表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔導黎明記  作者: 綺羅鷺肇
6 踊り子は薄明に舞う
49/96

三 路地裏の踊り子

 サザード号がアーウェルに到着して二日。

 市中心部に位置する組合連合会支部、その二階にある応接室にて、フィオナは旧知の青年と顔を合わせていた。

 健康的な褐色肌に緩みなく締まった身体、少し長めの青髪に澄んだ黒瞳を擁する精悍な容貌。女であれば思わず目が引かれてしまうであろう、その人物の名はラルフ・シュタール。彼女の友人、セレス・シュタールの兄である。


 そのラルフは再会の挨拶もそこそこに、対面の寝椅子(ソファ)に座したフィオナを見つめ、どこか呆れた色を滲ませながら口を開いた。芯のあるよく通る声だ。


「あれだけアーウェル周辺は危険だって話が流れているのに、良く来たもんだ」

「危険だからといって、約を結んだ相手を裏切るような真似はできませんので」

「それはまた商人の鑑だ、と言いたい所だが……、命には代えられんぞ?」

「私から言わせれば、商人の信用とは命と同等であると言い換えられますから」


 フィオナは青年の目を見つめ、はっきりとした声で言い返す。そんな女商人に対して、青年は少しばかり目を鋭くして応じた。


「実際にこの場に来ているだけに、本心なんだろう。しかし、それは誰もがという訳ではない。いや、本来であれば、命こそを惜しいと思う方が自然だと思うがね」

「今の私は、折れてしまえばそこまでなのです。折れた場所が私の商人としての限界点になりましょう」

「だから、今は命を懸けて商う、か……」


 そこまで心定めてるならこれ以上言うことはないな、と続けた後、困ったようでいて、それ以上に楽しげな顔で笑う。稚気ともいうべき色が精悍な容貌に生の彩りを与え、フィオナおして胸の鼓動が速まってしまう程に魅力的な顔が浮かぶ。


 もっとも、当の本人は自分が魅せた今の表情など気にもせず、面白がる様子を隠さぬままに話し続けた。


「いや、それでこそ、我が妹の貴重な友人とも言えるかな?」

「私は私の信条に基づいて生きているだけですよ。あなたの妹さんには負けますがね」

「俺から見ればどっちもどっちだ。年長者としては、もう少し生活の中に女である楽しみや喜びを組み入れて欲しいんだがなぁ」

「ご自分のように、ですか?」


 凛とした美人が不意に硬い表情を崩し、含み笑いでの指摘(つっこみ)を入れた。青年の顔に悪戯が見つかったかのような表情に変じる。が、次の瞬間には開き直ったように不敵に笑った


「ああ、女を抱くのは男の愉しみ、背中の痕と腹の刺し傷は男の誉さ」

「あなた以外の方が言っていれば、大いに笑わせてもらうのですがね」

「いや、笑ってくれて構わんよ。どれだけ吹かそうが、男ってのは最後は女の掌で転がされるだけだからな」


 飄々と言い切った後、ラルフは表情を改めた。威厳のある強い顔。旅団第三遊撃船隊を率いる男の顔である。


「さて、そろそろ本題に入ろうか。俺に話を聞きたいってことは、アーウェルの情勢が知りたいってことだよな?」

「ええ、先日、先々日と取引先への到着の挨拶回りをしたのですが、景況芳しからずな話ばかり耳にしまして」


 フィオナは曇り顔で告げながら、訊ねた先々でのことを思い出す。

 大砂海各地に支店を持つような商会や規模の大きい工場は、平常と変わらずとまではいかないものの比較的落ち着いているように見えた。しかし、中小の商店や工房はその限りではなかった。資力に余裕がない工房や商店が不渡りを出して倒産しているなど、不安定な地域情勢から大きな影響を受けており、面談できた商店主達の表情もすぐれないものであった。

 当然のことであるが、現況はフィオナにとっても問題である。取引相手の景気がよくないということは、頼まれた荷を運び、行く先々で品を売り買いするフィオナの商売も厳しくなるということ。実際、今回運んできた荷の四分の一は引き取り手がいなくなっている。

 無論、今の状況が短期的なものであれば、生じた損失は一時的なものとして耐えられる程には余力はある。が、事が長期的なものともなれば、今現在の通運計画や商取引の見直しをせざるを得ないのだ。


 女商人は硬い表情で旅団実働戦力の長へと質問を投げかける。


「ラルフさん、アーウェルと周辺域が落ち着くまで……、いえ、具体的に周辺の航路が安定するまで、後どれ程かかりますか?」


 ラルフは寝椅子の肘かけに右肘を委ねると、少し考えるように手を口元に添えた。それから数秒で答えをまとめると、口を開いた。


「そうだな。アーウェル市に関しては、自分の目で見てもらった通り、平常の一歩手前といった観だ」

「そのようですね」

「ああ、市内の風紀を乱していた麻薬の繋がりは断ったし、動揺していたアーウェル市軍も立て直しも進んでいる。あちら(市軍)の連絡役からも色々と問題が出ている警備隊は一旬半程で、艦隊はもう少し早くて半旬から一旬程で出動できるようになると言ってきている」

「軍事関連の知識や以前の状況を詳しく知らないので、それが早いか遅いかの判断はしかねますが……、ラルフさんの見立ては?」

「おおよそは変わらない。しかし、万全と言えるようになるには、更に半旬づつ必要といった所だな」

「そうですか」


 黒髪の女商人は聞いた情報と現在の計画と照らし合わせるべく瞳を閉ざす。


 ラルフもまたフィオナから視線を外し、窓の外に目を向けた。

 陽射しが強まりつつある午前。通りを挟んだ向かい側、塀の向こうに市軍本部が見える。重厚な建物に囲われた練兵場で五十人程の男達が十人程の訓練教官に囲まれて延々と走り続けている。微かに聞き取れる怒鳴り声から、現場から引き上げてきた部隊の再訓練のようであった。


