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魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
6 踊り子は薄明に舞う
50/96

四 仮初めの平穏

 東の空が白み始めた。

 アーウェル市の南、港湾地区においては動く人影はなきに等しく、船影なき船溜まりは寂しさに満たされている。長い夜に冷やされた空気もあって、寒々しい空虚感に支配されているかのようだ。


 そんな虚ろの中にあって、対抗するように躍動する人影があった。

 横並びに二つ、中背と大兵。サザード号に乗り込む機兵達、クロウとレイルだ。

 舗装された道の上、一定間隔に刻む足音は力強く辺りに響き、規則正しく為される呼吸は白く熱い。鍛えられた身体には噴き出した汗が流れ、湯気をたてる。そのまま道の突き当りである市壁に至り、来た道を引き返す。足並みに乱れはない。機兵にとっての欠かせない日課、体力維持の為の長距離走だ。


 黙々と走り続けている二人であったが、唐突にクロウが声を上げた。


「いよいよ、今日からですね」

「ああ、何事もなく終われば、一番なんだがな」


 レイルはクロウの言葉に頷き、同じ言葉を重ねて続けた。


「本当に、何事もなければいい」


 そう言った後は口を引き結び、一心に前を見つめる男。その心中に思うのは、今日から始まる仕事のことだ。


 その仕事とは、今日、盛陽節第二旬一日より大凡一旬(二十日)の間、アーウェルと周辺域との通運を行い、様々な積荷を各地に配送回収することで、賊党の跋扈で滞ってしまった物流を再始動させること。

 彼にとって恩人であり雇主でもある女商人。その彼女がアーウェル情勢が好転するまで待つことを良しとせず、自分から動くことを決意したが故に企画立案された、危険を伴う大仕事だ。

 具体的には、サザード号とラーグ級一隻を使ったアーウェルと周辺域居住地とを結ぶ運航計画で、サザード号がニースティやダルフィナといった近隣都市に加え、自身が接岸できる港を持つ郷を往復し、ラーグ級がそれ以外の全てを担当する。問題となっている賊党対策としては、各々の船に機兵が一人ずつ……サザード号にレイルが、ラーグ級にクロウが乗り込み、道中の護衛に当たるというものである。


 今回の構想を雇主の口から聞かされた時、レイルはサザード号の安全管理を担う者として、危険性が大きいと反対意見を述べた。


 それに対して、女商人は彼を外の世界へと誘った頃と変わらぬ魅力的な顔で、この街の困っている人達に恩を売れる上、東部全域にも名前が売れるのだから、危険性に十分見合うだけの財産に……自分達への信用となって戻ってくるよ、と笑みを浮かべたのだ。


 遂には反対しきれなかった大柄の機兵は眉を寄せつつも、微かに口元を綻ばせるという複雑な顔で思う。


 自分から危地に臨む趣味はないんだが、フィオナが望むならば、俺はどこまでも付き合ってしまうんだろうな。


 レイルはある種の悟りともいえる感慨を抱きながら、隣の同僚を見る。

 女商人から今回の仕事について話を聞いた後、まるでそれが当然だと言わんばかりに、二つ返事で了承した年少の同期。今も自然体で走っており、緊張の色は見られない。

 こいつならば大丈夫だろうという心持ちになりそうではあるが、やはり年長者として一言言わずにはいられなかった。


「エンフリード、緊張や不安はないか?」

「あー、基本、普段と変わらず、ですね」

「そうか、普段通りか」

「ええ、俺にとってはエフタでもやってる仕事ですから」


 クロウは西空に色濃く残る夜の気配を見つめながら続けた。


「でも、正直に言えば、賊党が襲ってくる確率が高いってのは怖い所ですね」

「はは、お前でも怖いか」

「そりゃもちろんですよ。命懸けな上に、他の人の命も預かる訳ですから」


 そう答えたクロウであるが、実はその他にもある不安を抱いている。


 否、より正しくは機兵になってからずっと抱いていた思いであり、今回の仕事を請けてからより強く意識するようになったことだ。


 それは、自分が人に対して武器を振るえるかどうか、ということ。


 相手が情け容赦無用の賊党とはいえ、人という同じ種族であることには変わりない。その相手を殺し傷つける為、自分は武器を振り降ろすことができるのだろうかという、純粋な疑問だ。


 なにしろ、クロウは無手で人を制圧したことこそ幾度かあれど、武器を向けた事はないのだから。


 少年は不安を吐息に混ぜて、荒く吐き出す。


 そして、こういうことは考えていても仕方がないことであり、土壇場にならなければわからないことでもあると、自分に言い聞かせる。が、それでも尚、弱気が表に出てこようとするので、なんとか気を紛らわせようとレイルに話を振った。


「まぁ、市軍ももう少しで立ち直るそうですし、それまでの辛抱だと思っときます」

「ああ、それでいいだろう。連中にしても心苦しく思っているのか、それなりに誠意を見せてくれたしな」

「例の擲弾ですか?」

「いつ見ても芋潰しにしか見えないが、評判通りの性能なら頼りになるだろう」


 今回の計画を実施するに当たり、アーウェル政庁に話を持ち込んだ女商人であるが、実はアーウェルでの荷役代とラーグ級を動かす経費を負担させることに成功していたりする。

 それと同じく、今し方、クロウが口にした擲弾……二式柄付擲弾なる魔導機用手投げ弾も市軍から供与を引き出したものである。通常の手榴弾が可愛く思える程に強力な殺傷力を持つ為、本来であれば公認機兵でも扱えぬ代物なのだが、市軍が特別に認めた事で携行が可能になったのだ。


 少年は教習所で投げ方を教わった際、教官達が言っていた言葉を思い出す。


「公認機兵だと漲溢みたいな時以外は使うことはないだろうとは言ってましたけど、まさかまさかですよね」

「逆に言えば、それだけ賊党が脅威ということなんだろう。フィオナは政庁や市軍が不甲斐無い所為でこうなっているんだから、向こうが支援するのは当然のことさと嘯いていたがな」

