七 紅に染まる
第二旬十日。
アーウェルの東、ドライゼスの稜線より姿を現した光陽は天への階をゆっくりと昇っている。
世界を昏く覆い尽くしていた夜闇は西の彼方へと去り、遮るものなき空は主の輝きと共に少しずつ青さを深くしていく。それと同期して夜の間に冷え込んだ気温も確実に上昇しており、港で荷役に励む男達の身体からは早くも汗が噴き出ている。
魔導機パンタルの中より、その様子を見守っていた赤髪の少年は今日も一日暑くなるなと心中で呟いた。
「おぅ、エンフリード」
そんな彼に掛けられる声。
後方の伝声管より聞こえてきたのは、最近になって聞き覚えたしゃがれた響き。ラーグ級小型魔導船ヴェラ号の主にして船長のカルロ・ベナッティの声であった。
「もうすぐ積み込みが終わりそうだ」
「そうですか。なら、予定通り出発ですか?」
「ああ、そのつもりだ。……が、おめぇに言いたいのはそれだけじゃねぇ」
何か含むモノがある物言い。陰湿なものではなく、面白がる調子である。
それが気にかかってクロウが機体を振り返らせると、にやにやとした厭らしい笑みが出迎えた。少年が何事だと不思議に思う間もなく、楽しげな顔の老船長は話し出す。
「おめぇ、人に女を口説くのは難しいだの言いながら、ちゃっかりやることやってやがるじゃねぇか」
「へ?」
クロウの口からは間抜けた声。
だが、船長の後ろはヴィラ号の側舷、その向こうにある突堤に見知った顔を二つ認めて、全てを理解した。
「あー、あの二人はここに来てから知り合ったっていうか、うーん、なんて言ったら良いのかなぁ」
「んな弁解なんざぁ、後でじっくり聞いてやらぁ。それよりも、ほれ、おめぇと話がしたいってよ」
「そうですか。すいません、なら少し話させてもらいます」
「気にすんな。おめぇの仕事は道中の護衛だからな。今はゆっくりして構わねぇって奴だ」
といった具合に、ベナッティは面白そうな顔を崩さぬまま機体の腰を叩き、船上での作業を監督すべく歩いて行った。クロウもまた機体を動かして船縁に寄り、機体前面部を開放させた。
少年が機内より顔を覗かせたのを受けて、来訪者の二人、ラウラとニコラは相次いで口を開いた。
「おはよ、クロウ!」
「おはようございます、エンフリード様」
「うん、二人ともおはよう。それで、どうしたんだ? こんなところまで」
クロウが首を捻って発した疑問。途端、緋髪の踊り子は口を尖らせた。
「なによ、随分な言い方。クロウが仕事に出るって聞いてたから、見送りに来たのに」
「いや、俺の事よりも自分達の事っていうか……、今日の引っ越しの方を気にした方がいいんじゃないか?」
「それはそれ、これはこれよ。それとも何、私達がこうやって見送りに来るのって、迷惑?」
そう言ったラウラの、どこか切なさを感じさせる目が少年を見上げてくる。
こういった目に苦手意識があるクロウは表情に困りつつも短く応じた。
「そんなことないよ」
「んふふ、そうでしょうそうでしょう」
クロウの返事に、ラウラは表情を一転させて笑う。そこにニコラが口を挟んだ。
「ラウラが話をすると中々本題に入りませんので、ここからは私が」
「え、ちょっ」
「エンフリード様はこれから仕事です。用件は手短に言うべきです」
「う、そうだけどさ。ほら、ちょっとくらいはこういう会話も必要っていうか……」
徐々に声音が小さくなり、遂にはごにょごにょと言葉を濁らせた踊り子を尻目に、相方の奏者は改めた調子で話し出した。
「先日は私達の問題に手助け頂き、ありがとうございました」
「ああ、うん」
「エンフリード様の助力がなければ、こうも上手く事は運ばなかったと思います」
「いや、あれ位ならどうってことないさ」
「エンフリード様からすればそうなのかもしれません。ですが、私達は本当に助かりました。ですから、そのことへの感謝といいますか、以前お話しした通り、相応のお礼をしたいと思いまして」
少年は感謝やお礼という言葉から踊り子が口にした言葉を思い出し、ちらりと当人を見る。
目が合った。
次の瞬間にはラウラの顔が髪の色に負けず劣らず赤く染まった。
クロウは苦笑して首を振る。
「俺がした事を考えると、前に言われた条件は貰い過ぎかな」
「事実として救われた以上、私としては構わないと思うのですが」
神妙なニコラの声。しかしながら、声音はどこか楽しげである。
その事に少しばかり憎らしさを感じつつ、ラウラは少年の顔を見る。慌てた様子も見せず余裕の態。それは自分が女としてまったく気にされていないというようにも見えてしまう。特に今の自身を鑑みると、自分だけが強く意識しているようで、そのことが切なくて腹立たしい。
そんな女心に気付いているのかいないのか、再び少年が告げた。
「いや、こっちが構うよ。俺から見て、ラウラが良い女だと思うだけにね」
踊り子の心臓がどきりと跳ねた。
「だからこそ、俺がした事と釣り合わない」
「それは時と場合により変わるモノだと思いますが?」
「そう、変わったから過大になるんだよ」
どきどきと胸を高鳴らせつつ、心の奥底で、ニコラもう少し頑張れなんて具合に考える自分がいる事に気づいて、一層身体が熱くなる。
「それに良い女は自分を安売りしない、なんてことを誰かに聞いた覚えがある」
「つまり、ラウラにもそうあって欲しいと?」
