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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
7 開拓者は荒野で祈る
59/96

四 酒場の華

 暗い闇の中。


 何も見えず、何も聞こえない。


 ただ己という存在だけを認識している。


 不意に自分はと考えて、小さな光が浮かび上がった。


 その弱い光の中に、色褪せておぼろになった像が現れる。


 幼少時の穏やかな日々、静かに死に行く母親、蔑みに満ちた幾つもの目、心身に加えられた虐待、父との短い対面と直後の別れ。


 光は少しずつ強くなっていき、像は色を帯びて鮮やかになっていく。


 エフタまでの旅路、独りの心細さ、虚勢をはった入所日、厳しく苦しい教練、同期達の顔、魔導機に乗った感動、模擬戦の激しさ、敗北の悔しさ、初陣前夜の緊張、直前の恐怖、勇ましい後姿への憧憬、興奮の中の実戦、勝利の栄光。


 光がより大きく輝きを増すにつれ、像がよりはっきりと鮮明になるにつれ、彼の意識は徐々に覚醒していく。


 免許の受け取り、教官の激励、同期達との別れ、エル・ダルークへの旅路、先への希望と不安、頑強な街と荒々しい人々、糧を得る大変さ、緊張と実戦の日々、覚えた酒の味、嫉視してくる傭兵達との軋轢、喧嘩と血と拳、さり気に助けてくれる先達、好きになった女の顔。


 光は全てを覆いつかさんばかりに広がり、世界から闇を払っていく。


 同時に、全てを占めていくのは一人の女の姿。


 見る者を惹きつける切れ長の目、どこか浮世離れした蒼い瞳、一時も緩まない頬、高く通った鼻梁、笑みを形作らない唇、まっすぐな長い黒髪、薄褐色の肌を覗かせた色気ある肩、日々の仕事の中で荒れた手指、給仕服で強調されているが豊かに見えない胸、絞り込まれた腰の括れ、自然より大きく見える尻回り、一日中歩き回るだけの力を備えた足。


 その全てが眩しくて、その全てが欲しい。


 愛しく思う女を思いながら、彼は目を覚ました。



  * * *



 赤髪の少年は組合エル・ダルーク支部から出て、大きく伸びをした。

 ついで大きく首を回す。ゴリゴリと音が鳴り、筋骨の凝りが解れていく。あまりの心地よさに涙すら浮かべ、後追いで大欠伸まで出てきた。遂に涙は決壊し、数滴の流れが頬を伝う。傍から見れば、思わず笑ってしまいそうな程に緩んだ顔である。


 だが、なんの遠慮もなくクロウを笑う者……ミソラの姿はなかった。


 おねーさんを自称する小人は支部に辿り着くや、即座に案内役のレームと仕事について話し合いを始めたのだ。


 当初、クロウもその場にいたのだが、元々、ミソラの仕事と直接の関わりがなければ関わる権利もない。彼の仕事は魔導艇でエフタとエル・ダルークを往復することなのだ。故に、クロウは自分がこの場に同席しても良いのかと、ミソラに訊ねた。


 対する小人の答えであるが、


「うーん、クロウなら別に聞いてても問題ないんだけど……、そうねぇ、やっぱり退屈だろうし、別に付き合わなくてもいいわ。せっかくエル・ダルークまで来たんだから、街を見て回ってきなさい。ただし! 夕方には戻ってくること! わかったわね!」


 ということで夕方まで解放されることなり、最低限必要なモノ……財布と魔導機免許証だけを持ち、表に出てきた次第である。


 クロウは身体を解し終え、涙をぬぐい取ると、街路を北に向かって歩き出す。

 気軽な足取りで行き足ものんびりだ。その彼の姿格好であるが、先程までの黒い革の繋ぎではない。いつまでもこれでは悪目立ちするからと、部屋を借りて市井で最も流通している服……ルーシの繊維で編まれた服に着替えたのだ。


 クロウは異郷の光景を楽しみながら歩む。

 立ち並ぶ商店は頑丈そうな人工石造り。その前には荷車が数台停まって、人足達が忙しく荷の積み下ろしをしている。時折、コドルの荒い鼻息が耳に届いた。こういった光景はどこでも変わらないものだと思っていると、門に辿り着く。

 北第三門西の銘板が打ち込まれている。これまでの門と同様に門衛がいるが、特に見咎められることはない。そのまま門の外に出る。


 途端、黄金色の麦畑が視野に広がっていた。


「おぉ」


 クロウの口から思わず感嘆が漏れる。

 知らず知らず口元が綻び、道を横切って麦畑に近づいた。落下防止用の柵に手を乗せて、一面を見渡す。道より五リュート程下、なだらかに均された農耕地があった。

 彼がいる道より目算で四十リュート程の畑に葉物野菜等が植えられ、様々な果樹が立ち並んでいる。その先から北に見える市壁まではほぼ全てが麦畑だ。そんな農耕区の真ん中を貫くように、一本の坂道が下っている。


 ああ、これだけの物を造るには時間と手間が掛かるだろうな。


 クロウが先人の努力を思って感慨に浸っていると、後ろから視線を感じた。振り向くと門衛達が彼を見ていた。が、彼が振り向いたことで視線を逸らした。何か変なことでもしただろうかと少年は首を傾げる。だが、門衛達に反応はない。不思議に思いつつ、西へと歩き出した。

 道は二百リュートも行かない内に市壁に行き当たった。舗装路は南へと折れている。クロウは道なりに曲がった。南に向かう道は十数リュートの間、外壁と内壁に挟まれている。見上げてみれば、両者を繋ぐ橋が渡されていた。連絡用の橋だろうと当たりを付けつつ、市壁の狭間を行く。行き先から規則正しい打音や何かを動かす機械音が聞こえてきた。


 この先は工業区かなと当推量していると、右側の壁が途切れた。開けた西側に数多くの建物が立ち並んでいる。先程から耳にしていた音もそこから聞こえてくるようだった。少年は歩きながら西側を見下ろす。