「でも、正直に言えば、ありがたいですよ」

「そうだな」


 レイルが同意するように頷いた後、二人は口を閉ざした。


 それからは朝焼けが東の空を満たすまで、ただただ走り続けた。



  * * *



 アーウェルの移民街。

 光明神教会では、白髪の男が朝の祈りを終えて集まった者達に向き直った。

 十数人の老若男女。痩せ細った老人、病を負っているのか顔色が悪い男、泣く元気もない乳飲み子を抱える女、着古された服を纏う小さな兄弟等々。彼らに共通しているのはどの顔も生気に乏しく、目に力がないこと。この移民街で食べることにも事欠く者達だ。


 老神官は痛ましさを感じつつも、表には出さずに優しく告げる。


「さぁ、朝食にしよう」


 彼の言葉に感謝するように皆が頭を下げた。老神官は柔らかく微笑み頷く。

 礼拝堂に隣接する食堂に向かうと、彼の慈善活動に協力する数人の者達が食事の準備をして待っていた。用意されたのは豆が入った大麦の粥と粉乳。それら一皿と一杯が、一人当たりに供される食事であった。


「ほらほら並んで並んで」


 簡素な机と椅子の先、二つ並べられた大鍋。そのうちの一つの前に陣取った緋髪の女は朗らかに告げるや、傍らに立つフードを被った相方より陶の皿と匙を受け取った。そして、手早く粥を皿に注いでは並んだ者達に渡していく。そんな配給作業も流れるように進み、全員に朝食が行き渡ったとみると、再び老神官が口を開いた。


「神の恩寵と大地の恵みに、感謝を」


 感謝をとの呟きが重なり響いた。


 皆が黙々と食事をとる。


 ここには食べる喜びを噛み締める笑顔はない。


 ただ、生きることに必死な姿が……、生きる為に、この日を生き抜く為に食べる姿があった。


 重苦しさすら感じさせる食事が終わり、施しを受けた者達は口々に感謝の言葉が述べては俯き気味に食堂を出てゆく。少しでも日銭を稼ぎ、自分の力で生きられるようになる為に、明日へと生を繋げる為に。


 老神官はその後ろ姿をじっと見つめている。


 そんな彼に対して、声を掛ける者がいた。先日、クロウが出会った緋髪の女、ラウラだ。


「神官様、あまり思いつめては駄目よ? 私達が人の身である以上、少しの助けにはなれたとしても、一人一人を救うなんてことは土台できないんだから」

「ああ、わかっているよ。ただ、自分の限界を思ってしまってな」

「あはは、だからこそ、こうして助け合ってるんじゃない」

「ああ、そうだったね。それにしても、ふふ、これではどちらが年上変わらなくなってくるな」

「うわ、若い娘に向かって失礼なことを」


 老神官は微笑みを浮かべて振り向いた。

 そこには眩いばかりに生きる活力に溢れた女がいた。初めて会った七年前の時分にはまだまだ幼さを残していたが、本当に美しく育ったものだと頷き、口を開いた。


「これはすまないことを言ったかな?」

「ええ、私の繊細な心は傷ついてるわ」

「ふむ、私から見れば、ああやって祈りを捧げているニコラ君の方が遥かに繊細に見えるのだが……」


 老神官の視線の先、フードを被った人影が祭壇の前に跪き、祈りを捧げていた。その傍らにある歩行用の盲人杖が目に入る。自然、盲いたあの子がラウラに連れられて来るようになったのは、三年程前だったかなと思い返す。


 他方、ラウラも視線を同じくしていたが、口から出てきたのは不満だった。


「神官様はひどいことを仰いますのね。私が繊細でないなんて!」

「ふふ、仕方がないことだよ。君の事をこの街に移って来た頃から知っているからね」


 今更ながらに淑女の皮を被る姿に、老境の男は苦笑を浮かべた。


「いくら話し方や仕草が変わっても、本質はそう簡単には変わらない。……本当に落ち着く事を知らない、やんちゃな娘だった」


 この流れは不味いと感じて、ラウラは強引に話を切り替える。


「あ、話は変わりますけど、知ってます? 今日からまた船が動くそうですよ」

「ああ、聞いているよ。ここの者達も、少しでも仕事を得ることができればば良いのだがね」

「んー、あまり期待しない方がいいかもね。ほら、最近までここの馬鹿共が悪さしてたからさ」


 十分にありえることだろうと、老神官は肩を落とす。しかし、彼の口から出たのは別の言葉だ。


「ラウラ、悪い口は不幸を招く。気をつけなさい」

「あはは、もう遅いっていうか、とっくに不幸は押しかけて来てるわ」

「なんと?」


 古馴染みの神官の驚く顔を見て、ラウラは表情を曇らせる。それから本当は言いたくはなかったんだけどと前置いてから、ゆっくりと一語一語丁寧に言葉を連ねた。


「実はね、ここ半年の間、私達、ここの馬鹿共から何度か手出しされてるの」

「だ、大丈夫だったのかね?」

「本質はそう変わらないって事かしらね。全員、残らず蹴り倒して毟ってやったわ。……けどね、もういい加減、世話になった神官様がいなければ、こっちには来たくないなって思い始めてる」


 溜め息。


「私にとって、ここは父を最期まで看取ってくれた上、独りで生活できるようになるまで支えてくれた有り難い場所。だからこそ、過去の私みたいな人を助けられるように手伝ってきたわ。……でもね、今の移民街はそういった人の想いを踏み躙っているように思えるの」


 先程まで生き生きとしていた顔は見る影もなく、ただ悲しげな色が浮かぶ。


「ここの……、大砂海の厳しい環境が人の繋がりを尊ばせるんでしょうね。この街の人達は私が住んでいた領邦の人達よりも遥かに寛容で優しい。現に今まで、移民が迷惑を掛けても許してくれていたんですもの」