「あー、そう言う訳じゃなくて……、ラウラはラウラ本人が望むままにあればいい。ただ初めて会った時の、男を掌で転がすような雰囲気って言ったらいいかな? その姿を見て、単純にラウラがそうなんだろうなって思ったんだよ」
「私からすれば、それこそ過大な評価だと思います。ええ、ラウラを良い女だと言ってくださいましたが、中身はどこにでもいる普通の女です。確かに踊りを生業とするだけあって、身体はきっと見れたものなのでしょう。ですが、むしろ日常はだらしなくて騒がしくて手が早くてそそっかしくて面倒くさい? そんな極々普通の女です」
相方の冷たい言葉の数々に昂揚していた心身を一気に冷やされ、ラウラは小さく肩を落とす。
それから安堵と不機嫌がない交ぜになった複雑な表情で口を挟んだ。
「あ、あのさ、二人して好き放題言ってくれてるけど、私を置いて話を付けるのはなしだからね」
「なら、ラウラは最初の条件でいいのか?」
「う……、べ、別に構わないけど、そ、その、クロウが望むままに委ねるわ」
「とのことらしいんだが……、ニコラ?」
包帯で目を隠した奏者は小さく溜め息をついた後、首を一振り。それから気を取り直したように話し出す。
「では、エンフリード様のご要望に応じて、こちらの対価を見直します。そうですね……、今日からしばらくの間、いえ、エンフリード様がアーウェルにおられる間、私達が夕食を供するというのはどうでしょうか」
「具体的には?」
「私達の家で食事を作りますので、ご一緒にいかがでしょうか」
この申し出について、クロウは二人の負担が大きいのではないかと考える。
だが、それと同時に対価の件がうやむやにできそうだから、これでもいいかとの思いが湧いてきた。付け加えるならば、この異郷の地で独りで飯を食べるのも寂しいと感じていたこともあるし、せっかくできた縁も大切にしたいとの思いもあった。
故に、少年は首を縦に振った。
「了解。その申し出を受けさせてもらうよ。ただ、条件が一つ」
「お伺いします」
「いくらお礼とはいえ、ただ食べさせてもらうだけなのは心苦しい。だから、材料費の一部は出させてほしい」
この言葉にニコラは口元を緩めて応じた。
「それは男の甲斐性というものでしょうか?」
「あはは、まぁ、そういうことにしておいてくれていいよ。……あ、ただ、今日は遅くなることが確定しているから」
と言った所で、後ろから老船長の濁声が響いた。
「おぅし! 今日は我がヴィラ号再出発の日だ! 機関全力全開でぶっ飛ばすぞ! たとえ二往復しようが、帰還目標は陽が落ちる前後だ! 気合入れろよっ、てめぇら!」
「わかっとるわかっとる、儂らも早う帰りてぇからの」
「つぅかよ、白髭、そういった気遣いを普段から俺達にもしてくれや」
「しかし、エンフリードの野郎も機兵らしくもてるっていうか、こりゃ据え膳って奴じゃなかろうか?」
「だな、酒に酔わせて押し倒しちまえばいい」
「くふふっ、案外、逆に喰われたりするかもしれんぞ」
続いて聞こえてきた歳経た船員達の声。
クロウは思わず天を仰ぎ、ニコラは噴き出して笑い、ラウラは顔を赤らめたのだった。
同じ頃。
移民街のある家屋では、モルブラード移民共栄連盟の首領が港湾に差し向けた手下の報告を聞いていた。
「頭、一通り巡ってきやしたが、例の若ぇのの姿は見えやせんでした」
「聞き込みはしたのか?」
「へぇ、人足をやってる連中にそれとなく聞いてみやしたが、今日は見てないとの事です」
「そうか。……てめぇは昼過ぎまで港か南門辺りで、あの若造が来るかどうか、監視を続けろ」
「わかりやした、昼過ぎまで監視しやす。それで、見かけた場合ですが、その時はどうしやす?」
「ああ、そん時も戻って報告しろ」
「了解しやした」
比較的気の利く手下を送り出した後、中年男は顎を撫でながらこれからどうするべきかを考える。
十秒も経たぬ内に答えは出た。
そして、今更考えることでもなかったなと口元を歪めて笑い、昨日件の若者が手土産に持ってきた酒を煽る。安酒ではありえない酒精の強さと辛味が美味かった。
上機嫌のまま、近くに控えていた痩身の男を指で招く。モルブラード移民共栄連盟を結成する前からの配下で、なんらかの計画を立てる時に重用してきた側近とも呼べる男だ。彼と例の若者とを引き合わせたのもこの男である。
もっとも、頭が良いだけで組織内での人望はなきに等しく、人を使うのも下手であった為、任せられる仕事は限られていた。
そんな参謀役に首領は血走った目を向ける。それから鼻息を荒く吹き出した後、重々しく告げた。
「陽暮れ時から始める」
「では、前に話をしていた手筈通りに駒を動かします」
「ああ、役立たず共を中に放り込んで仕込みを始めろ。それから騒げ。騒いで騒いで注意を向けさせろ。適度に注意を引いた後に、ボンっ、だ。……その後で、俺達が街の中を美味しく頂く」
その時を想像したのか、首領は下卑た声で笑う。眼鏡の男も酷薄に微笑み頷いた。
* * *
昼下がり。
アーウェル市内は休日らしい賑わいを見せていた。
生活道とも呼べる地下通路を人々が行き交い、商う者は注意を引こうと懸命に声を上げる。風の塔直下の辻広場では幾多の男女が老若