 本来は斜面であろう場所は南北に長い三つの段層に分けられていた。一番上の層は小さくて多様な形をした建屋が幾つもの軒を連ねており、通っている道も狭い。真ん中の層はその全てを占めると言ってもよい程に真っ直ぐに長い工場が一つだけある。そして、一番下の層は複数の建屋と煙突や細長い塔が幾つも並び、それを繋ぐ様に配管らしきものが何本も縦横に伸びていた。


 全てを見て取ったクロウは自らが知るエフタの工業区画と比べて、窮屈だなという印象を抱いた。最低限必要な物を狭い空間に無理無理に押し込んだような、そういった感じである。働く人は息がつまりそうだなと思っている内に、左手の市壁に門が見えた。

 自然、これまでの道筋と位置関係を考えて、今いる場所は組合支部の裏辺りだろうと市壁を見る。ついで光陽を見た。ようやく西に傾き出した観で、まだまだ夕方まで時間があった。


 ならばと、少年は門前の三叉路を右に折れる。


 ゆっくりと南に曲がる下り坂だ。工業区に出入りしているのか、行き来する荷車の数が多い。邪魔にならないよう道の端を歩く。そうする内、道は完全に南向きとなり、また門が見えてきた。恐らくは西第三門だろうと予想して、銘板を見る。


 ……当たっていた。


 クロウはなんとなく得意な面持ちになりながら門を抜ける。


 東側の緑地と違い、こちらは左側に幾つもの建物が並んでいた。外観を見れば、派手な装飾が為されている。繁華街か色街だろうと思っていると、少年の推測を裏付けるかのように女の嬌声や機嫌良さげな男の笑い声が耳に届く。昼間から元気なモノだと、少しばかりの呆れを抱いた。


 クロウは酒色に特に興味もない。

 その為、繁華街につながる横道でちらりと見るだけで真っ直ぐに道を下る。


 しかし、これが彼にとっての不運の始まりであった。


「あっ! ……ちょ、ちょちょっ! ちょっと! あんた!」


 慌てた声が俄かに響く。

 何事かと足を止めて横道を見れば、破れかけの衣服を押さえた女が走ってきた。亜麻色の短い髪。身体の凹凸は貧相で女としての魅力は今一つ。そんな女だ。付け加えると、その後ろから五人程の男が追いかけてきていた。


 なにか起きたんだろうかと身構える前に、女がクロウの前にやって来る。


 年の頃は遠目で見たよりも若く、クロウよりも少し上辺り。背は少し低い位で、見目良い顔には化粧っ気のない。小麦色の健康的な肌は汗が滲み出たことで眩い光沢を放っており、不思議な色気がある。


 当然であるが、少年の知らぬ顔であった。


 その若い女であるが、呼び掛けた割にクロウに話しかけることなく、じろじろと全身を舐めるように見る。


 ついで、彼が何か用かと問うよりも早く、後ろを気にするように振り返った。


 自然、クロウも向こうから迫ってくる男達を見る。


 中々に体格が良く、顔や肌も日に焼けて色濃い。けれど、身なりがだらしなくて些か薄汚い印象だ。


 少年は再び若い女へと視線を戻した。


 青い瞳と目が合う。


 若い女は愛想よく笑って、目配せ(ウインク)


 少年が訝しげな顔を浮かべた瞬間、多くの者が興味を惹かれるような瑞々しい声を辺りに大きく響かせた。


「ちょっと、あんた! あいつらから話を聞くだけのっ、簡単な仕事だって言ってたのにっ! この様よ! このうそつきっ!」


 突然の罵声。

 それもまったく身に覚えのない内容に、クロウは口をポカンとあけて目を瞬かせる。


 そうしている間にも若い女は駆け出し、あっという間に坂道を駆け下りていく。残されたクロウはただただ困惑するばかりである。だが、追いかけてきた男達はそうではなかったようで、なにやら得心した様に足を止め、クロウを取り囲む。


 そして、親分格と思しき男が口を開いた。


「てめぇか! 俺らになめたことしようとしやがったのはっ!」

「……は?」

「とぼけるんじゃねぇ! あの女を使って、うちの連中から情報を抜こうとしただろうがっ!」

「い、いや、ちょっと待ってください。いったいなんのことか」

「るせぇっ! おい! ぶちのめして、口を軽くしてやれ!」

「ちょっとまっ、ええっ!」


 なんでいきなり、こんなことになるっ!


 事情も何も分からず、流れで襲われるという状況に、クロウはただただ混乱するばかり。


 それでもなんとか誤解を解こうと口を開く。


 が、それよりも早く、正面の一人が間合いに踏み込んできた。


 顔を狙った、大振りの一撃。


 反射的に避ける。


 続いての拳も最小限の動きで躱し、流れるままに反撃の一撃を振るう。


「あ」


 無意識に繰り出した掌底は、見事なまでに殴りかかってきた男の顎先を捉えていた。


 老教官による厳しい教練の賜物であった。


 男は踏ん張れず、悲鳴も発せないまま身を投げ出すように地面に沈んだ。


 これは、やばいかも。


 内心の焦りのまま、クロウは引き攣った表情。


 男達もまた、想定外の結果に顔を引き攣らせている。


 しかし、瞬時に目付きを鋭くして包囲を狭めた。


「へっ、腕に覚えがあるってか?」

「い、いや、今のは不幸な行き違いだと言えるんじゃないかと……」

「るせぇ! やっちまえぇっ!」


 なんなんだ! ほんとにっ!


