六 天穹は蒼く
少年は呻きと共に目覚めた。
ぼやけた視界は薄闇に沈んでおり、窓の外に陽の光は見えない。ゆっくりと寝台より身を起こす。身体の調子は悪くないようで、すんなりと動いた。しかし、気分はあまり良いとは言えず、大きな溜息が出た。
伸びない背筋、片膝を腕で抱く。
クロウは焦点の合わない目で虚空を見つめ、一昨日や昨日のことを思い出す。
一昨日。
賊の襲撃を切り抜けた後も、疲れる事ばかりであった。
賊を押さえてからはのんびりと救援が来るのを待ち惚け、という訳にはいかず、ラティアの襲撃に備えての警戒である。
至近距離で爆発を受けた影響で、パンタルの油圧管に油漏れが発生したり、右肘関節の制御が効かなくなったりした為、実に精神が削れていく時間であった。
午後にはバルド級が到着して大いに胸を撫でおろせたのは良かったが、いざアーウェルへ帰還となった段で、ヴェラ号は推進器が一つ、バルド級は賊船の曳航とあって、船足は非常に遅かった。市軍からの聴取も航程の三分の一の段階で終わる程である。
ノロノロとした船足でもって、ようやくアーウェルに着いたのは日が変わる寸前の深夜。
老船長より明日は休み、明後日朝八時に船渠に集合との指示を受けてから、これでようやく休めると、ふらふらしながら宿の部屋に戻るや寝台に身を投げ出して……、気が付けば昼前であった。
身も心もまったくもって休めた気がせず、恨めしく窓から差し込む陽を睨んだ。
しかし、それも一瞬。
ぼやけた記憶から朝八時に集合との言葉が浮かぶや致命的な遅刻だと真っ青になり、大慌てでパンタルを預けている屯所へと走った。そして、南市門を抜けた段階で仕事は明後日だったことを思い出し、寝惚けて勘違いしたことに気が付いた。
心からの安堵と自身の呆け振りに、その時ばかりは人目も気にせず、がくりと膝をついて大いに凹んだ。
あまりにあまりな姿だったのか、かなり心配してくれた門衛達に大丈夫ですと何度も頭を下げてから、少し歩いて屯所の前。
折角だからと機体の様子を見に行けば、分解整備の真っ只中であった。この修理修復は賊制圧に対する市軍からの報奨金代わりである。命を預ける機体が綺麗に修復されていくのを見ていると気持ちが大いに上向いた。
だが、その近くに置かれた焼成材装甲だったモノや付着した黒い染みを認めた瞬間、それが生み出された時の状況や光景、更には感触を思い出して眉を顰めた。
ささくれてしまった気分を入れ替えようと、屯所を出て港湾へと出向く。
港湾に面した市軍施設を出入りする軍人や荷車の数が多く、泊地に並んだ魔導艦艇にも人影が多かった。もう賊の本拠地が割れたのかと思いながら歩けば、自然とヴェラ号が入渠した船渠に目が行った。
船がどうなっているのか気になって訪ねてみると、作業音が響く中、老船長と船渠の責任者がなにやら話をしていた。軽い挨拶をしてから耳を澄ませてみると、今日か明日にはなんとか直せるということがわかった。
修理できるという話にほっとしながら、改めてヴェラ号を見る。船首と右推進器に手を入れている所で、後ろ甲板はまだ直せていないようであった。船縁や船隊に残る銃撃痕の生々しさを見て、当時の恐怖がぶり返して震えた。
また気が重くなってきたので、船渠を離れ、繁華街で朝食兼昼食。
戦闘の恐怖や人を殺した感触を思い出した所為か、食欲は今一つな上、味が碌に感じられない。それでも無理やり詰め込んで呻いた。
もういい加減、心を空っぽにしようと港の隅で岸壁に座って呆けていると、入港して来るサザード号の姿。
今回の件を雇主や年上の同僚に報告しなければならぬと思い立って訪ねてみれば、なにやら急ぎ仕事が入ったらしく簡単な話と労いだけで終わり、夕方には荷役を終えて出港して行った。
それを見送った後、なんとなく胸に残るもやもやを抱えて街を行けば、どうにも気が乗らず、この地が異郷であることを意識するばかり。遂にはエフタの自宅を恋しく思える程に気力が萎えてしまい、大人しく宿に帰って就寝し……、今に至る。
クロウはつらつらと振り返って、溜め息を一つ。
それから数秒の間ボンヤリとして、これでは昨日と同じだと頬を両手で叩いた。
ついで、先の醜態を思い出し、部屋備え付けの時計を見る。約束の刻限までは十分に余裕があった。少年は苦笑でもって胸中に生じた情けなさを誤魔化し、朝の日課を始めるべく着替え始めた。
* * *
クロウが決められた時間より少し早めに船渠に赴くと、ヴェラ号の面子は既に船台の前に揃っていた。
少年は自分が一番最後だと気が付いて足早に近づく。すると、直ぐにベナッティが気付いて声を上げる。
「おぅ、来たな、エンフリード」
「おはようございます。すいません、遅くなりました」
「かは、気にすんねぇ、十分に許容範囲内だ」
老船長は機嫌良さげに笑う。
他の船員達も特に問題と思っていないようで、それぞれが口々に挨拶を送ってくる。クロウがそれらに応えていると、ヴェラ号の主は改めて全員の顔を見渡して告げた。
「さて、皆揃った所で今日の仕事について話す。まずヴェラ号の状態だが、昨日、ここの責任者に確認した所、修理は今日中に終わるって話だ。言うまでもねぇことだが、船が動かねぇ以上は仕事も出来ねぇ。よって、今日の仕事は明日に先送りする形で延期する」
