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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
7 開拓者は荒野で祈る
56/96

一 来た道、行く先

「久し振りーって、あらら、なんだか機嫌が悪そうね」


 部屋に入るなり、そう口に出したのは魔導仕掛けの小さな人形。

 光の翼を背負って宙に浮かぶ小人は部屋の主の答えを待たず、すいと飛ぶと広く大きい執務机へと降り立った。それから眩い光翼を消し、表情に苦笑を乗せながら主を見上げる。硬質の容貌は常の如く澄ました顔。が、小人の金色の目には些か異なって映るのだ。


「もう、そんなことはありませんって顔をしても駄目よ」

「そう言われましても、特には……」

「はいはい、魔力って正直なモノなんだから、とーっても色と流れが荒んでいるわ」


 両者はじっと見つめ合うも、主が先に根負けして口を開いた。


「あなた相手では誤魔化せませんか」

「当然」


 小人ことミソラの断言に、部屋の主であるセレス・シュタールは小さく溜息をつく。しかし、次の瞬間には肩の力を抜き、口元に軽い笑みを浮かべた。


「ならば、少しばかり息を抜かせてもらいましょう」

「そうそう、人間、適度な息抜きは必要よ」


 したり顔で大きく頷いて見せる小人に対して、青髪の麗人は心向くままに一言。


「確かに。この世の中には息抜きの間に生きている方もいることですしね」

「ぬ? ……ねぇ、試みに聞くけど、それって誰のことかしら?」

「さて、誰の事だったか。頭の片隅に引っ掛かってはいるのですが……、どうやら忘れてしまったようです」

「ふ、ふーん。セレスでも忘れることがあるんだ」

「もちろんです。私も人間ですから」


 口元を緩めながらの言葉。けれども、まだ声音に硬さが残っている。


「ま、そういうこともあるか。それで、組合で一番麗しい幹部様」

「様付される仕事ではないです。それと、組合の幹部で女なのは私だけなのですが?」

「あら、男にも麗しいのがいるかもしれないじゃない」


 微かな沈黙の後、セレスは何を想像したのか、眉尻を下げながら応える。


「他の方々の実像を知っている身としましては、その、どう答えれば良いか、悩む所ですね」

「なるほど、脂ぎった親父の群と一緒にするなって?」

「……いえ、どちらかといえば、既に枯れ果てて萎びた方が多いですね」

「ぷはっ、あはははっ、あなたも結構な毒を吐くのね」

「毒を吐くなんて、人聞きの悪いことを言います。私はあくまでも事実を口にしただけです」


 麗人は澄ました表情で言い切った後、笑う小人に釣られるように目も柔らかくして微笑んだ。


 そんな姿を視界の隅に認めて、少しは気分転換にはなったかしらね、とミソラは心中で呟く。そうして一頻り笑った後、ミソラは少し態度を改めて口を開いた。


「さてと、まずは私からの報告っていうか、用件を聞いてもらえるかしら?」

「伺いましょう」


 うんと頷いた後、ミソラは咳払いしてから話し出す。


「うちの開発室……第四魔導技術開発室は甲殻材なる新しい素材を開発したわ」

「言葉から察するに、甲殻蟲の殻を使用した素材ですね?」

「そうよ。素材担当が言うに現在の冶金には足りない物が多すぎるらしいから、とおーーーい、ご先祖様方を見習って、今あるモノを利用することにしたのよ」


 獣の毛皮然り骨の鈍器然り等と小人は笑う。他方、麗人は興味を持ったように先を促した。


「今少し、具体的な所を教えてください」

「あいあい。この素材はこの砂海に生息するラティアの甲殻で使えそうな箇所、主に背中辺りの部位を使うわ。それを慎重に加圧成型して形を作ったら、合成樹脂で被膜加工してお終いって感じ」

「聞くだけならば簡単にできそうですが、実際は?」

「あはは、仰る通り! まずもって甲殻の入手先がない! 甲殻の凹凸を取り除くのに時間がかかるっていうか、厚さを均一にするのが難しい! 硬いから成型する段で慎重にやらないと割れる! なによりも合成樹脂の値段が高い!」


 鼻息荒く言い切る。そして一息。


「けど、失われた冶金技術を再現するよりも簡単なのよねぇ」


 調子を普段通りに戻し、ほんと文明が滅んだことを実感するわと呟いて話し続けた。 


「まぁ、そんな甲殻材だけど、試料を作ってみたら軽い割に結構頑丈だったのよ。だから、従来の焼成材装甲と同じように複合化してみたら、これがなかなか使えそうでさ。先にできた試作魔導艇の改良版で試用することにしたの」

「なるほど、あなたがそこまで言うとなると、期待できそうですね」

「おぉ、お褒めに預かり恐悦至極、なんてね」


 ころころと笑うミソラに、セレスは軽く首を傾げ口を開く。


「ところで、その装甲材の名は?」

「単純に甲殻装甲よ。物は見たままを表す方が楽だからね。……あぁ、それとさっき言ってた魔導艇だけど、クロウが帰ってきたら、また試験する予定よ」

「彼の人ですか?」

「ええ、そうだけど?」


 麗人は現地からの報告により、クロウがアーウェルの騒乱に少なからず関わっていることを知っている。故に、赤髪の少年に対して、なんとなく気の毒な心持ちになりながら告げた。


「いえ。ただ思い出すに、彼の人がこちらに戻るまで、後半旬(十日)はかかるはずです。戻って早々となれば負担も大きいでしょうから、別の方に任せてはいかがです?」

「いやー、それも考えないではないんだけど、あの荒野を疾走する得も言われぬ爽快さを味わった以上、私ももう一度乗りたい気分なのよねぇ」


 小人はきししと一頻り笑い、ついで表情を改めた。


「でも、こんな私情以外にも理由があってね」

「また彼の人を鍛える為だとの名目に、無理難題を強いる訳ですか」

「ぬ、その言い方、セレスの私に対する見識を一度訪ねたい所ね」

「聞きますか?」

「……碌でもない評価を聞きそうだから、遠慮しとくわ」


 ついと目を逸らせるミソラ。金色の瞳は麗人の背後、窓の外に見える青空をしばし泳ぐ。それからしばしの沈黙。小人はこれ以上の追撃がないと見るや再び顔を引き締めた。


「話を戻して……、真面目な話、この試験を前に、クロウに航法士の資格でも取らせようかなって思ってるのよ。話を聞く限り、クロウって航法の基礎的な知識を持ってるみたいだし、四等なら取れるでしょ」


