三 防塁都市エル・ダルーク
砂海の夜が明けようとしている。
遥か彼方、東方の地平線より空が徐々に白み、夜闇は西へと引いていく。薄明の中、浮かび上がるのは瓦礫と砂塵が織り成す荒野。ゼル・セトラス域において、どこにでもある風景である。
その只中にあって、小さな舟が疾る。
クロウが乗る魔導艇だ。
先日酷使したにもかかわらず、魔導機関は好調そのもの。高い唸りを上げて二重反転回転羽を回し続ける。生み出された推力は力強く艇を押し、仕事の証として砂埃を巻き上げた。
空を穿ち、風を切る。
そんな言葉が似合う様相だ。
けれど、それを操る搭乗者は寒さに震えていた。
早朝の冷え切った空気に絶え間なく当たり続けた結果、露出した肌或いは服越しに冷気が凍みてきているのだ。最初は暖かだったマスクの中にしても、いつしか呼吸に含まれた水分が結露しており、冷たく肌に張り付いて彼を苛む。
俄かに地平線が輝き、見る間に光が広がっていく。
少年は横目でそれを認め、口元を皮肉気に歪ませた。
「今ほど、光陽が早く昇ってくれなんて望んだことはないな」
「確かに、この寒さっていうか、夜の冷え込みを甘く見てたわ」
胸の物入れに収まったミソラが応えた。
緑髪の小人も寒さに耐えかねて、定位置である肩の上から今の場所に避難したのだ。
そんなミソラの実感のこもった言葉に、クロウもまた大きく頷く。それから強張った頬を何とかしようと口を動かした。
「一応、冷え込みは知ってたから相応に用意して備えてきたつもりだったんだけど……、つもりでしかなかったな」
「ほんと、泣きたくなるわねぇ。誰かさんが言い張って、せっかく特注して作ってもらったのにさ」
「あはは、その節はありがとうございました」
「まったくよ。私、請求書見て、目剥いたんだからねっ」
「仕立て屋のおっちゃん曰く、コドル革の逸品だそうだ。実際、品も着心地も良いよ」
クロウは良い仕事をしたと満足げに笑っていた中年の店主を思い出す。
続いて、艶の良い頭皮を撫でながら懐も温まったから今日は夜のお店にも顔を出せる等と口にして、後ろにいた奥方に耳を摘ままれていた。それは置き、事実として今着ている繋ぎの出来は良かった。
「ただ、想定していた以上に寒かった。まさかこの砂海で、寒くて死にそう、なんて思いをするなんて考えもしなかった」
「それでもまだマシなんだからいいじゃない。つーか、今回ばかりは我慢しないと殴るわよ、魔術込みで」
「はいはい、がまんしますですよ、おねーさん」
「よろしい。……でも、人間って勝手なものよねぇ。昼は暑くて死にそう、早く涼しくなれって言ってたのにさ」
少年は瓦礫でできた凹凸を乗り越えながら笑った。
「当然だろ。実際、自分の都合しか考えない勝手な生き物なんだからさ」
「あら、それは経験談かしら?」
「自分の経験と他人の行動から。後付け加えておくと、さっきの暑くて死にそう云々はグランサーにとっちゃ標準的な愚痴だからな。実際に死ぬのもいるから切実な願いって奴だ」
「それ、洒落になってないわよ」
洒落じゃないからいいんだよと答えてから、クロウは続けた。
「でも真面目な話、これの操縦をする上で、暑さ寒さ対策は必須じゃないか? 下手すると、熱にやられて意識が飛ぶとか寒さで身体が震えて操縦に失敗するとかさ、そんな状況に陥ってもおかしくないぞ」
「そうねぇ。売り込みを掛ける前に対策を考えましょう。……暖気の魔術を仕込んだ外衣とか身体を冷やす首巻とか、案外、いい商売になるかもしれないし」
「よっ、さすがおねーさん、たくましい!」
「たくましいって……、あんた、淑女にたくましいは褒め言葉になってないわよ」
「なら、したたか辺りか?」
「まっ、ほんと失礼しちゃう。こんなに清楚で可憐な私に向かって、したたかなんて……」
ミソラはつんと澄ました顔。少年は小人の物言いを鼻で嗤う。
「おねーさん、鏡を見たことあるか?」
「おぅおぅおぅ、そいつぁ、この私に喧嘩を売ってるってことで、いいわね?」
「ほら、その気風の良さ。淑女なんかよりも女丈夫が似合ってるんじゃないか?」
「ぬぐ」
といった具合に他愛のないやり取りをしている内に、光陽が東の空を駆け昇り始めた。
目的地のエル・ダルークまで後半日弱。
先が見えたとはいえ、まだ時間が掛かりそうであった。
* * *
所変わり、エフタ。
光陽が完全に姿を現してから小一時間ほど、市内各所では人々が動き始めている。店の戸を開ける店主、教育機関に向かう若者、家に帰る若い女、工場に向かう壮年、朝採れ野菜を運ぶ人足。時折、コドルが曳く荷車が港湾門より入ってくれば、混雑する通りへと消えていく。
あちらこちらで朝の喧騒に包まれる中、セレス・シュタールもまた、組合本部は己が執務室で仕事を始めていた。
常の如く、最初にするのは現状の把握。
青髪の麗人は執務机にて書類を読み込む。砂海域各地にある組合支部から届く報告は元より、組合本部の他部署が提供する分析や指標、市井に紛れた小石が拾い上げる細かな世情、域外主要都市にある組合の駐在所からもたらされる種々の情報といったことを頭に入れていく。
一枚また一枚と書類を捲り、時に目を閉ざして整理する。そして最後に、彼女が記憶する先日までの情勢に上書きするのだ。
これが一通り終わった所で、決裁を求める案件の処理。
種別に分けられた未処理案件が机の端に積み重なっている。彼女は砂海域の安全保障関連を主たる職務としている為、旅団運営に関することが半分程。残りは魔導船航路の開拓や保守、経済や資源担当に回す各種軍需品の需給調整、域内諸都市からの軍事関連の申し出、渉外担当から回されてくる域外交渉関連といったものである。
それらについて記された書類を、セレスは次々に捌いていく。
淀みなく動いていた麗人の目と手が、ある書類を前にして止まった。
それはエル・ダルーク市からの要望書。
記されていた内容は、新たな旅団船隊の増設を望むものであった。
セレスは微かに首を傾げる。
というのも、エル・ダルーク市軍の戦力は域内諸都市で屈指であり、人員も装備品も充実している為である。
現状、これ以上は必要ないはずでは?