 その様子をしばらくの間見つめた後、青年は女商人が一番知りたいであろう情報を口に出した。


「でだ、航路の安定化についてだが……、こっちはまだ先になるだろう。既に耳に入っているだろうが、魔導船が賊党に襲われて被害が出ている」

「聞いています。全部で三隻とか?」


 フィオナは目を開けて応じると、ラルフもまた不機嫌そうに頷いた。


「ああ、全部働き者(ラーグ級)だ。十日程前に立て続けにな」

「対処はどのように?」

「手っ取り早く捕捉して潰せればいいんだが、連中に関する情報が足りない。だから、基本、向こうの兵糧が尽きるまでか、どこかで尻尾を握るかまでの長期戦になるだろう」


 ラルフは表情を変えぬまま青髪を一頻り掻き、更に続ける。


「とはいえ、実際に動くとなると市軍艦隊が動けるようになるまでは難しい。現実的な問題として、守るべき航路に対して船の数が足りなさすぎるからな。だから、動き出すのは十日後以降のいつかって所だ」


 フィオナは納得を示すべく頷く。が、何かが引っ掛かった。それがなんなのだろうと考えていると、入港時、港で認めた光景を思い出した。旅団が泊地としている場所に、三隻の船しかなかったことを。

 本来であれば、アーウェルには目の前の人物が指揮する第三遊撃船隊の他に、元々駐留していた船隊があるはずなのに、三隻しかなかったのだ。


 フィオナは首を傾げながらラルフを見る。

 青年は寝椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げていた。まるでこれ以上は聞いてくれるなといわんばかりの態度だ。けれど、彼女は構わずに疑問を口にする。


「第二遊撃船隊はどこに?」

「あー、第二の連中な。あいつらは蟲共の対処だ」


 言葉の先が気になるも黙して続きを待っていると、青年は独り言を呟くように告げた。


「まだ他言してほしくないんだが、ラティアの群団が動いている可能性がある」


 無視しえない情報に、フィオナの眉間に皺が寄る。


「それは、本当ですか?」

「ああ、散発的にだが、ラティアの群が北にある開拓地群に襲撃を仕掛けてきている。だから、第二の連中はそちらに出張っているって訳さ。予定だと連中が航路を適当に動いて、周辺の慰撫と賊党共に牽制を入れるはずだったんだがなぁ」


 珍しいボヤキを耳にするが、フィオナの意識はそれに振り向けられることはない。


 ラティアの群団。

 それは数千から数万に及ぶラティアで構成される一大群。小さな漲溢とも呼べる、甲殻蟲ラティアによる人類への襲撃行群である。

 現在に至るまでも数多くの開拓地や郷が蹂躙されており、防備の弱い開拓地等にとっては巷を賑わす賊党以上の直接的な脅威と言えよう。


 渋い表情のまま、フィオナは疑問を口にする。


「ですが、どうやってその情報を?」

「三日前、サエラって郷から子どもらが避難させられてきたんだが、道中を護衛してきた公認機兵が第二からの連絡文を預かってきたのさ。群団の兆候かもしれぬので、予定を変更して確認に動く、ってな」

「なるほど。それで対策は? 開拓地や郷の守りは大丈夫なんですか?」

「元々市軍の機兵分隊が出張っている所もあるし、常駐戦力がない所にも賊党共の跋扈が囁かれた段階でアーウェル市が公認機兵を雇って派遣している。が、群団が相手となるとまったく足りんだろう」

「避難は?」

「確かに、子どもらのように避難させるのが一番なんだが……、フィオナ、君なら汗水流して自分が拓いた地から離れたいと思うか?」


 厳しい視線と共に放たれた言葉。フィオナは答えに詰まる。

 ラルフの言葉に込められた意を……、自分が商いに命を懸けるように、開拓者達も自分達の拓いた地に命を懸けているのだと理解したのだ。黙り込んだ女商人に対して、ラルフは淡々と話し続けた。


「つまりはそういうことさ。執着執心執念。他人から見れば、合理的な判断もできない馬鹿のように見えるかもしれないがな」

「いえ、馬鹿にもしませんし笑いもできません」


 私も意地っ張りですからと女商人が告げると、ラルフは姿勢を戻して笑った。


「無理無理にでも避難させればいいんだろうが、俺には無理だ。自分の命よりも大事なもんがある奴を動かすには、俺の言葉は軽い。無責任な物言いだが、そういう生き方も有りだと、自身の信条に殉じて死ぬってのも人の生き方の一つだって認めちまってるからな。気休めにもならん」


 肩を竦めておどけてみせるが、どこか寂しい笑みだった。

 フィオナには応える言葉は見つからず、ただ頷くに止める。そして、これ以上は男が垣間見せた心には触れず、話を本筋に戻した。


「仮に群団が動いていた場合、第三も動くのですね?」

「もちろんさ。ただ旅団だけでは数が足りんからな、アーウェル以外に近くのニースティやダルフィナ、少し遠いがマジールにも援軍の要請を入れておいた。群団の存在が確実となった時点で手隙の艦隊を出してくれる予定だ。三市ないし四市の艦隊にうちの船隊二つと揃えば連中に対抗できるし、被害も抑えられるだろう」


 ラルフは都合の良い言葉を口にしているが、内心には微塵も楽観はない。むしろ悲観的ですらあった。


 正直に言うと、ラルフとしてはアーウェル市軍の立て直しが終わるまでは現状維持が望ましいのだ。

 それ以降ならば、何が起きても相応に対応できる。しかし、それよりも先にアーウェルで騒動が起きるか群団本群による襲撃が始まった場合は手当てする手が足りず、アーウェル市か開拓地、どちらかの被害が大きくなる可能性が非常に高くなるだろうと想定している。また、最悪の場合には両者が同時期に重なって起きて、アーウェル及び周辺域の被害が拡大するだろうとも。


