はいると思うんだが?」

「ええ、人手はいります。けど、それ以上に開拓地では何かと入用なので、どうしてもお金が必要になりますから。……後それと、実はその、私と一緒になってくれる人を探す為でもあるんです」


 一緒になってくれる人を探す為。


 その言葉に、ジルトの心臓がドキリと跳ね上がった。


 フロランスは伴侶を探している! 伴侶となる男をっ!


 これは聞き捨てならない! いや、それよりも聞き出さなければならない!


 い、今、気になる男がいるかどうかをっ!


 そんな思いが若者の頭の中でぐるぐると回る。


 けれど、彼の口はそのことには触れずに話を進めた。


「じゃあ、ここでもらったお金は」

「はい、半分位、家に送ってます」

「そうか。……凄いな、フロランスは」

「え?」


 ジルトの言葉に、女給仕は不思議そうに首を傾げる。その顔を、その切れ長の蒼い瞳を見つめて、ジルトは言った。


「僕はまだ、自分で立つことで精一杯だ。それに比べて、君はしっかりと自分の生活をして、家を助けている。……凄いよ、君は」

「え、あ……、え、えっと」


 真顔での偽りの色のない賞賛。

 これまで経験したことがなかった反応に、フロランスは大いに混乱する。また同時に純粋な賛美に気恥ずかしさを覚えてしまい、みるみる顔に血が昇って行く。

 他方のジルトであるが、フロランスの素朴な変化に胸の内にある愛しさが強まるのを自覚する。そして、その強くなった愛しさは臆病という壁を少しだけ穿ち、男の本心を僅かにこぼれさせた。


「もし君のような人と一緒になれば、僕はきっと……」


 とまで言って、ジルトははっと我に返る。


 フロランスは耳まで赤くして俯いていた。長い黒髪で顔は見えないが、顔がこれ以上なく真っ赤であることは疑いようのない赤さだ。


 ジルトもまた自分がもらした言葉に動揺しながら告げた。


「あ、い、いや、い、今のは、き、気にしないでくれ」


 女給仕は俯いたまま、微かに首を動かす。それは縦にも横にもつかない、あいまいな動きだった。



 ジルトは遠い青空を見つめ、あの首の動きはどっちだったのだろうとぼんやりと思う。


 あれは横に振ったのか? それとも縦に振ったのか?


 縦だったか? いや、あれは横に振っていたはずだ。


 と考えて頭を振り、都合の良い考えを振り払う。


 これでは仕事に身が入らない。しっかりとしなければ。


 と思い定めるも、頭の中が行き着くのはあの時の首の動きだ。


 結局、ジルトは仕事の間中、昨日の事を思い出しては首を振るという動きを繰り返し続けた。



  * * *



 陽が傾かぬ内に、ジルトはエル・ダルークに戻ってきた。

 今日の仕事で向かったジャラド郷が近場であった為だ。彼は船から降りると、その足で自身の乗機を懇意の整備所に預ける。それからであるが、砂の風華亭には戻らずに組合の出張所へと向かった。

 組合の出張所は西港湾区の共同屯所内にあり、主に機兵団や傭兵団に属さない者達に仕事の仲介や斡旋を行っている。ジルトもまた機兵団等に属していない為、ここを利用している口である。


 そういった訳で市街へつながる市門……西第一門に程近い場所にある簡素な建屋へとやって来た。


 出入口を作る赤錆色をした人工石の柱には、組合連合会エル・ダルーク支部西港湾区出張所と白い塗料で直接書かれている。些か字に勢いがあり過ぎて読みづらいのが難点であるが、その分だけ荒事に慣れていそうな雰囲気はある。

 実際、出入りする者達のほとんどが身体つき良く、顔立ちにも砂海の厳しい環境に耐えてきた観を持つ者ばかり。例外なのは、ここに来て傭兵を始めたばかりの者か使いで仕事を頼みに来た小者位なものである。


 ジルトもまた傭兵達の列に並んで受付まで行く。


「割符を」


 との言葉のまま、依頼者の船長より渡された割符を差し出した。


 眠そうな顔をした初老の職員は割符を受け取ると、そこに書かれた番号を見て、すぐ後ろにある棚から該当の番号を探す。数秒もしない内に目的の番号を見つけて一枚の紙を取り出す。そして、そこに描かれた複雑な文様が割符と合致するかを確かめる。