 セレスはこの言葉に含まれた意を読み取って切り返す。


「件の魔導艇は四等の力量があれば、操船が可能なのですね」

「可能よ。後これは私見だけど、あれが実用化して普及したら、開拓地とのやり取りとか非常時の連絡とか、間違いなく色々と便利になると思う。とは言っても、必要とする所に届かなければ意味がないわ。だから、開拓地の人でも手が届きやすいように配慮してほしい所ね」

「わかりました。実用化の暁には、その辺りについても善処しましょう」


 ミソラはよろしくと応じた後、表情を崩した。


「そんな訳でこっちの用件は終り。……で、次はあなたを不機嫌にさせていたことについて聞かせてもらおうじゃないの」


 この言葉に、組合の女幹部は少しばかり躊躇した様子を見せる。小人は更に続けた。


「さっきの様子だと鬱屈っていうか、鬱積してるモノがあるんでしょ。友人の心身を健全に保つ為に、愚痴くらい聞いてあげるわよ」


 優しげな声音。それに引き出されるように、シュタールの姫は短く応えた。


「アーウェル市関連のことです」


 そして、手元の書類に視線を落とす。

 そこにあったのはアーウェルの組合支部から届けられた報告書で、人的被害や経済損失、これから復旧復興に必要となる資金や資材についての概算値、更には報告者から見た市内の空気と市民の状態といったことが書かれていた。


 ミソラは表や数字が並ぶその紙を一瞥した後、アーウェルで騒乱が発生したと聞いて、クロウが巻き込まれたかもしれないと、慌ててセレスを訪ねた記憶を思い出す。自然、顔を顰めた。


「やっぱり酷いの?」

「東部域の発展が十年単位で遅れる程に」

「なるほど、それは確かに腹立たしいでしょうね」

「無論、それもあります。ですが、それ以上に、みすみすこのような事態を許してしまった己に不甲斐なさを感じています」


 耳良い声音に微かに滲んだ感情。普段ならば決して見せることがない生の心。隠し切れていないそれは、苦々しさを含んだ口惜しさ。ただそれだけで、セレスの思いが伝わってくる。

 もっとも、小人はその思いに沿うことなく、むしろ少しばかり咎める瞳で麗人を見上げて告げた。


「セレス。それは思い上がりというものよ。この世の中、万事うまくいく、うまくやれる、なんてことの方が奇跡なのよ?」

「それは……」

「ええ、頭では分かっているでしょうけど、心がわかっていないわよ」


 小人の糾弾に対し、セレスの眉根が不快に歪む。


「それはいけないことですか? 自らの力不足を口惜しく思うのは?」


 少しだけ語勢が強い。反発心の静かな発露だ。


「悪くないこともないわ。いえ、むしろ、それはきっと尊いものなのでしょう。……けどさ、そういう思いを抱いていていいのは、そういったことを時々体験する人だけじゃないかしら? むしろ、セレスみたいに日常から様々な物事に対処する為に、後手後手に動かなければならないなんて人は、もっと割り切らないと駄目よ」

「その物事の裏では命が潰えるかもしれない、というのにですか?」


 怒りが滲む冷たく厳しい目。それを見つめ返して、ミソラは笑う。


「ふふ、まずもって見ず知らずの誰かの命を思うなんてさ、私以上に傲慢で不遜としか言いようがないわ。……人は神にはなれないし、なろうとしてもいけない。人はどこまでも人であるべきよ」

「答えになっていませんが?」

「あら、これこそが答えじゃない。人は全知全能の存在にはなれないし、それを倣っても決して全てを万能に為し得ない。人の心と身体はそこまで強くはないもの」


 ミソラの目には、表情を消して睨むように見つめてくる顔が映っている。ただそれだけで硬質の美貌は冷たく冴え、麗人の美しさを引き立たせた。

 あー、確かにこりゃ、並みの男なら委縮して目を逸らすか逃げ出すかするでしょうね。小人は背筋に走る怖気を楽しみながら、ただ続けた。


「人は弱い生き物よ。解し溶かすことができなかった鬱屈や鬱憤……負の感情は淀んで心底に降り積もる。それはいつしか凝り固まって心身を蝕む重石となり、遂には人格を圧し殺す病、或いは狂気となる」

「誰もが、必ずしもそうなるとは限りません」

「否。人が感情を持つ以上、そこに例外はないわ。もしもこの先、あなたが今と同じままで在ろうとするならば、あなたは必ず、セレス・シュタールという唯一無二の個を自ら殺すでしょう。そして、その結果、その先において救えるかもしれない命を見放すことになるわ」


 確定した未来を諳んじるような小人の言葉。それでも尚、セレスは怯まない。


「一先ず、私の先のことは置くとしましょう。ですが、後ろの意見には納得いきません。今現在、手が届く場所にある命を救えずに、先の命を救えるはずがありません」

「ふむ、一理あるって言いたい所けど……、現実は? 届く場所に、その手は届いているの?」


 ミソラは疑問という形で、事実を間接的に再指摘する。


「それは……」

「ええ、さっきも言ってたけど、届くこともあれば届かないこともある。過去も今も未来も、これは決して変わらない。認めざるを得ない現実であり、受け入れざるをえない事実よ」

「それでも私は……、私は、足掻きます。足掻きたいのです。私に為せる力がある以上、より良い結果を、求めたいのです」


 麗人は一言一言を噛み締めるように呟く。その姿はまるで泣くのを我慢する幼子を思わせる。小人は目を柔らかくして言った。


「セレス・シュタール。あなたは、この荒れ果てた人の世を再び発展させようと動いている、偉大な魔術士よ。でもね、その重荷は決してあなた独りで背負うものじゃないわ。この地に、この世界に生きる者全てが……、ええ、それこそ誰もが背負うべきモノ。だからさ、もっと肩の力を抜きなさいな」