クロウは延期と聞き、全体の期日が伸びるのだろうかと疑問を抱く。似た思いを抱いた者がいたようで、誰かが質問の声を上げた。
「白髭、先送りっつうんはよ、一日ずつずらしていくってことか?」
「ん? あ、いや、言い方が拙かったか。今日の分を明日の仕事に上乗せするって形だ」
ああ、そういうことかと少年が頷く一方で、歳経た船員達の口からは溜め息が漏れた。それが意味することは、一日に二往復するということが分かっている為である。早くも士気を落とした船員達に対して、ベナッティは宥めるように手を振って告げた。
「とはいっても、近場を二箇所だ。日は変わらんだろう。んな訳で、明日は忙しくなるからよ、今日はしっかりと休んで英気を養え。明日の集合時間は今日と同じだ。以上、解散」
この声を合図に、船員達はやれやれ明日は夜遅くなるなと口々にぼやきながら立ち去って行く。クロウも同じく宿に戻ろうとした所、ベナッティに呼び止められた。
「ああ、エンフリード、ちょっと待ちな」
「え、あ、はい」
なんだろうと振り返ると、老船長はじっと少年の顔を見た後、真剣な表情で訊ねてきた。
「昨日の今日だが、どうだ? ちゃんと飯を食えてるか?」
「あー、あまり食欲はなかったんですが、なんとか詰め込みました」
「ふむ……、気分が落ち込んだり眠れなかったりは?」
「浅いですけど、眠れてはいます。気分の方は正直重いです。でも、気晴らしにあちこち歩いたり岸壁でぼうっとしてたりします」
この返事を聞いて、ベナッティは白い眉根を微かに上げた。
「おめぇ、人を殺したのは初めてだよな?」
「そりゃもちろん、初めてでしたよ。けど、昔というか、小さい頃に、親や近所の人が蟲に食い殺される場にいたことがありまして……」
その言葉で全てを察して、禿頭を一撫で。少年の背中を労わるように軽く叩いて口を開いた。
「悪ぃ、余計な世話だったか?」
「いえ、心配してもらえるのは有り難いです」
「そうか。……おめぇは悩みや痛みを内に溜め込みやすそうに見える。無理はすんなよ?」
クロウは自分はそう見えているのかと思いながらも頷く。すると、早くも頭を切り替えたのか、老船長はどこか厭らしい笑みを浮かべて続けた。
「後、人生の先達として言っておくとだな、こういった時の特効薬はやっぱり女だ。抱いて甘えて、溜まったモンを全部出しちまえ。心も体もすっきりするぞ」
「はは、女を知らない坊主には難しい話ですよ」
「くはっ、なに言ってやがる。おめぇは男よ。綺麗ごとだけでは回らねぇ現実で、自分の力で立って生きている、本物の男だ。だからよ、ここはひとつ胸を張って、女を口説きな!」
男らしくがっついていけやという言葉と共に、気合を入れようとするかのように背中に一撃。少年は思わず咽た。だが、それにより心の中にあった倦んでいたモノが出ていった気がして、自然と笑みが浮かんだ。
クロウは適当な店で朝食を摂った後、アーウェルの街を行く。
老船長のお陰で晴れた気分をより良くする為、地下通路ではなく解放感がある地上の路地だ。
東の空に光陽が昇る中、少年は目的もなく気の向くまま足の向くまま、南市門前の広場から北に向かって歩き続ける。日常の活動が地下通路を中心に行われている為か、人通りは少ない。多いのはコドルが曳く荷車や人足の類である。
今も市街地の中心地は風の塔の直下で、西に向かっていく荷車を見送った。積まれた甕の臭いから、運んでいるのが汚物甕だとわかる。自然と魔導機教習所での記憶を思い出し、少年は苦笑いした。けれど、それは不快さよりも懐かしさと面白みを感じてのこと。
あの時は心身共に悲惨の一言だったのになとしみじみ思いつつ、辻から伸びる街路を見る。
西、北と見て、東を向いた。
これといった理由はない。
ただ案内の銘版に、至東市門、市立病院、農業区画、と刻まれていたのを見て、なんとなく足が向いたのだ。
少年はのんびりと通りを歩く。
市内を東西に貫く目抜き通りだけに、道幅は比較的広い。また通りに面する建物も相応なもので、北側には市軍本部が、南側には組合支部や彼が泊まっている宿、砂海金庫の支店、名が知られた商会や大きな商店が軒を連ねている。
市軍本部からの怒声を聞きながら進む内、街並みが俄かに途切れて再び辻に入る。交わる道に沿って、かつての市壁の後なのか、高さ五リュート程の内壁が続いている。壁の風合いやひび割れが歴史を物語っていた。
そのまま内壁の間を抜けると、緑地帯に病院らしき建物。更にその先には、一面の緑が広がっていた。
朝の陽射しの下、若い麦が真っ直ぐに伸びており、時折吹く風にさわさわと揺れれば、足跡を残すかのようにしなりを見せる。心癒される情景の中、気になる物があった。場違いとも言える石造りのアーチの連なりだ。
あれはなんなのかと続く先を求めていけば、辿り着いたのは風車である。以前より水揚風車の存在は耳にしていた為、あれがそうかと一人頷き、同時に件のアーチは麦畑用の水道なのだろうとあたりをつけた。
もしかすると将来の役に立つかもしれない。
そんな思いが自然と湧いてきて、クロウは全体像をじっくりと眺めて記憶する。
ある程度観察して満足すると、麦畑を南北に分ける道を更に東へ。
流れる水音が微かに聞こえる水道橋に至り、東市門の様子がよく見えるようになる。すぐ傍に屯所がある市門前広場には人気はない。ただ、開かれた門には人影がある。よくよく見れば、簡易防壁が設えられていた。