 当然の事ながら、しっかりと合った。


 すると割符をそのまま手元に置き、今度は傍らにある書類束から割符の番号を探す。そうして見い出した書類の内容を見て、ジルトに低い声音で訊ねた。


「エル・ダルークからジャラドまでの往復、貨物船の護衛?」

「ああ、そうだ」


 じっとジルトの顔を見てから頷く。それから開け放たれた手提げ金庫から金を取り出して、手早く数える。千ゴルダ紙幣が二枚と百ゴルダ貨幣が二枚が差し出された。


「二千二百ゴルダだ」

「確かに」


 ジルトは頷いて受け取る。今日は近場であった為、報酬は標準よりも低い。だが、それでも十分な稼ぎである。普通の傭兵だとこれだけ稼ぐのに三日はかかるのだ。


「次の人」


 ジルトは受付の声を背後に聞きながら、順番を待つ傭兵達の羨望と嫉妬の視線を無視して外に出る。


 空を見上げると、まだまだ明るい。


 とりあえずは明日の仕事を探すかと、建屋の壁に貼られた掲示布……仕事の依頼書が針で縫いとめられた布に目を向ける。と、そこで彼に声をかける者がいた。


「おい、ダックス」


 声の方向へと目を向ければ、顔は知っているが名前を覚えていない傭兵がいた。


「何か用かな?」

「おいおい、忘れたのかよ。前に話した話だ」


 ジルトは記憶を探り、目の前の若い男から彼が属する組織、モンドラーゴ傭兵団に誘われたことを思い出す。


「ああ、勧誘か」

「そうだよ。で、どうだ? 考えてくれたか?」


 ジルトは表情を変えぬまま首を振る。


「悪いが、今の所、どこにも所属するつもりはない」

「はー、そうか。そいつは残念だ。……後、話は変わるんだが、こいつを見たことないか? 髪の色は亜麻色、肌は薄茶で胸も尻もないらしい」


 そう言って差し出してくる紙に目を向ける。質の悪いざら紙に刷られていたのは似顔絵。短髪で目付きの悪い女の顔であった。


 ジルトは目付きが悪いなと思いつつ、じっと見る。目付きさえ除けば、美人ともかわいいとも言える容姿である。


 しかし、彼には見覚えのない顔だった。


「いや、知らない顔だね」

「そうか」

「……この女が何かしたのかい?」

「何者かは俺も知らねぇが、うちの団にちょっかいを出したらしい。だもんで、団長が連れて来いってうるさくってよ」

「そうなのか。まぁ、見つけられるかどうかはわからないが、頑張りたまえ」

「はいはい、頑張りますよ。……後、もしも気が変わったら教えてくれ。歓迎するよ」

「ああ、その気持ちは受け取っておく」


 若い傭兵は苦笑して頷くと、踵を返して去って行った。


 ジルトはその後ろ姿を見送ってから、再び掲示布に目を向ける。


 だが、またもや彼に声をかける者が現れた。


「よぉ、若いの。元気にしとるか」


 聞き覚えのあるつぶれた声。

 振り向けば、白い上衣を羽織った白髪頭の男が若い男を連れて立っていた。


 上衣の下には年を感じさせない均整のとれた身体つき。贅肉のない日焼け顔に鋭く切れ上がった目。内の収まる輝く灰色の瞳と視線がぶつかる。その目に込められた覇気に負けそうになるが、ジルトは踏ん張って応えた。