 青髪の魔術士は黙して応えず。ただ耳に入る言葉を拒否するように瞳を閉ざした。


 ミソラはその頑なな様子を見て、困ったように頬を掻く。

 うーむ、単純に他人の責任まで自分のモノにするな、仕事ばかりにかまけて私生活を犠牲にし過ぎたらダメ、もっと生きることを楽しんで心に余裕を持ちなさい、って感じの事が言いたかったんだけど……、上手く言えないというか、うん、それ以上に、使命感や責任感があり過ぎるのも問題だわ。


 そんな感想を抱きながら、小人はとりあえず今日はこれ位にしておこうと肩を竦めた。



  * * *



 盛陽節第四旬十一日。

 赤髪の少年は魔導機と並んで、エフタ港の埠頭に立っていた。

 午前の日射しの下、彼の目に入って来るのは港湾の日常風景。船溜りに着船している複数の魔導船、傍らのサザード号では船体の点検と魔力を補給する作業、接岸した船と倉庫との間で往復する人足達、市内に至る港湾門への道ではコドルが曳く荷車が行き交う。

 この場所のありふれた光景である。けれど、三旬(九十日)という時と異郷での経験が、ただそれだけの光景が実は大切なものなのだと、少年に教えていた。


 そんな彼に声を掛ける者がいる。


「エンフリード、忘れ物はないか?」

「ええ、大丈夫です」


 クロウが振り返ると、魔導機教習所の同期がいた。偉丈夫と言うに相応しい体格の持ち主、レイル・ウォートンだ。

 その彼に対して、クロウは更に続ける。


「身の回りの物はパンタルに乗せてますし、ラストルも降ろしました」


 そう言って、傍の魔導機を見る。

 己が乗機としているパンタルと、前面の大きなガラス窓が印象的なラストルが並んでいる。


 レイルは微かに頷くと、クロウの隣に並ぶ。それからエフタ港湾の賑わいを眺めて呟いた。


「やはり、港は活気がある方がいいな」

「本当ですね」


 クロウは首肯する。

 アーウェルの閑散とした港湾が記憶に新しい為、尚更そう思うのだ。


 男二人、港の光景を、機兵が守るべきモノを見つめる。


 不意に、レイルは表情を真面目なものにして同輩に向き直った。


「今回は色々と世話になったな、エンフリード」

「いえ、こちらこそです。大きい街はエフタぐらいしか知らなかったから、色々と見知る事ができて、本当にいい経験になりました」

「なら機会があれば、また仕事を頼んでいいか?」

「ええ、その時は声をかけてください。基本、エフタにいますから」

「ああ、その時は頼む」


 浅黒い手が差し出され、クロウは力強く握り返す。


 武骨に節ばっていたが、暖かな手であった。


 握手を解いた後、不意にレイルの男らしいが崩れる。


「後は、ここにフィオナがいれば良かったんだがな」

「はは、仕方がないですよ。急ぎ仕事で今日の夕方には船を出す以上、忙しいのはわかってますし、挨拶自体は昨日の内に済ませましたから」


 そう言って、クロウは昨夜、雇主であった交易商人フィオナ・ファルーレから船長室に呼び出された時のことを思い出す。


 雇主からの呼び出しはそれまでなかった事だけに何事かと出向いてみると、明日は忙しいので今晩の内に挨拶を、ということだった。


「エンフリード殿、今回は助けられた。ありがとう」


 そして、まずもって述べられたのは礼。

 クロウはただ仕事をしだけなのにと目を瞬かせていると、女商人は少し面白そうに笑って告げた。


「あまり自覚はないかもしれないけれど、エンフリード殿がアーウェルで為したことは、あの街の危難を取り除く大きな力となった。なにしろ跋扈していた賊党の討伐に騒乱を主導した首魁の撃破だ。お陰で東部域も落ち着き始めたし、私達みたいな交易商人は安心して動ける。本当に、鹵獲品とはいえ、ラストルを報酬に渡されるのも頷ける話だ」


 面と向かって褒められるのには慣れていない為、クロウは言葉短く、ありがとうございますとだけ返した。


「いや、それはこちらがいうべき言葉だよ。この世の中は不思議なもので、エンフリード殿の成果に釣られる形で、私に対する信用まで上がったからね」


 正直に言うと考えてもいなかった事態だが、私個人としてはありがたいことだ、と続けて、女商人は綺麗に片づけられた木目美しい執務机、その引き出しより分厚い封筒を取り出した。


「本当に、レイルが自信をもって推薦するだけのことはある。うちの専属にとは言わないから、また仕事を請けてくれたら嬉しいね」


 そう笑顔で続けた後、手渡されたのは仕事の報酬。後で数えてみると、当初の提示額よりも割り増された額であった。


 そして、その報酬は今もクロウの懐に収まっている。懐が温かい気分であるが、それ以上に目に見える形で評価されたことが、どうにもむず痒い。けれど、どこか心に虚しさがある。


 そんな気分を一つ首を振って払い、レイルに笑いかけた。


「誘ってくれてありがとうございました。ウォートンさん、お元気で」

「ああ、また会おう、エンフリード」


 最後は言葉短く、二人は別れた。



 クロウはラストルを埠頭に残して、自宅がある機兵長屋へと足を向ける。

 けれども、途中にある総合支援施設を見て、先に魔導機の整備を頼んでおこうと思い直した。

 なにしろ、乗機たるパンタルはアーウェルでの一連の働きでかなりの負担を掛けている。エル・ダルーク協定に基づいて、アーウェル市軍が破損個所を修理補修をしてくれたが、やはり自らが信用している所に見てもらいたい気持ちがあったのだ。

 また件の報酬、市軍より譲られたラストルをどうするか、誰かと相談したいという気持ちもあったし、世話になっている魔導機整備士エルティア・ラファンに用事もある。


 クロウはパンタルの行き先を変えた。


 見知った道を歩き、見知った建物が近づくにつれて、少年の口からほっと小さな吐息が漏れる。エフタを離れて以降、無意識の内に鎧っていた心が解れ始めたのだ。


 少し心軽く、施設に入る。

 途端に作業音や整備士の声が奏でる喧噪。三旬前と変わらず、忙しそうな整備場の風景。整備用懸架には土木作業用と思しきラストルが固定され、骨格や油圧管等が剥き出しになっていれば、作業支援車が作業腕で背部装甲を持って運んでいる。