 後ろにいた男が殴りかかってくる。


 しゃがんで躱し、腕を取る。


 相手の勢いを利用して引っ張り、足を蹴り払う。


「ぇあっ……、ぐぁっ!」


 宙で引っ繰り返して背中から地面へと叩きつけた。


 砂埃が舞う。


 その間にも二人目が腹に向かって蹴りを入れてくる。


 避けることができないと腹に力を込めた。


 痛みと強い衝撃。


「おぶっ」


 思わず漏れる呻き。


 だが、身体は反応して腕で足を抱え込み、そのまま天高く持ち上げて尻もちさせる。


 追撃ちとして蹴りを鳩尾に入れて怯ませた。


「死ねクソガキっ!」


 右横から罵声。


 声と影の動きから殴りに来ると見切り、振り向きながら右肘を跳ね上げた。


「がぁっ」


 振るわれた腕を打ち据えて軌道を逸らし、そのまま回転する勢いで左の掌底を顔面に叩き込む。


「ぶぇ!」


 鼻面を潰されて仰け反り、鼻血を流しながら膝をつく。


 一方のクロウもまた左手に残る感触に顔を顰めた。


「て、てめぇ! なにもんだっ!」


 それはこっちが知りたいっ!


 訳も分からぬまま唐突に陥った理不尽な状況に対して、クロウの中でふつふつと怒りが湧き起こってくる。その怒りは身体に残る痛みに加え、周囲に集まってきた野次馬の楽しそうな目も相まって更に倍加し、身体と心を熱くする。

 わずかに残った冷静な部分がこのままだと拙いと考え、取りあえずの怒りの解消法として、膝をついた男を蹴り倒す。楽しげな歓声が上がった。


 くそっ、見世物じゃないんだぞ!


 周囲の反応により一層、怒りが沸き起こった。


 それと同時にこれは本格的に拙いと悟り、クロウは内の熱を吐き出すように溜め息を一つ。


 それから持て余す熱量を誤魔化す為、仕方なく笑った。


 ただただ、感情を表に出さないようにする為に。


「はは、今日、この街に初めて来た人間だよ」


 けれど、その目には抑えきれなかった怒気が溢れ、剣呑な光を宿している。


 こいつをどう壊す?


 こいつらをどう潰す?


 破壊を肯定し、害することを躊躇しない凄然とした目であった。


 ただ一人だけ立っている親分格の男は、そのあまりにも物騒な目と笑みに後退りする。


 相手の様子に構わず、クロウは更に続けた。


「その相手に、あんたら、おいたが過ぎるんじゃないか?」

「……へっ、誰が、それを証明するってんだ」

「その証明だったら、俺がしてやろう」


 朗々とした良く通る声が響き、輪を作っていた野次馬の後ろから一人の男が進み出てきた。クロウにも見覚えがある顔。魔導艇を格納庫に入れた時に見た顔だった。


「てめぇ、旅団の……」

「ああ、第一のジグムント・サンダールだ。そう言うお前さんは……、モンドラーゴの仕事場で見た事があるな」

「へへ、第一の機兵隊長にも俺も顔が知れたってか?」

「顔だけだ、名前は知らんよ」


 ばっさりと言い捨てられ、男の顔が悔しげに歪んだ。それに構わず、ジグムントは続けた。


「さて、そこの彼についてだが……、確かに彼が言った通り、今日ここに着いたばかりだ。組合関係の仕事で、エフタからな。そのことを我々旅団と組合が保証しよう」


 ジグムント・サンダールと名乗った男。

 年の頃は三十代前半辺り。短く刈り込んだ黒い髪は清潔で、顔立ちにも緩みはない。なによりも覇気のある緑瞳が印象的だ。服越しではあるが、身体はかなり絞り込まれていることがわかる。今の会話にあった機兵隊長との言葉も納得できる姿形だ。


 クロウもまた、その立ち姿に教習所の老教官や青年教官を思い出した。付け加えると、その老教官の顔はこれ位で動揺してどうすると言わんばかりに厳めしく、青年教官の顔はにやにやと心底から面白そうに笑っていた。


 先に何が起きるかわからないからこそ、人生は張り合いがあって面白い。


 そんな言葉がクロウの頭に浮かんでくる。

 誰から聞いたかも定かではない言葉であったが、それは自分が楽しいと思える事だけじゃないかと思った。いや、少なくとも突然舞い込んだ不幸を楽しむような気持ちには……、と考えた所で、何故かミソラの姿が浮かんだ。