そんな思いを抱きながら目を走らせるようとする。
だが、その直前、部屋の戸が小さく叩かれた。
「どうかしましたか?」
「ラルフ様がお越しです」
耳に馴染んだ秘書の声が扉越しに届く。
昨日の夜、エフタに帰還した旅団第三遊撃船隊。その長を務める彼女の兄の来訪を告げるものであった。
セレスは処々の事情から兄の来訪は昼からだろうと思っていた。それだけに、朝早くからの報告とはどうしたのだろうという思いが生まれてくる。もっとも、それは束の間のこと。彼女はいつものように返事をする。
「わかりました、通してください」
その言葉を待っていたかのように扉が開き、青髪の美丈夫が入ってきた。
年の頃は二十代後半位。男女の差はあれど、艶のある褐色の肌や青い髪、整った容貌は麗人とよく似ており、一目で兄妹とわかる。そんな美男子、ラルフ・シュタールは真剣そのものの表情で執務机の前まで来ると、挨拶もなく言い放った。
「アレイアが懐妊した」
瞬間、セレスは言葉の意味が理解できずに瞬き。視界の隅、退出しようとしていた秘書の動きが止まっていた。
彼女の兄はもう一度繰り返して告げた。
「アレイアが、俺の子を、懐妊した」
「そ、それは、その、よろこばしいことですね。……ええ、おめでとうございます」
「ああ、ありがとうよ」
そう言ってから堅かった表情を唐突に崩し、実に楽しげに宣した。
「これで俺は父となり、お前達もおばさんになる訳だ」
おば……。
言葉や意味合いが異なるとはいえ、無視しえぬ響きであった。
セレスの冷たく整った顔が、怜悧とも呼べる美貌が、ほんの微かにだが確かに引き攣る。
目前の兄と深い仲の女性がいる以上、いつかはと覚悟していたことである。
だが、実際にそうなってみると、中々に心に来るモノがあった。
これはセレスだけではなかったようで、憎らしい程に楽しげな風情で反応を楽しんでいる兄の後ろ。部屋の扉近くにおいて、普段は平静さを崩さぬ秘書が天を仰いでいた。その反応から、彼女が妹の懐妊を知らされていなかったことがわかる。更に付け加えれば、妹が妊娠したという事実そのものにか、或いは自身がおばになるという未来にかはわからないが、とても衝撃を受けたようでもあった。
両者の様子に満足したのか、ラルフは笑みを深める。けれど、それも分針が一回りするかしないかで消え、また真面目な顔に戻った。
「という訳でだ、セレス。お前は跡継ぎ云々を気にせず、自分に合いそうな良い男を見つけて、人生を謳歌するように」
「は、はぁ」
ラルフは妹の生返事に呆れた顔を見せる。
「なんだなんだ、気のない返事だな」
「い、いえ、前から言っていますが、私はそういったことに興味を持っていませんから」
「かー、我が妹だというのに、お前は、本当にっ、淡白だなぁ。兄の俺が言うのもなんだが、まずもってお前の器量ならどんな男でもイチコロ! その気にさえなれば、毎晩毎晩、選り好んだ男を引っ張り込んで、食って捨て食って捨てなんて余裕だろうにぃっ! ……じょ、冗談だ、冗談!」
いつの間にか黒髪の秘書がラルフの背後に立っており、喉元に短刀を突き付けていた。跡継ぎができるのですから後顧の憂いもありませんね、なんて声もぼそぼそと聞こえてくる。
セレスはかなり慌てた兄の姿に少しばかり溜飲を下げながら、秘書に控えるように目で合図を送る。不承不承といった雰囲気を滲ませながら得物を収め、いつもより心なしか荒い足取りで部屋を出て行った。
ラルフはほっと息を吐き出し、応接椅子に身を沈める。それから、両の腕を背もたれの上に乗せながら笑った。
「はー、本気八割って感じだったな。いや、久し振りに背筋が凍った」
「兄上、先の言葉、冗談のつもりでも侮辱であることは変わりません。その相手が血を分けた妹であったとしても……」
「ああ、悪かった。どうやら、まだ戦場の毒が抜けてないみたいだ」
再び吐息。今度のは深く重かった。よくよく見れば、ラルフの顔には隈や疲れが出ている。
その理由を察して、セレスは短く訊ねた。
「酷かったのですね」
「ああ、現場でしかわからない、数字では見えてこない酷さって奴だ」
「……申し訳ありません。配慮が足りませんでした」
ラルフは目を伏せた妹の言葉に首を振って応えた。
「いや、すまん。今のもこっちの口が過ぎた。……ただ今回はな、あまりにもやりきれない結果だった。誰もが問題に対処しようと懸命に動いたってのにな」
「それは……」
「ああ、わかってるさ。動いた結果が必ずしも報われるとは限らない。なにしろ相手があることだ。俺達の対処やその結果が思い通りにいかない方が……、特に人が相手だと当たり前さ。何もかもが上手くいくなんて幻想が許されるのは、子どもに読み聞かせる物語の中だけだろうよ」
彼が十代半ばに旅団に入って以降、これまでに得た経験が言わせる言葉だった。
これを耳にして、セレスの脳裏に小人の声が甦ってくる。
現実は? 届く場所に、その手は届いているの?