 いつの間にか見慣れていた光景。そこに聞き馴染んだ声も耳に入ってくる。


「四番懸架、作業終了です!」

「わかった! 保管懸架六番に移動させろ! ……っと、ラファン、お前は一旦休憩だ!」

「え?」

「ほれ、お前が担当している、愛しの機兵がお帰りだ」


 整備を監督していた主任整備士、ダーレン・ブルーゾがからかいの言葉と共に、出入口を顎でしゃくる。

 無遠慮なからかいに抗議する間も惜しいかのように、繋ぎ姿の少女は急いで振り返った。眼鏡越しに見えたのは、一機のパンタル。両肩の装甲部へ素早く視線を走らせる。右肩に描かれた機兵番号は間違いなく一〇四九八九。左肩には大書された一の字。間違いなく、自身と関わり深い少年機兵のものだった。


 少女の顔に喜色が生まれる。

 もみあげ長い主任はその変化を目の当たりにして、少しほっとした。なんとなれば、アーウェルで騒乱が発生したことが伝わって以降、少女の顔に憂いが浮かんだり、不安そうに首を振ったりしていたことを度々見ていたのだ。それだけに心配をしていた。


 まぁ、でも、エンフリードなら解決してくれるだろう。


 そんな楽観的な思いを抱き、ついで年若い機兵を随分と信用している自分に気付いた。いい大人がと思わず苦笑しながら、少女の背を押すように声を掛けた。


「ほれ早く行って誘導してこい。ここに来たって事は整備の依頼だろうからな」

「は……、はい!」


 元気な返事を残して、エルティアは駆け出した。

 作業していた整備士達は手を止めて、少女の後姿を見送る。誰からともなく溜め息が漏れた。


「はぁ、最近、元気なかったから声を掛けようかなって思ってたのに」

「俺も、次の休みが同じ時にでもって考えてた」

「ちくしょう、俺もだよ。……正直にぶっちゃけると、あの揉み応えありそうな胸とむっちりとした尻、すっげぇ好みなんだがなぁ」

「僕、あの眼鏡姿がいいなって前から思ってたんですけど……」

「時々見える項もなんかもそそったんだよなぁ」


 名残惜しげに、口々にぼやく整備士達。彼らを見て、呆れた様子のブルーゾが首を振った。


「やめとけやめとけ、今の反応でわかるだろう。あの様子じゃ、今のお前らの話が聞こえても反応すらしねぇだろうよ」


 実際の所、エルティアは今の男達の会話を耳にしていれば、赤面の一つはする。単に幸か不幸か、気が付かなかっただけである。その彼女はというと、久し振りに顔を出した機兵の下に辿り着くや早くも誘導を始めていた。


 その顔は生き生きと輝いている。


 ブルーゾは一番若い部下の年頃らしい姿を微笑ましそうに見た後、作業の手を止めた他の部下達を眺めやり、無慈悲に宣した。


「諦めろ。今のラファンにゃ、お前らは鼻から目の内に入っちゃいねぇわ。さすがに置物とは言わねぇが、精々がただの仕事仲間って奴さ」


 止めを刺され、幾人もの男達が呻きと共に肩を落とした。



 クロウはエルティアに導かれるまま、乗機を懸架に固定させる。


「……はい、固定確認しました! 降りても大丈夫です!」


 馴染みある明朗な声。

 少年の心は不思議と安らぐ。どうしてかと考えて、苦しかった教習所での訓練からずっと世話をしてもらっているからだろうと当たりをつけた。


 起動キーを抜いて、固着部を開放。

 各所で固定が外れる音がして、正面装甲が跳ね上がっていく。開口が大きくなるにつれ、外よりも高い整備場の熱気が入り込み、肌を撫でる。

 こちらを見上げる眼鏡をかけた少女の姿も目に入った。女らしい身体つきが繋ぎ越しでもわかる為、少しばかり目のやり場に困る。自然と、顔に視線を集中させた。肩口まである黒髪に変化はない。ただ、緑瞳の下に隈ができていることに気付いた。


 アーウェルの騒乱について知ってから、あまり眠れていないのかも。


 そんな思いを抱いていると、件の少女が口を開いた。


「改めてお帰りなさい、クロウさん」


 この何気ない声に、何故か胸を衝かれて、クロウは言葉詰まる。


 アーウェルでの出会いと別れ、楽しかった思い出と辛く悲しい出来事、非常の最中に経験した殺しと破壊、目の当たりにした惨劇とその爪痕、そして、自分の日常へと戻ってきたという実感と安堵。


 そういった記憶や感情がどっと押し寄せたのだ。


「うん、ただいま、ティア」


 だから、少年は大きく息を吐いて、ただそう返すので精一杯だった。


 一方のエルティアは久しぶりに少年を見て、少し変わったように感じた。姿形はあまり変わっていないはずなのだが、精悍さを増した印象を受けたのだ。


「クロウ、さん?」

「ん、ああ、ごめん。降りるよ」


 クロウは気合を入れ直すかのように首を一振りして、手早く固定具を外して機外へと降り立つ。それから目の前に立つ整備士の少女と整備場の様子とを見る。少し余裕がありそうだった。

 ならばと、操縦席の後ろに引っ掛けられた鞄と脚部追加装甲は内側の収納より預かり物を取り出した。


「それは?」

「先に渡しておくよ。これ、ティアのご両親から。こっちが手紙でっと、こっちが預かり物」


 クロウは鞄から三通の封書を取り出し、大きく膨らんだ布袋と共に差し出した。


 エルティアはそれらを呆けた表情で見つめるだけで動けない。それをどう勘違いしたのか、クロウは自分の口から自身が見てきた様子を話した方が安心できるかと口を開いた。


「ティアのご両親、二人とも無事に暮らしてたよ。おばさんはアーウェルの家にいるし、おじさんはサエラ郷で整備の仕事している」


 実はクロウ、商船の護衛としてサエラ郷に赴いた際、エルティアの父親にも会ったのだ。終始、彼と娘との関係を気にしていたが、穏やかで仕事熱心な為人は目の前の少女に通じるものがあった。