 想像の中の小人は、少々の不幸なんて鼻歌交じりで乗り越えないといい男になれないわよ、と言って笑う。


 とても嫌な想像であったが、実際に言いそうな言葉だった。


 心が生み出した抑制装置(ストッパー)は少年の血と身体に篭った熱を冷まし、怒りを静めていく。


 クロウは大きく息を吐き出して告げた。


「後な、さっき、あんたらが追いかけていた女とも初対面だ。っていうか、むしろ、あんたらの相手を押し付けられた被害者だ」


 そう言いながらも思う。


 誰よりも原因を作った女が一番悪いが、勝手に早合点して手を出してくるこいつらも大概だと。


 クロウは制御できる程に小さくなった怒りを目に込めて男を睨んだ。


 睨まれた男は決まり悪そうな顔をする。


 と、そこに甲高い笛の音と大声が響いた。


「おい! 貴様らっ! また喧嘩かっ!」

「ちっ、衛士が来やがった。おい、あんた、今のは俺達の勘違いだ。……悪かったな」


 不承不承といった風情の、誠意も感じない言葉だけの謝罪。


 まったくもって反省した様には見えない為、苛立ちを感じる。けれど、それ以上に続きを期待するような野次馬の雰囲気が腹立たしかった。


 周りの連中の思い通りに動くなんて、絶対にごめんだ。


 クロウは胸の内でそう呟くと、ふぅと息を吐き出し、肩を竦めて応じた。


「いえ、わかってくれたらいいです。こっちはこっちで相応にやり返しましたから」

「けっ、言いやがる。こっちはやられ損だ」


 男は不機嫌そうに言い捨てると、まだ立ち上がれない仲間達に向かって怒鳴りつけた。


「てめぇらっ! いつまで寝てやがる! とっとと起きやがれ!」

「おい、どけっ! 貴様らかっ! 騒ぎを起こしたのはっ!」


 人の輪の中に、数人の衛士達が居丈高に入り込んできた。どの顔も厳しく不快感が滲んでいた。


 これは長引くかもとクロウが思う間に、親分格の男が吠えた。


「るせぇっ! もう手打ちはすんだっ! てめぇらはとっとと門に帰りやがれっ!」

「なんだとっ! 貴様っ、牢にぶち込まれたいかっ!」

「おぅっ! やれるもんならやってみろってんだ!」


 売り言葉に買い言葉。


 期待した乱闘が始まらず、落胆した様子だった野次馬が一気に盛り上がった。


 クロウはその様を目の当たりにして、付きあい切れないと首を振る。


 その彼の肩を叩く者がいた。振り返ると先の機兵隊長だった。


 ジグムントは舌戦を繰り広げる男と門衛達を見やり、苦笑しながら言った。


「連中なりの謝罪だ。乱闘が始まる前に抜けるぞ」

「へ、あ……」


 そういうことなのかと思って、先程やりあった男達を見る。


 目が合った親分格の男はさっさと行けと言わんばかりに顎をしゃくった。


 わかりにくい人達だと頭を掻き、一応目礼を送る。


 それから踵を返して、興奮したように煽り言葉を送る野次馬の中に入り込む。


 繁華街から続々と集まってきているのか、人垣は分厚かった。


 なんとか押し退けて抜け出ると、ジグムントが待っていた。


 彼はこの場を離れるぞと言わんばかりに、坂道の先にある橋を指差した。


 クロウが頷くと歩き出す。その後に続けば、また話しかけてきた。


「災難だったな」

「ええ、まさかこんな目に合うとは思いもしませんでした。……あ、それよりも助けていただき、ありがとうございました。クロウ・エンフリードと言います」


 クロウの名乗りを受け、若い機兵隊長は記憶を探るように目を細める。


「さっきも言ったが、俺はジグムント・サンダールだ。第一遊撃船隊で機兵隊長をしている」

「機兵隊長ですか? 凄いですね」

「はは、数ある隊の頭に過ぎんよ。それよりも、君の名前、公認機兵録で見た覚えがあるが……、機兵か?」

「ええ、機兵になって半年程です」


 ジグムントは表情を緩めた。


「お仲間か。腕も確かなはずだ。……出身は?」

「一応、エフタです。免許は教習所で取りました」

「教習所となると、ディーンの教え子になるか」


 少年は青年教官の名がすぐに出てきたことに驚いて訊ねた。


「レイリーク教官を知ってるんですか?」

「ああ、奴が旅団にいた頃の同僚だ。しかし、そうか、奴の教え子か」

「あ、いえ、実際に担当してくれたのはローディル教官で……」


 彼が老教官の名を出した途端、ジグムントは立ち止まった。


 そして、少年に向き直る。


 彼の精悍な顔は驚きに崩れていた。


「な……に? おやじ殿から教えてもらったのか?」

「え、ええと、おやじ殿というのがローディル教官なら、そうなります」


 クロウは首肯して答える。


 ジグムントは堪らずといった様子で楽しそうな笑みを浮かべた。


「はは、そうか。まったく、あのおやじ。もういい年になってるってのに、現場に出るか?」

「出てました。むしろ元気一杯過ぎるというか、教練で散々に絞られて、とことんのされましたけど……」

「だろうな。俺達の時もそうだった」

「え?」

「俺やレイリークもおやじ殿の教練を受けたのさ。要するに俺達とお前さんは歳こそ離れているが、兄弟弟子って奴だ」


 兄弟弟子という言葉を耳にした為か、はたまた老教官の教練を経た仲間だと認識した為か、クロウの心に面前の人物に親近感がわいてくる。


「不思議な縁ですね」

「確かに。俺としては単純に、余所から来た相手に絡んでいたのが気になったから止めただけなんだがな」


 この物言いに、少年は思わず苦笑い。


「気にならなかったら止めないんですか?」

「ああ、止めない。この街では喧嘩も付きあい方の一つなんでな」

「か、過激ですね」

「外から来た人間には刺激が強いだろうが、まぁ、これも住めば慣れる習いって奴だ」


 住めば慣れるとは……、おそろしい場所だ、エル・ダルークは。


 クロウが防塁都市への認識を新たにしていると、ジグムントが続けた。


「で、これからどこかに行く予定でもあるのか?」

「いえ、時間が空いたんで街の見物に回ってただけです」

「そうか。……それなら俺に付き合わないか? 久しぶりにエフタやおやじ殿の話が聞きたい」


 クロウはこの申し出を一も二もなく受けた。


「付き合せてもらいます。また、さっきみたいなことになったら嫌ですし」

「はは、そうか。しかし、けったいな相手に捕まったみたいだな」

「本当ですよ。亜麻色の短い髪の女だったんですけど、さっさと逃げやがりました」

「亜麻色で短い髪か……、すれ違ったな」

「どこでです?」

「その橋の向こうにある第二門でだ。駆け下りて行ったが、楽しそうに笑って舌出してやがったぞ」


 あんにゃろう、見つけたら絶対に、力一杯の拳骨を喰らわせてやる。


 少年は頬を引き攣らせながら静かに決意した。



  * * *



 クロウがジグムントに連れられて向かった先は、西港湾区だった。

 西港湾区は隣接する東港湾区を鏡写しにした対称的な造りをしており、よく似ていた。しかし、両者には異なる所もある。例えば、岸壁の半分程は造船所や修理船渠、市軍の施設といった建屋で占められていたり、軍施設らしき大きな建物の代わりに大小様々な建物が連なっていたりしているといった具合だ。