届くこともあれば届かないこともある。過去も今も未来も、これは決して変わらない。認めざるを得ない現実であり、受け入れざるをえない事実よ。
束の間、麗人は瞳を閉ざして思う。
ええ、この手が届かぬこともあることを受け入れましょう。そして、それを私という存在の糧としましょう。
若き船隊長は妹の秘めたる決意に気付くはずもなく、短い青髪を掻いて続ける。
「だが、それでもどうにかできなかったかという思いが残っちまう。……はは、職業病かね」
そうおどけてみせるが、目に浮かぶ色は昏い。そのまま天井を見上げて、彼は所感を述べ始める。
「セレス、アーウェルの復興は時間が掛かるぞ」
「やはり、そうなりますか」
「ああ、俺達がアーウェルを出る時には市内の建物や道路といったものの復旧は進んでいた。だが、市民の間では失ったモノへの悲しみは癒えてないし、凶行への怒りも静まっていなかった」
ラルフは宙に視線を彷徨わせる。それは普段の彼らしからぬ、力のない目であった。
「あの騒乱で、市民は誰もがなにがしかを……、子を、家を、親を、絆を、伴侶を、信を、友を、財を、隣人を、働き場を、仲間を失っていた。市当局が首謀格を吊るしたり手下共を鉱山送りにしたりってな感じに色々と動いていたが、あの悲しみや怒りが簡単に収まるとは思えんよ」
美丈夫は顔を顰めて続けた。
「変な言い方だがな、相手が蟲ならまだ救いがあった。連中は誰もが認める明確な人の敵だ。蟲にやられてしまった。悔しいが相手は天敵なのだから仕方がない。今は無理でも必ず仇を取ってやる。だから頑張って生きようって具合に誘導することで、活力の源にもできるからな」
「ですが、相手が同族である人の場合、それができない。法に基づく刑罰や力による制裁、あまり良い方法とは言えませんが、私刑による復讐という形で、被害者や遺族の感情を静めるしかない」
「ああ、負の連鎖を断ち切って、社会の秩序と安定を守る為にもな。……だが、人の手で起きた不幸である以上、どう足掻いても人に対する不信が残る。そして、それは不幸を防げなかった社会への不信に繋がりかねないし、場合によっては新たな不幸の源になって、当人どころか周囲の活力をも削ぎかねん。で、最後に行き着くのは社会の衰退って奴だ」
兄の言葉を受けて、セレスは淡々とした調子で言った。
「結局の所、遥か昔から、それこそ旧文明期よりも古くから言われているように、人の最大の敵は人という真理は変わらないのでしょう」
「変わらないんだろうよ。……裏で手を回していた連中について、何かわかったのか?」
「域内については後少し、域外については調査中です」
「わかった。判り次第報復に動くだろうが、一応、その前に知らせてくれ」
「無論です」
妹の言葉に頷いた後、ラルフの端正な顔に皮肉気な笑みが浮かんだ。
「しかし、降りかかる火の粉を払うのも面倒なもんだ。本来なら今はまだ蟲や環境に対処すべき段階であって、人同士で争っている余裕なんぞない、はずなんだが……、愚者の凶宴を考えれば、きっと期待するだけ無駄なんだろうな」
青年は大災禍の後に起きた戦争を口にするや、勢いよく立ち上がった。
「さて、お前には悪かったが愚痴を吐けて気が晴れた。今日はこれで帰る。……あっと、今回の遠征に関しての細かな報告は今日中にバクターがまとめて提出するだろうから、それを読んでくれ」
「わかりました」
「後、最悪の時に出てきてくれたラティアの群団に関連してなんだが、現在の活動状況が気になった。それの調査を頼めるか?」
「それはいつ頃までに?」
「俺達の休み明け位には、ある程度形にしておいてほしい」
「わかりました。その時までには用意しておきます」
「ああ、頼むぜ、おばさん」
セレスは兄がわざとらしく口にした言葉に返事をせず、ただ凍りきった目と冷淡な微笑みを向けることで応えた。
* * *
所戻り、大砂海北部域。
正午に近づく時分、クロウは大きな瓦礫のない砂礫帯に魔導艇を停め、抑制翼の上に立っていた。手にするのは天測器。時計を気にしつつ、光陽の高度を測る。今現在における大凡の位置を調べているのだ。
彼の足元に広げられた地図。その上に立って進路を辿っていた小人が口を開いた。
「どう? 予定通りに来てる?」
「ちょっと待ってくれ。…………よし」
クロウは天測器が示す数字を見ながら腰を下ろす。それから天測暦や朝からの疾走距離と共に地図に書いた予定線と見比べた。彼が想定していたよりもずれ幅は小さかった。そのことに安堵して、ミソラに答える。
「若干のずれはあるけど、それ程酷くはないみたいだ」
「そう、なら今日中に着けそうね」
「ああ」
クロウはミソラの声に頷くと、実際に進んできたであろう線と今後の修正線を引き始めた。
小人は作業の邪魔をしては悪いと、宙に浮かび上がるや空に向かって飛び立った。そのまま五リュート程の高さまで至り、周囲を見渡す。そして、それに気が付いた。
「クロウ! 遠くに砂埃が見えるわ! 魔導船みたいよ!」
これまでの針路が間違っていなかったという確証を得て、思わず少年の頬が弛む。彼は宙のミソラを見上げて聞いた。
「ミソラ、魔導船がいるのは東か?」
「ええ、東! 南に向かってるみたい!」
「ってことは、エル・ダルークを出てきた船だろうな」
さっと地図に目を走らせる。今の位置から見て、魔導船航路は東に十アルト程、エル・ダルークまでは百アルト弱。航路までは十分程度、目的地までは大凡一時間前後で辿りつける距離だった。