 軽く首を振る。


「でもね、それにも限度があるわ。そして、その限度が近いように感じられてならないの」

「どうして、そのように?」

「市内に住んでいる人の目。……移民を見る目が冷たくなってきてる。いえ、正確には東側(移民街)に住む人に向ける目が、かな」

「そ、そうなのか?」

「うん。ほら、私の言葉、ちょっと東方訛りがあるでしょ? 買い物をする時さ、店の人の見る目が冷たいの。でも、西側《貧民街》に住んでいるとわかったら柔らかくなるわ」

「つ、つまり、街の者が、移民を、く、区別、し始めているということか?」

「ええ、多分そうでしょうね。街の人達は口には出さないけど、しっかりと見ている。ここで一緒に生きていける者かどうかを」


 再び溜め息。


「私達は異邦人。だからこそ、この街に、ここ地の社会に溶け込むよう努めなければいけない。ここに移って来てから、父がよく言い聞かせてくれた言葉だけど、最近になって、どうしてそう言っていたのか、どうしてそうしないといけないのか、わかるようになってきたわ」


 緋髪を揺らして天井を見上げる。天窓から見える空は蒼さを増してきていた。


「自分からここの社会に溶け込むように努めるということは、土地の文化や歴史、風習に暮らし方、歴史とか色々を知って、それに合わせて生活を送れるようになろうとすること。でもって、そうする過程で、相手にもこちらのことを知ってもらえる機会が生まれて、そこから色々と……、うーん、なんだかうまく言えないなぁ」


 悩むように腕組み。首を捻り、むむむとの呻き声が続き、再度口を開いた。


「単純に、ここでの生き方や社会を尊重するからこそ、自分達の生き方や社会を認めてもらえるようになるって言えばいいのかな? ……うん、もし、それができれば、移民としてやってきた私達がこの地の住民になっていく時に、本当に大切にしたいモノを残せるんじゃないかなって思うの」


 老神官はただ静かに聞き入るばかりだ。それに気付かぬまま、踊り子は自らの言葉を茶化して続けた。


「なんてね。……あくまでも自分がそう思っただけのことで、現実はそう簡単じゃないのも知ってるつもり。当たり前だけど、誰もが悪い人だなんてことはないように、誰もが良い人なんてこともあり得ないんだもの。軋轢も一杯出てくるのが当然なんでしょうね」


 ほんと難しいよねと言葉を添えた後、一息。それから、移民街の世話役ともいえる男を見て、ラウラは言葉を重くする。


「さっきも言ったけど、本当に、この街に、いえ、この地に住む人達は懐が深い。けどね、私はこうも思えるの。そういった人達だからこそ、絶対に守るべきある一線を越えたら、もう見向きもしなくなるだろうなって。どれだけ助けを求めても、絶対に助けてくれなくなるんだろうなってさ。……神官様、今のうちに、この教会を私が住んでる西側(貧民街)に移しませんか?」


 どういう訳か、老神官はこれまでになく表情を穏やかにしていた。しかし、首を横に振られた。


「ありがたい言葉だ。……だが、私にはできない。この街を今のようにしてしまった、責任もあるからね」

「あはは、やっぱりかぁ。あーあ、こうなるだろうなって思ってはいたんだけどね」

「ああ、私はここに残るよ。……しかし、西側に行けそうな者は送りたい。そちらでの世話を頼めるかな?」


 この頼みに対して、先程まで様相はどこにいってまったのか、ラウラは露骨に嫌な顔をした。


「あーもー、そういうのが嫌だから、神官様を動かそうとしたのにっ!」

「あっはっはっ、そうだろうと思ったよ」


 実に楽しげに笑った後、慈愛が篭った声で続けた。


「そちらに行く者達を頼んだよ、ラウラ。しかし、あのお転婆が、本当に頼れる良い女になったな」

「いや、良い女って言ってくれるのは嬉しいんだけど、こう見えても私、まだ未通女(おぼこ)なんだけど?」


 今一信じられない言葉だと、老神官は視線を逸らせた。踊り子は口を尖らせて抗議の声を上げる。そこに幼い頃の面影を見い出し、男はもう一度笑った。



 同じ頃。

 移民街に無秩序に建つ家の一つでは、中年男が不機嫌な顔を隠せないでいた。

 なんとなれば、自身を虚仮にした者共に思い知らせるべく、報復の準備をしている真っ最中なのだが、これが中々に大変で心身への負担が大きく、疲労が蓄積している為だ。


 まずもって、手に入れた魔導機や武器爆薬の存在。

 これらは市側に知られぬようにする為、移民街の外れにあるボロ屋に分散して隠してあるのだが、今までの骨抜きにした市軍相手ならば、露見する心配はなかった。

 しかし、ここ最近においては急速に市軍が立ち直り始めている上、麻薬販売拠点を潰した得体の知れぬ者達がいる為、いつ何時であっても見つかるかもしれないという不安が尽きないのだ。管理にはこれまで以上に神経を使う。

 また魔導機を動かす為には基礎的な動作修練が必要になるが、先と同じ理由で、訓練の時間帯は夜中な上、件のボロ屋の中という極めて狭い環境で、しかも隠蔽の為に音に気を使わなければならず、習熟もままならない。

 付け加えると、情報が漏れることを防ぐべく、搭乗者として選んだ手下をボロ屋に押し込めて禁足にしている。けれども、元々が学も品もない、我慢知らずのならず者ばかり。早くも不満や鬱憤を溜めており、内々での喧嘩沙汰も絶えない。それらの仲裁をしてなだめすかすのにも一苦労である。


 否、彼の手下はまだいい。昼の間は休めるのだ。


 中年男は自らが率いる徒党……モルブラード移民共栄連盟の差配もしなければいけない。

 これにやりがいがあれば、不規則で過酷な生活にも耐えられるだろうが、ここ最近は主たる収入源となっていた麻薬の販売が潰されたばかりか、徒党員からの上納金の目減りが著しい。にも拘わらず、反抗的な者を懐柔したり市軍の協力者への出費は増える一方だ。

 こうなったのも当然、アーウェル側の締め上げが原因なのだから、大いに気分を損ねざるをえない。


 更には、事を起こす際の仲間を増やす必要性から、外との交渉もしなければならない。


 それが今だ。


 彼にとっては見れば、面白くないも楽しくもない交渉である。

 なにしろ、相手は移民街の主導権を巡って対立していた徒党……ベイサン移民互助会連合の頭目なのだ。


 中年男は心身の苛立ちを誤魔化そうと、手元の安酒を煽った。加水した麦酒は不味さだけが増している。一層腹立たしくなり、唾を吐いた。そんな不快感をなんとか誤魔化そうと座っていた寝椅子の背に身体を預けてふんぞり返り、のこのことやって来た敵対者を睨みつけた。