「病気もしていなかったし、例の騒乱にも巻き込まれなかったから怪我もしていない。まぁ、二人ともティアのことを凄く心配していたけど、元気にしてた。ああっと、詳しくはこの手紙を読んだらわかると思……う?」


 少女の目からほろりと雫が零れ落ちた。


「あ、あれ、どうしたんだろ、二人とも大丈夫だって、し、しんじてたんですけど」


 そう言う間にも次々に涙が溢れて、慌てたように眼鏡を外す。


 素顔は初めて見た気がするな、なんて思考を飛ばしながら、クロウは天井を見上げる。


 ついで一息。


 一歩エルティアに近づいて、自らの胸の内に抱き寄せた。


 誰かが小さく口笛。


 おそらくブルーゾさんだろうなと思いながら、すすり泣く声が止まるのを待った。


 それから、十分弱の後。


「うぅ、すいませんでした」


 顔と目を目一杯に赤くして、エルティアはクロウに頭を下げた。


「いや、こっちこそ不意打ちみたいに急に出して悪かったよ。……っていうかさ、このままだと多分謝り合って進まない気がするから、荷物を置きに行きがてら手紙を読んできたらどう? ほら、ブルーゾさんも了解してるみたいだし」


 もみあげ長い主任整備士はニヤニヤとどこか厭らしい笑顔で頷いて見せた。


 少女はそれで先程の抱擁を思い出して、より一層紅くなる。


「じゃ、じゃあ、荷物を置いてきます。……すぐに戻りますから!」


 そう言い残して、エルティアが女性用の更衣室へと駆けていく。その後ろ姿が見えなくなると、ブルーゾがクロウに話し掛けてきた。


「おぅ、男振りを上げたな、エンフリード」

「相手がティアだったから、って言っておきます」

「くく、どうだかな。後、長い仕事、お疲れさんだったな」

「順番が違う気がしますけど、久しぶりです、ブルーゾさん。今回の仕事は疲れましたよ」


 ブルーゾは少年の声に微かに滲み出た疲労を感じて、表情を曇らせる。


「そうみたいだな。……アーウェル、酷かったか?」

「ええ、酷い被害でした。今回の雇主も復興するには時間がかかるだろうって言ってました」

「そうか。蟲共ですらやっかいなのに、人同士で諍いなんざやりきれんな」


 クロウも同意して頷いた。心にある虚しさが蠢く。


「そうですね。向こうでできた知り合いも同居人を亡くして……、見ていて辛かったです」

「そうか。……ところで、知り合いってのは女か?」

「へ? え、えぇ、そうですけど?」


 瞬間、敵意というべき程でもないが尖った視線を複数感じた気がして、クロウは周囲を見渡した。整備場に変化はないように見えた。


 首を傾げていると、早くもエルティアが戻ってきた。


「ティア、読まなかったの?」

「はい、両親が無事だとわかって一先ず安心できましたから。それよりも今は仕事です!」


 当然ながら隈と泣いた跡は残っている。けれども、表情は生気で満ち溢れていた。その様子にブルーゾは肩を竦めて笑い、作業の監督へと戻る。


 クロウもまた少女の様子に安堵して、話し出す。 


「じゃあ、改めて……、今日の依頼だけど、こいつの整備を頼めるかな?」

「わかりました。通常整備ですか?」

「いや、分解整備でお願い。……アーウェルでごたごたがあったことは聞いてると思うけど、その関連で結構派手にやっちゃってさ。市軍の人に部品とか交換して直してもらったんだけど、やっぱりティアにちゃんと見てもらいたい」


 少年からの依頼。エルティアはそこに含まれた信頼と信用を感じて、整備士としての自負が満たされた気がした。自然と笑顔になって応じる。


「わかりました。分解整備、しっかりとさせてもらいます」

「よろしく。後それとなんだけど、実はその……、アーウェル市軍からラストルを貰ってさ」


 思わぬ話に、エルティアは相槌も打てずに目を丸くする。クロウはどう説明するかと頭を掻きながら話し続けた。それ程、心浮き立つものではなかった。


「例の騒乱での働きに対する報酬としてくれたんだ」

「そ、そうなんですか」

「うん、今は埠頭に置いてきてるんだけど、これをどう扱おうか悩んでる。だから相談に乗ってほしい」


 少年の困った表情を認めて、エルティアは我に返る。どうしようかと考える前に、首を縦に振っていた。彼女も気になる相手から頼られて悪い気はしないし、応えたいと思うのだ。


「わかりました。私も一緒に考えますね。それで、そのラストルはどうします?」

「あー、一応見てくれるかな? こっちは点検整備でいいから」

「了解です」


 ならと取りに行こうとする少年をエルティアは押し止める。そして、上司たる主任に呼び掛けた。


「主任! クロウさんがラストルの整備も頼みたいそうです!」

「あぁ、聞こえてた。飯の種だ、ありがたくお受けしましょう」


 そう答えるや、比較的余裕がある整備士達を見繕い、指示を出した。選ばれた二人が現場を離れて魔導機運搬車へと走っていく。それを見ていると、ブルーゾがクロウ達に告げた。


「ま、エンフリード、お前さんは少し奥で休んで行けや。ラファンを泣かした責任とってな」


 そう言って笑い、奥の休憩室を親指で指差したのだった。



  * * *



 クロウが機兵長屋に戻ったのは昼過ぎであった。

 エルティアと共に休憩室に移動してから、ラストルについての相談やアーウェル市関連の話、不在の間のエフタ市の話、エルティアと両親の話、最近発売された魔導機関連装備の話といった具合に長々と話しこんでしまい、時間が時間だからと昼食も共に食べた結果である。