関係なく仲睦まじい姿を見せれば、地上の緑地帯では親達が見守る中、子供たちが嬌声を上げて駆けている。路地では肩組をしてふらふら歩きながら酒を煽る者や日陰になった場所で酒瓶を転がして眠りこける者もいる。
それは人が生きている場所で、当然にあるというべき光景である。
だがしかし、アーウェル市東門周辺ではそういった常の様相とは異なる状況を見せていた。
常と異なるのは門の外側。移民街各所に伸びる道の基点である半円型の広場である。
門に至るまで数多くの荷車が渋滞して並び、百人以上の移民達が屯しているのだ。
彼ら一人一人が何気なく作り出す物音。一つ一つまとまりのない小さなそれらが重なり合い、ざわざわとしたざわめきが広場を満たしている。そのことがより一層、場の空気を常ならぬモノへと変えていた。
その広場に小さな荷車があった。
男一人いれば曳けるような小さな車で、年季の入った荷台にはそれ程物は載せられていない。ただ、周りには老若男女が肩を寄せ合うように集まり、妙にざわついている辺りに不安そうな目を向けている。
そんな一団の傍には、外套を被った大小二つの影。緋髪の踊り子と盲目の奏者だ。並んで立つ二人は周囲を警戒するように、頻繁に首を動かしている。
不意に、ニコラが門がある方向で頭を止めて、声を発した。
「ラウラ、門で誰かが騒いでいるようです」
「あー、この渋滞の原因かしらね」
「おそらくはそうなのでしょう」
とラウラの意見に頷いた後、ニコラはでもと首を傾げた。
「ですが、少しおかしく感じませんか?」
「おかしいって、この人出のこと?」
「はい。いくら今日が休日とはいえ、こんなに人が出てくるのは違和感があります」
「えー、気の所為じゃない? 普段は滞りなく流れているから意識しないだけでさ、これ位はいつも通りなのかもしれないじゃない」
ニコラは相方の言葉に反応せず、ただじっと耳に入る物音を聞いているようだ。その様子を横目に見ながら、踊り子は柄の悪そうな男達に注意を向けつつ更に話し続ける。
「まぁでも、確かにこの渋滞からは早く解放されたいかな。余計なちょっかいを出してくる馬鹿が出てくるかもしれないし」
「ええ、そうですね。できれば早い所、門を抜けたい所です」
そうこう言う間も列は動かず、ただ五分十分と時が流れていく。
元より気が長くないラウラは徐々に苛立ち、鋭い目を門がある市壁へと向ける。いつの間にか、門の周囲に人だかりができていた。てめぇ、いきなり検査なんてふざけんなよ、なんで俺らがそんなことをされなきゃならねぇんだっ、といった具合に騒ぎ立てる声も聞こえてくる。
不機嫌顔のラウラは出る時は特に問題もなかったのにと眉根を寄せ、次いで市が通行規制でも始めたのだろうかと考えて腕を組んだ。自然、外套越しに身体の線が浮かび上がり、気が付いた者が目を向ける。もっとも当人は気にすることなく、ただ大きく息を吐いて、こういう日もある、仕方がないことだと言い聞かせ、気分を鎮めようとした。
だが、それから更に二十分三十分と時間が経ってくると、踊り子の眉根が急激に角度を上げていく。更に言えば、断続的に続く荒々しい抗議の声が耳に障り、より一層に気分を悪くしていた。
そして、遂に苛立ちから生まれた怒りが口を衝いて出た。
「もぅっ、いったいどれだけ待たすのよっ!」
若い女の声を聞きつけてか、周りの男達が一斉に顔を向けてくる。しかし、怒りと苛立ちで尖りに尖った視線を向けられると、人相の善し悪しに係わらず、即座に知らぬ顔で目を逸らした。
整った顔を台無しにしているラウラに対して、ニコラが静かな声で告げた。
「ラウラ、気を静かに」
「でもねぇっ、出てくる時は普通だったのよ! 今はどう考えても長すぎでしょう!」
「そうですが、今のあなたの態度は褒められたものではありません」
「ふん、別に褒められるような態度ができる生い立ちじゃないわよ」
「ええ、私もそうです。けれど、皆が怯えます」
極めて平静な声での指摘。
緋髪の踊り子は世話を任された者達からのおどおどとした目に気付き、不承不承といった態で口を閉ざした。そういった態度を感じ取ったのか、奏者は微かに口元を緩めて囁く。
「まぁ、エンフリード様なら呆れた顔一つで受け入れてくれそうですけど、ラウラの女としては評価は落ちるでしょうね」
「む、ぐぅ、なんでクロウなのよ」
「もちろん、あなたが意識しているようですから」
「……否定はしない。でも、いいわよ、別に。落ちたとしても別の所で……、うん、この健康的で色気溢れる身体で取り返すから」
自信が滲み出た声。
しかし、ニコラはわかってないなと言わんばかりに首を横に振り、乾いた声で応じた。
「そう簡単にいかないと思いますよ。手順を間違えたとはいえ、あなたの色仕掛けを一蹴した方ですから」
「くっ、ここでそれを持ってくるか」
否定したくても否定しきれない。
ラウラの胸にはその思いがあり、悔しげな表情で呻いた。そんな彼女に追撃ちを掛けるように、ニコラは続ける。
「それにしても、ラウラは思っていたよりヘタレでした」
「な、なによ、いきなり」
「朝の事です。今みたいに、あそこで対価は私の身体でとでも言っておけば、もしかしたら」
「え、いや、ほら、でもね」
「私が思うにエンフリード様のような方はそういないでしょう。捕まえる捕まえないとか、そういったことを抜きにして、あなたを女にする相手として相応しいと考えていたのですが……」