「で、そっちはどうすんだ?」


 落ち窪んだ眼窩。血走った目。視線は猜疑に満ちている。


 が、対する壮年の男も負けず劣らず。不愉快な表情を露わにして、吐き捨てるように言った。


「くそったれめ、昨日、俺ん所も中継役が捕まって、販路が全滅しちまった。もう、おめぇの企てに乗るしかねぇ」


 人の不幸、特に敵対していた相手のモノだけに、中年男の顔に愉悦が満ちる。


「はっ、これまで協力を渋ってた癖に、随分と都合がいいもんだよなぁ」

「ふんっ、粋がんな。市軍が立ち直るとてめぇん所も潰されるんだ」


 両者共に陰険な目付きで敵意をぶつけ合う。しばしの睨み合いの後、連合の頭目が嘲りの笑みを浮かべて続けた。


「だいたいよ。おめぇこそ吹かすなってんだ。どうせ、上納金(上がり)が減ってんだろ?」

「んなもん、後でどうにもでもできらぁ。……俺には力があるからな」


 中年男の底光りする眼。厭らしさと卑しさが混ざり合った自信の色だ。


 面白くなさそうに壮年は床に唾を吐いた。彼の徒党は人員こそ多いが、武器などの保有は極めて少ないのだ。今後を考えると、これ以上の抵抗は無駄であった。


「ちっ、わかった。おめぇの指示に従う。……これでいいか?」

「けっ、普通なら床に這いつくばらせて、どうかこの馬鹿で無能な私めのちんけな徒党をあなた様の配下にお入れくださいって、お願いさせるところだが……、まぁいい」


 壮年の悪相が悔しさに歪む。それで幾分か気が晴れたのか、連盟首領の顔に下卑た笑みが浮かんだ。そして、その表情を崩さぬまま続けた。


「てめぇん所の連中……、麻薬で役立たずになった奴らでいい。五人、いや、十人ほど寄こしな」

「何に使いやがる」

「なに、生きている理由もねぇ奴らを、俺が有効利用してやろうってだけのことよ」


 連合の頭目は不機嫌な顔を隠さない。が、口からは肯定の言葉が出ていた。


「うちの頭が逝かれちまった連中は……十七だ。そいつらを全部寄こす」

「ああ、十分過ぎる数だ。後はこっちでやる」


 この答えに、壮年の不機嫌顔は気味が悪いと言わんばかりに歪んだ。その様を心中でせせら笑いながら、中年男は優越感を丸出しにして口元を歪めた。


「ま、これの他に言うことがあるとすりゃぁ、事が起きた時にでも精々暴れてくれやってこったな」



 光陽は東の空を駆け上っている。

 アーウェル港の岸壁はここ最近の不景気振りが嘘のように、人足達で賑わいを見せている。彼らは出港する二隻の船に荷役を行った者達で、今まさに港から出ていこうとする魔導船を見送っていた。不景気の中、仕事をもたらしてくれた相手だけに、多くの者が笑顔で手を振っている。


 ラーグ級の後ろ甲板で作業をしていた誰かが応じるように手を振っていた。


 いつもなら別段に気にしない小さなことである。しかし、どういう訳かそれが嬉しくて、人足達は良い仕事をしたと言わんばかりに明るい表情だ。


 気分が良さそうな彼らを見て、荷役を監督していた中年の男が軽く笑った後、大声で宣した。


「さて、最初に話した通り! 今出て行った働き者(ラーグ級)は夕方には帰って来るだろう。そん時の仕事にもありつきてぇ奴は、うちの事務所で午後の部に登録しておけよ!」


 威勢のいい返事が方々であがる。その中にあって、荷役に参加していた移民の若者もまた監督の言葉に応えていた。


 元気の良い返事の残響が消えぬ内、誰かが声を上げた。


「な、なぁ、監督! 今の二隻、あちこち行くってのは本当か?」

「ああ、本当だ!」

「なら、簡単な予定だけでも教えてくれ! 仕事にあぶれるのはゴメンだ!」


 同意するような声が広がる。荷役の監督はわかったわかったと声を張り上げて告げた。


「教える! が、俺の頭も大して良くねぇ! 事務所で確認してからだ! 教えてほしい奴は個別で頼まぁ!」

「あ! なっ、ならよっ! どこに行くとかもわかるんか? おらぁ、郷に嫁に行った、むすめっこに手紙を送りてぇんだが……」

「おぅ、そういった話も個別で相談を受け付けてやらぁ!」


 幾人かが喜びの声を上げた。


 若者は人の背で顔を隠し、船が向かう先を知れるかもしれないと声の主を探す。幸いというべきか、ある程度の目星がついた。その顔姿を記憶しながらも思考は回る。


 ここで得た情報を外の同胞に流せば、どうなろうとも状況は動く。


 そこからが勝負時だ。


 目を閉ざし、心中で願う。


 我らにとって最良の事態へ至れ、と。


 そこに再び監督の大声。


「よしっ! 他にはねぇか? ……ねぇな? んじゃぁ、これから今の働きに対する給金を渡す! 皆、事務所までついてこい!」


 良い仕事だった、夕方も取りてぇな、母ちゃんに文句言われなくて済む、といったざわめきが、面倒見の良い中年監督の後に続いていく。若者もまたその中の一人となって歩き始めた。

 風で泊地より上がったのか、道には薄く砂礫が広がっている。人足達はそれを踏みしめ乱雑に足跡を残しながら、人足の募集事務所へと向かうべく市門を目指したのだった。



  * * *



 アーウェルと周辺域との結ぶ魔導船の運航が始まってより早五日。

 クロウが乗り込む船……ラーグ級小型魔導船ヴェラ号は四回目の往復を終えて、アーウェルの港に接岸しようとしていた。


 クロウはパンタルの展視窓から岸壁上を覗き見る。

 早くも人足達が集まっている事に加え、港自体も荷車の数が増えており活気が増していた。良い傾向だと微笑んでいると、ヴェラ号がゆっくりと接地し始めた。ソリが砂地を削り、推進器(プロペラ)近くでは砂埃が一層舞い上がる。そして、岸壁ぎりぎりの場所でゆっくりと止まった。