 クロウにとっては仕事の邪魔をしたと思いつつも、エルティアとの会話でエフタに戻ってきたことを実感できて、心安らぐ一時であった。


 また機会があれば食事に誘ってもいいかな等と思いながら、部屋の鍵を取り出す。

 その時に横目で並びの部屋をちらりと見る。同じ長屋に住む先達達はそれぞれ仕事に行っているようで、生活音がしない。二人にも戻った挨拶をしないとな等と考えつつ、鍵を開けて中に入った。


 中の空気は暑かった。

 乾燥し切っていて、少し埃っぽい。魔導灯を灯す。青白い光りが駐機場を満たす。けれど、主のいない空間はがらんとしていて寂しい。先に整備場に行って良かったのか悪かったのか、なんてことを思いながら奥へ。居住空間につながる扉を開けた。


 こちらは二階がある為か、ひんやりとした空気。

 ほっと息を突きながら戸を閉め、着替え等が入ったを背負い袋を降ろす。ついで、自身も板間に腰掛け、そのまま寝ころんだ。


 背に当たる冷たく固い感触が気持ちいい。そのまま、ぼうと暗い天井を見上げる。


 脳裏に思い浮かんでくるのは、騒乱が収まった後のアーウェル。


 度重なる爆発で破壊された街並み。

 そこに住まう人々は誰もが沈鬱で、街中にかつての賑やかさはなかった。黙々は壊れた場所を直す職人や人足。警備に立つ市軍は殺気立っており、街路の空気は強かった。地下路地を行けども子どもの笑い声は聞こえず、代わりに悲しげな泣き声が聞こえてきた。再開した商店からの呼び込みは控えめで、往来する人々の表情も硬いまま。ただ、港湾を出入りする魔導船の数が増えていった。


 自然と浮かぶモノが関係を持った踊り子へと移る。


 同居人を失った踊り子も気丈に振る舞っていた。

 けれど、朝会う時にはその目が赤かった。それが気になって、仕事に余裕があった時は二度三度と踊り子の家に赴き、時に思い出話に夜通し付き合ったりもした。感極まって涙を零す度に抱きしめ、肌と肌を合わせて人の温もりを与えて慰めた。

 どれだけ大丈夫だと本人が言ったとしても、親しい人を失った悲しみは癒えないものなのだと、改めて思い知らされた。


 一人で大丈夫だろうか。

 そんな思いを抱いて、彼我の距離を感じる。せめて定期的に手紙を送ろうと心決めた。


 少年の想起は踊り子の顔から騒乱の後始末へ流れていく。


 移民達の蜂起は、アーウェル市軍による鎮圧という形で終わった。

 市軍は市内の混乱を両日中にある程度治めると、門扉を破壊された東門に封鎖線を設けて、内外の出入りを遮断。五日後に討伐に出ていた武装魔導船が帰還すると、移民街の周辺を武装船で取り巻いたのだ。

 ここに至って、今後の対応を巡って内輪で揉めていた移民街の顔役……徒党の頭目達は騒乱を主導した者達を差し出して、全面的に降伏した。


 しかし、その動きは移民街にとって、何の意味もなさなかった。

 騒乱三日後に緊急で行われた民会において、全徒党の解散と移民街の解体、騒乱に関わった者への重罰及びその血族の域外追放、更には新規移民の受け入れ停止を求めることを決定し、市長に要求したのだ。


 アーウェル市長は態度を保留していたが、討伐隊の帰還を期に民会の要求を全て受け入れた。


 結果、為されたのは市軍による強硬な捜査と徹底した破壊。

 移民街へ突入した市軍部隊により、徒党に組みする者達は騒乱に関係あるなしに係わらずに捕縛され、居住施設もまた住民を退去させた上で全てが破壊された。この動きの中、抵抗を試みた者は問答無用で捕えられ、時にはその場での射殺もあった。


 そんな市軍の手荒い働きを、アーウェル市民は無言で肯定した。

 先の騒乱での犠牲者は四百二十三人。負傷者はその倍以上。誰もが市軍の対応を批判しない程、突然の凶行に巻き込まれた人々の怒りと悲しみは大きかった。むしろ、時を経るごとに喪失感が広がるにつれて、それらは増幅されて収まる気配はなかった。


 それ故、市民が要求した全てが即座に実行された。

 市長及び民会の代表者が判事を務める簡略な裁判で、碌な取り調べも弁護もないままに、騒乱の当事者達や徒党の幹部に対して次々に出される判決。鉱山での懲役刑を主にして、時に開拓地での懲役、稀に死刑が言い渡された。そこに無罪は存在しなかった。

 次に為されたのは、騒乱関係者血族の域外追放。私有財の所有を認めた上で、新規移民の受け入れ停止を通告する文書と共に東方領邦の出身地へと送り出した。

 最後に残ったのは、移民街の家を失った者達。彼らは番外地……貧民街へと放り込まれた。受け入れ先となる貧民街はかなり渋ったらしいが、移民街で出た廃材を市が運ぶことを条件に折れた。


 不意に、クロウは市民達が貧民街へ移動する移民達に向けた目を思い出す。


 嫌悪と憎悪が入り混じった、厳しく冷たい視線。


 それは相手が女子供であっても変わらなかった。


 アーウェル市民は時に迷惑なことするとはいえ、移民を共に暮らして生きる仲間だと信じていた。それが最悪の形で裏切られたのだから、人々の認識が変化して、移民に心許さなくなったのも無理ない話ではあった。


 アーウェルはこの先どうなるんだろうな。


 そう考えても想定できなければ予想もできない。


 己の頭の出来に溜め息が一つ。


 吐いた息は重かった。



  * * *



 自宅で荷物の整理をした後、クロウは再び外に出た。

 機兵管理係に帰還した旨の申告をすることに加え、必要となる食料品や日用品の買い出し、使用した衣服の洗濯出し、砂海金庫への預金といった具合に、やるべきことがあった為である。


 そんな訳で少年は帰還の挨拶回りを兼ねて、エフタ市内を巡る。


 最初に赴いたのは、馴染みの洗濯屋。

 溜まった洗濯物を出して、簡単な世間話。誰々と誰某が結婚しただの何某の子どもが病気しただのと、市井のついて軽く情報を得る。それから路地裏で近道して、エフタ市庁へ。

 一階にある軍務局に赴いて、知己の担当職員に手続きをお願いする。すると、どこからか青年将校が現れた。階級章は大尉。彼は情報部の者だと告げて、アーウェル市の状況や騒乱について質問をし始めた。優男然とした風貌に似合わず、問答は矢継ぎ早。記憶力が試されることとなった。