「ちょっと待った! これ以上の話は後で!」
ニコラの真顔での意見はラウラの怒りを掻き消した。否、それ以上に恥ずかしさ或いは居たたまれなさともでも言うべきか、そういった感情に襲われたのだ。
その為、踊り子は何とか話を打ち切ろうと目と頭を動かす。都合の良いことに、列が前へとゆっくり動き始めた所であった。この動きに便乗して、踊り子は相方に言う。
「ほら、前が動き始めたわ。進みましょう」
「わかりました。話は後にしましょう」
ニコラも同意して頷いた。
それからラウラ達は少し進んでは止まるという動きを何度も繰り返す。先のやり取りがあった所為か、ラウラは大人しく我慢している。そうしてのろのろと進み、ようやく門の前までやってきた。
門前には市内に入ろうとする列の他、五十人近い移民が集まっている。
どうやら先程の騒ぎを聞きつけてやってきた者達のようだ。そして先の騒ぎであるが、今は下火になっているようで声は幾分か小さい。だが、依然として続いているようであった。
ラウラ達が耳を傾けてわかったのは、市軍が昼頃から入る者に対して唐突に身体検査や荷物検査を実施し始めた為、移民の一部が反発した。その結果として、騒ぎになったようだった。
ラウラもまた眉根を曇らせる。
「うわ、手荷物の検査はしてたけど、身体検査なんて初めてじゃない?」
「そうですね。でも、どうしてこんな急に?」
「わかんないわよ、そんなこと。あー、でも、相手が悪いと変な所を触ってきそうで嫌だなー」
踊り子が溜め息をついて首を振っていると、ニコラが懐から三枚の紙を取り出した。その内の一枚には身元保証書と記され、彼ら全員分の名前と複数人の署名が入っていた。
「移民に対する目が厳しくなっているからと、顔役様に言われて用意しましたけど、通用するでしょうか」
「あー、クロウにもお願いした奴?」
「ええ、機兵免許証の写しとその証明書を頂きました」
ニコラが口にした物は組合が発行したもので、クロウの身元を証明する書類でもある。
「うーん、まぁ、どっちにしろ、私達にやましい所なんてないし、堂々と行きましょう」
「賛成です」
二人の話がまとまり、着いてくる者達にもその旨を伝える。
そして、門直下での検査の様子が見えてきた。
通路には車止めが設けられて、通れる場所が狭くなっている。その置き方から元々は二列ないし三列を想定していたのだろうが、例の騒ぎを起きたことで狭くなった通路の半分以上が人だかりで詰まっている。その残った部分で検査をするにせよ、中から出る通路としても使用している為、流れが著しく悪くなっていた。
だがしかし、それだけが原因ではないようで、どうやら市軍の検査担当の対応にも問題があるようであった。
というのも、検査を担当する兵士が乱暴なのだ。
顔の吹き出物が目立つ若い兵士で言動が荒い。毎日のように利用していたラウラ達も知らない相手である。今も乱暴かつ適当な身体検査や荷物検査を終え、検査した相手を突き放すように解放した。移民は悪態をついてから中に入っていく。
「次!」
不機嫌そうな声が響き、ラウラは思わず顔を顰める。
他方、例の兵士は踊り子の容姿を認めて、だらしなく相好を崩した。
「へへ、次、早くしろ」
厭らしさが篭った声音。
踊り子の肌に悪寒が走る。自然と脳裏に浮かんだのは赤髪の少年の姿。凛々しい顔と力強い身体、穏やかな声に柔らかい笑み、峻烈に輝く目と威厳を感じさせる背中、そして、垣間見えた陰。締りのない顔をした目の前の兵士とは雲泥の差だと思った。
それでもラウラは一団を率いる者として、どうせ触られるのならクロウの方が数億倍いいわ等と思いながらも前に進もうとした。
が、その前にニコラが立つと、先の身元保証書を差し出した。
「身元保証書があるのですが、これで検査を免除していただけませんか?」
「あん? ……っち、軍曹!」
どうやら字が読めないようで、兵士は騒ぎの様子を、特に移民の動きを注意深く監視している上司を呼んだ。呼ばれた中年の男はすぐにやって来た。厳つい面であるが、ラウラ達も見知った顔であった。
「ラウラとニコラか」
「こんにちわ。実は教会で世話をしていた人達を貧民街に移すことになりまして……」
「そうか、遂にまとまったのか」
「はい、それでなのですが」
と、ニコラが三枚の書類を声の方向へと差し出した。軍曹は若干ずれた位置に差し出されたそれらを受け取ると目を通し、軽く笑った。
「保証人は番外地の顔役に光明神教会の神官、それに公認機兵か。……中々に得難い縁を手に入れたな」
「得難い、ですか?」
「ああ、知っているかは知らないが、この公認機兵は近隣に出没していた賊党を制圧したからな、うちの市も信を置いている。……ふむ、組合の印は本物で、昨日発行したばかりか。なら問題はないな」
そう言い置くと、軍曹は騒ぎを収めるべく奮闘している青年将校の下へ赴き、書類を見せながら一言二言。相手からは頷きと共に了承を得られたようで直ぐに戻ってきた。
「少尉の了解を得た。荷車の検査だけで、手荷物と身体の検査は免除する。ただし、本人かどうかを確かめる為に、この書類に乗っている名前を読み上げるから、呼ばれた者は返事をしてほしい」