最後の航程になるし、ここは慎重に行った方がいいかもしれない。
そんな思いが生まれてきた為、クロウは降りてきた小人に意見を述べた。
「ミソラ、魔導船航路が見えるし、そっちに移った方がいいんじゃないか?」
「むー、どうせここまで来たんだし、私としてはもう少し頑張ってほしいかな」
「理由は?」
「この魔導艇の性能証明って奴。路なき路を行けるんだって、実績が欲しいのよ」
クロウは試験の目的を思い出し、真っ当な理由だと感じて頷いた。
「了解。それならもう少し頑張るよ」
「うん、お願い」
そんな話をした後、クロウ達は堅パンに水、乾燥果物という携帯食の定番を食べて、また疾り出す。
もっともエル・ダルークに確実に近づいている証を目にした為か、これまでと違って気分が上向いている。凹凸が多かろうが瓦礫が多かろうが気にならないし、常に付きまとってきた不安感や孤独感もどこかへと消えてしまっている。
気分良く進む内、周囲の景色からは廃墟や瓦礫の類がなくなっていき、遂には細やかな砂礫の平原となる。
そして、望んでいたモノが進む先の彼方に浮かび上がった。
「……見えた」
「ええ! 見えたわね!」
ミソラの弾んだ声。
クロウは頷きながら目を凝らす。陽炎の中、天に向かって伸びる人工物……魔導船用の灯台だ。それが徐々に大きくなるにつれて、今度はその背後に小高い丘のような陰影が生えてくる。
それは以前、仕事の合間に船乗りから聞いた、エル・ダルークの遠景と合致していた。少年は確信が欲しいが故に、更に目を凝らして見る。背後の陰影は切れ目ない壁と幾つもの塔で織り成されていた。
間違いない。
そう感じた途端、クロウの胸の内で目標を達成したという安堵が湧き起こる。同時に喜びと満足感が爆発的に広がった。得も言われぬ充足感に、若い顔が自然と綻ぶ。油断すれば大声を出して笑い出しそうになりながらも、クロウは同行者に告げた。
「素人でも、なんとか辿り着けるもんなんだな」
「当然! この舟にはそれだけの性能があるモノ!」
「はは、確かに言うだけのことはあるよ」
「でしょでしょ! でも、クロウの頑張りもちゃんとあるから安心しなさい!」
「評価してもらえて光栄だ。……っと、青旗や発光器を用意しとかないと」
計器類が並ぶ下、左側の空間に収めていた信号用具を取り出す。ついで、操縦席から伸びあがり、頭上の抑制翼に青旗を取り付けた。向かい風になびいて、軽い音を立ててはためき出す。
「っし、後は向こうからの合図に注意すれば、なんとかなるかな?」
「ええ、組合支部の職員が待ってくれている手筈だし、それでいけると思うわ」
「なら、後は一直線だな」
「そそ! 折角だし、これの速さを見せつけて、見てる相手を驚かせてやりなさい!」
「それはいいけど、宙を舞うのは勘弁な」
クロウは減らず口を返すと、魔導機関の回転を上げる。速度が落ちていた魔導艇は力強く加速を始め、見る間に行き足の勢いを増していく。後方で砂塵が吹き上がって流された。
エル・ダルークの外観がみるみる大きくなっていく。
少年は灯台周辺に素早く視線を走らせる。
最初に見つけた灯台は周囲よりも一際高く、高さが三十ないし四十リュート程。その足元にはエフタ市のモノと似た市壁が東西に伸びており、こちらは高さ大凡十リュート、長さは二アルト以上だ。両端には高さ二十リュート程の防御塔が立っており、頂上部に人影が見える。砂塵に晒されてきた為か、それら全てが赤茶けた色だ。
ついで目を下方に向ける。
市壁の手前、二十から三十リュート程の所にいつか見た簡易防壁らしきモノがずらりと並んでおり、合間を作り出している。そこを見れば、不均一な家屋らしきモノが雑然と建っていた。そういった建物群に挟まれるかのように簡易防壁で囲われた場所がある。天幕や日除け幕が張られていて、近くに天に向かって伸びる棒……火砲の砲身が見えた。
「そろそろ合図とか来るんじゃない?」
ミソラの声に引き戻され、クロウは注意を灯台に向ける。
彼がより大きくなった灯台を注視していると、上層部で微かな光が走った。短く長く、不規則にだが小気味良く点滅を繰り返す。発光信号だと直にわかり、意味を読んでいく。
「あおはた、かくにん……、ひがし、みなと、むかえ……、だそうだ」
「とりあえず、東に回ればわかるでしょ」
「だな」
クロウは速度を落とし、発光器で受諾信号を返してから舵を東へと切る。舟は若干流されつつも新たな進路へと入った。左側に市壁。簡易防壁の前には幅十リュート弱、深さ数リュートはある空堀があった。同期に聞いた話を思い出す内に東端に至る。また小人が声を上げた。
「あ……、あれがそうじゃない?」
ミソラが指し示した場所は先の市壁の裏側。
市街があると思しき小高い丘は、それを囲む市壁との間。それなりの数の魔導船が泊まる船溜まりが見え、その奥に埠頭や岸壁、それに倉庫らしき大型の建物群が並ぶ区画が見えた。
「やっと着いた。……はぁ、長かった」
「ふふ、お疲れ様!」
「ほんと、疲れたよ」
労わりの言葉に短く返すと、クロウは入港すべく舵を切った。
* * *
「いやー、ようこそ、エル・ダルークへ! お待ちしておりました! 私、案内を任せられました! 組合連合会エル・ダルーク支部のニルス・レームと申します!」
港内に入ったクロウ達に、埠頭の上から大きく手を振って呼び掛けてきたのは髪の薄い壮年の男であった。大きな張りのある声へと近づく間にも、太り気味の壮年職員は髪の薄い頭をしきりに撫でながら話し続ける。