 いつ見ても見事なものだと感心している間に、後方の船縁兼斜路が降ろされた。


 少年はそれを認めて、今回も無事に終わったと肩の力を抜く。直後、後ろから野太い濁声が飛んできた。


「おぅ、今回もご苦労だったな、坊主」


 クロウは機体ごと振り返って、声の主に応じた。


「ええ、船長。無事に済んでほっとしてますよ」


 彼に近づいて来たのは、ヴェラ号の船長カルロ・ベナッティだ。

 恰幅良い禿頭の男で既に老境にあり、眉根や髭は全て白い。特に白い髭は色濃く日焼けした肌との対比もあって、より目立つ。故に白髭との渾名を戴くことになった熟練の船乗りである。


 ベナッティの白髭に埋もれた口が動く。目元の皺の動きから笑っていることがわかった。


「かはっ、そこで同意するんじゃなくてよぅ、機兵らしく啖呵の一つでも切ったらどうでぇ?」

「あいにくと、うちには品切れなんですよ」

「なら今夜あたり、色町で仕入れてきやがれ」


 この老船長、クロウが女を知らないと知るや、こういった具合にからかってくる。もっとも、少年もグランサー時代にこういった類のからかいには慣れており、特に剥きになることはなく軽口で返した。


「はは、色町はヴェラ号の皆さんで埋まっていて、俺のような若造が手を突っ込む隙間もないですよ」

「おうおう、ピクリと勃たねぇ野郎どもをえらく持ち上げやがるじゃねぇか」


 ついで大笑。これには周囲で作業していた男達……船長とほぼ同年代の似た体格をした男達が次々に抗議の声を上げた。


「おぅ、待てや、船長。わしゃはまだ現役だぞっ! お前さんと一緒にするな!」

「そうだとも、あんたと一緒にされちゃ困るわい」

「なんなら、ここで一丁見せちゃろうか! おめぇさんのが小さく見えるぞ!」

「自分が不能だからって、若ぇのに嫉妬してなんぞ見苦しいだけだぞ、白髭」

「もういい加減、素直にあの奥方相手にゃもう勃たねぇって認めろや」


 まさに袋叩きである。


 老船長の顔が一瞬で赤くなり、噴火した。


「ばーろーっ! 俺様はまだまだ現役だっ! ねーちゃん一人くらい、あひんあひん言わせる事なんぞ余裕だ、余裕っ! そ、れっ、とっ! 愛しのヴェラを馬鹿にするんじゃねぇっ! たとえ肥え太ろうが俺の愛は生涯変わらんわっ!」


 こういった一連のやり取りは、クロウがこのヴェラ号に乗り始めた四日前から変わらない。

 この船の乗組員たちは長く同じ時間を過ごしている為か、本当に遠慮というものがないようで、臆面もなくヤジと罵声が飛び交うのだ。


「だいたい、てめぇらこそ、上さんに相手にしてもらえねぇから、色町の女からモテモテの俺に嫉妬してやがんだろう!」

「ばっかいうでねぇっ! うちの上さんは労わってくれらぁ! グリオんとこと一緒にすんねぇっ!」

「ラーゲルっ、うちは身重の娘んとこに手伝いに行ってるだけだっ! 何度言ったらわかりやがるっ!」

「落ち着かんか、グリオ、ラーゲル。それよりも白髭、色町での世辞を真に受けるなんて……、遂にぼけたか?」

「いやいや、その前にそのことを奥方に報告した方がどう考えても面白いだろ」

「ああ、そうだとも、ここは一つ真面目にやってみねぇか? 白髭が浮気したってよ」

「ちょ、ちょっと待てやっ! それやったらお終いだろうがっ!」


 そして、歳を忘れたように、取っ組み合いになったりする。


 どたどたとイイ年をした男達が争う中、荷役頭の中年男が呆れた顔でクロウに告げた。


「荷物、運んじまっていいかねぇ?」

「あ、あー、一応、船長から許可を取った方がいいんじゃ?」

「だよなぁ。……まったく、白髭の親父らの相手は疲れるんだがなぁ」


 夕陽を受けながら肩を落とす姿には、同情せずにはいられない哀愁が漂っていた。



 ヴェラ号を降りた後。

 今日はサザード号が帰って来ない日である為、クロウは南港湾門近くの屯所までパンタルに乗って行き、格納庫に預けた。これは例の兵装を管理する為の措置であり、治安回復に協力してくれる公認機兵への好意からでもあった。

 今夜中に整備しておきますからと言う初老の整備士に頭を下げてから、クロウはサザード号不在時に泊まる宿へと向かう。場所は市中心部にある組合支部近く。クロウがグランサー時代に使っていた部屋よりも良い部屋だったのには苦笑したものである。


 屯所を出てからは市門を通り抜けて、地下道へ向かう。


 市内という安全な領域に入った為か、クロウの身体から力が抜けていく。生じた解放感に脳髄が痺れ、口元も弛む。常人よりも緩んだ雰囲気を醸し出しながら、少年は階段を降りていく。


 地下通路の人通りは多かった。

 今日が休日ということを差し引いても、先の港湾と同じく、以前よりも確実に活気が増しているように見えた。

 そんなざわついた空気に当てられて、少年の気分も良くなってきた。とりあえずは宿に戻って着替えるかと中央通りを北に向かう。が、鼻が肉を焼く芳ばしい匂いを嗅ぎつけて、足の向きが繁華街へと切り替わった。


 踏み入れた通りは相も変わらず、けばけばしく派手やかだ。

 客引き達は声を枯らして通行人に呼び掛ければ、にやけ顔で娼館の前に立つ人足風の男がいる。家族連れが飲食店に入って行けば、肩を組んで調子はずれの歌を歌う若者達もいる。

 その中を人にぶつからぬようゆっくりと歩きながら、どこかに良い店はないものかと首を巡らせた。焼肉屋、飲み屋、定食屋と看板を見て取っていると、聞き覚えのあるギューテの響きが耳に入ってきた。