ラウラの口からは安心するような吐息。面白くなさそうにしてる若い兵士を自然な風体で無視して、率いている者達に明るい声で告げた。
「みんな、聞いたわね? この人に名前を呼ばれたら返事をするように、わかった?」
東市門傍の屯所、その前の広場でラウラ達が検査を受けている様子を見つめる者達がいた。
一人は眼鏡をかけた青年、もう一人は筋骨逞しい壮年で、両者共にアーウェル市軍の制服を纏っている。着けた階級章から青年が大尉、壮年が曹長であるとわかる。
その彼らであるが前任者が更迭された後、東屯所の体制を立て直す為に送り込まれた者達であった。
青年大尉は門が混雑する様子を鋭利な目で観察しながら、隣に立つ壮年の曹長に評した。
「対応が今一つだな」
「申し訳ありません。しかし、突然の検査命令な上、人手が足りていない以上、これが精一杯であります」
この返答に頷いた後、東屯所の長を務める大尉は昼頃になって届いた命令書と警戒情報を思い出して声を潜めた。
「ところで曹長、例の情報だが……、本当に移民街で武装蜂起が起きると思うか?」
「魔導機十機に加え、武器爆薬の類を手に入れているとの話を耳にしております。また、我が軍が賊党の征伐と群団への対応で戦力を吐き出している現状を考えますと、ここ数日中に起きるという情報は頷かせるものがあります」
曹長も身体に見合わぬ密やかな声で応じた。そして、足早く市内に向かう移民を見ながら続ける。
「我々にこういった検査を実施させる以上、少なくとも司令本部は警戒を要するだけの情報を得たと思われます。事が起きることを覚悟しておく方が良いかと」
「そうか……、そうだな」
大尉は短く答えると、懐から小箱を取り出して紙煙草を抜き出した。壮年の下士官はそれを見咎めるように眉を上げた。
「見事に悪癖に染まりましたな」
「教えた側がよく言ったものだ」
かつては教練の教官と教え子という間柄であった二人は互いに口元を歪めて笑う。
それから青年は曹長に一本差し出し、自身も煙草を咥えて火を灯す。しばらくの間、二人は静かに紫煙を燻らせる。耳に入る門での騒ぎは収まる気配を見せない。
その騒ぎを耳で堪能しながら半分程喫った所で、大尉が表情を元の真面目なものに戻して話し出す。
「あの騒ぎ、もしかすると」
「かもしれません」
「本当に、現実味が出てきたか。……確認する。曹長、もし仮に事が起きた場合、うちで対応し切れるか?」
「常ならば、相応に。しかし、現状では難しいでしょう。本来であれば、この屯所で待機している魔導機は五機。それが一連の戦力抽出で今は一機です。兵の数も再訓練に半分送った上、残りの半数を監視塔に送っています。この場にいる人員にしても、ご覧のように決して規律や練度、士気が高いとは言えません」
大尉は眉を顰める。
「再訓練の連中を戻してほしい所だな」
「要請は?」
「一応しておいたが、おそらくは明日だろう。だが、訓練未了でも数があると心強い。なにしろ、監視塔の連中は絶対に使えんからな。そういった時こそ周辺への警戒監視を第一としなければ、蟲共への対処が遅れる。……やはり、現状では食い止めきれない可能性が大ということか」
「残念なことに、その通りかと」
曹長の同意に、青年は渋い顔で頷いた。
その際にずれた眼鏡を押し戻して、目の前を通り過ぎていく一団を見やる。自然、先頭を行く緋髪の女に目を引かれた。見覚えがあった事もあるが、それ以上に生き生きとした表情に惹かれるモノがあったのだ。
けれども、彼は首を振って意識を直近の脅威へと向ける。
「では、仮に現状で起きた場合、本部からの援軍が到着するまでは屯所に篭って持久戦をするか? ……いや、それだと街中に入られる。最低限の目標は、街中への侵入を許さないこと。なら、門や屯所の防衛に拘らずに水道橋辺りまで退いて、本部からの援軍と合流して第二線を形成した方が無難か」
呟きと共に思考をまとめて、大尉は傍らの壮年に告げた。
「曹長、再訓練の連中が戻って来るまでだが、門の守備を第一に動く。その門を仮に奪取された場合は、水道橋周辺まで下がって防衛線を形成する。そう下士官連中に言い含めておいてくれ」
「了解しました」
曹長は敬礼すると、早速門へと向かった。その後ろ姿を見送った若い大尉は苦み走った顔で頭を掻いた。
「しかし、不穏な状況に群団の襲来が重なるか……、不運としか言いようがないな」
声の響きにも苦いものが含まれていた。
* * *
斜陽がアーウェルを茜色に染める。
街並みが生み出す陰影は一日の終わりを見せつけるかのようにゆっくりと伸びていく。それに影響されてか、街行く人々の動きも心なし忙しない。
街の東側に位置する移民街では東から夜闇が迫り来ることもあって、特にその傾向が強いのであるが、今日は些か異なる。門前の渋滞はまだ少し残っていることに加えて、市軍の対応に不満を持った者達が門前に集って抗議の声を上げているのだ。
百人近い群衆に取り囲まれた若い少尉は疲労の色を見せつつも、気丈な態で何度も繰り返した言葉を再び告げる。
「今日の検査はあくまでも一時的な措置であって、恒常的なものではないんです。ですから、ご協力ください」
「だから、どうして検査をするんだよ!」
「本部からの命令です」
直接文句を言っていた柄の悪い男が吐き捨てるように叫んだ。