耳にしている情報からおそらくは市軍が検問を実施して、出入りを制限しているのだろうと推測する。
ついで、あの先にある移民街とはどのような場所なのかと好奇心を抱き、意識せずとも歩を刻み始めた。こんな具合で広場に至った所、門の検問を抜けて、二つの人影が入ってきた。両者共に外套にフードを被り、顔を隠している。
その内の片方、少し大きい方が少年を認めて声を上げた。
「え、あれ……、クロウ?」
「その声は、ラウラか?」
クロウの声に応じるようにフードが外されて、緋髪が日を浴びた。天然の光を受けて、より鮮やかな色合いを見せている。が、その持ち主たる踊り子の表情はなにか物言いたげのようでいて、少し硬い。
少年はあえて触れず、残るもう一方に視線をやる。ギューテが入っていると思しき袋を肩に掛け、白い棒を握っていた。
「そっちはニコラだな?」
もう一つの人影が小さく頭を下げた。
少年は出会った場所から例の移民関連なのだろうかと疑問を持ち、口に出して尋ねた。
「例の件で移民街に?」
「え、あー、うん。それに関係しているかな」
「いえ、以前から光明神教会の給食活動を手伝っていまして、その帰りです」
ラウラが言葉に迷いながら言うと、ニコラがしっかりとした声で言い直した。踊り子は情けない顔で奏者を見る。そんな姿に些か面白みを感じていると、再びニコラが話し出す。
「エンフリード様、今日のお仕事は?」
「一昨日に色々あってね。仕事に使う船の都合がつかなくて、ついさっき休みになった」
「休み、ですか」
「そう。……けどまぁ、その分だけ、明日は忙しいことになるらしいから、今日はのんびりと過ごすつもりで街を見て歩いていたんだ」
「そうでしたか」
クロウとニコラが交わす、自然な会話。
そこに混ざろうにも混ざれない、いや、口を挟むことに躊躇してしまったラウラは心寂しさを覚えた。それは同時に胸を締め付けられるような感覚を呼び起こす。
踊り子はこれまで経験したことがない思いに苛まれつつ、少年の顔を見つめて……、微かな違和感を抱いた。
その間にも話は続く。
「では、この後の予定などは?」
「いや、特にこれといってはないよ」
「でしたら、私達の仕事場に来ませんか?」
「ええと、今の時間だと……、洗濯物干し?」
「はい、すぐそこにある風の塔の近くです。屋上に上がりますから、景色はそれなりに良いはずです」
景色が良いと聞き、それなら気分転換になるかと、少年は頷いた。
二人は繁華街は内壁近くにある洗濯屋で洗い上がった衣類等を預かると、その裏手にある階段を使って屋上へと昇って行く。クロウもまた続いて階段を昇れば、広い青空が待ち受けていた。
「それでは、私達は仕事に掛かりますので」
「ああ、うん」
クロウはニコラの声に応じると、周囲を見渡す。
まず目に入ったのは、あちらこちらに立つ風の塔近くで、ラウラ達と同じく洗濯物を干す作業をしている者達の姿。年齢は様々ではあるが、そのほとんどが女のようであった。
目を景観に移すと、北と西には先のように風の塔が立ち並び、中心部には市庁舎と思しき高層建築が、市壁があると思しき場所には防御塔が点在している。港湾がある南にはひときわ目立つ灯台が立っている。そして、東には内壁の向こうに緑泳ぐ麦畑、その先の市壁より遥か遠方にドライゼス山系の稜線が見えた。
クロウはそれらを一頻り眺めた後、風の塔が作り出す影の下に入って寝ころんだ。
彼の目に映るのは天高い蒼。
グランサーをしていたクロウにとって、懐かしくもある空の姿だ。
ぼんやりと眺めている内に、なんとなく青空へと手を伸ばす。
目に入った手は赤黒く染まっているように見えた。
決してそのようなことはないはずなのに、そう見えるのだ。
けれど、少年は動揺することも恐怖することもなく、それをじっと見つめる。
元より彼の胸には後悔も呵責もないし、自分が為した結果から目を背けるつもりもない。
ただ、心の底に形を為さない重いモノがあった。
奥底に溜まった淀みに意識を向けていると、不意にもしもという言葉が浮かんだ。ついで、それに導かれるように、記憶に残る出来事が次々に思い出されていく。
もしもこの地に来ていなければ、もしも機兵になっていなければ、もしもミソラと出会っていなければ、もしもグランサーになっていなければ、もしも孤児院に入ることができていなければ、もしもあの時に救援が来なければ、もしも故郷が蟲に襲われなければ……。
もしももしもと様々な仮定が頭の中をぐるぐると巡り、無軌道に想像が膨らもうとする。
それはまさしく、過去からの魅惑的な誘いであった。
しかし、心の片隅にある醒めた思い……故郷を失った日に芽吹いた諦観が、今を生きる自分を、これまでの生きてきた日々を、その時に確かにあった思いを、今日に至るまでに、今の自分に成るまでに関わった全てを否定するような誘いを鼻で笑い、切って捨てた。
過去の記憶とは懐かしみ省みるモノであっても、たらればと弄ぶモノではないのだと。
少年は再び意識を手に向ける。
いつの間にか、赤黒い染みは消えていた。
元に戻った手で、何かを掴むように握りしめてみる。
当然のことだが、そこには掴めるモノなど何もない。
決して掴み得ぬ、果てのない空疎だけが指の隙間からすり抜けていった。