 クロウは自然と踊り子達のことを思い出し、出会った場所へと足を向けた。


 人が増えても落ち着いた横道を抜け、薄暗い路地を行って辿り着いた小さな辻広場。


 今日は前と違い、十人近い見物人の姿があった。ほとんどが男だが、一人二人は女もいる。そういった先客の邪魔にならぬ位置にクロウも立つ。


 以前と同じく、ニコラが壁際でギューテを奏でている。


 その調べに乗り、辻広場という小さい舞台で、緋髪の踊り子は今日も艶めかしく華やかに、時に淑やかに清楚に踊りを披露していた。


 やっぱり見応えがあるなと感心しながら眺めていると、ラウラがクロウの存在に気が付いたようで意味深に笑って見せた。


 男達全員がやっかみ混じりの目で睨んでくる。次の瞬間、二人程が隣の女に足を踏みにじられていたが、中々の圧力である。折角、のんびりできていたのにと、少年は肩を落とした。



 踊り子は笑顔の裏側に懊悩を隠す。


 彼女を苛む問題、それは老神官より頼まれたこと。教会で世話をしている者達の西側(貧民街)への転居に関することだ。

 アーウェル市民と移民との関係が危機的な状況にあると判じて、こういった動きに出たのであるが、事態は彼女が考えていたよりも深刻であった。というのも、転居を受け入れる側、つまりは貧民街の住民達が受け入れを渋ったのだ。


 これに対して、ラウラは情理でもって、近所の者達や貧民街の顔役を務めている者への説得に当たった。


 しかし、彼らの答えは否であった。


 顔役曰く、たとえラウラの紹介であったとしても、彼らを信用することができない。無論、こちらに引っ越してくるのは自由だが、我々が支援することはない。当然だが、こちらで管理している家も提供できない。


 つまり、自分には貧民街の住民としての信用はあっても、それ以上のモノを備えていないという厳然たる事実を突き付けられたのだ。


 だが、顔役の言い分は無理もないことでもあった。

 なにしろ、貧民街の住民の中には移民街の者から暴威で以て財貨を奪われた者が数多くいれば、麻薬で家庭を崩壊させられた者や移民街の現状に不満を持って移ってきた者もいる。そういった者達の恨み辛みが噴出すれば、貧民街の秩序が危うくなるのだ。

 故に、少なくとも、そういった者達を説得できるだけの事情や信用、或いは実績がなければ、貧民街社会が支援の手を差し伸べるように仕向けるのは難しいと判断するのは当然と言えるだろう。


 そういった事情はさておいて、彼女は落ち込んだ。自身の読みの甘さと冷たい現実を前にして、それはもう落ち込んだ。遂には落ち込み過ぎて、どんな方法でもいいから住民を説得できるだけの信用をどっかから持ってくればいい、なんて具合に開き直ってしまう程に……。


 踊り子は年若い機兵を見て、再び笑う。


 その中に微かな翳りを隠しながら。


 踊り踊る中、女は独り思う。


 今、目の前にいる知り合ったばかりの機兵は、私達が求めているモノを持っている。


 それを借り受ける以上は、誠意を見せなければならない。


 そして、その誠意を示す為に、自分の女を使う。


 そのことを躊躇する理由などない。


 ……途端に、自らの貞操観が否と叫んだ。


 そんな乙女心を嘲笑う。


 確かに、自分がしようとしていることは褒められた事じゃないだろう。けど、それでも自分にはこうする以外、今の状況を乗り越える術がないのだ。だからこそ、ニコラの強い反対を無理矢理押し切って、自分がそうすると決めたのだ。


 もう一度、機兵を見る。


 燃えるような赤い髪に不潔感はない。引き締まった男らしい顔立ち。眉根は濃く、澄んだ目は穏やかな色。上着の下、機兵の戦衣装は鍛えられた身体を垣間見せている。


 そんじょそこらの男達と比べるまでもなく、目の前の機兵は上等の男だろう。


 少なくとも、自分にこの男になら身体を委ねてもいいと思わせてくれるのだから。



 ギューテの響きが小さくなっていき、やがて終わる。それに合わせて、ラウラの踊りも終幕を迎えた。


 少ない手数ではあるが拍手が狭い路地に響き、広げられたギューテの収納袋へと貨幣が飛ぶ。クロウも拍手を送った後、取りあえず百ゴルダ貨幣を二枚放り込む。その間にも深々と礼をしていた踊り子に数人の男達が声を掛けようと動いた。


 が、緋髪の女の方が一足早く、クロウに駆け寄っていた。


 見事なまでに肩すかしされた男達から忌々しそうな眼、女からはどうにも励ましのような視線。


 勘違いなのになぁと思っていると、件の踊り子が実に親しげな様子で楽しそうに話しかけてきた。


「あは、クロウ、来てくれたんだ」

「ギューテの音が聞こえてね」


 とニコラを見れば、少年の声に反応したのか、静かに頭を下げてきた。こちらの様子は見えていないだろうがと思いつつも微笑んで頷く。その視界にラウラが割り込んだ。勝気な目が拗ねた色を見せる。


「もう、話してるのは私なんだから、無視しない」


 そして、視線でまだ残る男を指し示し、わざとらしく表情を曇らせて見せた。が、それも一瞬。すぐに快活な顔となり続けた。


「で、どこに今日はどーする? 私の家にでも行く?」


 クロウは考える素振りをしながら、視界の隅で男の様子を窺う。向こうもこちらの様子を窺っているようだった。


 これは男除けになれってことか?