「理由は命令だ命令だ。この、くそたっれが! 理由になってねぇぞ! 俺は検査の理由が知りてぇんだっ、理由をっ!」
「そうだっ! 俺達は何も変なことはしてねぇ!」
「いくら市軍つってもよっ! 横暴が過ぎるぞ!」
「そうだそうだっ! 俺達が何をしたってんだ!」
取り囲む男達が口々に叫び、場の空気は一層熱くなる。それに煽られるように人々の目はより鋭く、吐き出される言葉はより荒くなっていく。自然、少尉の後ろで控える兵士達は恐怖を感じて半歩下がる。
そこに外からの声が入り込んだ。
「皆、落ち着け! 落ち着くのだ!」
よく通る低い声であった。
場の者達が声が聞こえた方向へと一斉に視線を向ける。光明神教会の老神官が近づいて来る所であった。
「ここで騒いでも争いになるだけで解決にはならん! むしろ主らの行いは通行の妨げにしかなっておらん!」
「へっ、神官さんよ! ならどうしろってんだ!」
「検査は数日の措置と聞く! 自分の身に疚しい所がないのであれば、ここは大人しく従うべきだ!」
「んだとぉ! 俺達は何も疚しいことはしてねぇ! だからこそ、痛くもねぇ腹を探られるのが不愉快なんだよっ!」
そうだそうだと同意する声が群衆のあちらこちらから上がった。
それに気を良くしてか、先頭で文句を言っていた男が身体検査の様子を指差して続ける。
「それに見ろよ、あの対応をよっ! まるで俺達が犯罪者か何かのような扱いじゃねぇか!」
「そうだな、お主の言にも一理ある! 確かに、あの対応はよろしくはないだろう!」
「お、おぅ?」
群衆の中を抜け、中に入り込んだ老神官は声を上げていた移民の言葉に頷き、疲れた顔をした少尉に向き直る。
「皆の不満の一つはあの対応にある。市軍の少尉殿、改めてもらえませんかな?」
「すぐに申し伝えます。なので、今しばらくお待ちください」
「さっきからそればっかりだろうが! だったら早くしろやっ!」
「ええいっ! 主もいい加減に落ち着かんかっ!」
老神官を知る者からすれば信じられぬ程の大喝。
騒いでいた群衆が一瞬で静まった。
「この場で騒いでも! 事は決して解決に向かわん! 否、主らの動きこそ相手に無用の警戒心を与えることを心得よ!」
人々の間で囁きが交わされる。だが、それ以上の声がどこからともなく上がった。
「うるせぇぞ! あいつらが俺達の意見を無視するから、こうするしかねぇんだろうがっ!」
再び賛同する声があちらこちらで上がる。
それに釣られるように、群衆の声は再び熱を帯び始めた。
門前広場の騒ぎが遠く聞こえてくる場所。
移民街の北外縁部、というよりは外れた場所に家屋があった。
元は廃材で作られた粗末な小屋だったものをある徒党が手に入れ、倉庫代わりに使おうと増改築したものだ。もっとも、大きさこそ中々のものであるが、使われている材質は上等とは言えない。
その建物の壁に張り付いて、出入口脇の小窓から中を探る人影があった。
周囲の荒地に溶け込むような赤黒い外套を纏い、顔にもゴーグルやマスクといった面覆いを着けている。夕焼けとも相まって遠目では存在を判別できない姿恰好である。
その人影は息を殺して動かない。
「くそあちぃなぁ。もう少し扉を開けられねぇのか?」
「我慢しろって。本当なら窓も扉も締め切って、鍵をかけなきゃならねぇんだからな」
「でもよぅ、こんな蒸し風呂じゃぁ、動く時に動けなくなるぜ?」
「だから、もう少し我慢しやがれってんだ。これ以上命令を無視すると、首領に半殺しにされるぞ」
開いた小窓から声が漏れ出てくる。
人影が小さく手を挙げる。
家屋の周辺で次々と人影が生えた。
その数は四つ。
それらの影は惑いなく動き、足音も立てずに出入り口へと近づいていく。建物唯一の出入り口は倉庫らしく広い間口。外観には不釣り合いな鉄扉で守られている。だが、その扉も今は少しだけ隙間が空いていた。
それぞれが手信号で意思の疎通を図り、二人がそっと扉の取っ手に触れ、残りの二人が得物を握りしめた。
再び手信号。
小窓より中を探っていた人影が緑色の球形体を取り出した。
そして、底に取り付けられていたレバーを外しピンを抜くと、空いた手の指を三つ立てる。
一つ折り二つ折り、三つ折る前に球形体を小窓から放り込んだ。
半瞬後、閃光と短くも強烈な炸裂音。
「あぐぁ!」
「め、めがぁっ!」
「ちくしょう! なんだっ!」
悲鳴が連なる。
そこに扉が開く音が重なり、人影達が室内になだれ込んだ。
些かの躊躇も見せず、悶える者達へと得物を振るう。
これに反応できる者は誰一人おらず、次々に昏倒させられていく。
やがて動く者がいなくなると、人影の一人が声を上げた。
「制圧六、欠員〇」
「了解」
最後に入ってきた人影……暗部の組頭は短く応じると、屋内に主人の如く鎮座する人型を見やった。三つ並んだそれらは、ゼル・セトラス域で広く利用されているラストルと東方から流出品と見られるゴラネス一四型であった。
「ラストルが二に、ゴラネスが一か」
組頭は帝国におけるかつての主力魔導機を見ながら呟く。そこに昏倒した者達の拘束を終えた一人が声を上げた。
「他の場所もやりますか?」
「いや、他はまだ確証がない」
「では、当初の予定通りに」
「ああ、夜になるのを待って探る」
「了解」
所変わって、市内地下通路に軒を連ねる商店街。