 中でも特に違うとクロウが感じたのは、船溜まりである。

 岸壁から見える魔導船は一般によく見るラーグ級やビアーデン級が少なく、バルド級に至っては姿も見えない。代わって目立ったのは、エフタでは見たことがない武装船だ。


 その市軍のものらしき武装船は二十隻近くあり、それぞれが接岸していたり砂地に泊まっていたりと様々である。ただ見る限り、それらは三種類に類別できそうだった。

 一番数が多いのが全長は五十リュート程で、中央の船橋を挟んで前後に二つずつ連装砲塔を持つ細長い船。二番目に多いのが船首から船橋までの間に三つの連装砲塔を階段状に並べた幅広の船で、全長は四十リュート前後。最後の一つは数隻程と少なく、最低限の武装……機銃程度しか装備していない箱のような船で、こちらも大凡四十リュート位といった所だ。


 クロウの視線に気が付いたのか、隣を歩いていたジグムントが口元を緩めた。


「なんだ、船が気になるのか?」

「ええ、まぁ。エフタでは見たことがない船だったので」

「はは、エフタでなら見たことがないのも仕方がない。あれらはエル・ダルーク市軍が使ってる戦闘艦だ。余程なことがないと北部域から離れんからな」

「なるほど、だからか。……それにしても、バルド級と雰囲気が違うなぁ」

「エル・ダルーク市軍の戦闘教義は火力制圧主義だからな。バルド級だと火力が不満なのさ」


 そう言って、四つの連装砲を持つ船を指差した。


「あの砲塔を前後に二つずつ抱えてるのが、主力のダ・スペーダ級。蟲の大群が押し寄せてきた時に最も頼りになる奴らだ」


 ついで、幅広な船を指し示す。


「三つの砲塔を持っているのがレンドラ級だ。こいつは後方格納庫に魔導機を四機乗せることができる。……旅団(うち)で使ってるバルド改に近いが、より火力支援に力を入れている感じだ」

「主にどういった役割を?」

「エル・ダルークが面倒を見ている開拓地や郷の巡回だ。ただ航続距離が短くて、バルド改の半分程度しか動けないがな」


 何もかもを十全とできないあたり、魔導船を作るのも難しいんだな。


 そんなことを思いつつ、少年は残った箱舟へと目を向けて訊ねた。


「あの変わった船は?」

「ラル・レンドラ級だ。レンドラ級を基にした船で、魔導機を前線まで運んで放り込むのが主な役目だな」

「へぇ、そんな船があるんですか。それで、あれ一隻にどれくらい乗るんですか?」

「最大で十六だ。交流会で見せてもらったことがある」

「結構乗るんですね」

「ああ、市軍の一個機兵中隊を丸々乗せられる計算だ」


 ほうほうと感心する内に、岸壁沿いの道から東港湾区に向かう道へと曲がった。

 道の南側は大きな間口を持つ倉庫が軒を連ね、北側には大小の建物が不規則に立ち並んでいる。見れば、建物だけでなく天幕もあった。

 そのことが気にかかり、クロウは歳の離れた兄弟子に訊ねた。


「あの、北側の敷地って、貧民街かなにかですか?」

「はは、似たようなもんだが、少し違うな。そこは機兵団や傭兵団が屯する共同屯所さ」

「共同屯所、ですか?」

「そう、エル・ダルークが無償貸与する土地に、各々の団が好き勝手に自分達の城を立ててるのさ」

「なら、東港湾区にあったのは市軍の建物じゃないんですか?」

「あれは旅団(俺達)の屯所だ。遊撃船隊が二つ駐留していることに加えて、正規船隊の休息地ということで占有している。それ以外はこっちと条件は同じだ」

「なるほど、そうだったんですか」


 感心した様に頷き、また北側の屯所群に目を向ける。

 男達が日陰で札遊戯(カード)や銃器の手入れをしていたり、魔導機運搬車が何かの部品を乗せて運んでいたり、数人の若者が指導役の号令に合わせて筋力練成をしていたり、天幕の下で整備士がパンタルを分解整備していたりと様々に活動していた。


 北からの風が吹く。


 乗って来るのは、汗と油と砂埃が入り混じったにおい。


 クロウは教習所を思い出す。


 そこから連想して、この街へと旅立った銀髪の同期……負けん気が強いジルト・ダックスの顔が浮かんでくる。


 あいつもここの何処かにいるんだろうか?


 いや、その前に食っていけているんだろうか?


 喧嘩に参加して怪我をしてるんじゃないだろうか?


 魔導機を壊して途方に暮れているんじゃないだろうか?


 いやいや、そもそも今も五体満足に生きているんだろうか?


 少年がどこか危なっかしかった同期の行方や行状、更には生存について気にし始めた所で、ジグムントが立ち止まった。


 場所は東港湾区との境となっている街壁は門の程近く。道の北側に人工石で造られた三階建ての建物が鎮座している。見れば、開け放たれた出入口の上に砂の風華亭との看板が掲げられていた。


「ここだ。団に所属していない傭兵や機兵を相手に宿屋をしているんだが、一階で飯や酒も出す。……いける口か?」


 ジグムントの杯を傾ける仕草に、クロウは首を振って応える。


「あまり飲めません。後、今日は夕方までに戻って来いって言われてまして」

「あー、それは残念だが、まぁ、仕事もあるから仕方がないか。しかし、次の機会までには飲めるようになっていてほしいもんだ」

「あはは、努力します」


 クロウは先達に連れられて中へと入った。



 建物の中は上手く風が循環しているのか涼しかった。


 少年は賑わう店内へと目を向ける。

 まず目を引いたのは最奥にあるカウンター。中で屈強そうな男がグラスを磨き、その背後には同じ酒瓶が幾つも肩を並べている。手前側には十近い椅子が横一列に並んでいるが、座っている客の姿はなかった。

 そんなカウンターまでの間には、太い柱が数本。他に直径一リュート程の円卓が十数配置され、それぞれに四つの椅子が置かれている。今の段階でほぼ全てが埋まっており、賑やかさの源となっていた。


 客で埋まった円卓の合間を長い黒髪の女給仕が一人、忙しそうに動き回っている。大きな盆に注文の品を、或いは空になった器を乗せ、円卓とカウンターの右脇にある出入り口とを行ったり来たりだ。