 青年は溜め息をつきたくなるのを堪え、平素の自分を意識しながら言葉を重ねる。


「アーウェル市軍の立て直しが終わったら艦隊は賊党の排除に動くし、警備隊も麻薬の供給元になっている移民街に捜索の手を伸ばすだろう。それが終われば、本当の意味でアーウェル、いや、東部域全体が落ち着く。それまでは耐えて欲しい」

「なるほど、全てはアーウェル市軍次第という訳ですか」

「そういうことだ。だから、少しでも早くその時が来るように、そっちからも圧力をかけてくれたらありがたい」

「ふふ、わかりました。政庁に出向いて遠回しに脅しをかけておきましょう。こちらとしても開拓地や郷とのやりとりが滞ってる影響で予定が崩れてますから」


 ラルフは頼むと応じた後、フィオナの現状に対して助言する。


「ああ、それと、命懸けの危険(リスク)を飲み込む度胸があるなら、開拓地や郷に出向いて取引するってのも悪くないはずだ。こういう時だからこそ、皆、運び手を欲しがってる。うちも含めてな」

「一度は考えましたが、私の船はビアーデン級ですから乗りつけられる所は限られてます」

「なら、酒場で燻ってる働き者の連中(ラーグ級の船乗り)にも声を掛けてみたらいい。機兵は雇ってきたんだろ?」

「ええ、二人」

「なら、そいつらを有効に使え。一人は自分の船、もう一人は貸し出すって具合にな。もしかすると、一隻位は手を挙げるかもしれん」


 フィオナはラルフの言に一考する価値があると判じ、うちの者達と相談してみますと返したのだった。



  * * *



 時は昼下がり。

 午後より休みを得た赤髪の少年は手書きの地図と案内表記を頼りに、ある場所を訪ねようとしていた。そこはアーウェル市内西部にある住宅地区。南に隣接する工業地区に程近い場所にあるというエルティア・ラファンの実家だ。


 平素の服に上着を羽織ったクロウは時々地図を確かめながら地下道を行く。

 南港湾門前の地下広場より北に真っ直ぐに伸びる中央通り。それと交わる三番通りの名を持つ通りを西に曲がる。ほぼ同じ幅の通りではありが往来は少なくなる。そこを北側の壁に意識を向けながら歩く。一定間隔に脇道があり、近くの壁に番号が刻まれた銘板があるのだ。


 南側より伝わってくる低い響きに歩調を合わせつつ、十……九……八……、と進み、目的の七番に達する。


 そこからは脇道に入って北へ。

 大通りと同様、魔導灯に照らされる幅三リュートから四リュート程の小路だ。昼食の名残かパンや肉を焼いた匂いが漂い、洗い物をする音がどこからか聞こえてくる。後ろから届く雑踏のざわめきや一定して続く打音の上に、子どもの笑い声が軽やかに響けば、鼻に馴染んだ柑橘の香りが風に乗ってくる。

 人が生活する音や匂いになんとなく自身が以前住んでいた集合住宅を思い出しながら、クロウは進む。ここの壁にも先と同じような銘版が左右にあり、その内の左側に目を向けた。


 それ程行かぬ内に目指していた番号の八を見つける。

 それに従って道を折れると、三リュート程の引き込み路。魔導機整備場を営んでいた関係なのかはわからないが、魔導機の部品らしき物が置かれている。その先に扉が見えた。

 扉脇にある銘板には三番通り北七西八の文字。クロウは地図の番号と照合した後、玄関先に立つ。そして、少しばかりの緊張と共に呼び鈴を鳴らす。しばらくして、扉の向こうに人の気配がしたかと思うと覗き窓が微かに開き、応答の声。


「どちら様ですか?」

「突然訪ねて来て、すいません。お……、私はエフタに住む公認機兵で、クロウ・エンフリードと言います」


 クロウは名乗りながら覗き窓に向かって、上着の内から取り出した魔導機搭乗免許証を示す。顔写真付きの免許証は効果があったようで、すぐに扉が開いた。


 出てきたのは、ゆったりとした服を着た全体的にふくよかな女。

 血の繋がり故か、エルティアに似た顔立ち。柔らかく垂れた眉根や目尻は穏やかにかたどられた口元とも相まって、朗らかな雰囲気が漂わせている。薄くなされた化粧の下、浅く刻まれた皺に生きてきた歳月が垣間見えるが、後ろで一括りに束ねられた長い黒髪が美しい光沢を放っている為か、随分と若々しく見えた。


 だが、そういった外観以上に、少年は目の前の女からある印象を見い出していた。


 それは、母という存在。


 初見であるにもかかわらず、クロウの思い出の中に薄っすらとだけ残る姿に重なって見えるような、ただ、そこにいるだけでそう感じてしまう女性であったのだ。


 故に、クロウの心は俄かに湧き起こった旧懐の情に満たされてしまい、ぼうと見入ってしまう。


「あの……」


 クロウは困惑する声に我に返り、慌てて来訪理由を告げた。


「あ、ええと、アーウェルには仕事で来たんですが、ティアから家族に手紙を届けてほしいと頼まれまして」


 クロウは再び懐を探り、エルティアから預かってきた封書を差し出す。女はそれを受け取ると封筒に記された字を見て、微かに目を見開く。それから微笑みを浮かべて、クロウに告げた。