市を南北に別つ東西通りと繁華街との中間にあるそこに、ラウラとニコラが夕食の材料を買いに来ていた。
「ええと、白パンに果実酒、ニニュのモモ肉は買ったし、コロ芋にザニンも買った。後は……」
「香辛料に果物ですね」
「うん、それだ」
踊り子は相方の言葉に頷いて、最寄りの果物屋を目指す。
商店街には二人と同じように買い出しに来ている者で混雑している。その中で売り子の呼び込みが賑やかに響けば、値段交渉に白熱する店主と客の声が白熱を帯びる。繁華街とは色が異なるが活気にあふれている。
もっとも、場所を弁えずに酒瓶片手に騒いだり座り込んだりする者もいたりするのだが、人々は休日であるからと見て見ぬ振りをする。穏やかな生活の一風景だ。
そういった生活の一部に溶け込んだラウラ達が目的の果物を手に入れた所で、俄かにニコラが声を上げた。
「そういえば」
「ん、どうかした?」
「そろそろエンフリード様が帰ってくる時分だと思うのですが、私達、家の場所を教えていませんでしたよね?」
「あれ、そうだっけ?」
「はい、前に送ってもらった時は門の所まででしたし、顔役様との話し合いの時も教えていません」
ラウラは記憶を探るように首を捻ったが、すぐに自身の額に手をやった。
「あちゃー、ほんとだ。教えてないわ」
「ええ、失敗しました」
ニコラは淡々とした様子で頷いた後、微かに笑みを浮かべた。
「そういう訳ですから、ラウラ、迎えに行ってくださいね」
「え、でも買い物が……」
「香辛料なら、私でも善し悪しは判別できます。それよりもお招きする相手を放置する方が問題だと思います」
「いや、でもさ、荷物、結構重いわよ?」
ラウラは自らが肩に掛けた布袋を見下ろす。食材が詰まっており、相応に重い。
「ええ、私も身の程がわかっていますし、あなたに持っていけなんて酷いことも言いません」
「なら、どうするのよ」
「幸い、ここはいつも私達が仕事に使っている場所が近いですから、香辛料を買った後、荷物と一緒にそこで待とうと思います」
「んー、でもさ、後少しだし、ニコラも一緒に行った方が」
踊り子の言葉を遮るように、奏者が告げた。
「ラウラ、私の足に合わせるとどうしても遅くなります。私は自分の所為で、仕事帰りの方を待たせるのは嫌なのです」
神妙な顔。そこから一転、悪戯っぽく笑って続ける。
「と言っても、あなたは納得してくれないでしょうから、はっきり言います。この機会を好機と思って、少しはエンフリード様に女として意識してもらえるように頑張ってください」
「……ぅぐ、わ、わかったわよ。ご期待に沿えるように頑張るわ」
「ええ、頑張ってください。後、意地を張らない素直なラウラが好きですよ」
「ふん、私も意地悪だけど色々と考えてくれるニコラのことが好きですよーだ」
ラウラはそう言って、口を尖らせた。
* * *
陽が彼方の地平線に沈もうとしている。
朝からずっとその時が来るのを待っていた首領の下に、ある報告がもたらされた。
「連絡がこねぇ、か」
「へい、北倉庫からの定期連絡が途絶えやした」
「すぐに人を……、いや、遠巻きに監視しろ。それと、他の連中には魔導機に乗り込んで待つように伝えろ」
「へい、わかりやした」
報告者が足早に去ったのを見届けたると、首領は顎に手を当てている参謀役に声を掛けた。
「意見を言え」
「即座に計画を前倒しした方がよろしいかと」
「理由は?」
「今の報告、例の若造が姿を見せぬことと連動しているように思われます。これ以上の妨害が入る前に事を起こした方が、結果的にこちらの戦力を減らさずに済むでしょう」
「わかった、直ぐに始めろ。それと、俺も魔導機に乗り込む。後はてめぇが差配しろ」
「わかりました」
痩身の男は慇懃に頭を下げた。
ニコラと別れた後、ラウラは一人港湾地区にやってきた。
日没迫る港ではあるが、船の数は少なく人気もまた多くはない。
けれど、埠頭の一つに人足達が集まっているのを見つけて、もしかしたらと近づいていく。
だが、残念なことに船溜まりにヴィラ号の姿はない。
若干の期待があっただけに、少しだけ落胆する。けれどもすぐに、そんなものだろうと立ち直った。
それから何気なく埠頭の先端に向かって歩き続ける。
途中、屯していた人足達が手を振ってきた。余所向きの笑顔で手を振りかえすと、歓声が上がる。以前なら心中で悪態の一つもついたが、今はどうしてかその単純な様子が微笑ましい。
そして、辿り着いた埠頭の先。
港湾出入口から西の地平線が見えた。天の主が一日の務めを終えようとしている。
その様子を見つめていると、夕暮れの中、小さな砂埃が立っている事に気付いた。
それは見る間に大きくなっていき、遂には船影がおぼろげに見え始めた。
きっと朝方見たヴィラ号に違いないと、踊り子は口元を綻ばせた。
東市門前の広場。
辺りが目に見えて暗くなり始めたのを気にしてか、門に集まっていた者達が少しずつ散り始めた。それに伴って騒ぎも沈静化していき、酷かった渋滞もいつの間にか解消していた。
昼からずっと対応に当たってきた若い少尉は心底から疲れ切った表情で、緩衝役となってくれた老神官へ感謝の言葉を口にした。
「神官様、間に立って頂き、助かりました」
「いえ、アーウェル市と移民との仲立ちこそ、私が果たすべき責務。それを為したにすぎません。ですが……」