少年は滑稽な真似をしているとまた笑い、静かに手を降ろして目を閉ざした。
風の塔の支柱近く。
直下の通りを渡すように、物干し用のロープが複数張られている。
ラウラはニコラから洗い上がった衣服を受け取ると、その中の一本に引っ掛けては滑車を回す。その度に少しだけロープが先に送られて、目の前に空いた場所ができる。そして、再び洗濯物を引っ掛ける。
黙々と作業を続ける内、ラウラが呟いた。
「クロウの顔色、少し悪かったわ」
「顔色ですか?」
「うん、あまり調子が良くないみたい」
ニコラが網篭に手を入れて触れた物を取り出すと、口を開いた。
「声の調子はおかしく感じなかったのですが」
「うーん、調子が悪いのを隠しているのか意識できていないのかっていうのは、ちょっとわからないんだけど、疲れているのは間違いないと思う」
ラウラは薄桃色の敷布を掛けて、カラカラと滑車を回す。ついで新たな洗い物……女性用の下着を相棒より受け取る。派手な赤に染められた品のないそれに、微かに眉根を顰めた。
それからは黙々と作業が進む。一本目が終わって二本目。一度、新たな洗濯物を取りに行き、三本目、四本目とロープを衣類や寝具等で満たした所で、盲目の奏者が囁いた。
「ラウラ、私達はエンフリード様に助力を求める立場。前のような失敗はしないよう注意しながら、疲れを癒せるように動きましょう」
「うぐ、前の事は反省してます。……そ、それで、その疲れを癒すってさ、具体的にはどうする?」
ラウラは困った顔で言うと、ニコラもまた首を傾げる。そして、しばしの間考えて答えた。
「どうしたらいいんでしょう?」
「いやいや、ニコラ、ここはあんたが上手い具合に答えを出す所でしょう」
「そうなのかもしれませんが、これといって思い浮かびませんでした」
そう言い切った後、口元を緩めて顔を上げた。
「結局の所、私達が自信をもってできる事と言えば、ギューテの演奏とあなたの踊りですね」
「まぁ、確かに、私達にはそれしかないだろうとは思うんだけど……、今、クロウ、寝てるのよね。無理に起こして見せるのは違う気がするわ」
「そうですね」
と口にしながら、ニコラは微かに寝息が聞こえてくる方向へと顔を向け、更に続けた。
「ならば、こんなのはどうでしょう」
浅い眠りの中にいた少年はどこかで聞いた旋律を耳にした。
郷愁の念が湧き起こる曲調に刺激を受けてか、故郷の姿形が次々に甦ってくる。
樹木になった赤い果物。母が作った豆のスープ。夕焼けの中、影を伸ばす簡素な家々。水路整備に勤しむ父の背中。山と積まれた建築資材。日が暮れるまで共に遊んだ友達。
全てがおぼろげな色で、中にはもう、ぼやけてしまったものもある。
けれども、全てが彼にとって現実に経験したことであり、決して忘れ得ぬ思い出であった。
クロウは失われてしまったモノを見つめ、独り思う。
幼い自分が日々を過ごした故郷。
それと同じ物は絶対にできないということはわかっている。
それでも、この記憶にある光景を……、その時にあった平穏で幸せだった生活をもう一度、取り戻したい。
その為に今まで生きてきたし、これからも生きていきたい。
少年は故郷再興というかつての決意を再確認し、ゆっくりと目を覚ました。
少しばかり開きにくい瞼を開けると、二つ並んだ小山。その向こうに最近知り合ったばかりの踊り子の顔があった。どういう訳か、悲しそうでいて慈しみの色が滲んだ表情であった。
「起きたんだ」
「え、あ、え?」
混乱するクロウであったが、頭の後ろに柔らかさを感じて、自分が膝枕されていた事に気づく。慌てて起き上がろうとするが、その前に手を頬に添えられてしまい、動けなくなる。
「私は大丈夫だから、もう少しこのままでいいよ」
「いや、でも……」
「いいからいいから。だいたいね、この身をあなたに委ねることを決意してた女よ? これ位、なんともないわよ」
この言葉にクロウは困った顔を浮かべ、視線を彷徨わせる。然程離れていない場所で、ニコラがギューテを奏でていた。視線に気が付いた訳ではないだろうが、盲目の奏者もまた頷いた。
先の夢もあって人恋しさを感じていたクロウは少しだけ好意に甘えようと頭を委ねる。そして、口元に微笑みを浮かべる踊り子をちらりと見て、視線を逸らした。
一方のラウラは少年の顔に気恥ずかしげな色を認めて、首を傾げる。
「どうかした?」
「あー、なんていうか、こういった経験はほとんどなくて」
「ほとんどないってことはあるにはあるんだ。あ、もしかして、こういうことしてもらえる人、エフタにいたりするの?」
「まさか。……母親と、世話になった孤児院の院長先生だけだよ」
踊り子は耳にした内容から赤髪の少年の境遇を少しだけ知り、そっと目尻を……乾いた涙の跡を拭いた。
クロウはその感触から今更ながらに自分が泣いていたことを察し、軽く溜息。己の弱い所を見られた以上、無意味に気張る必要もないだろうと心底から肩の力を抜いた。
涙の跡を拭き終えた指が今度は少年の髪に入り込んでくる。クロウは目を閉ざして受け入れた。その動きは撫でつけるように柔らかく優しく、母を思い出させた。
干した洗濯物の影響か、湿り気のある風が時折吹き、穏やかな時間が流れる。
しばらくして、クロウが口を開いた。
「なぁ、ラウラ」
「なに?」
「前の、保留していた答えなんだけど……」
「うん」