「いやー、一昨日、本部から連絡を受けて、昨日の朝出発、今日の昼過ぎ頃には到着すると聞いて、準備や手続きをしてはいたのですが! いやー、エフタからここまでの距離が距離ですし! 本当に来れるのかと心配になっていたんですよ! いや、それが蓋を開けてみれば、もう! ほぼ予定通りに到着するとは! いやぁ! 船や小さき賢者のこと、話には聞いておりましたが! 本当にっ、驚きましたぁ!」
興奮気味の相手を前に、クロウは対処に困ってミソラに目を向ける。小人もまた困った表情だ。
そんな両者に気が付いたのか、今度は薄褐色の額を叩いて続けた。
「あ、これは失礼しました! ここまで長い距離を来たのですから、お疲れで当然でしょう! あちらの旅団用の岸壁に向かってください! すぐに旅団の者が船を引き揚げますから!」
「わかりました!」
クロウはレームが指し示した方向、北側の岸壁へと魔導艇を進ませる。
「おぉ! おぅぉっ! なんかっ、なんかいいっ! 聞いていたよりもいいぞぅ!」
という野太い歓声を背に受けて……。
「な、なぁ、ミソラ、あの人、なんか……」
「察しなさい。……あの人はおそらく、バゼルの近似種よ」
クロウは面覆いを外して首にぶら下げた後、振り返って埠頭を見る。壮年の職員は肥えた身体でもって、薄い髪を乱しながらも全力で走っていた。その姿だけで何故か納得ができた。少年は苦笑しながら言う。
「世の中、いろんな人がいるんだな」
「いろんな人がいるからこそ、世の中が面白いのよ」
「ものはいいようだな」
「いいじゃない、実害は……多分ないでしょ」
「その間が気になる所だ」
クロウは肩を竦めて、そう言えばと続ける。
「あの人、こいつのことを知ってたみたいだけど?」
「別に情報を制限してる訳じゃないし、それなりに話が伝わってたんでしょ」
「後、小さき賢者って……」
「さぁ、だれのことかしらねぇ。すくなくとも、わたしじゃないのはたしかよ」
ミソラは恥ずかしがるわけでもなければ怒るわけでもなく、ただ白けた調子で淡々と話す。その姿にそこはかとなく恐怖を感じて、クロウは流した。
「ま、まぁ、話だけで聞いていたモノを実際に見て興奮したって感じかな」
そうこういっている内に、岸壁が近づいてきた。
東西に走る岸壁にはバルド改級が三隻接岸している。空いている場所を探していると、岸壁に備え付けられた起重機の近くに空きを見つけた。また起重機近くには十数の人影が屯しているのがわかった。
「あそこね」
クロウは頷き、魔導艇をその場所に寄せていく。
高さ三リュート程の岸壁。その上にいた者達が魔導艇に気付いたのか、ざわつきが広がる。少しして誰かの声が響き、起重機が動き出した。鋼綱に吊られた荷役台が降ろされてくる。
「それをこいつに乗せてくれ!」
クロウは右手を上げて応じると魔導機関を止めた。惰性で動く艇を荷役台に乗るように操り、程良いと感じた所で斥力を切る。すぐに着船の衝撃。金属板とソリが擦れる耳障りな音が響き、顔を顰めた。
「よし、停まったな! 今から上げるぞ! 落ちないように注意してくれ!」
「あ、はい」
「上げろ!」
ホッとする間もなく声が掛かり、起重機が荷役台を巻き上げ始める。下向きの力を感じたかと思えば、足元に浮遊感。魔導艇で慣れたかと思っていたが、それ以上の不安定さに足が強張った。
身体を緊張させていると、荷役台は岸壁と同じ高さまで上がる。先と同じ低い声が、止めろ、手前に四、と声を上げた。荷役台はその言葉の通りに移動し、遂に岸壁上に至った。
「よし、降ろせ!」
遅滞のない流れるような動きに、本職は手際が良いなぁ等と感慨を抱いていると、接地の軽い振動。指示を出していた男の手により、荷役台と起重機との連結器具が外された。クロウは自然と声に出していた。
「ありがとうございます」
「なに、これも仕事さ」
浅黒く日焼けした中年男は白い歯を見せて笑って続けた。
「お前さん……達が、ここまでやってきたようにな」
うんうんと頷く小人の姿に目を丸くしながらの言葉だ。少年もまた確かにと頷いて笑った。
そこに先程聞いた声が荒い息と共に響いてきた。
「はぁはぁ、はぁ、い、いや! あ、あんな、い、やく、だと、いうのに、おくれて、は、しごとに、なりません、なっ!」
フラフラになりながらも走ってきた、顔中どころか制服まで汗まみれのレームだ。薄い髪が側頭に流れ落ち、艶やかな頭皮が照りを返している。
クロウは今にも倒れそうな相手に、どう対応しようか困る。周囲にいる者達も困惑と呆れの色を見せている。
だが、ミソラは容赦なく口を開いた。
「レームさんだっけ? 早速だけど、魔導艇の置き場所に案内してくれない? ここは色々と話を進めるのには向かないわ」
「あ、そ、そうです、な! う、運搬車、は、いります、か?」
「動かない訳じゃないからいらないわ」
「わかり、ました! こ、こちら、です!」
レームは覚束ない足取りで近くの建物へと先導し始めた。
その様子に、クロウは思わず呟いた。
「大丈夫か、あの人」
「だから早く陽陰に行くのよ」
「あ、そういうこと」
クロウは頷きながら魔導艇を再始動させる。
今更ながらミソラを見ておどろき、艇体が浮き上がってどよめき、回転羽が回って動いてざわめき。一々の反応になんともむず痒い思いを抱きながら、十人程の野次馬を連れて大きな建屋へと向かった。