 そんなこんなで疲弊していると、手続きが完了。まだまだ絞り足りなさそうな大尉から這う這うの態で逃げ出した。

 思わぬ奇襲にぐったりとしながらも、今度は砂海金庫へ。整備費用や生活費等の必要分を除いて、報酬を口座に入れる。通帳に記載された数字を見て、ちょっと元気が出た。ただ、どこか虚しい。そのまま並びにある組合エフタ支部に向かう。

 残念なことに懇意にしている中年職員ヨシフ・マッコールは休みだった。なので、顔見知りの職員に戻ってきた旨を伝えてもらうように頼んで退散した。

 その足で商会通りの東側、商店街を歩く。陽は西に傾いた位であったが、気が早い者達が夕食の食材を買い求めていた。そういった人々に紛れ込みながら、馴染みの店に顔を出して必要な物を揃えていると、常連となっている理髪店が目に入った。

 自然、長くなった髪を触り、男は清潔さと身嗜みが大事との教えを思い出して、中へ。挨拶もそこそこに、綺麗さっぱりに切ってもらった。そのこと自体は良かったのだが、仕事をさぼって遊んでいた商店主達から家庭の、特に奥方に対する愚痴を聞かされて、女って怖いと思わされた。


 こうして商店街での用事を終わらせると、自宅のある西ではなく東へと足を向ける。

 商会通りは商店街の端、三階建ての集合住宅が立ち並ぶ団地に行き当たって終点。そのまま団地の通路を行く。かつて住んでいた場所だけに慣れた物。日陰の道を選んで進む。

 グランサー時代に聞き馴染んだ生活音。子どもを怒る母親の声。バタバタと駆け抜ける足音の連なり。道端で姦しく笑いあう女達。日陰で老人達が縁台で盤上遊戯をしている。

 歩調を落として、そういった営みをしっかりと肌で感じながら進み、遂には外周道である市壁循環道に出た。この市壁沿いの道を今度は北へ。

 真っ直ぐに伸びる道の先には砂海の青い空と農業区画の緑が見えた。どこか故郷で見た景色に似て、懐かしさが胸に湧き起こってくる。

 しばらくして、左手に港湾通りに至る街路と緑溢れる緑地帯、それに並行してかつての市壁が見えてくる。生み出された木陰では老夫婦がベンチに座り、年若い男女が抱き合って二人だけの世界を作っている。


 見て見ぬ振りで古い市壁を抜ける。そして、右手にある敷地に入った。

 外と変わらぬ赤い地。けれども、数本並んだ果物の木の周囲には雑草が生えている、また柵で囲われた菜園で葉物野菜が育っているのが見えた。奥からは子ども達の元気な声が響いてくる。源は古ぼけた二階建ての建物。

 煉瓦と人工石でもって作られたそれは、故郷を失ってエフタに来た彼を育ててくれた孤児院であった。



 急に訊ねたにもかかわらず、手の空いていた職員達はクロウを温かく迎え入れた。


「クロウ君、久し振りねぇ」

「元気にしてたか?」

「機兵になったからって、無理はするなよ?」


 職員達の年齢層は様々であるが、比較的年配者の割合が高い。クロウから見て、賑やかな小父さん小母さん、或いは歳の離れた従兄や従姉といった感覚である。今、顔を合せているのは比較的歳を経た職員達だ。


「あはは、お久し振りです。近くに住んでるのにあまり顔を出せなくて、申し訳ないです」

「いや、もう独立したんだから気にすることはないさ」

「そうそう、自分の生活が第一よ」

「そう言ってもらえると気が楽になります。後、これ……、少ないけど寄付ってことで」


 そう言って、クロウは封筒を差し出す。中には千ゴルダ紙幣が五枚入っていた。


 まだ若いクロウからの義金。瞬間、職員達は目を丸くして口々に訊ねた。


「クロウ君、大丈夫なの?」

「ああ 無理する必要はないんだぞ?」

「いや、ここで経済観念は鍛えられましたから、自分の生活を削ってまでなんて怖くて怖くて」


 だいたい、そこまでお人好しじゃないですよと笑った。職員達はその言葉を信じた訳ではないが、少年の心意気を察して微笑んだ。


「なら、ありがたく頂戴するわ」

「助かるよ」

「いえ、俺も上の人達にしてもらったことですから。ところで、院長先生は?」

「ああ、院長室にいるよ。顔を出すか?」


 そう問われて、クロウはどうするか考える。


 ……なんとなく、顔が見たいと思った。


「なら、少しだけお邪魔します。……あ、案内はいいですよ、部屋は変わってないんですよね? 自分で行きますから、日暮れの闘争(夕食)に向けて休憩しててください」



 職員達と別れ、クロウは孤児院内を歩く。

 一階は食堂や調理室、浴室、学習室、作業室、職員室といった部屋で占められている。勝手知ったる場所だけに迷うこともない。

 道中、学習室で居残り勉強していた後輩達がクロウに気付き助けを求める一幕もあったが、監督職員による愛の拳が落とされて沈黙した。いつか辿った道を目の当たりにして、思わず笑う。


 懐かしさに身を浸しながら、最奥に位置する院長室の前。惑いも躊躇なく戸を叩く。


「はい」


 この地に来てから独立するまで、ずっと耳にしていた落ち着いた声。いつも通りに柔らかかった。


「クロウ・エンフリードです」

「あらま、クロウなの? どうぞ、お入りなさいな」


 失礼しますとの声を出して戸を開ける。この作法もいつの間にか覚えていたなと思いながら中へ。


 心落ち着く香草の匂いが鼻腔を満たす。四リュート四方の空間は大きく開かられた戸からの光で明るい。主の性格が出ているのか、天井まである高い書棚には綴り物が綺麗に並んでいる。