「ええ、元気にやってます。ロッサ団長もお元気そうで」


 ジルトからロッサ団長と呼ばれた男は若者の挑むような目を見て、満足げに笑って言った。


「ははっ、結構結構。俺は正直に言うと持て余しとるよ。このところ蟲の動きが鈍くてな」


 そう言ってジルトに近づいてくる。


 かつりかつりと金属が擦れる音。その源は、白髪の男の右足……太腿から先に収まっている金属の義肢からだ。


 銀髪の若者はこの音と先の目を見る度に思い知らされる。

 甲殻蟲との戦いの中で右足を失い、それでも尚、機兵団を立ち上げて戦い続ける目の前の男、リベラ・ロッサが機兵という存在の体現者であることを。


 ジルトはこの先達の前に立つ度に抱く思い、畏怖と憧憬、更には後ろめたさと怯えを心底に隠しながら訊ねる。


「蟲の動きが鈍いというと?」

「ああ、この最近、うちの巡回で蟲の群と遭う回数が減っとる。お前はどうだ? 連中に動きをおかしいと思わなかったか?」


 ジルトは仕事の記憶を探る。


 ロッサが言う通り、ここ二旬程の間、船の護衛をした時にラティアの姿を見た覚えはなかった。


「そう言われてみると、確かに以前なら一匹や二匹、船に近づいてきたのに、ここしばらくは見ていない」

「おぅ、そうか」


 初老の機兵団長は若い機兵の呟きを聞くと眉間にしわを寄せて頷く。その様子が気にかかり、ジルトは問いかけた。


「この動き、なにか意味があるんですか?」

「あると言えばあるし、ないと言えばない。ただ俺の経験から考えるとな」


 そう前置いてから、ロッサはジルトにしか聞こえないよう囁いた。


「連中の動きが鈍くなった後は、行群が起きる可能性が高い」


 ジルトは告げられた内容に思わず目を見開き、声が出そうになる。それを寸前の所で抑え込み、唾をひと呑み。ロッサは及第点だと言わんばかりに口元だけで笑って告げる。


「あくまでも可能性だ。……だが、十分に起きえることでもある」

「い、いつ頃に?」

「蟲共の気分次第だけに、いつ起きてもおかしくはないな」

「そのことは市軍に?」

「ああ、今さっき行って話をしてきた所だ」


 歴戦の機兵団長はジルトの肩を叩いて続けた。


「連中も蟲の動きが鈍いと感じてたらしくてな、可能性はあると踏んだようだ。明日からは巡回を増やすと言っている。……この先、どうなるかはわからんが、気張れよ、若いの」


 厳かに、それでいて力強く励ましの言葉を残すと、ロッサは自身が率いる機兵団の屯所へと歩き出す。付き従う若い男はジルトを睨むように見た後、軽く会釈をして団長の後を追った。


 残されたジルトは内に残る動揺を収めようと大きく深呼吸する。


 だが、落ち着かない。


 なにしろラティアの行群は一大事である。

 行群する蟲の数にもよるが、一般的には行群が一度起きれば、防備が整った都市やそれなりに備えをした郷ならばともかく、小さい郷や開拓地だと簡単に蹂躙されてしまう。

 それ故に、そういった小さな郷や開拓地の人々は行群が発生したことを知るとすぐに逃げる。より防備の整った場所を目指して大急ぎで逃げるのだ。とはいえ、全ては気付くことに間に合えばの話であるが……。


 ジルトはうすら寒い心持ちで薄赤い掲示布へと目を向ける。


 そこには質の悪いざら紙が何枚も針で縫いとめられている。


 期間警備大募集、夜間監視募集、常駐警備三名急募、北監視所衛生補助業務、商船護衛募集・機兵歓迎。


 大きく書かれた仕事の概要。その下には勤務地……郷や開拓地の名が書かれ、日当や仕事の内容等が綴られている。


 無言のまま、それを見つめる。


 もし仮に行群が発生した場合、ここに張り出されている郷や開拓地のどれくらいが襲われて、どれほどの人が命を落とすのだろうか。


 そう考えた瞬間、機兵としての意識が力強く猛る。


 どこでもいい。


 どこでもいいから蟲が来そうな場所で自分が頑張れば、誰かが助かるかもしれない。


 だが、その一方で、一人の若者としての本心が怯え震える。


 そんなことをして、もし自分が死んだらどうするんだ。


 僕は死にたくない。


 まだ死にたくはない!


 揺れ動く心。


 若者は立ち尽くして葛藤する。


 そうだ、金は貯めてあるのだから、無理に仕事をする必要はない。


 否、これは金の問題ではなく、機兵としての責務の話だ。


 それなら市軍やロッサ機兵団がいる。


 彼らが動く以上、自分が動く必要もないだろう。


 馬鹿な、魔導機という力、それに伴う特権を有するに足る義務を、それで果たしたと言えるのか?


 義務を果たして死んでは意味がない!


 義務を果たさなければ、機兵とは名乗れない!


 胸の内で相反する思いが激しくぶつかり合い、心胆が荒れ狂う。乱れた心は身体にも影響を与えて、ジルトの鼓動を激しく猛々しく速めれば、全身から汗を吹き出させる。


 自分は、どうすればいい?


 見いだせない答えに、ジルトの心はもがく。


 そんな時、一枚の依頼書が彼の目に留まる。


 警備募集、勤務地ギャレー、期間応相談、日当四百八十ゴルダ、日払旬払選択可、朝昼晩賄及び宿泊所付。


 自然、ギャレーの文字に釘付けになる。


 それは愛しい女給仕の故郷の名であった。


 ジルトは無意識に手を伸ばす。


 胸の内で答えは出ていない。


 むしろ、心は惑いと迷いの中にある。


 それでも、彼は縫いとめた針を抜いて依頼書を手に取ると、窓口へと歩き出したのだった。

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