 あの奥は調理場か何かかと思いつつ、その近くにあった低い演壇に目を向ける。


 大きな三角形をした鍵盤楽器、フィノッタが置かれていた。奏者の姿は見当たらない。少しばかり残念な思いを抱きつつ、歩み出したジグムントに続く。どうやら奥のカウンターへ向かっているようだった。


 なんとなく振り返れば、明るい光に満ちる出入口、その脇に二階へと上がる階段があった。頑丈そうな造りで少々の事では壊れなさそうだった。そのまま視線は階段を辿って天井へ。高さ三リュート程の天井では扇風機がゆったりと回り、特製なのか魔導灯が淡い臙脂色の光を放っていた。


 雰囲気がある店だなと思いつつ、前を見る。


 カウンターに立つ男の姿がよりはっきりと見えた。

 白い上着越しであっても判る鍛えられた身体。ジグムントと似たような刈り込んだ黒い髪。固く結ばれた口元、目付きは鋭い。頬に走る大きな傷痕と相まって、強面という表現が似合う。だが、グラスを磨く手の動きはゆっくりと丁寧である。


 その男に、ジグムントが話し掛けた。


「よう、シエロ、景気はどうだ?」

「ぼちぼちといった所だ。それよりも珍しいな、こんな時間から」

「ああ、馴染みの所に行こうかと思ったんだが、途中で喧嘩と行きあってな。気分が萎えた」


 シエロと呼ばれた男は顔を顰め、呆れを滲ませた低い声で返す。


「また喧嘩か? 昼過ぎにもそこで一騒動あったばかりだぞ?」

「暑さで昂ってるんだろうよ。……ここいいか?」

「好きに座れ。……そっちの連れは?」

「ついさっき、俺が行きあった喧嘩の当事者になっていた哀れな犠牲者だ」


 クロウは紹介の言葉に苦笑して、自らも口を開いた。


「初めまして、突然見ず知らずの相手から喧嘩を吹っ掛けられた哀れな犠牲者です。乱闘になる寸前に、サンダールさんに助けてもらいました」


 シエロは新顔の物言い、その真贋を見極めようとするかのように目を眇めた。

 当然、中々に迫力がある顔になる。けれど、少年の表情にまったく変化はない。ジグムントが連れてきただけあって、胆力と腕は本物だろうと、シエロは小さく相好を崩した。


「そいつは難儀なことだ」

「ええ、本当ですよ。まさか初めて見た女から喧嘩の相手を押し付けられるなんて、思いもしませんでしたから」

「ははは、それはまた性質の悪い女に引っ掛かったもんだ。だが、そういった女に見込まれたなら、良い女にも好かれるだろうよ」

「そうだと嬉しいんですけどね」


 ジグムントが座ったのを見て、クロウもまたその隣に腰掛けた。



  * * * 



 同じ頃。

 共同屯所内にある天幕の一つに、銀髪の若者ことジルト・ダックスはいた。

 この天幕は彼がエル・ダルークに来た当初、市軍関係者から薦められて以来、値段の安さと腕の良さからずっと使っている野営整備所で、魔導機を預けている場所でもある。


 その野営整備所を一人で切り盛りしている老整備士が、ジルトの青あざが浮かぶ顔を見て笑った。


「はは、こいつはまた男前になったな、ジルト」

「放っておいてくれ。僕の未熟の証だ」

「くく、馬鹿言うな、男の勲章だ」


 笑い交じりのからかい。


 その背後にはジルトの魔導機があった。

 パンタルの脚は装甲が外されて、骨格や油圧管が剥き出しになっている。老整備士が整備をしている所に、ジルトが機体の状態を見にきたのだ。


 その当人は天幕の主のからかいを受けて、面白くなさそうな顔で言い放った。


「こんな勲章、貰う価値もない。どうせなら授ける立場になる方がいい」

「かかっ、お前さんは一対一なら強いが、乱闘になるとからっきしに弱いからなぁ」

「後ろに目があれば、すぐにでも対応できるさ!」

「ぷはっ、わはははっ、い、いやぁ、お前さんと話すと楽しいわい」


 ムッとした顔をするジルトを見て、老整備士は更に笑った。

 それから油にまみれた手ですぐ傍の工具箱を探る。すぐに目的の物を取り出して、中の機構を弄り始めた。それでも動く口は止まらない。


「それにしても、お前さんがここに来て、そろそろ半年になるって所だが、この街に慣れたようでまだまだ馴染んどらんなぁ」

「僕から見れば、この街の方がおかしい。なんでちょっとしたことで、すぐに喧嘩になるんだ」

「そういう血が流れとるのさ。戦いを前にしては動かずにはいられない。そんな血がな。……今なら、お前さんにも少しわかるだろう?」


 ジルトは不機嫌な顔のまま、そっぽを向く。

 だが、老整備士が云わんとしていることはなんとなくわかった。


 荒廃した地での命懸けの戦い。


 死と闘争と隣り合わせの日々。


 いつまでも冷めない血の滾り。


 これらは全て、戦うことで糧を得る際に伴ってくるモノであり、このエル・ダルークという地に、対甲殻蟲の最前線であるこの地で暮らす以上、切っても切れない関係である。


 白髪頭の整備士は諳んじるように言う。


「ここの連中がこの地に根付いて、もう二百年だ。血肉に溶け込んどるよ。ここを守り生きていく上で蟲との戦いは避けられない。であるならば、蟲に抗い死に抗う為にも自らを鍛え、戦う術を磨こう、ってな意識がな。そりゃ血の気も多くなるってもんだ」