少年は難しそうに眉間に皺を寄せた。
「まず言っておくと、俺個人には見ず知らずの人に話を聞かせるだけの信用はない。ただ、先達の機兵達が血と躯で積み上げてきた信用を背負っているからこそ、相手は聞く耳を持ってくれるだけなんだ」
「うん」
「機兵への社会の信用は本当に篤い。だからこそ、それを使う時は慎重にならないといけないし、俺も自分の立場を意識して、責務を果たしたいと思っている。……一人の行いが、その信用を落とすことになるかもしれないから」
ラウラはあの時、クロウが厳しい怒りを見せた理由を知り、沈んだ声で告げた。
「うん。あの時は、ごめんなさい」
「いや、あれはこっちも大人げなかった。ニコラから聞いた話だと、余裕がないことは確かのようだしね」
クロウは目を開き、ラウラを見る。
少年の真っ直ぐな視線。踊り子は意思を持つ瞳の輝きに惹き込まれた。
「それでこっちの答えだけど、協力はしようと思う」
「うん」
クロウは先日聞いた話を思い出す。
老船長は人とは大枠で囲って物事を見てしまう生き物であり、世間ではそれが当然なのだと言った。
ならば、その大枠を壊して別枠を作るように仕向けるか、その中の個々に目を向けてもらえるように話を持っていくしなかない。
そんなことを考えながら、話し続ける。
「ただ、俺はこの街に住んでいない部外者……、当事者じゃないから積極的には口を挟めない。だから、貧民街の顔役や住民に、当人っていうか、引っ越しをする予定の人達や教会で世話をしてるっていう神官の人から話を聞いて判断してはどうかって、間に入って提案する位かな」
「……うん」
ラウラの返事はどこか上の空。
クロウは訝しく思って、踊り子を見つめる。先と変わらず、じっとこちらを見つめていた。
どういうことだと当惑していると、俄かにギューテの演奏が止まった。数秒の後、ニコラの盲人棒がのびてきて、ラウラの脇を軽く突いた。
「うひゃ! な、なにっ?」
「ラウラ、今のエンフリード様の話を聞いていましたか?」
「う、うん?」
踊り子は小首を傾げつつも頷くという器用な真似をする。
少年は普通に話を聞いていたように見えたのに、どういうことだろうと頬を掻く。ニコラの口からは大きな溜め息。それに続いて、簡潔な説明が為された。
「エンフリード様が仲介という形で間に立って、私達に協力してくれるそうです」
「え、あ、……ありがとっ! クロウっ!」
そう叫ぶや、ラウラは膝の上にあった少年の頭を抱き込んだ。
女の匂いと柔らかい感触に圧迫されて、クロウの息が詰まる。それは嬉しいとか役得とか、男がだらしなく相好を崩すような抱きつきではなく、命の危険を感じる程に力強い抱擁であった。
そしてそれは、早くエンフリード様を離して、世話役や神官様に今の話を伝えて時間を調整しに行ってきなさいと、ニコラに一喝されるまで続いたのだった。
* * *
アーウェルにて早くも仲介話が進み始めた頃。
サエラ郷の北、大凡百アルトの砂海にて、三隻の船が斜行陣を形成しながら北上していた。蒼天へと舞い上がった砂塵は風に乗って流れては、付近に点在する廃墟や瓦礫の山へと降り注ぐ。
これら三隻の中で先頭を行く船は、第三遊撃船隊の旗船を担うバルド改級サティスだ。
船首寄りにある二連装短身砲は真っ直ぐに進行方向を向き、中央部の回転台に乗せられた箱……二十四連装噴射榴弾発射機は陽光を浴びて、弾頭が鈍く輝く。
船体のやや後方に位置する船橋では船長以下の乗組員たちが操船に精を出し、屋上より天へとのびた武骨な檣楼では二人の見張りが望遠鏡で周囲に警戒の目を向ける。
その見張りの一人がある一点で動きを止め、同僚に何事か声を掛けた。それに応じてもう一人も指差された方向に望遠鏡を向ける。
覗き込んだレンズ越し。拡大された彼方に、風に依らぬ砂煙と地を這う異形の姿見えた。
同僚が頷きと共に蟲だとの一言で応えた所で、最初の一人が警鐘を鳴らし、船橋と直結された伝声管に向かって叫んだ。
「方位、一、〇、にラティアを視認! 群集団で南下中!」
くぐもった声での報告が船橋内に響く。
船橋の真ん中に立っていた口髭の船長が座乗する船隊長を振り仰いだ。
海図台から顔を上げた青髪の船隊長は傍らに立つ小太りの参謀に目を向ける。心得たように無線通信機を起動させ、簡素なマイクを手に取った。
「こちら旅団第三遊撃船隊司令部! 船隊長より通達! 総員、傾聴せよ!」
大げさなと言いたげな顔で、ラルフ・シュタールは掌に収まるマイクを受け取り、一息置いてから話し出す。
「こちら船隊長だ。既に各船ともに把握しているだろうが、ラティアの群団本群ないし前衛群を発見した。本船隊は当初の計画通り、これを誘引し撃滅を図る。各員は旅団設立の精神に則り、人類の敵に死の鉄槌を下すべく奮起せよ。……以上だ」
青年の低い美声が終わるや否や、サティス船長が大声で宣した。
「総員、第一種戦闘配置!」
続いての指示に船橋が俄かに活気づく。
その様子から視線を外すと、ラルフは参謀にマイクを返して再び海図台に目を落とした。
ガラス板の内側に収められているのは、旅団における最大の機密……ゼル・セトラス大砂海図の東部広域拡大図だ。
同じく海図台に視線を向けた小太りの参謀が報告にあった方向にラティアを模した駒を置き、静かに囁いた。
「久し振りの戦闘ですな」
「ああ」