「確かに、あの子の、エルティアの字です」


 女は手紙を、そこに書かれた字を慈しむように見つめた後、クロウに向き直った。


「私はあの子の母で、ルイーサと言います。エンフリードさん、手紙を届けてくれて、ありがとうございます」


 そして、しっかりと頭を下げた。


 クロウは年上の女に頭を下げられて微かに狼狽える。けれども、こういった話は早く終わらせた方が良いと考えて口を開いた。


「頭を上げてください。ここに来る機会があったから届けに来ただけですから、そんなに気にしないでください」

「それでもです。あなたのことは以前、届いた手紙に書いてありました。あの子がエフタにいられるように助けて頂いたそうで……」

「いえ、それは教習所の教官が主体になって動いていたので、そんなに力添えできてないと思うんですけど」

「それでも……、あ、ここではなんですから、上がって行きませんか?」


 クロウは初対面の自分が家に上がっても良いのかと判断に迷う。その迷いをどう受け止めたのか、エルティアの母は申し訳なさそうな顔で続けた。


「もしかして、これから用事でも?」

「いえ、時間はあります」

「ならぜひ、上がって行ってください。……その、私もあの子がどうしているのか、聞かせていただきたいので」


 この言葉に、クロウはエルティアから頼まれていた家族の現状を教えてほしいという願いを思い出し、では少しだけお邪魔させてもらいますと返した。



 クロウは家の中に招き入れられると、中の空気からなんとなく覚えのあるにおいを感じ取った。自然と、これはどこでにおいだモノなのかと記憶を探り……。


 確かこれは、エルティアの匂い?


 と思った所で、自分が思い浮かべた内容の危なさに気付いて、首を一振り。意識して無表情を保ちながら、今の感想はなし忘れたと己に言い聞かせつつ、先導するルイーサの後に続く。

 玄関からは十リュート程の廊下が伸びており、その先には上階への階段が見える。左の壁面には乾燥花(ドライフラワー)の飾り。魔導灯の光を受けて、静かに味のある色を放つ。右手には引き戸が二つ並び、奥の戸が開いていた。


 家人は奥の開いた出入口に向かって歩きながら、肩越しに振り返り質問を口にした。


「エンフリードさんは、アーウェルに来るのは初めてなの?」

「ええ、今回が初めてです」

「ならどうですか? この街の印象は」

「エフタとは違う所が見れて面白いです。特に地下通路は涼しくて快適ですしね」

「ふふ、そうですか」


 ルイーサは少年の言葉を聞き、嬉しそうに微笑みを浮かべる。そして、部屋の中に招き入れると、部屋の真ん中に置かれた食卓は四脚ある椅子の一つにクロウを座らせた。


「紅茶は飲めます?」

「あ、はい」

「では、少し待っていてください」


 そう言い残して、ルイーサは手紙を持ったまま玄関側へと向かう。水回りに加熱器、食器棚の類が置かれている事から台所だとわかった。


 クロウは視線を戻して、失礼にならない程度に部屋の中を見渡す。


 天井近くまである書棚。中には魔導機関連の物と思しき書籍や魔導工学の技術書が並ぶ。奥には寝椅子。花柄の座布団(クッション)が彩りを添えている。壁の一部にはパンタルとラストルの絵図。上質な紙から販売促進用の張り紙(ポスター)だとわかった。低めの飾り棚には造花と複数の写真立て。幼子を挟んで若い男女が並ぶものがあれば、整備場らしき場所で十人近い人々が写っているものもある。


 そんな中にあって、特に少年の気が引かれたのは写真だ。


 子どもと男女が写っているものは、エルティアの面影がある幼子や今より更に若いルイーサの姿からエルティアの家族だとすぐにわかった。エルティアの父と思われる男の姿は少し痩せ気味ではあるが、少し濃い目の眉根と意思強そうに前を見つめる目、しっかと結ばれた口元が印象に残る。

 視線を転じて、大人数が写る写真を見る。先の物より色褪せており、エルティアの姿はない。

 年配の男女を真ん中にして、エルティアの父に似た青年と真ん中の男女に似た髪の短い少女がその前でしゃがんでいる。ルイーサとわかる女とエルティアの父が年配の二人の両脇に立ち、繋ぎを来た数人の男達が大外を固めている。


 その写真から歴史を感じていると、紅茶を淹れたルイーサが戻ってきた。


「お待たせしました」

「あ、いえ」


 クロウが視線を戻すと、ルイーサは紅茶や砂糖、茶菓子(焼菓子)を乗せたお盆(トレイ)を食卓に置いた所であった。そして、クロウが見ていた写真に目を向けると、懐かしそうな顔で口を開いた。


「そこに置いてある写真、古い方は主人と私が若い頃にお世話になっていた整備場で撮った物なんです」

「そうなんですか」

「ええ、そこで主人と出会って恋をして、結婚して独立して……って、ふふ、ごめんなさい」


 少年が表情に困っていることに気が付くと、若作りの女は恥ずかしそうに笑って紅茶を配る。そして、向かいの席に座ると、改めた様子で話し出す。


「あの子の手紙、読ませてもらいました。向こうでも元気に過ごしているようですね」

「私自身、ティアの日常生活をよく知る訳ではないんですが、少なくとも顔を合わせる整備場……職場では元気にしていますね」


 そう言った後、クロウは苦笑しながら、むしろパンタルの整備でお世話になっている方ですと続けた。ルイーサはそうですかと頷いた後、肩の力が抜けたような穏やかな表情で告げた。


「あの子にエフタで生活するようにと手紙を送った時は、あの子がどうなるのかとても不安だったのですが……、本当に、人に恵まれました。エンフリードさん、改めて礼を言わせてください」

「いえ、さっきも言いましたけど、私はあまり役に立っていません。教官が動いて、それの手助けをしただけです」

「それでもです。以前、届いた手紙にも書いてありました。エンフリードさんの言葉がとても励みになったと……。本当に、娘を助けてくれてありがとう」

「え、いや、本当に、私も元々教習所の時からお世話になってますから、これ位はなんでもないといいますかむしろ当然のことをしただけで実際に助けになったかと言われれば正直自信がないと言いますか実感がないと言いますか……」


 重ねての礼に、クロウはしどろもどろ。これ以上はどう受け答えすれば良いかわからず、自身の至らなさを痛感してしまう。ただ、このままではいけないという思いに駆られて、少年は口を開いた。