「そうなっていくこともわからないこともない。けど、どんなことであってもすぐに喧嘩に直結することになるのかが、僕には今一理解できない」

「はは、それは単純に馬鹿で不器用な連中が多いだけさ。一々話し合うよりも腕っぷしの強さで決めた方が早いって考えるような奴らがな」


 老整備士は慎重に雄ねじ(ボルト)を締めると、装甲に引っ掛けてあった手拭いで油汚れを拭いとる。そして、油漏れがないかを改めて調べ始めた。


「ただな、馬鹿は馬鹿なりに、不器用は不器用なりに、皆が皆、今を懸命に生きとる。それだけは誰にも否定できんことだ」

「僕だって否定はしない。いや、人間なら、誰だって好き好んで死にたくはないだろう」

「さて、そいつはどうかな? 人ってのは変な生きもんでな、自分の意地を張り通せるなら死んでもいいって奴や、他の誰かの為に死地に赴くような奴もいる。……後、死を救いだと思うような奴もな」


 老整備士は作業の手を止めて、遠い過去を思い出すように呟いた。


 ジルトもまた眉間にしわを寄せる。

 彼が機兵になる過程で、機兵は人を守って死ぬのだと言われてきた。だが、彼には自分がそれを実践できるとは思えない。むしろ、ただ一人の誰かを守って死ぬよりも、時に誰かを切り捨ててでも最後の最後まで生きて戦った方がいいのではないかと思うのだ。


 ……もっとも、彼自身、その考えが私情に基づくものであることに気が付いている。


 そう、純粋にそう思っての物ではなく、自分が生き残りたい、生きていたいという思いが入り込んでいることに気付いているのだ。


 故に、若者は心中で自嘲する。


 僕は我が身が第一だ。人の盾たる機兵にはなりきれない。


 その思いは自然と口から出ていく。


「僕には、その気持ち、わからないな」

「はは、お前さんはそれでいい。そういう機兵もいたっていいのさ。……さて、中の整備はこれで仕舞いだ。明日からまた稼いで来い」

「ふん、明日は輸送船の同乗警備だ。蟲を潰して小遣い稼ぎなんて機会、そうそうないさ」


 ジルトはわざと憎まれ口を叩いて、自身の胸の内にある淀みから目を逸らした。



 銀髪の若者は整備作業が終わるのを見届けると、明日の引き取り時間を伝えて野営整備所を出る。


 共同屯所はいつもと変わらず猥雑だ。

 建物の影で傭兵がだらしなく寝ころべば、天幕の下で数人の男達が安酒を回し飲みしながら、どこの娼館の、どの女の具合が良いかと比べている。

 目を流していけば、札を周囲に撒き散らして胸倉を掴み合って睨み合う二人の男、それを面白がって煽る者達、煙草を上手そうに呑む壮年、それを憧憬の目で見る少年、黙々と身体を鍛える中年、手に入れた銃を仲間に見せびらかす青年。


 ジルトがいつの間にか見慣れてしまった光景が広がっている。


 その中を歩いて、定宿としている砂の風華亭を目指す。


 彼の頭に思い浮かぶのは自身が懸想する女。フロランスという女給仕のことだ。


 ジルト自身も、フロランスを気になるようになった切っ掛けはわからない。

 ただ気が付いた時には無性に気になり始め、その全てを愛しく思うようになっていたのだ。


 無意識に行き足が速くなり、路地の先に風の風華亭が見えてきた。

 裏にある調理場から流れ出てくる良い匂いが鼻腔を刺激する。部屋に上がる前に軽く食べるのもいいかもしれない。そんなことを思いながら、ジルトは表へと回って出入口より中に入った。


 彼を一番に出迎えたのは、フィノッタの落ち着いた調べ。


 どことなく切なさを覚える曲調に導かれて、奏者がいるであろう右奥にある演壇に目を向ける。長い黒髪の奏者が鍵盤に向き合っていた。

 彼がこの街に来たのと同じ頃に雇われたという奏者だが、今日に至るまでその顔を見たことはない。いつも長い髪が垂れ下がっていて、顔を窺うことができないのだ。ただ、周囲で為される話を聞く限り、中々の美人ではあるとは聞いている。


 視線を店内に戻す。

 いつものように円卓のほとんどが埋まっており、見慣れた様相。

 仕事をしているであろう女給仕を探せば、ある卓の傍にいた。長い黒髪を後で束ねた姿。その顔には不快感と恐怖の色が滲み出ている。どういうことだと原因を探れば、酔った客の男に腕を掴まれていた。


 ジルトは眉根を跳ね上げ、目付きを険しい物へと変えた。


 最奥にいるであろう亭主を探す。

 いつもなら即座に対応するはずのシエロはカウンターの中に立ったまま。珍しくも緩んだ顔で、前に座る二人と話しこんでいる様子だった。椅子に座る二人の内、一人の後姿をどこかで見た覚えがあると記憶が囁く。だが、それよりもフロランスの方が心配だった。