「うちの連中、この所、陸で無聊を囲っておりましたからな。腕が鈍っていないか心配です」
「なに、陸では飲む寝る買うしか能がなくても、船と戦に関しては頼りになる連中さ。心配はいらんよ」
バクターの懸念に軽く笑ってから砂海図に見入る。
北からは蟲の大群、南はサエラ郷までなだらかな丘陵が連なり、西は大きく開けた砂礫帯、東は廃墟や瓦礫の類が多い。
「一当てして、西ですな」
ラルフは参謀の声に頷き、口元を吊り上げて楽しげに笑う。
「援軍が来るまでは俺達の独演だ。精々引っ張りまわして踊らせてやろう」
「となると、引っ張り回す側が疲れて、へたれぬようにしなければなりません」
「そういった細かい計算はお前に任せるさ」
「やれやれ、人使いの荒いお方ですな」
「それが俺の仕事だからな」
青年が肩を竦めると、再び伝声管よりくぐもった声。
「群団前衛との距離、一四〇〇〇!」
「船長、距離一万より攻撃を許可する。……が、早々に弾切れなんてことは勘弁してくれよ」
「はは、私はまだ船乗りとしても男としても現役でいたいので、節制に心がけましょう」
「ああ、早撃ちってのは往々に嫌われるからな」
「娼館の女からは好評でしょうけどね」
初老の域に足を踏み入れた船長の軽口。ラルフは苦笑して言葉を返す。
「男としちゃ悲しい話って奴だ。……以後は、マラベルとイリーナへの伝達も任せる」
「了解です。……通信、後続に無線と発光信号で、攻撃許可、距離一万と伝えろ」
ラルフは船長の指示を聞き流しながら窓の外を見る。
北の地平線は舞い上がった砂塵であいまいになり、蠢くモノが荒野を侵食するように少しずつ広がっていく様があった。
遠く聞こえてくる、多足が踏み鳴らす地響き。
おどろおどろしい音が聞こえてくる方向をじっと見つめていると距離を伝える声が届いた。
「距離、一二〇〇〇!」
「戦闘旗及び信号旗赤、掲揚!」
船長の声に応じて、檣楼より延びた旗竿に青白赤で彩られた横縞の旗……旅団旗と赤い旗がするすると揚がり、風をはらんではためき出す。
その間にも船長は指示を飛ばしていた。
「攻撃準備! 方向一〇〇〇! 第一砲塔、榴弾、距離一〇〇〇〇! 噴射榴弾、短射一連、距離八〇〇〇!」
「了解! 方向一〇〇〇! 第一砲塔、榴弾、距離一〇〇〇〇! 噴射榴弾、短射一連、距離八〇〇〇!」
復唱の後、船の中央に位置する噴射榴弾発射機が少し方向を変え、発射角を調整するように動き出せば、船首の砲塔も微かに回って伸び出た砲身が上下に動く。
その動きが唐突に終わり、両者の操作員と連絡を取っていた砲術班長が振り返って声を上げた。
「第一砲塔、噴射榴弾、攻撃準備良し!」
船長は良しと声を出して頷いた。それから後は、ただじっと敵がいる彼方を見据えて、その時が来るのを待つ。
そんな船長の態度に感化されてか、船橋内のざわめきが小さくなり、代わって緊張が高まっていく。
そして、その時がやってきた。
「距離、一〇〇〇〇!」
「目標、ラティア群団前衛! 撃ち方始め!」
「第一砲塔、撃ち方始め!」
砲術班長の復唱を合図に、連装砲が火を噴いた。
荒れ果てた大地に乾いた炸裂音が大きく響き渡る。
ラルフが見つめる先……蟲の最前列の少し後ろで炎色の光が輝くや立ち上る砂煙を吹き飛ばす。しばらくして、爆発音が聞こえてきた。
数秒も立たぬ内に、先とは別の伝声管から声が入ってくる。
「弾着確認! 効力射! 修正の要なし!」
「別命あるまで順次発砲を許可! 以後の諸元修正を委譲!」
「順砲及び修正委譲、了解!」
待っていたと言わんばかりに第一砲塔が十秒程の間隔で発砲を開始する。その頃には後ろの二隻も攻撃を開始しており、立て続けに爆発が起き始めた。その度に、十数に及ぶ異形が吹き飛ばされる。
だが、赤い奔流は止まることを知らず、空いた穴もすぐに埋まっていく。
「距離、八〇〇〇!」
「噴射榴弾! 短射一連、撃て!」
「短射一連、発射!」
空を見上げるように傾いだ発射機は、弾頭を覗かせていた噴射弾が立て続けに発射されていく。
延べ四発。それらは炎の尾を引いて飛び、白煙を宙に残す。そして、目的の座標に達すると強い閃光を発して爆ぜた。衝撃波が周囲の蟲を薙ぎ倒して砂煙を散らせば、飛び散った破片は甲殻を切り裂いた。
重い響きが連なって聞こえた頃には、群の中に複数の大きな穴ができていた。
けれども、これもまた後続を突き進む蟲によって埋められていった。
それを見ていた青髪の青年は片眉のみを上げて呟いた。
「いつ見ても忌々しく感じるな、あの光景は」
「蟲共の最大の力は数ですからな」
「ったく、うちで相応に巣を潰しているはずなんだが、本当にどこから湧いてくるんだか」
「一度、そういったことを大々的に調査してみるのも良いかもしれません」
ラルフは参謀の提言を吟味するように顎に手を当てる。数秒の後、首肯した。
「それもいいか。今回の件が片付いたら、セレスに提案してみよう」
そこに距離を伝える声が響く。
「距離、六〇〇〇!」
ラルフは船隊長として新たな指令を出した。
「船長、連中を西の砂礫帯に誘引する。距離四〇〇〇で方位二八〇に針路を取れ」
「了解! 通信、マラベルとイリーナへ伝達、距離四〇〇〇で変針、方位二八〇、我に続け!」
騒がしさを増す一方の船橋に頓着せず、青年は海図台に目を落とす。彼の視線の先は地図の南寄り、補給拠点としたサエラ郷だ。