「あ、そ、それで、その、こちらの方は変わりなくお過ごしなんでしょうか?」


 ルイーサは機兵免許を持つ少年をじっと見つめる。


 緩みなく引き締まった顔をしていた赤い髪の少年。

 訪ねて来た当初、機兵として生死が懸かる場に立つだけあって、同世代の少年達とは比べものにならない程に大人びた雰囲気を漂わせていた。いや、それどころか彼女の知る機兵達よりも落ち着きがあるようにも感じられた。


 けれども、今は歳相応と言えばいいか、少し焦り気味の年若い客人である。


 これまでの受け答えからある程度の為人を知ることもできたから、その挙動に不快を感じることはない。むしろ、今の姿の方が好ましく思える程だ。


 ルイーサは好意を目に宿しながら答えた。


「そうですね。こちらの近況をお話ししますので、あの子に伝えてくださいますか?」

「あ、はい、それはもちろんです。ティアからも頼まれてますから」


 エルティアの母はクロウの返事を聞いて、愛称の件も含めて、自分の娘は随分と目の前の少年に甘えているものだと内々で思う。それと同時に、手紙に書かれていた内容や字の様相を鑑みて、もしかしたらあの子は、との勘も働く。

 しかしながら、今はそういった想像(楽しみ)を膨らませられるような状況ではない。自らにそう言い聞かすが、それでも尚、色恋に疎かったあの子がと、女心があれこれ刺激を与えてくる。


 ルイーサは楽しげに騒ぐ心を意識して沈め、己が家族の現況について語り出す。


 それはラファン家が自宅で営んでいた魔導機整備所を止むを得ない事情で閉じざるを得なくなった後のこと。

 エルティアの父であり彼女の夫である、エルベルト・ラファンは閉業に伴う諸事を終えると、伝手を頼って周辺開拓地を巡る整備士の仕事を得ることができた。

 それからしばらくの間は、開拓地とアーウェルを行き来する生活を送っていたのであるが、ここ最近の不安定な情勢を受けて、乗り込んでいた船が半旬ほど前に運行を見合わせることに。その為、順調になりはじめていた仕事を続けることができなくなってしまった。

 それでもエルベルトは腐らず、自分の技能を生かす仕事がないものかと探し回った。が、残念なことに、アーウェルの景況が落ち目なこともあって、市内での募集は見つからない。周辺の開拓地では需要があるが、そもそも連絡は滞りがちでそういった話自体が届かない。それで仕方なく別の仕事を探そうかといった所で、ある転機が訪れた。


 三日前にアーウェルの北にあるサエラ郷で魔導機整備士を急募していることを耳にしたのだ。


 この話が本当かどうか、組合支部に聞きに行くとそれは事実であるとの答えが返ってきた。

 故に当日の内に、これに応募するかどうか、今後の事も含めて、二人で話し合った。明け方近くまでの本音で語り合った結果、娘が頑張っているのに、このままでいるのは親として情けないだろう、との結論が出た。そして一昨日、組合支部でサエラの副郷長による簡単な面接を受け……、その場で即採用の返事が得ることができた。

 と、ここまでは良かったのであるが、この雇用には即時サエラに赴ける人、具体的には副郷長が乗ってきた魔導船がサエラに帰る際に同行できる人、との条件があった。でもって、この条件の日というのが面接の翌日、つまりは昨日だったのだ。

 その為、エルベルトは慌ただしく仕事道具を整えると、昨日の内に船に同乗して現地へと向かった、という次第である。


 ルイーサは一昨日の夜から昨日まで本当にどたばたしてましたと最後に付け加えて、残念そうに眉根を下げた。


「もう一日二日出発が遅ければ、あの人とも顔を合せる事ができたんですが」

「そうですね、お話できなかったのは残念ですけど……、そうなっていればなっていたで準備の邪魔になっていた気もします。どちらも善し悪しですね」


 クロウはそう言って軽く笑い、紅茶を口に含んだ。咥内に微かな渋みが広がるが、孤児院にいた頃よりは気にならなくなっていた。なんとなく自分の身体も変わってきているのだなと思いながら、潤した口を開いた。


「ところで、立ち入った事を聞くんですが、ご主人はこの先ずっとサエラでお仕事を?」

「今回の話では爛陽節の終わりまでということです。その後、継続して……、いえ、サエラに移住して新しい整備場を開くか、アーウェルでもう一度仕事を探すか、それともここでの再建を目指すか、それを決める予定です」

「なるほど」


 ティアに絶対に伝えないといけない大切なことだなと記憶していると、今度はルイーサが訊ねてきた。


「エンフリードさん、こちらには後どれ程おられるのでしょう?」

「当初の予定では一旬……第二旬の十五日までだったんですが、雇主は積荷の集まりが悪いから予定が伸びるかもしれないと言っています」

「そうですか。……あの、一つお願いがあります」


 クロウはお聞きしますと頷く。エルティアの母は感謝するように軽く頭を下げると、自身の娘と同じ願いを口にした。


「私の方からもあの子に……、ティアに手紙を届けて頂きたいのです」

「ええ、もちろんいいですよ。私の口でこちらの状況がどうだったかを伝えるより確かだと思いますし、なによりティアが喜ぶと思います」

「ありがとうございます」


 ルイーサは笑顔で快諾してくれた少年に頭を下げながら、一人娘になんら不満はないがこんな息子も欲しかったと胸中で小さく呟く。


 そう、良くも悪くも機兵であるという一点だけが少し問題になるだろうが、それ以外は申し分なく見える。もしも娘が目の前の少年に気があるのならば、応援してもいいと思える程に……。


 そんなことを考えつつ、エフタで暮らす娘への手紙にはこの旨だけは必ず書こうと、一人の母親は静かに決意したのだった。



  * * *



 クロウがラファン家を辞したのは夕食の支度時であった。

 一緒に夕食はどうかという、大変ありがたい誘いを丁重に断り、手紙は来旬の五日までにサザード号に届けることを再確認した後、ルイーサに見送られての事である。何度か振り返って、軽く頭を下げた後、彼はやってきた道を帰っていく。