 なんてことを思いながら、仕方なく自然な風体を装って話をあわせた。


「その前に飯を食いたい。飛びっきり美味いのが。……何分、今日も一日仕事で疲れててさ」

「ふふ、お疲れ様。精が付くモノでも食べに行きましょう。あ、でも、晩御飯もいいけど、その後で私のこともちゃんと食べられるだけの余裕は残しといてね」

「へいへい、善処します」


 俺、なんでこんなことをしているんだと、割と切実な疑問を抱きつつ、踊り子の腰をやや強引に抱いて横に並ぶ。そして、そのままニコラの所へ。


「どうせだし、ニコラも一緒に行こう」

「……はい」


 なにか物言いたげな様子ではあったが、フードが縦に揺れる。途端、クロウの顔は隣から伸びてきた両の手に挟まれ、強制的にラウラへと向き直された。


「だーかーらーもー、ニコラに構ってばっかりじゃなくて、私を構いなさいよー」


 クロウの視界の中、踊り子の背後にいた男が面白くなさそうに唾を吐いて背を向けた。ようやくこの茶番も終わりかと安堵するも、一応は演技を続ける。


「はいはい、後で構ってやるから」

「よしよし、言質はとったわね」


 ニヤリとこれまでとは一線を画す笑み。嫌な予感が走ったというべきか、きっと碌なことがないんだろうなという心持ちになり、少年は頬を引き攣らせた。



 二人に案内された先、商店街の外れにある食堂で食したのは挽肉の捏ね上げ焼(ハンバーグ)と野菜盛り、両手程の黒パン半切れに葡萄酒或いは冷水が一杯というものであった。当たり差しさわりのない話題で、ゆっくりと時間を掛けて食べる。


 それでわかったのは二人の普段の生活だ。


 ラウラは朝は繁華街近くの風の塔で洗濯物干しの仕事をし、午後から宵の口にかけては件の場所で踊る。ニコラも行動を共にするのだが、朝の仕事は難しい為、ギューテの練習をするということだ。


「踊りだけじゃ、生きていけないのよねぇ」


 捏ね上げ焼の肉汁で艶めかしく唇を彩りながらの言葉である。


 こんな具合に食事を終え、勘定を済ませて地下通路に出ると、早速ラウラが声を上げた。


「いやー、ありがとね、こっちから誘っておいて奢ってもらっちゃってさ。ほらほら、ニコラも」

「はい。エンフリード様、今日はありがとうございます。ごちそうさまでした」


 ニコラの変わらぬ様付に、クロウはどうしても訂正してもらえなかったと若干落ち込みつつ、表面では笑って答えた。


「いやいや、こっちも一人で食べるよりも楽しかったし、気にしなくていいよ」


 こう口にした後、金を貯めることに必死だったグランサー時代に食費を削っていたことを思い出し、自分ながらに信じられない言葉だとしみじみ感じた。人間変われば変わるモノだと肩を竦めて、二人を見る。


 ラウラはまるでそこに最初からあったような満面の笑みを、ニコラも微かに口元を綻ばせていた。


 少年はこういうのも悪くないと思いながら、踊り子に訊ねた。


「それで、さっきの男なんだけど、しつこかったりするの?」

「んー、しつこいと言えばしつこいわね。結構、食い下がってくるし。だから、今日は助かったわ」

「はは、それはよかった。……でも、こっちはいきなり何事かと思ったよ」

「うん、ごめん。けどさ、私は移民で、ニコラは目が見えなくて流民になった口だからさ、頼れる人って少ないのよ」


 ラウラは笑みを消し、寂しそうな声で告げた。


 ゼル・セトラス域において、流民とは住んでいた居住地をなんらかの理由で追われた人々の事である。

 彼らの多くは甲殻蟲の襲撃で故郷を失った者達であり、開拓母市の支援を受けるなり、どこかの都市の貧民街等に居着くなりして、新たな生活を構築し再出発する。クロウはこれに当て嵌まると言えるだろう。

 残る少数であるが、こちらは大別すると二つ。一つはラウラが言ったように、開拓地で働き手になれないと判断された者、つまりは何らかの障害を持つ者達。もう一つはその地には置いておけない罪を犯した者達だ。

 言うまでもないが、この両者は決して同列ではない。前者は最低限の支援を行っての放出であり、後者は何らかの罰を受けた上での放逐である。ニコラの場合は前者……支援によりギューテを扱える腕を得て、故郷から出されたという話である。


 クロウはなぜニコラが流民にならなければならないのか、そうしなければならないのかという話を孤児院で教えてもらっているが故に、ただ静かに頷いて告げた。


「家まで……、いや、近くまで送るよ」



 ニコラの事情を考えて、近くにある階段から人通りの少ない地上へと上がる。

 空は既に暗い。街灯には青い灯火が宿り、建物の窓にも幾つか光が見える。もっとも、生活基盤が地下にある上、宵の口の為か、その数は少ない。エフタの明るさに慣れたクロウにとっては些か頼りない光景だ。


 ラウラ達の家は西市門を出た先にある貧民街。


 そこを目指し、盲人杖に頼るニコラに歩調を合わせて、通りを西へ行く。


 後ろから風車が回る風切音、風が麦と戯れる音。風に乗って埃と土のにおいが届く。静けさの中に微かな喧噪。風の塔直下の穴から聞こえてくる営みの音だ。同じく地下から漏れる光。街灯よりも明るい。誰かのくしゃみが響いた。


 黙々と歩いて、市壁に突き当たる。北へ曲がり、西市門前の広場へ。


 その時、不意にラウラが足を止めて、新顔の同行者に声を掛けた。


「ねぇ、クロウ」


 頑なに様づけに拘るニコラに対して、こちらはいつの間にか呼び名が名前で定着している。


 その事に面白みを覚えつつ、少年は応じた。


「どうした?」

「いつまで、ここにいるの?」

「今旬の間は間違いなくいる。けど、その先はどうなるかわからない」

「……そっか」


 どうしてそんなことを聞くのだろうと不思議に思っていると、踊り子はなにやら意を決した様に頷いて話し出した。


「あのね、相談事というか頼み事というか、その、お願い事があるの」


 唐突なと思う間もなく、街灯の下に立ち止まったラウラの口から次々に言葉が放たれていく。


「実は、私の知り合いを移民街から貧民街に移そうと思っているんだけど、その……、私達の言葉だけじゃ信用が足りなくてっさ、近所の人が受け入れてくれないの。だから、その人達を説得する為に、クロウの名前を貸してほしいのよ」