 ジルトは足早に女給仕が絡まれている場所へと赴き、酔漢に言い放った。


「よせ、嫌がってるだろう」

「あん? なんだぁ? 姉ちゃんの代わりに兄ちゃんが酌してくれるってか?」

「ああ、僕がいくらでもしてやろう。だから、フロランスを離したまえ」


 ジルトの真面目くさった言葉に同じ卓についていた他の男達は動きを止め、次の瞬間には大声で笑い出す。


 絡んでいた男もまた馬鹿にされたと感じて、赤い顔を更に赤くする。


 フィノッタの響きが威勢のいい拍子に変わった。


 それに乗せられるかのように、顔を真っ赤に染めた男は女給仕の腕から手を離し、勢いよく立ち上がった。


「こん若造がっ! 馬鹿にしやがってっ!」

「僕は馬鹿になんてしていない。ただ人の仕事の邪魔をするなと言いたいだけだ」


 そう言う間にも、ジルトは女給仕に逃げるように目配せ。フロランスは心配そうな顔をするも、足早にカウンターへと走った。


「かー、すかしやがって! 正義の機士気取りかぁ?」

「いや、僕は機士ではなく機兵だ」

「はっ、なんだ、てめぇ、本物の機兵様かよ。……だったら、相手に不足はねぇやぁ!」


 至近距離からの腹打ちがジルトの脇腹に突き刺さった。



「シエロさん!」


 クロウは後ろからの切迫した声に振り返る。

 黒髪の給仕が焦った顔で走ってきた。その背後を見やれば、銀髪の同期が足元をふらつかせながらも、相対する男に頭突きを喰らわせた所だった。


 あいつもここの習いに染まってしまったのかと、クロウは思わず天を仰いだ。


 そんな少年の様子に構うことなく、宿の亭主は騒ぎが広がり始めた店内を見やって溜め息をついた。


「……何が原因だ?」

「は、はい! ジルトさんが私が困ったいた所を助けてくれて、それから!」

「あいつめ、どうせフロランスに良い所を見せようとでも思って」


 ぼそぼそと呆れた調子での呟きがクロウの耳に届く。だが、目の前の女給仕には届かなかったようで、より強く焦りの色を滲ませて叫んだ。


「シエロさん! 早く止めて下さい!」


 周囲の卓についていた者達が見物に回る中、いつのまにか同席していた男達が加勢したようで、ジルトは羽交いに絞めされて顔や腹を殴られ放題にされていた。


 クロウは見てられないとばかりに首を振り、席を立つ。


 少年の動きを見て、ジグムントが笑った。


「喧嘩は嫌いじゃなかったのか?」

「もちろん嫌いですよ。ただ、苦しい教練を共にした同期が好き放題にやられているとなると、黙って見てはいられませんので」

「だってよ、シエロ」

「あいつの同期か、なら仕方がない。……できるだけ備品は壊さないでくれよ? 保険が高くなっちまう」

「あはは、弁済はダックスに請求してください」


 クロウは笑って亭主に言い置くと、目を白黒させる女給仕の脇をすり抜け、俄かにできた野次馬の輪を押し退けて、喧嘩の場へ。


 その間にもまるで感情を煽り立てるかのように、フィノッタが激しく音を奏でる。


 この奏者は好きになれないなと思いつつ、クロウは下卑た顔で同期を殴る男の肩を叩いた。


「なんだ! 今いい所なんだから邪ばぁっ!」


 そして、振り返った瞬間に力強く踏み込んで、その顔を力一杯に殴りつけた。


 男は派手に吹き飛び、ジルトや他の男達、更にはその後ろの野次馬をも巻き込んで、盛大に床へと倒れこんだ。


 周りの野次馬達は突発した事態に瞠目し、煽るのを忘れて静まり返った。


 そんな周囲を余所に、クロウは普段と変わらぬ顔で男達と絡まったジルトに話し掛ける。


「あー、久し振りだな、ダックス。……同期の誼だ。助太刀するよ」


 ジルトもまたクロウの姿を認めて、まずは目を見開き、次に口元を皮肉気に歪ませた。


「い、いつつ、す、助太刀すると言いながら、こ、このやりよう。君、じ、実は、僕を殴ろうとしたんじゃないか?」

「あはは、まさかー。たまたま、殴った相手がそっちに倒れ込んだだけさ。それよりも、亭主のシエロさんからできるだけ物を壊すなって言われているんだけど……」


 クロウはにこやかな笑みを浮かべて、起き上がろうともがく男、その顔のすぐ脇の床へと激しく踏み込んだ。


 フィノッタの音色よりも大きな音が響き渡った。


「まだ、喧嘩をしたいかな?」


 静かに尋ねる声、冷ややかに見下ろす目。


 そして、闘争心が欠片も見えない笑顔。


 クロウが見せているのは、ただそれだけに過ぎない。


 だが、力を見せつけられた男達の心に、得も言われぬ恐怖を呼び込むには十分だった。


「い、いや、今日はもう帰るわ」

「そうですか。なら、もし次に、ここで飲み食いする時は、もう少し大人しくしてくださいね」

「あ、ああ」


 酔いが冷めた顔で男達は這う這うの体で店から出ていく。

 野次馬もまた、シエロがカウンターを出て睨んでいる事を知り、素知らぬ顔で各々の卓へと戻って行った。代わって駆けてきたのは女給仕だ。彼女は上体を起こしたジルトの脇に膝を突き、立ち上がるのを手伝う。


「大丈夫ですか?」

「あ、ああ、大丈っゥッ」


 クロウはやせ我慢をしようとするジルトを生暖かく見て、傍らの女給仕へと頼みごとをする。


「えーと、申し訳ないんですけど、こいつの治療、してもらえませんか?」

「あ、はい。わかりました」

「ぐっッツぅ、ま、まて、エンフリード、き、君は、どうしてここに?」

「仕事だ仕事。ほれ、それよりも、早くその人に治療してもらえって」

「わ、わかった」


 ジルトは女給仕に支えられながら立ち上がり、階段へと向かった。


 クロウは意外と様になっている二人の後ろ姿を見て、良い事をしたと言わんばかりににやりと笑う。


 そして、気分良く、シエロ達の下へ戻ろうとして踵を返した。


「あがっ!」


 が、運悪くと言うべきか、円卓の縁に太腿を強かにぶつけて悶絶。


「おぉぅ、おぅっ!」


 叫びにもならない呻きを上げる。

 それでも痛みは去らず、思わず上体を倒した所、卓に大いにぶつかって派手に引っ繰り返した。


 卓上にあった食器が周囲に乱れ飛ぶ。


 その中の一つ。

 空の陶杯は特に軽やかに宙を飛び……、いかなる神の思し召しかはたまた冥府の卒が笑ったのか、見事なまでに曲の終焉に入ろうとしていたフィノッタの奏者、その頭を直撃した。


 派手に割れる音。


 ぱたりと楽器へと倒れ込む奏者。


 どういう仕組みなのか、黒い髪が丸ごと流れ落ち、短い亜麻色の髪が現れた。


 少年がもがき苦しむ声が響く中、誰もが今し方目撃した光景に呆気にとられる。


 だが、そのあまりにも喜劇めいた事態を理解するにつれて徐々に笑いが漏れ始め、遂には店一杯に笑い声が満ちたのだった。

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