 そして、三番通りまで戻った所でようやく肩の力を抜いた。

 やはり初対面かつ初めての場所ということで緊張していたのだ。少年は軽く首を回しながら歩く。その最中でも思い浮かべるのは、ルイーサから聞いたエルティアやその家族についての話。一つ一つが何気ないことでも家族だからこそ覚えている話の数々だ。そして、それを語る母親の柔らかく微笑む顔があった。


 クロウは先程まで見聞きした光景から、血の繋がりがある家族がどのようなものなのか、なんとなく理解できた気がした。それと同時にイロイロと大変なことがある事も……。少年は特に印象に残った話を思い出して、目を泳がせる。


 まさか、ティアが最後におねしょをした時の話まで聞くとは……。


 このことは自分の胸の内にしまっておくのが一番だろうと結論付けて、クロウは周囲に目を向けた。


 仕事が終わるまで後今少しな時分なのか、人通りは多くない。

 夕飯の材料を仕入れてきた女達の姿がちらほらあれば、急ぎ足でどこかに向かう若い男がいる。買い食いをして歩いている少女達。数人の子ども達が駆けっこをしているのか嬌声を上げながら駆け抜け、後ろを行く子どもらの祖父らしき老人が注意の声を上げた。


 今ここに足りないのは夕焼けくらいだな、なんてことを思いながら、中央通りとの辻まで戻る。


 天井の開口部から赤が増した光。少し湿り気のある風が吹き降りてきた。

 通りを行き交う人が多くなり、商店街があると思しき方向から元気な売り子の声が響いてくる。鼻にもニニュ肉を焼く芳ばしい匂いが届く。ぐぅと腹が減った気がした。


 クロウはサザード号に戻るべく、通りを南に向かう。

 その途上、左手にそれなりに大きな路があった。昼の間は静かだった通りであるが、今は賑やかさが増している。繁華街だろうと目をやると予想は違わず。エフタの繁華街とそれほど変わらぬ光景が広がっていた。目覚めの時を迎えたばかりのようで、従業員と思しき者達が色々と立ち働いている。


 そんな通りから、微かにギューテの調べが聞こえてきた。


 どういう訳か、耳にする旋律は郷愁を……失った故郷での生活を心に呼び起こす。


 家の匂い。何の不安もなく眠った夜。斜面に植えられた樹木。家族の温もり。毎日が変わらず続くと信じられた日々。


 微かに胸が詰まる。


 クロウは心惹かれて、足を繁華街に向けた。

 盛り場の騒音の中、今も奏でられる音を頼りに通りを行く。けばけばしい色をした看板。麦酒一杯二十ゴルダ、日替わり四十ゴルダと汚い字。派手派手しく様々な源色を点滅させる魔導灯。早くも行く場所を選んでいる体格の良い男達。微かに酒臭い空気が淀む。一夜千ゴルダ、指名料六百ゴルダと大書された置き看板。呼び込み達が打ち合わせをしている。どこからともなく甘い香りが漂い、屋内から女達の笑い声。


 その中にあっても、少年はギューテの響きを追い続けて、ある横道へと曲がる。


 表通りの明るさとは逆に、ほの暗い世界が広がっていた。

 けれど、それは静かで落ち着きがある。見れば酒場の看板がちらほらあり、店主と思しき者達が前の路地を掃除していた。邪魔をせぬようにゆっくりと歩く。少し大きくなった音に導かれるまま、小路から更に小さな路地裏へ。


 二リュート程の道幅。天井からの光は更に弱くなる。人通りもまったくない。


 だが、弦の響きはその奥からだ。


 クロウは躊躇せずに進む。


 そして、小さな路地が交わる辻広場で、音の源を見つけた。


 そこにいたのは二人。

 一人は壁にもたれて座り、ギューテの弦を(はじ)いている奏者。体形の出ない大き目の外套に加え、フードを深く被っており、男とも女とも判別できない。

 もう一人は辻の真ん中は少しだけ光が強い場所で、ギューテの旋律に乗って踊る女。目鼻立ちが通った顔に小麦色の肌。両の手には薄青の紗。身に纏った袖のない薄紅の長衣は胸尻の膨らみと腰の括れとの美しい均衡を浮かび上がらせている。

 上体を動かす度に肩まである緋色の髪が跳ねれば、その場で弧を描き巡る度に裾に深く入った切れ目から艶めかしい足が覗く。


 クロウとて木石ではない。年頃の少年なのだ。


 彼の目は当たり前のように色のある踊り手へと向けられる。


 緩やかなギューテの調べ。


 女は紗に風を含みながらクルクルと回る。


 時に腕に絡ませ、時に身体に巻き付かせ。


 大きく膨らむ紗が躍動と静止の重なり合いを一層引き立たせる。


 クロウはどこか懐かしい旋律を耳に、じっと踊りに見入る。


 踊り子は薄く微笑んだかと思うと、紗を奏者の傍らに落とす。


 落ち着いた調べに乗り、ゆっくりと身体の各部を動かし始めた。


 上体から腰、腰から尻、そして膝へと、連動させて揺らす。


 自由になった両の手指は滑らかに流れて自在に変幻していく。


 時に身体に這うように、時に髪を撫でるように。


 切れ長の青い目に切なげな色で宿し、祈るように腕を天に掲げた。


 かと思うと、唯一の観客であるクロウを誘うように伸ばされる。 


 そして、腰に手を当てて強調するように振り、胸を見せつけるように突き出す。


 けれど、次の瞬間には思わせぶりな微笑みと共に引いていく。


 少年の頭は熱が篭ったかのような感覚に支配されつつあった。それと同時に心が吸い寄せられ、望みの赴くままに開けっぴろげに動きたくなるような不可思議な気持ちになってくる。


 どこかで似たようなことがあったようなと考えて、不意に、脳裏に緑髪の小人が思い浮かんだ。


 これは……魔術か?