 それが頼みたいことなのかと、少年が反問する前に、ラウラは尚も一方的に、むしろ勢いづいて話し続けた。


「あ、もちろんタダとは言わないわ。協力してくれるなら、私の身体を好きにしていいわ。ほら、自分でも良い身体をしていると自負しているし、絶対に損はさせないわよ?」


 あまりにも、軽い言葉。


 全てを聞いて、少年の右眉根が跳ね上げった。


 その間にも踊り子は自らの身体、特に形良い胸や臀部を強調するように突き出した。


 確かに魅力的な身体である。


 男にとって見れば、望外な代価であると言えよう。


 しかし、少年は眉間の皺を深くした。


 なにが目の前の女を駆り立てるのかわからない。

 いや、自らの身体を男に差し出そうとする程であるのだから、よほどの覚悟を持っている事もわかる。けれど、理由も満足に聞いていなければ、よく人柄を知らぬ相手の頼みごとを受ける訳にはいかない。

 否、そういった良識以上に、彼の心の奥底に根付いた機兵としての自覚が頷かせなかった。先人達が血と屍で築いてきた信用の重みはそれに見合うだけの理由がなければ、そう易々と貸し出せるものではないのだ。


 なによりも、そういった歴とした理由を抜きにして、少年の若い矜持が、肉欲だけで自らの責務や立場を濫用するような安い存在だと思われたことに対して、詳しい話を……なぜ自分に頼むか、なぜ今なのかといった理由を聞こうという気をなくさせる程に、強い怒りを生み出していた。


 クロウは首を横に振って告げた。


「信用できない。だから名前は貸せないし、協力もできない」


 硬く冷えた声。


 少年の踊り子を見る眼差しは、空の星が霞むほどに強烈に煌めく。


「ぅ……ァ」


 ラウラは少年の目を見た瞬間、自らの失敗を悟った。


 初めて出会った時に垣間見せた冷徹な目よりも、遥かに強く怖く、峻烈な意思を示す瞳に、大失敗であったと思い知らされたのだ。


 威圧的な気配すら漂わせる少年。


 その視線に射抜かれて、言葉を失った踊り子。


 そんな彼女を助けるように、フードを被った人影が杖を頼りに進み出た。


「エンフリード様のお言葉、ごもっともです。……ただ、そういう申し出をしなければ、心無き者達の乱暴狼藉の数々が移民への信用を失墜させた今、力なき者達を守ることができないのです」


 明らかに恐怖に震えた声。


 けれど、そこには確かな芯と重みがあった。


 クロウは自分でも驚く程に深甚な怒りを鎮めようとふっと息を吐く。それから、感情を表に出さないよう意識しながら口を開いた。


「そちらがそう言うのだから、そうなのかもしれない。けど、どうして、そのことをありのままに伝えない?」

「確かにその通りです。焦り急ぐあまり大切な部分を飛ばしてまった、私達の誤りです」


 この言葉に少しだけ落ち着いたが、まだ心には不快感が残っているようで、少年の口からつい皮肉が出てしまう。


「さっきみたいに、勢いで無理無理に押し通す気でいたかと思ったよ」

「本当に、申し訳ありませんでした」


 フードを被った頭が下がる。しかし、少年のような声は更に続いた。


「ただ、出会ったばかりの相手に対して無理な申し出をする以上、誠実であろうとすれば、なんらかの代価を示すしかありません。ですが、見ての通り、私達は金銭の類を多く持たぬ身。提示できるだけの価値があるモノを探せば、ラウラの身体のみなのです」


 声途切れ、為された呼吸は溜め息に似ていた。


「けれど、このような申し出をする事自体、ラウラも私も経験したことがないこと。故に余裕なく緊張し、不躾な誤りを起こしてしまいました」


 クロウの硬かった顔が微妙に崩れる。そこに意思のこもった強い声。


「ですが、先の申し出は決して冗談で言ったモノではありません。今の状況においてはことを為そうにも、もう私達にはこういった方法を取らなければ、どうすることもできないのです」


 理屈は分かるし、言い分も通っている。しかし、今は否定的な感情が強くなり過ぎて、納得ができない。少なくとも一度寝て、心を落ち着かせなければ、冷静に答えることはできない。


 クロウはまだ収まらぬ怒りを胸に、そう思った。


「そちらの言い分はわかったし、どうして名前を貸してほしいのかも理解した。ただ、今はちょっと頭が熱くなってるみたいだ。……申し訳ないが、詳しい話を聞くのは数日置いてからにしてほしい」

「いえ、本来ならここで終わりの話。……寛大なお言葉、感謝します」


 クロウは大げさなと苦笑した後、二人から視線を切って先に歩き出した。


 怒りはまだ残っている。


 けれど、それをむやみやたらに吐き出すのでは、ただの子どもだ。


 そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと。


 先と変わらぬ歩調で……。



 踊り子はニコラに袖を引かれ、我に返った。


 それと同時に訪れたのは、これまで忘れていた羞恥。ついで、女の覚悟を簡単に袖にされたことへの悔しさ。同じく自尊心を潰されたことへの、蹴り倒したくなる程に強い怒り。話が終わっていないことへの安堵。この先どうすればいいのだろうという不安。焦り急ぐあまりに空回りした自分への情けなさ。自分勝手でこちらの都合ばかり押し付けたことへの反省。思い通りに行かぬ現実への恨み。己が浅慮を嘲る虚しさ。肝心な時にまったく動けなかった自分に対する無力感。それでも尚、心に残る焦燥と責任感。


「行きましょう。これ以上、エンフリード様に迷惑はかけられません」

「……うん」


 ラウラは俯いて応える。


 一歩を歩くごとに心身を満たす負の情念がぐるぐると掻き回され、悶えそうになる。


 やもすれば自己嫌悪に陥りそうになる心。そんな彼女の心の奥底に仄かに宿った一念。


 それは小さく芽吹いた、自覚のないある想い。強い意思を示した男の、野性味を帯びて輝いた目に惹かれた女心だ。


 それが、彼女に前を盗み見させた。


 踊り子の少し滲んだ目に映ったのは、こちらを一顧だにせず歩く少年の後ろ姿。


 どういう訳か、とても広く大きく、幼い時に見上げた父の背中に似ていた。

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