「はい、検査の対応、しっかりと正すようにします」
「ええ、お願いします」
両者の間に苦労を共にした者達だけが生み出せる、和やかな空気が流れる。
だが次の瞬間、その空気は破られた。
「ぼ、暴走だっ!」
「おいっ、気をつけろっ! コドルの暴走だっ!」
広場の方々から声を上げる。薄暗くなった中、少尉と老神官が声に導かれて視線を巡らせば、門に向かって一直線にコドルが駆けてくる。それが曳くのは大量の甕を乗せた荷車。丁度、広場の魔導灯に青い光が宿る。その光に照らし出されて微かに見えた御者の顔は引き攣り、遂には飛び降りた。
「た、退避ぃっ! 退避ぃーーーっ!」
事態を把握した少尉が大声を上げた。
危急を知らせる声を聞いた兵士や検査を受けていた移民達が迫り来る脅威に気付き、我先に逃げ出す。
コドルと荷車は少尉達の目前を砂埃をあげて通過し、門内に突入する。
そして、車止めに衝突した。
重い響きが空気を揺らす。
突然の出来事に呆けていた少尉と老神官が我に返り、急いで現場へと走る。
「おいっ! 大丈夫か! けが人はっ」
鮮烈な光が場を満たした。
大きな爆発音に驚いて、ラウラは思わず振り返った。
埠頭に立ったまま、訳がわからずに目を瞬かせる。そこに丁度、ヴィラ号が入ってきた。
なんとなくほっとして、ヴィラ号の動きに意識を向ける。ラウラが立つ埠頭に近づいてきて、着船態勢に入った。甲板にクロウの魔導機も見える。その姿を見て、踊り子は心身に生まれた緊張と不安が解け始めるのを感じた。
だが、そんな彼女を嘲笑うかのように、市内から再び爆発音が響いてきた。
今度は一度ではない。
時間を置いて、二度三度と何度も続いた。
「な、なに? なんなのよ……」
何が起きているのか理解できず、漏れ出た声は微かに震えている。
残照で色付いた空に、黒煙が幾筋も上がるのが見えた。
増していく夜闇を紅く染める光と共に……。
ラウラの頭の中が白くなる。
次に浮かんだのは、市内に残してきた相方のこと。
「に、ニコラ……」
けれど、彼女の足は主の意向を無視して震えだし、動くに動けない。どうしようと辺りを見れば、集まっていた人足達も驚き戸惑った様子で騒いでいる。
「ラウラっ!」
少年の声に、少しだけ我を取り戻し、顔を向けた。
「今から降りる。そこにいろ!」
「う、うん」
力強い言葉。
ラウラは強張った心と震える身体に力が宿るのを感じた。
ヴィラ号の斜路が降り、岸壁にクロウのパンタルが降りてくる。そして、ラウラの下にやってくると、前面部を開放し顔を見せた。
引き締まった顔に鋭い目。そこに動揺の色は見えない。
「ラウラ、大丈夫か?」
「う、ん、わ、わたしは、だ……だいじょう、ぶ、かな」
「わかった。……ニコラは?」
「ま、まちの中に……」
次の瞬間、ラウラの中にあった不安が意思の枷を破り爆発した。
「ニコラがっ! ニコラが街にいるのっ! 一人でっ、一人でっ、私達を待ってるっ! 急いで行かないとっ!」
「落ち着け、ラウラ!」
「落ち着いてなんていられない! だって、ニコラがっ! ニコラが独りでっ!」
ラウラは思わず駆け出す。が、パンタルの腕に遮られた。
「通して、クロウっ!」
「駄目だ! 今はまだ駄目だ!」
「どうして!」
「中がどうなっているか、安全なのかがわからない!」
「安全とかっ、そんなの関係ないっ! ニコラがいるのよっ! あそこにはニコラがっ! ひとりでっ! ひとりでっ、あそこに……」
いつしかラウラは膝を突き、泣き出していた。
その様子をクロウは悲痛な顔で見つめるが、後ろから足音が近づいて来ることに気が付いて、表情を殺した。
その数は四つ。
振り返る前に、老船長の声が耳に入った。
「エンフリード、そっちの嬢ちゃんは俺達に任せな。それよりもおめぇに至急の話だそうだ」
ヴィラ号の船員達がラウラを労わるように引き取り、優しく立たせた。
それを見届けて、クロウは振り返る。
アーウェル市軍の制服を着た年若い将校が立っていた。息が荒い。南市門脇の屯所で何度も見かけた顔であるが、今は切迫した表情だ。
「南市門警備隊第三小隊長カーチス少尉であります! クロウ・エンフリード殿! アーウェル市軍はエル・ダルーク協定第二項の二及び三に基づき、貴殿に我が軍の指揮下に入るよう求めます!」
「……協定第二項の二と三?」
クロウは記憶を探り、該当する内容を教習所の座学の中より見出した。
それはゼル・セトラス域内諸都市が公認機兵制度を認める際に定められた協定。
この協定の第二項において、ゼル・セトラス諸都市が居住滞在する公認機兵を指揮下に入れることができる条件を定めており、二が居住民が何らかの脅威にさらされた時、三が居住地が何ものかに攻撃を受けた時とされていた。
クロウは表情を厳しいものに変えて答えた。
「受諾します」
「ではまず、南屯所へ!」
「了解です」
少尉は即座に駆け出した。向かう先には半装軌車が待っており、荷台に兵士達が緊張した面持ちで乗っているのが見えた。
少年は傍らに立っている老船長に目を向け、短く頼んだ。
「船長、ラウラのこと、頼みます」
「ああ、任しときな」
クロウは少し陰を含んだ笑みを見せて軽く頭を下げる。それから、前面部を閉ざして走り出した。