 頭の中で、いつか聞いた、小人の聞き良い声が再生される。


 心に影響を与える魔術はね、強く自分の存在を意識すると対抗できるわよ。


 そう思い出せば、判断は一瞬。


 目を閉ざし、緩みそうになる意識を集中させる。


 そして、自分は自分が主だと、歯を噛みしめた。


「ッ!」


 弦が弾けて切れる音。


 同時に熱が冷めていく。


 見れば踊り子は踊りを止めて、慌てたように奏者の様子を確かめている。踊り子の後ろから覗くと、奏者は弾けた弦で切ったのか右手から血を流していた。

 クロウは今さっきの変調は二人或いはどちらかの魔術によるものだろうと推定し、両者に対して不審を抱く。だが、魔術が使われたと証明しようにも、それを為す知識もなければ証拠もない。ならば、ここは危地だと判じて足早に立ち去った方が良いのだろうが……、目の前で怪我をしている以上は無視できなかった。

 少年は相手を警戒する為、また向こうから警戒されぬようにする為、ゆっくりと近づく。見れば、女が路地に落とした紗で止血しようとしていた。


「それは使わない方がいいです」


 一声かけた。

 女が怒りと困惑とがない交ぜになった顔で振り向く。本気で奏者を心配していることがよく分かった。


 少しだけ警戒心が解け、女に懐の手拭いを差し出す。


「これを使ってください」

「助かります。ありがとう」


 踊り子はこの申し出に目を見開く。が、次の瞬間には礼と共に手拭いを受け取る。

 クロウが想像してたよりも若い声だなと思っている間に、女は手拭いを傷口に押し当て、瞬く間に縛り上げた。器用に動いた手指。手入れされた爪に対して、肌は荒れていた。

 今度は奏者を見るべく踊り子の傍らに跪く。近づいてから分かった事であるが、身体の線は女のそれのようにも見えた。けれど、今一確信が持てない。視線を転じて、右手の手拭いを見る。じわじわと染みが広がっていく。ついで、フードの内を見る。整っていると思しき顔があった。というのも、目の部分に包帯が巻かれており、その全てを窺い知ることはできなかったのだ。


 クロウは止血が終わったのを確認し、女に言う。


「念の為、後で酒精(アルコール)で消毒を」

「そうします」


 しっかりと頷く女。今度は怪我人に声を掛けた。


「もしかして、目が?」

「はい、(めし)いています」


 幼い少年のような高い声。微かに震えていた。


 今の世の中、盲いた目で生きていくのは大変なことだ。

 だからこそ、ギューテの奏者になったのだろうと考えて、膝に抱えた弦楽器を見る。物の善し悪しを見分ける目はないが、使い込まれている事だけはわかった。


 クロウは意識して穏やかに話しかけた。


「聞こえてきた曲を耳にした瞬間、故郷の事が浮かんで足が自然とこちらに……、でも、来た甲斐はあって、いい踊りが見れました」

「そうですか、嬉しいお言葉です」


 奏者はどこかオドオドした風情で頭を下げた。


 クロウはじっとその様子を見つめる。


 はっきりと言えば、クロウは二人に対して疑心を抱いている。

 しかしながら、直接的に何かをされた訳ではないし、相手がこちらへの害意を持っていたかもわからない。否、たとえ害意があったとしても、自分にそれを証明するのは困難である。そもそも、自分に実害が及んでいない以上は咎めることもできないだろう。


 疑ってかかろうとする心にそう言い聞かせながら、奏者の傷を押さえる手拭い、そこに滲む広がりを見る。数日はギューテをはじくことが難しそうに見えた。

 短い葛藤の後、懐の財布から百ゴルダ貨幣を五枚取り出した。そして、奏者の微かに震える怪我のない左手に包むように乗せた。


 奏者の手肌は厚く硬く、裂傷の痕が幾つも残っていた。


 手は嘘をつかない。


 クロウが孤児院にいた頃に、誰かから聞いた言葉だ。


「少ないですが、懐かしい場所を思い出させてくれたお礼です」


 奏者は震える手を握りしめると、ゆっくりと深く頭を下げて告げた。


「ニコラと申します。……あなた様に感謝を。この出会いを、ゼル・ルディーラと光明神に感謝します」

「私からも、ありがとうございます」


 クロウはあまり神を信じていない。故に大げさなと思うが、二人の声が真摯であった為、黙って頷いた。そして、立ち上がろうとした所で、


「おぅおぅ、こんな所で、てめぇら、なにやってやがんだ?」


 背後から濁声が聞こえてきた。


「本当だぜっ、いったい誰に許可を取ってっ、ここで踊ってやがるっ!」

「まぁ、有り金おいて行ったら、見逃してやってもいいぞ」


 しかも複数だ。


 あまりにも時宜(じぎ)が良すぎた。


 居残りしていた疑念が後ろから聞こえてくる声の主らと二人はグルかもしれないと囁きかけてくる。


 ちらりと二人の様子を見る。


 奏者はギューテを守るように縮こまっている。一方の女は表情を険しくして立ち上がっていた。


 いや、そうしたかと思うと、周囲を圧する大喝を発していた。


「黙れ、下郎共っ! ここで踊る為の許可は政庁からもらってるしっ、あんた達みたいにロクデナシにっ、言いがかりをつけられる云われはないっ! そもそもっ、あんたらみたいなにクズ共に渡す金なんてっ、この街のどこを探したってないわよっ!」


 美しい容貌に似合わぬ罵声。

 先の踊りを見せていた女とは同一人物とは思えない程に激しい気勢である。


 この予想だにしなかった反応に心に居座っていた疑念は吹き飛び、クロウはぽかんと目と口を丸くする。

 だが、相手を睨みつける猛々しい姿を見ている内に、なんとなくではあるのだが、こちらの様相の方が踊り子本来の姿であるように感じられた。理由はなくとも、その剥き出しの野性を見れば、そう思えて仕方がないのだ。