 そんな部屋の奥に小さな執務机。

 座しているのは小柄の女性。既に初老の域に入っており、短い髪は白く褐色の肌には皺が相応に刻まれている。目鼻立ちも決して美人とは言い難い。

 けれども、それ以上に愛嬌が感じられ、年経た者だけが持てる朗らかさと何よりも相手を包み込むような母性が滲み出ていた。


「お帰りなさい、クロウ」


 組合連合会立エフタ孤児院の院長、エリザ・ルビーニは久しぶりに見た少年の顔に相好を崩す。


 クロウも肩から力を抜いて応えた。


「ただいまです、院長先生。……特にこれといって用事はなかったんですけど、なんとなく顔が見たくなりまして」

「ふふ、人間、そういう時もあるわ。そう考えるとクロウも大人になったのかしら?」

「どうなんでしょう? 正直、俺にはわかりません」


 エリザは少年の答えに、当人から見ればそうかもしれないわねと頷く。そして、ここではなんだからと庭に出ましょうかと誘った。クロウはエリザを追う形で開かれた戸から出る。


 市壁と煉瓦で造られた垣根。

 その内側にある庭は大砂海であることが信じられない程に緑で溢れていた。

 一面の芝生。奥にある背の高い常緑樹がさわさわと枝葉を揺らす。その木陰は微かに湿り気を帯びており、香草が群生している。また所々に低木と草花が茂っており、華やかな彩を添えていた。


 孤児院にいた頃の、彼の記憶にあるのとあまり変わらない姿。


 クロウはほうと溜め息。


「いつ見ても、凄いですね」

「私にとって唯一の趣味であり、何よりもこの孤児院の癒しでもあるもの。……まぁ、年を取るにつれて世話が大変になってきているんだけどね」


 ふふと笑い、開き戸の脇にある長椅子に腰掛ける。クロウも腰かけた。


 しばしの時、二人並んで緑満ちる庭を眺める。


 半時間ほどが過ぎ、ぽつりとエリザが呟く。


「クロウ、悩み事かしら?」


 少年は首を振ってから答えた。


「ちょっと仕事で疲れました」

「それは、機兵の?」

「……はい」


 小さく頷いて、クロウは己の内にある思いを言葉に変えながら、前だけを見て訥々と話し出す。

 アーウェルへ赴いて様々な人に出会ったこと、仕事で賊を何人も手にかけたこと、人を守る為に人を殺すことに矛盾を感じたこと、人を殺す重さに耐えきれずに他人へ責を求めたこと、大きな騒乱に遭遇して人の悲しみを目の当たりにしたこと、殉職した市軍機兵の葬儀に立ち会ったこと、葬儀が終わった瞬間に母親が泣き崩れたこと、一つの社会が大きく変化する様を見たこと、蟲という大敵があるのに人の内で諍いが起きること、そのことに虚しさを感じたこと……。


 エリザは黙したまま、それらを全てに耳を傾ける。


 そして、クロウの口から言葉が出なくなったのを見計らい、端的に告げた。


「クロウは、機兵であることが辛いの?」


 少年はわかりませんと言い、更に続けた。


「院長先生には言ってたと思うけど、元々は魔導機の限定免許を取って、それを基に土木について学んで、開拓地の起こし方を覚えていくつもりでした」

「ええ、ええ、覚えてますよ。その為に、グランサーになってお金を貯めるって言ったこともね」

「はは、心配かけてすいませんでした」


 数年前の空回りを笑う。しかし、その笑いを収めて告げた。


「でもね先生、グランサーになったこと自体には後悔してないんだ。三年……、いや四年かな? 毎日毎日、砂と瓦礫と暑さと戦って、蟲に怯えて時に追われて逃げて、旧世紀の遺物を見つけて喜んで、見つからない日が続いて腹が立ったり嫌になったりして、生きることの大変さを十二分に知ったから」


 一息入れて、再び口を開く。


「それに、グランサーだったから縁を結べた人もいるし、出会えた人もいる。それが悪くない縁だとも思ってる」

「そう」

「うん。ただ……、機兵になった事に関しては、正直に言うと分からない。いや、分からなくなった。今までは多分、機兵の良い所だけを経験していたから肯定的だったけど、今回の仕事で辛い所を体験したから」


 エリザは己で答えを出そうとしている少年の姿に成長を感じる。だからこそ、それを後押しすべく表情を厳しいものにして告げた。


「クロウ。自分の一生は他の誰でもなく、自分で決めるものよ」

「……はい」

「でも、現実はそうじゃない時もある。ええ、時に人は一つの道にしか生きられないこともあるの。これは苦しくも幸せなことよ。選ぶこともできずに進まなければならない、或いはただ一筋に惑いなく進めるのだから」


 クロウは院長へと向き直り、その言葉にただただ耳を傾ける。


「そして、人は時に、今のあなたのように、複数の道を前に惑い止まることもある。これは難しくも幸せなこと。惑いの中で己が道を選び取らなければならない、或いは数多くの中から選び取れるのだから。……でもね、クロウ、覚えておきなさい。後者は前者を内包しているの」


 少年は真剣な顔で頷く。


 エリザは表情を緩めた。


「だからこそ、クロウ、この先の生き方を選べるだけの力を得た事を喜びなさい。そして、大いに惑い悩みなさい。それはとても贅沢な悩みであり、今の世の中ではできるようでできない生き方なのだから」


 そして、少年を労わるように肩を抱き、自らに引き寄せた。額と額が触れ合う。クロウに向けられた真っ直ぐな視線は慈しみの色があった。


「この先、あなたがどのような生き方を選ぼうとも、ええ、人倫に背かぬ生き方をする限り、私はあなたの亡くなられたご両親に代わり、それを認め、祝福しましょう」


 優しく紡がれる言葉がどこか照れくさくて、胸の内が痒い。


「だから、どんなに苦しくても辛くても、悲しくても全てが嫌になったとしても、自らの鼓動が止まるその時まで、生き抜きなさい。自らの生を全うすることは、あなたという存在がこの世に生まれた時に、綿々と紡がれてきた生命の糸から課された使命なのだから」


 クロウはもう一人の母とも呼べる人の言葉を、強く強く心に焼き付けたのだった。

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