それに気が付いたバクターが駒の位置を動かすと、上司の思考を慮り訊ねた。
「守りが不安ですか?」
「いや、機兵の半分を置いてきたし、第二の連中もいる。仮に蟲共の別働がいたとしても大丈夫だろう」
強い断言。
このラルフの言に嘘はなく、事実、サエラに関しては然程の心配をしていない。
彼が不安を感じているのは、その南方にあるアーウェルの状況なのだ。
眉間に浅く縦皺を刻んで、胸中で独語する。
忌々しい限りだが、現状では第三がアーウェルの情勢に関与することは難しい。
叶うならば、うちが戻るまで事が起きないでいてくれた方がいいが……、入り込んで策動する連中だって決して無能ではない。暗部が頑張って動いてはいるが、やはり何がしかの事が起きる可能性の方が高いだろう。
そして、もし仮に事が起こったとして、市軍が初期対応に手間取ったり、混乱状態に陥った場合、市街の一部を占拠されての市街戦といった状況も起こり得る。そうなってしまえば、全てを収めるまで犠牲者の数も多くなるだろうし、街の経済活動や未来にも暗い影響が出てしまうだろう。
本当に、小規模で抑え込んでほしいものだ。
ラルフは頭の片隅に居座っている懸念を出さぬように注意して呟く。
「さて、援軍が来るか弾切れまでに、半分は喰いたい所だが……」
「今少し船の積載量が多ければ、半分ではなく全部と言える所なのですが、まったく儘なりませんな」
「はは、バクター、儘ならぬなんてのはこの世の常だろう」
参謀のボヤキを笑い飛ばして、外を見る。草の一本も生えぬ、赤い砂礫の大地。儘ならぬ世界の姿があった。
「距離、四〇〇〇!」
「砲術、撃ち方止め! 観測、群団の動きを注視! 操舵、方位二八〇、レード!」
船橋内に復唱の声が飛び交い、船が左に傾ぎ始める。その間も青年は小揺るぎもせず、悠然と砂礫の海を見据え続けた。
* * *
夕刻のアーウェル。
移民街にある光明神教会では、老神官が一日の最後の務めである日没の祈りを捧げていた。
その祈りの中で、光陽がもたらした恵みに感謝し、一日が無事に終わった事を寿ぐ。そして、明日という日がまた訪れることを願い、今に至るまでの自らの行いを省みるのだ。
今も祈り続ける老神官の顔は安堵の色を滲ませつつも、自らの所業を悔い改めなければならぬと厳しいものであった。
彼がそういった表情を浮かべているのは、今日の昼過ぎ、踊り子からの要請で急遽参加した貧民街での話し合いに由来する。
それは踊り子から一連の事情を聞いた他市の公認機兵が仲介役として立ち、貧民街が教会で支援を行っていた移民達を受け入れるか否かを定める為、貧民街の顔役と教会での世話役、つまりは老神官との間で設けられたものであった。
彼にとっては唐突に設定された対話の席であったが、現状を正面から訴えることができる機会は限られている事もあって、いつしか熱を持って、自身が世話をしている者達の窮状を訴えていた。
これに対して、老境の域にいる貧民街の顔役は静かに耳を傾けてくれた。そして、胸の内に溜めこんできた思いを全て吐き出した後、顔役から出された答えは、教会で世話をしているものに限って受け入れるというものであった。
これでここ最近の懸案だった、移民達を貧民街に移住させることに目処が立ったことになり、彼はただただ顔役に頭を下げて、感謝の意を述べる以外はできなかった。
それからは今後についての具体的な話になって、明日にでも早速引越しを始めるという形で話がまとまったのだ。
既に陽が暮れ、夜の闇が室内に忍び込んでくる。
それに気付かぬまま、祭壇の前で跪いた老神官の顔が苦渋の色に染まる。
ああ、自分はなんと無責任で愚かなのか。
全てが終わった後、喜びと安堵を胸に仲介役を務めてくれた赤い髪の少年に感謝を述べに行った時、何故に気付かなかったのか。
否、ラウラがこの話を持ってきた時に……、いや、本来ならば、それ以前からも、自分がもっと積極的に動かねばならない所だったのだ。
今でも鮮やかに脳裏に思い出せる。
微かな翳りを宿した若い顔が小さく首を振った後、そっと近づいて耳打ちした言葉を。
感謝はいらない。
それよりも、ラウラは身体を使ってでも事を為そうとしていたが、そこまでさせたのはあなたなのか、と。
そして、向けられたのは、力強い真っ直ぐな目だった。
「……神よ。私は弱い男です。まだ若い者に全てを委ねたと、自らの責を忘れて安穏としてしまう、愚か者です。暴威に屈し、恐怖を前に委縮し、最後の最後まで自らの責を全うできない、情けない者です」
漏れ出た小さな呟きが光すらない闇に溶けていく。
心に残るのは苛烈な輝きを見せた少年の瞳。
それは天に座す光陽にも似て、彼自身が先の事を考えることもできず、変化させる方策も見いだせないままに流されていた罪を照らし出した。しかし、それは同時に、罪に苛まれる意識を焼き払い、新たな意思を生み出そうとしていた。
「ですが、それらは全て、言い訳に過ぎませんでした。……私は、自らの行いにけじめをつけなければなりません。こんな私でも慕ってくれた者達の為にも」
老神官はゆっくりと立ち上がり、近くにあった魔導灯をつけた。
青い光が室内の闇を払う。
その光を見つめながら、ふと思う。
ラウラの隣に、あの若者が……、他人の為に怒りを抱く事ができる心優しい男が、ラウラの隣にいてくれれば、どれほど安心できるだろうかと。