 しかも不思議なことに、先の啖呵を聞いてから、クロウの血潮は目を覚ましたかのように熱くなり始めている。


 さっき熱っぽくなったのはこの人からの影響かなと、努めて冷静に思案しつつ、クロウも立ちあがって振り返った。


 五リュート四方の辻広場。

 浅黒い肌の男達が路地の一つを塞ぐように立っていた。

 丸刈りの厳めしい男、醜く肥えた中年男、陰湿な顔をした小男。それぞれが女が発した言葉に反応していた。丸刈りは余裕のあるせせら笑うような表情、肥えた中年はどことなく腰が引けた風情、小男は陰湿な顔に滲ませた嗜虐の色。


 さて、どうするかと思った所で、そりゃお前、女がああまで言ってるんだから言うまでもないだろう、とどこぞの青年教官のしたり顔が浮かんでくる気がした。


 本当に言いそうだなと思い、苦笑する。


 それを見咎めたのか、坊主頭が気に入らないとばかりに唾を吐き出した。


「おぅ、兄ちゃん、何がおかしいってんだ」

「本当だぜ、怪我をしたくなかったら財布置いてけや」


 矛先を変え、こちらを威嚇してくる男達。

 クロウがグランサーをしていた頃ならば動揺して逃げ腰になったのは間違いない。けれど今は……、世の中にはもっと怖いモノがたくさんあることを知った今は、うるさく感じる程度だ。


 ラティアに比べれば……。


 それが彼にとっての厳然たる事実。

 黙したまま、唯一声を発していない中年男を見る。どういう訳か、クロウと目が合った瞬間に震え、後ずさりしていた。それを訝しく思っていると見ていると、その隣で動きがあった。


「な、なんとか言えや、おらっ」


 いきなり踏み込んできた小男が手を伸ばして突っかかってくる。


 あの機士の剣と比べるまでもなく、遅い。


 その手首を掴み、腕を捻じり固める。痛みに耐えかねたようで、小男は身体を反転させた。少年は膝裏に蹴りを入れ、そのまま前へと押して這いつくばらせる。教習所で老教官によく極められた流れだ。


 抑え込むように、自身の膝を腰骨に当てて尋ねた。


「このまま圧し潰した方がいいか?」


 ひっと息の飲む声。小男かと思いきや、尻もちをついた中年男だった。股間から染みが広がっていく。


「てめぇっ!」


 それで我に返ったのか、顔に血を昇らせた坊主頭がクロウに躍り掛かる。

 少年は軽く腰を浮かせた。直後、横から唐突に伸び上がった足がその鼻っ面を強かに打ち据えた。突進した勢いもあってか、悲鳴もなく仰け反るように激しく転倒。遅れて噴き出した血が宙を舞う。


 無駄な肉のない綺麗な生足が元の場所に戻るのを見届けて、クロウはその持ち主に訊ねた。


「もしかして、俺、余計なことしました?」

「ふふ、そんなことないですよ?」


 踊り子は今更ながらに取り繕う。

 しかしながら、少年は目は極めて生温かだ。そのなんともいえない視線に女はしばらく耐えるも、遂には根負けして先程までとはうって変わった快活な声で告げた。


「あー、降参よ、降参。でも助かったのは本当なのよ。一度に複数相手するのは面倒だしね」

「いや、まぁ、それならいいんですけどね」


 相手の急激な変化に戸惑いつつ、クロウは抑えつけている小男を見る。


「ひぃぃいぃっ、た、たすけてくれぇっ、お、おおっ、おれがわるかったぁ」


 哀れさを誘う声で命乞いをしていた。

 このまま解放するかという考えが一瞬頭をよぎる。しかし、脅してきた以上は牙を折った方がいいと考え直し、教習所で体感したように小男の右肩を抜いた。聞き苦しい悲鳴が上がる。続く嗚咽。

 これは少々やりすぎたかもと思わないでもないが、あえて当然といった顔で手を離した。解放された小男は泣き喚きながら這うように逃げていく。それを黙って見ていると、踊り子が苦笑して話しかけてきた。


「あなた、若いのに怖い目しすぎっていうか容赦ないっていうか、えらく場馴れしてない?」

「一応、機兵していますから」

「おー、なるほどねぇ」


 女は納得したように頷き、少年をじろじろ見る。確かに良い身体ねと一言感想を述べ、まだ腰を抜かして怯えている中年男に嫣然と微笑みかけた。傍から見ていても寒気がする程の微笑みだった。


「さてと、こののびている丸刈りも連れて帰ってもらえる? あぁ、それと、私達に絡んできたことについてだけど、あなたたちの気持ち次第で、市軍に面倒をかけることがなくなるかもしれないんだけど……、どう思う?」


 クロウは天を仰いで嘆息する。


 どう考えても慣れた様子で金を毟っている女の方が、脅してきた男達よりも性質(たち)が悪いように感じられた為だ。


 うーむ、院長先生やどこぞの小人、あ、一度会った青い髪の人にも感じたことだけど、やっぱり女って怖いよなぁ。


 なんてことをしみじみと考えていると、完全に伸びた一人を引き摺って、男達が必死になって逃げていくのが見えた。それを見送る女の手には、三枚の千ゴルダ紙幣。踊っていた時とは趣こそ異なるものの実に生き生きとした顔だ。その顔が少年に向き直った。


「さてと、せっかくだし、私も自己紹介するわね」


 女は言い置いて、身体を一回転。それから続けた。


「私はラウラ。踊り子よ。そっちのニコラと組んでるの」

「クロウ・エンフリードです。エフタで機兵をしてます」


 そう言って、一応免許証を見せる。


 おぉ、疑ってなかったけど本物だ、とはしゃいだ後、ラウラは笑って続けた。


「ま、これも何かの縁だし、ニコラ共々、あなたがここにいる間だけでも仲良くしてちょうだい」


 そう言って、ラウラが浮かべたのは蒼天に浮かぶ光陽のような笑みだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