そして辿り着いた先。
魔導機格納庫の一画に再度着船させると、すぐさま周囲に人が群がった。三十人近い老若混じった男達。主たるは格納庫にいた繋ぎ姿の整備士達であるが、野次馬達の姿もある。
誰もが興味津々といった風情で目を輝かせ、新たな刺激物に見入っている。付け加えると、案内役であるレームもその中に混じっていたりする。
やっぱり注目されてるんだなぁ。
等と思いながら、クロウは起動キーを引き抜いて降り立つ。ついで自身の荷持を座席側面の収納から取り出した。そうしている間にも、人垣は少しずつ魔導艇に近づいていた。
周囲の様子に気が付いていたミソラは仕方がないなぁと言わんばかりに苦笑して、大声で宣した。
「みな、興味津々なのはわかるけど! 仕事がある人は仕事を優先!」
三分の一程の動きが止まった。レームもまた固まる。
「それ以外の人は……、大いに見学してよろしい!」
三分の二から歓声が上がった。
「ただし! 整備の名を借りた分解は絶対厳禁! 魔導機関と計器類を弄らない! 配管や配線も触らない! それが守れるなら触ったり操縦席に座ったりして良いわよ!」
再び歓声。一部の者は残念そうな様子を見せているが、概ね満足そうである。ミソラはうんうんと頷いき、肩を落としている案内役に言った。
「さて、レームさん。私達の滞在予定は三日。時間が限られている以上、仕事を速やかに進めたいの。悪いけど、一息ついたら支部への案内をお願いするわね」
「……はい」
どことなくしょんぼりとした返事だった。
小休止の後、クロウ達は魔導機の格納庫から出る。
組合エル・ダルーク支部まで案内に立つのはレームだ。その彼であるが、休憩時間の間に一通り魔導艇に触れた為か、はたまた単純に仕事態勢に入った為か、当初の躁状態は消えて落ち着いた様子である。
ゆっくりと歩く案内役に続く形で、岸壁沿いの道を西へ。遠目に立ち並ぶ倉庫や軍施設らしき建物が見えた。だが、作業をする人足や荷車の姿はない。ただ、建物の影で横になる人影がある。暑い盛りをやり過ごす為、午睡をしているようだ。
「ここは東港湾区と呼ばれる場所です。民間用の港と旅団屯所、備蓄倉庫といった物があります。ちなみに、反対側には西港湾区がありまして、そこは市軍艦隊の泊地と備蓄倉庫、傭兵団や機兵団の屯所があります」
街についての簡単な説明を聞きつつ、船溜まりを横目に百リュート程行くと、南北に走る道とぶつかる。幅十リュート程の舗装路で、北は市街がある丘に繋がる門へ、南は先に見た灯台がある市壁へと続いている。
先導するレームは右に曲がり、門がある北へ。
一分もしない内に市壁の前に着く。頑丈そうな門構えには東第一門との銘板があった。扉は開かれており、左右の門柱付近に小銃を肩にかけた衛士が立っている。特に咎められることもなく抜けた。
門の先は前後左右を壁に囲まれた狭間とも言うべき場所になっていた。道は右に曲がって緩やかな上り坂になっている。人の姿はほとんどいない。道の周りも殺風景とも呼べる程になにもない。坂の上には北側の壁に門があった。
ミソラが高い壁を見上げて言った。
「閉塞感があるわね。これってわざと?」
「らしいですね。私も詳しいことは知りませんが、聞く所では防御の一環だそうです」
「へぇ」
三百リュート程ある坂を上り切り、再び門衛が守る門を抜けた。出てすぐに、橋が架けられていた。長さは目測で十から十五リュート、幅は道幅よりも少し大きい程度だ。その橋の上から脇を見れば、空堀が掘られている。
「これもかしら?」
「ええ、そう聞いています」
クロウはミソラ達の会話を聞きつつ、手摺りから顔を出して空堀を覗きこむ。底が見えず、身震い。外のモノより深かそうだった。
橋を渡った所でまた上り坂。今度は少し傾斜がきつい。道の左右には木々が生い茂る緑地が広がり、奥には市壁や塔が見える。緑の木陰の下では、住民らしき若い男女が並んで座っていた。
そして、坂を上り切った所で再び門がある。目を走らせると、衛士と東第三門との銘が見えた。
自然とクロウの口が開き、ふぅふぅと息を上げているレームに訊ねた。
「門が多いですね」
「ええ、エル・ダルークは北の要衝ですから、相応の備えをしているということです」
「もしかして、まだ先にあるとか?」
「ご明察です。中心部までは後一つありますよ」
多いなぁと苦笑した所で、三つ目の門を抜けた。
抜けた先は市街地だった。
東から西へと上っていく斜面に、集合住宅らしき五階建ての建物が段々に並んでいる。見る限り建物同士の間隔は狭く、少しばかり窮屈だ。クロウは踏み幅の狭い階段を連想した。
「住宅区です。私の家もここにあるんですよ」
「エフタよりも狭くない?」
「ええ、狭いでしょうね。この街は防衛を最優先に造られていますから」
ミソラの声に応えると、レームは西へと曲がる坂道を登り始めた。
すれ違う人が増えてくる。買い物かごを持つ若い女、コドルが曳く荷車、駆け抜けていく少年達、並んで歩く少女達、疲れた顔で歩く壮年と様々だ。彼らは坂道の北側、大凡二十リュート毎にある、幅三リュート程の路地を出たり入ったりしている。
クロウが路地の先を見れば、上層の建物と下層の建物の間に屋根が渡され、柱廊となっていた。屋上は緑化されており、赤茶けに満ちた空間に鮮やかな彩りを与えている。