そんな自分の単純な思考を、老神官は静かに笑った。
同じ頃、移民街の外れにある家屋では、モルブラード移民共栄連盟の首領が彼に力を与えた若い男と話をしていた。
魔導灯の明かりを絞った、薄暗い室内。フードを目深に被った若い男が淡々とした声で告げる。
「ご存知だと思いますが、今日、市軍艦隊が出動しました」
「聞いている。おめぇさんの所が出している船を潰しにだろう?」
「いえ、それだけではありません。サエラ郷の北より蟲の群団が襲来しているという話です。そちらへの対処にも動いているのでしょう」
群団の襲来と聞き、首領の顔色が微かに変わる。
「ちっ、大事じぇねぇか」
「ですが、これは好機です。ここに居座っていた旅団も一昨日の段階で出ています」
「ここが手薄になっているって事か」
首領の言葉に若い男がしっかりと頷いた。
「やるならば、ここ数日の間。それ以上は、市軍が立ち直るでしょう」
「そうか」
中年男は腕を組む。その間も若い声が話を続ける。
「頼まれました爆薬は私の仲間が市内に分散して隠しました。幸いなことに、今の所、見つかった様子はありません」
「連中、貧民街には注意してやがらねぇからな。で、場所は?」
「今、書き出します」
若者は持参した紙と筆記具でアーウェル市内の簡略図を手早く描き、十カ所近い場所に印をつけた。
「印をつけた箇所に均等に隠してあります」
「ふん、わかった。地下道を掘り抜くのは間に合わなかったが、こっちの役立たず共の準備も魔導機組の訓練も大方できている。はんっ、後は俺の決断次第って訳か」
「はい。……ですが、もし、私が明日の昼までに仕事場に現れなければ、その日の夜には蜂起した方がよろしいでしょう」
感情が消された声。それが語る内容が意味することを数秒後に理解して、首領は表情を厳しくする。
「……てめぇ、目をつけられたか?」
「まだわかりません。ただ、目には見えていませんが、気配があります。おそらくはそうなのでしょう」
「ちっ、話には聞いていたが、手強いな」
「当然です。相手は砂海を脅かすモノを躊躇なく葬る存在ですから。怖じ気づきましたか?」
「けっ、ここまできたんだ、やってやらぁ」
威勢よく言い切ってから、中年男は静かに続けた。
「俺が死ぬか、街の連中を支配するかだ。ある意味、これ程、命を懸けられる賭けはねぇ。……てめぇにも世話になった。成功のあかつきには相応の見返りを約束する」
「ええ、期待しておきます」
若者は首肯する。
もっとも、首領の言葉を額面通りには受け取っていない。彼が見据えているのは、その先だ。
内心で呟く。
この男が成功しようが失敗しようが、事が起きるだけでも十分に価値がある。少しでも現体制を動揺させれば、こちらが入り込む余事が大きくなるだろう。
若い工作員は醒めた目で中年男を見つめ、口元を軽く歪めた。
* * *
深更。
首領との会合を終えた若者は星明りだけを頼りに、市壁の外周を足音を殺して歩く。
善良な移民である彼は移民街との関わりを持たず、貧民街で懸命に生きている。それが彼の表立っての顔であるから、移民街とを行き来するには人目を忍ぶ必要があるのだ。
若者は市壁を左手で触りつつ、歩き続ける。
人工石で形成された強固な外壁。厳しい外界と人の世界とを隔絶する偉大な存在である。
その外側を行く若者の耳に届くのは、自然が生み出す風の音。
風に乗り、砂が流れる音。
僅かに生えた草が揺れる音。
頭上から見張りのモノと思しき微かな声。
確かに感じる人の気配。
念の為、壁に張り付いて、息を殺す。
しばし後、人の気配が消え、声が続かないことを確認して、ほっと安堵の吐息をついた。
そして、再び市壁に沿って歩き出そうとした。
その瞬間、視界一杯の夜空を捕えようとするかのように、幾重の網目が広がった。
一つ二つと身体に掛かっては体に巻き付いていく。
咄嗟の事態に対応できず、動きを封じられた若者は均衡を崩して倒れた。
場所が場所だけに、悪態の一つもあげられない。
それでももがいて視界を確保すると、星空を背景に黒装束の人影を認めた。
若者は自らの終わりの時を悟り、心中で諦めて笑う。
それから半ば本心を晒して、力一杯に叫んだ。
「くそ! 後少しで! 後、二日もあればっ! てめぇらに目に物を見せてやれたってのに! くそくそくそっ! くそったれぇっ!」
自分が大いに関わったこの街での活動。
最後まで見届けることができないのは無念だが、最早是非もなし。
若者は母市への忠誠を胸中で叫び、歯の間に挟んでいた自決用の毒薬を噛み砕いた。
若者の最期を見届けた黒装束の男達。
その内の一人が口元より血を流す遺体に近寄り、苛烈な形相で宙を睨んだ目を閉ざした。
「馬鹿な野郎だ。おめぇのことを使い捨ての駒程度にしか考えてねぇ相手の事なんぞ忘れて、ここで一からやり直しゃ良かったんだ」
その乾いた声は、若者が懇意にしていた港湾の荷役作業監督のものであった。
しかし、その目からは直ぐに情の色が消え、後ろに立つ組頭を仰ぎ見る。
「組頭、どうします?」
「二日と言い残したが、それが真とは限らない。……白昼に動きたくはないが、場合によっては把握している場所に強襲を仕掛ける」
組頭が示した方針に、男達は静かに頷いたのだった。