影となった路地からは子ども達の楽しげな歓声や女達のけたたましい笑い声、更には水の流れる音や何かが擦れる音、戸を開け閉めする音といったものが響いてくる。
生きた人々が奏でる騒音に、少年は口元を緩めて言った。
「賑やかですね」
「ええ、隣との距離が狭いから付き合いも濃いのですよ。もちろん、時々は疲れる事もありますけどね」
そんな話をしながら坂を上り切った。また壁があって南北にのびている。その手前で道は二手に分かれており、一方は壁に沿って北に向かい、もう一方は壁に設えられた門に繋がっている。先導されるまま、門に向かう。
「この門を抜けると、中心部です。市庁や市軍本部、うちの支部に砂海金庫といった物があります」
これまでのよりも少し小さい門をくぐり抜けた。
道は西へと続いている。
南側には緑地に囲まれた住宅が並び、北側には二階建の大きな建物があった。窓はあるが、露台といったものはない。ちらりと見れば、建物には見覚えのある看板……釣り合いのとれた天秤が出ている。クロウも使っている砂海金庫のものだ。
そのまま真っ直ぐに進んで砂海金庫の先。西と北に続く高い壁と北に向かう道にぶつかった。新たな道を見やれば、均一の外観をした建物が整然と並んでいる。
「そっちの道は商店街です。休日は賑やかですよ」
レームの言う通り、壁沿いの道には軒先に商品を並べる展示台が置かれていたり買い物客が商店主と話していたりと、商店街らしき風情があった。
曲がることなく歩き続け、大きな広場に至る。北側の壁に巨大な門があった。門扉は開き放たれており、出入りする人々の奥に人工石で造られたと思しき重厚な建物が見えた。
「門から見えるのが、エル・ダルーク市庁です。非常時は住民の避難所にもなります」
広場の南側にも道があるが説明はなく、西の道へ。道の南側、低い壁の向こう側に、エフタ市軍本部のモノと似た建物群が並んでいた。
「エル・ダルークの市軍本部です。元はエル・レラ市軍の前進基地だったそうです」
似ているのはその時の名残かと、少年が納得していると、北側の壁が途切れて、また北に向かう道があった。その道の西側には先の商店街と似た建物が並んでいる。
レームはその中で一番近い建物を指し示して告げた。
「さて、長らく歩いてもらいましたが、到着です。あれがうちの支部となります」
* * *
同時刻。
エル・ダルーク市の西港湾区。
「んだとごらぁっ! もういっぺん言ってみろっ!」
「ああ、もう一度言ってやる! お前らみたいな傭兵の名を借りたクズ共はとっとと出ていけ、って言ったんだよ!」
武装した魔導船が泊まる船溜まり。
その近くの岸壁を走る舗装路にて、数十人の男達が睨み合っていた。一方は日焼けした逞しい男達、もう一方はだらしくなく衣服を着崩した男達。ほぼ同数で対峙していて、両者共に非友好的な視線を相手に向けている。
しばし目に見えぬ火花を弾かせた後、だらしない男達……傭兵達の頭目格である髭面の男が唾を吐く。ついで、怒りに満ちた声を上げた。
「だれがっ、てめぇらを守ってるとおもってやがる!」
「少なくとも、お前らみたいな傭兵じゃねぇよ!」
日焼けした男達の中から声があがる。そうだそうだと賛同の声が続いた。
人足達からの敵意に、傭兵達の目が剣呑な光を帯びた。
さて、こうなった理由であるが、実に些細なことである。
すれ違う時に肩がぶつかったとか、誰かの笑いが気に障ったとか、そういった程度の出来事だ。事実、両者とも何が原因であったかなどは既に忘れ去っており、ただ相手をやり込めようと貶める言葉ばかりを口にしている。
この騒ぎに気が付いたのか、近くにいた作業員や日雇いの荷役らが野次馬に集まってくる。
「だまりやがれっ! 蟲と向き合ったこともねぇ、臆病な人足ども!」
「はっ、お前ら傭兵は、いつものそれだな! お前らこそ、全部機兵に押し付けて、震えてるんじゃないのか?」
「けっ、機兵なんぞ役にたたねぇ、機械人形なんざ張りぼてに過ぎねぇよ。これだから現場を知らねぇ連中は!」
この言葉に、野次馬の中から男が進み出てくる。厳つい風貌と鍛えられた体躯の中年だ。
「おいおい、今のは聞き捨てならないな。俺達が何だって?」
「……へっ、魔導機に守られてぬくぬくとしてる機兵様はお呼びじゃねぇンだよ!」
「えらく抜かしてくれるじゃないか、碌に戦いもしないで逃げ足だけは早い傭兵さんよ」
「んだとぉっ!」
髭面の男は目を血走らせて、新たな敵を睨みつけた。
じりじりと肌を焼く昼の陽射しに一触即発の空気。元よりの暑さと相まって、集まった男達の心身が昂り始めた。
否、一部の者は激情という最高の燃料に火がついた。
「くははっ、娼館で女に乗ってからも早いんぇっ!」
唐突に髭面の男が一歩踏み出して、自分達を笑いものにした人足の腹を殴りつけた。
一息の静寂。
次の瞬間、男達は口々に罵声を上げ、殴り合いが始まった。
正面にいる相手を殴る。殴ろうとして殴り返される。羽交い絞めにして殴る。倒れかけた所を支えられて殴られる。邪魔な野次馬を殴る。反撃に殴られる。蹴ると見せかけて殴る。殴られたと思ったらまた殴られる。空ぶって仲間を殴る。倒れた相手を殴ろうとして殴られる。血塗れになった拳で殴る。
笛の音が甲高く響く。
「馬鹿もの共っ! 貴様ら! 止めんかっ! 全員、牢屋にぶちこおぶはっ!」
止めに入った門衛達を殴る。嬉々として入り込んできた市軍兵に殴られる。相手の拳を間一髪避けて殴る。殴ったと思ったら殴られる。呼び掛けて振り向いた所を殴る。楽しくなって笑っている所を殴られる。日頃のうっぷん晴らしに殴る。いつも大人しい相手から殴られる。むかつく上役を殴る。
「おっ、喧嘩かっ!」
「喧嘩だ! 喧嘩だ!」
顔を腫らし腹を押さえて倒れる男達。だが、それ以上の数の男達が貧民街や屯所から沸き出てくる。
近くにいる誰かを殴る。泣いているから見逃そうとして殴られる。前に立つ相手を次から次に殴る。強そうな機兵を皆で殴ろうとして殴られる。居合わせた恋敵をしこたま殴る。立ち上がって殴られる。目が腫れて前が見えなくなっても殴る。拳が痛くて振っていたら殴られる。普段から生意気なガキを殴る。
狂騒の場に当てられて、男達は誰もが発奮して拳を振るう。
流れた血は男達の野性を引き出し、興奮は新たな興奮を呼び起こす。
殴り殴られの螺旋は止まらない止められない。
男達の暴走は終わらない終われない。
こうして十分近く続いた乱闘であったが、終わりは唐突に訪れた。
馬鹿騒ぎが起きたと聞き、近くの屯所から市軍の警備隊と救命隊が駆けつけたのだ。
呆れた表情を隠さない歳経た指揮官が部下に命じる。
「はぁ、馬鹿共の頭を冷やしてやれ」
警備隊員達は命令に従い、身の丈はある盾を構えて騒動の縁に立つ。内数人が緑色の球形体を騒ぎの中へと投げ込んだ。
閃光と爆音が場を一瞬で征し、煙が広がった。
聞き苦しい男達の悲鳴が重なり合うように響き渡る。
そして煙が風に流されると、路上には百人以上の男達が死屍累々といった態で倒れていた。
指揮官は疲れた顔で見下ろすも、己の役目を忘れることはない。
「識別救命、開始しろ」
「はっ」
彼の命に従い、救命隊員達は警備隊員と協力して救護活動を開始する。
軍医が気絶している男達の状態を確認し、助手が識別符を貼り付けていく。その識別符に従って、隊員達は時に担架で運び、時にその場で手当てし、時に放置する。その動きは手慣れていて淀みがない。
その様子を頼もしく思うも、同時に熟れる事となった原因を思って情けなくなる。
とはいえ、この老指揮官の嘆きは前任者の時代……いや、それよりも昔から続くモノである。
なにしろ、エル・ダルークはエル・レラの植民都市時代から今に至るまで甲殻蟲と戦い続けてきた街であり、幾度も蟲に敗れ時に街を蹂躙されても、その度により頑強に再建してきた者達が住まう街である。
他のどの都市よりも血気盛んで不屈の気風に満ちた土地柄であり、喧嘩沙汰も日常の中に溶け込んでいる街なのだ。
問題なのは、ここ最近になって、その喧嘩の数が異常に増えていることである。
この増加の源は、主に傭兵である。
彼らが何らかの形で喧嘩の原因に絡んでいるのだ。
では、何故、傭兵絡みの喧嘩が多くなったのか?
答えは単純である。粗暴な傭兵が増えているのだ。
ならば、どうして、粗暴な傭兵が増えたのか?
こちらも簡単である。傭兵は機兵と違って特別な訓練もなく、命を賭ける度胸さえあれば、素養の低い者………教育を受ける機会もなかった貧民や孤児、移民でもなれる為だ。
こうした素養の低い者達、その中でも特に傭兵になるような者達であるが、往々にして力を頼りに生きてきた者が多い。そんな彼らにとっての力とは、単純な腕力や周囲を圧する暴力である。また、彼らが生きる世界とは腕力がモノをいう世界であり、度胸ある者が尊ばれる世界である。
つまり、行き場も稼ぐ道もない素養の低い者達が度胸と腕力を拠り所にして傭兵になったが為に、周囲との無用な軋轢を引き起こし、喧嘩を誘発させているのだ。
だが、ある意味、そうなるのも仕方がないことである。
なにしろ、彼らの低い素養が自らが信じるモノにしか価値を見い出すことを許さないのだ。もちろん、中にはそれ以外の物、知識や技術といった有用なモノに気が付いて、抜け出せる者もいる。
だが、それはほんの僅かに過ぎず、多くの者が自らが生きてきた世界に囚われてしまっている。
それ以外を持たないが故に、それ以上を持てなかったが故に、自らが知る世界だけを頑なに信じ、それ以外を信じることができないのだ。
そして、この信仰に似た信条であるが、裏返すと命を賭ける、賭けられるだけの度胸と力を常に求めているということである。
当然の事であるが、それらは一朝一夕に身につけられるモノではない。先人の教えや絶え間ない努力、自らが積み重ねた経験のみがそれを可能とする。
しかし、彼らにはそのこともわからない。
ただ、自らの力を信じる為に周囲に己の力を認めさせようし、自らの度胸を証明する為に周囲に噛みつくのだ。
今し方起きた喧嘩がそうであったように。
「はぁ、近頃、血の気が多い馬鹿が多すぎる」
顔を晴らした銀髪の若者が担架で運ばれていくの眺めながら、老指揮官はぼやく。
だが、その眼は哀しみを帯びている。
彼は思う。
もしかすると、あの傭兵達の中には市軍に入ることができた者達もいたかもしれない。
厳しい訓練でもってこれまでの価値観を打ち壊し、別の生き方を示せたかもしれない。
だが、エル・ダルーク市の厳しい財政ではこれ以上の人員を抱えることは難しい。
最低限の武器の扱い方を教え、開拓地や郷からの仕事を斡旋するのが精々なのだ。
老指揮官は小さく溜息をついた。
彼は願わずにはいられない。
上層部に上伸した件……旅団船隊の新設が通ることを。
市軍で吸収しきれなかった傭兵達に、真っ当な兵士となる道を示してくれることを望まずにいられなかった。
15/08/05 一部加筆及び文章修正。




